30.絶望と希望・下
それから四日の道のりの後、ようやくロランたちは首都に到着していた。
時刻は既に夕刻で、沈み行く太陽が灰色の石造りの町並みを赤く染めている。
街の雰囲気こそはブレイディア王国にとって一般的な景観をしているが、規模は他の町と比較にならない。
他の町ならば大体が一見してコロッセオ《闘技場》の場所を遠巻きに伺うことができるが、ここではそうは行かなかった。
また、こんな時間であるにも拘らず、人の往来も多く、門から真っ直ぐ伸びている大通りには街路樹が植えてある。
「ほお……すごいな」
思わず感嘆の声を上げるロランに、シャルロッタが話しかけた。
「とりあえず、今日は宿を取って一泊しましょうか。今からだと、文官省の会館も閉まっている時間帯ですし、何をするにも遅いですから」
「そうだな」とロランは頷いていた。
その後すぐに手近な安く泊まれそうな宿を探す為に町を歩き始めたが……。
一つ、奇妙な事があった。
それは、首都の衛兵がピンポイントでちらちらとロランのことを見てくるのだ。
そして衛兵同士で何か噂しあっている様子を見て、ロランはゾッとしていた。
(……なんだこの状況は。俺って、何か悪いことでもしたか?)
やたら気にされているようなこの雰囲気が、どうしようもなく落ち着かない。
しかも話し掛けてくるならまだしも、話しかけてすら来ないことが不気味さを増している。
確かに過去に二度も衛兵とは関わりがあったが、こんな風に遠巻きに睨まれているだけというのは初めてである。
「……俺って、よっぽど犯罪しそうな顔でもしてるのか?」
思わず、ぼそっと呟いたロランにシャルロッタは苦笑を浮かべていた。
「そんな、まさか」
「……でも、なんかやたら見られてる気がするんだが?」
小声で言い返したロランの言葉を聞いて、シャルロッタはきょろきょろ辺りを見た。
そしてやっと、等間隔に立って町の見張りの執務に当たっている衛兵からの視線をロランが一身に浴びている現状に気付いたのだ。
「……あ、そういえば」
何か気付いた様子のシャルロッタに、ロランはギクッとしていた。
(やっぱり俺が悪い何かがあるのか?)と思ったからだ。
「ロランって、ジュード・レムンハルとよく似ていると言われませんか?」
シャルロッタに確認を取るように質問され、ロランは困惑していた。
「確かにイルヴァには似ていると言われたが、そもそもよく言われるほどにジュードの事を知っている人って居ないと思うんだが」
「首都の衛兵ならソードパレスに出入りしますから、ジュード・レムンハルの顔を知っていてもおかしくないですよね」
「……あ、そうか」
シャルロッタに言われて、ロランはやっと気付いていた。
(俺がジュードに似ているから、衛兵は気にしているのか)ということに。
言われてみれば睨まれたりしているわけではないし、特に悪意的な目が向けられているように見えない。
(……それがわかったところで、落ち着かないのは変わりないんだが……)
ロランはそう思ってゲンナリしていた。
まるで一挙一動を見張られているようで、やっぱり落ち着かない。
イルヴァと一緒に居た頃の一般人から注目を浴びていた頃よりも、今のこの目線の方がよっぽど嫌だ。と心底思っていた。
三十分ほど歩いた先に、酒場を兼ねている手近な安宿を見つけたため、ロランとシャルロッタはそこに入っていた。
何だかんだ、シャルロッタと一緒に寝泊りをするのはこれで四度目となる。
と言っても、野宿を一度と、後の二度は別々の部屋を取ったから、“共に寝泊り”と表現するにも違和感を覚えるほどの距離感だ。
今回も当然別々の部屋を取るつもりで、一階にある酒場のカウンターへ行って、「一人用を二部屋お願いします」とロランが店主に言うと、彼は首を横に振っていた。
「生憎だが、もう一人用の部屋は残っていないよ」
店主が言ったことはそれだった。
「え、そうなんですか?」
目を丸くするロランに、「あんた、首都は初めてか」と店主は指摘したから、ロランは頷いていた。
「そうか。なら知らなくても仕方ない」
店主はそう前置きしてから、教えてくれた。
「この町にある宿はそこそこのグレード以上ばかりでな、うちみたいな安くで泊まれる宿は珍しいから、すぐ満室になってしまう。だから、もっと早く来てくれないと思い通りの部屋を貸してはやれないよ。で、今は、二人用の部屋が最後の一部屋になっているんだが、どうするんだ?」
店主に質問され、ロランとシャルロッタは目を合わせていた。
「……どうする?」とロランが聞くと、シャルロッタは首を傾げていた。
「……どうしましょう?」
「……うーん」
ロランとシャルロッタのこの二人、ぱっぱと決断するのは苦手だった。
「早く決めてくれないと、次来たお客さんに貸しちまうぜ」
店主に急かされたから、ロランは焦っていた。
「じゃ……じゃあ、シャルロッタに異論が無いなら」
「私は、構いませんよ」
シャルロッタは温和に微笑んで答えていた。
この数日の旅で、剣闘士とは言え彼が温厚な人であることは十分理解しているつもりだったから、信頼できると判断したためだ。
「そっか。それじゃあ、それでお願いします」
ロランはこの条件を飲んでいた。
「ほいきた。それじゃ、これが部屋の鍵になってる。ごゆっくりどうぞ」
店主に鍵と引き換えにお金を渡すと、ロランはシャルロッタを促して二階にある部屋へ向かっていた。
借りた十二畳ほどの部屋はむき出しの木の壁や床で出来ており、一人用のベッドが二つ並んでいるだけの貧相な部屋だった。
(……町に来て、こんな部屋に泊まるのも久しぶりだな)とロランは思っていた。
中継地点である宿場こそはグレードなど選べないため質素な作りであることが多いが、イルヴァと一緒に居るようになって以来、町中の宿となると中級以上のグレードに宿泊することが普通になっていたからだ。
実際のところは今回借りた部屋も、店主は安宿と言っていたが、これまでロランが泊まっていた他の町の安宿より二割ほど高かったため、もう少しグレードが高いことを期待していた。
(きっと豊かな首都だから、高めの値段設定なのかもしれない)とロランは考えていた。
内装が想定以下だった事にはガッカリしたものの、同時に懐かしさを覚えて、ついついしんみりしてしまっていた。
そんなロランをよそに、シャルロッタは無邪気に部屋を見て回っている様子で、「あ」とおもむろに声を零していた。
「この部屋、狭いけどシャワールームが付いていますよ」
笑顔になってシャルロッタが指差す先にはカーテンがあって、その先に一畳程の狭い脱衣室とシャワールームが繋がっているようだった。
イルヴァもシャワールームを重視しているようだったし、女性というものはヒューマン族だろうがエルフ族だろうが、みんな衛生を気にする生き物なのだろうとロランは納得していた。
(しかし……この二割の金額って、シャワールームの二割なのか? くっ……余計な事を……。共同のシャワー室か井戸で十分だよ……)
内心でロランは舌打ちしていた。ロラン的には、衛生よりお金の方がずっと大事だからだ。
「私、シャワー浴びてきますね」
シャルロッタは汗っぽいのが気になっていた様子で、早速シャワールームへと行ってしまった。
「む……」
間もなく聞こえてくるシャワーの音に、ロランは小さく呻っていた。
(ま……待て待て。なにを俺は意識してるんだ。イルヴァと一緒に居た頃だって、聞き慣れた音だっただろ?!)
でもなんだか違うのだ。
大体よく考えたら、そもそもイルヴァは意識しないようにと気をつける必要が無い相手だったじゃないか。
シャルロッタとは随分とワケが違う。しかし今更それに気付いたところで、もう遅い。
(お……落ち着け。落ち着け、俺)
ロランは深呼吸のあと、とりあえず着たままだったブリガンダイン《胴当て》とロングソードを外すことにした。
といっても、この部屋にはベッド以外に家具らしい家具が無かったため、部屋の隅に剣を立て掛け、ブリガンダインやカバンも床に置くしかなかった。
(こういう時はチェスをだな……)
ロランは無意識に駒を動かすように手を動かした後、この部屋にチェスボードが無いことに気付いていた。ついでに、対戦相手も居ない。
「…………」
ロランは一人溜息を付いていた。
イルヴァとの暮らしはなんだかんだ楽しかったのだ。毎朝のようにチェスの相手をさせられていたけど、雑談しながらゲームをするあの時間は、あれはあれで気に入っていた。
「……イルヴァは大丈夫だろうか」
イルヴァの事をふと思い出して、ロランは不安になっていた。
彼女は放っておくと壊れてしまいそうな脆さを感じさせるから、視界の外に居るとどうにも不安になってしまうのだ。
(……でも、その為に俺はここに居るんだもんな)とロランは思っていた。
しかしまあ、こうして物思いに耽っているうちに、なんとか元通りの自分を取り戻してきた気がした。
今の自分はシャルロッタを意識している場合ではないのだ。これから先、やるべき事があるのだ。多分。
(よし、いつも通りの俺だ。これで大丈夫だ!)
ロランはうんうんと頷いていた。
これで間違いを起こしたくなる気持ちなんてもう沸き起こってこないだろう。
そう確信した、その時だった。
「きゃあぁぁっ!」
そんな悲鳴が、シャワールームから聞こえてきたのだ。
「なっ、なんだ?!」
驚いてシャワールームの方を振り返ったロランの目の前で、ジャッとカーテンが勢い良く開いた。
そしてそこから飛び出してきたのは、全裸のシャルロッタだった。
「ロランっ!」
シャルロッタはロランの姿を見つけるや否や、濡れた体のままぎゅっとしがみ付いてきたから、せっかく取り戻した平常心は全て音を立ててガラガラ崩れ去っていた。
「な、なななな――なななな?!」
言葉にすらならない声を上げて赤面するロランの胸にしがみ付いたまま、シャルロッタは一生懸命にシャワールームの方を指差していた。
「ねねっ、ねねねっ……!」
「……?!」
「ね、ねずみ……ねずみが……!!」
両目に涙を溜めながら彼女が訴えてきたのはそれで、ロランは肩透かしを食らっていた。
「ね、ねずみ……?」
あっ気に取られるロランの後ろに回りこむと、シャルロッタは恐々とシャワールームの方を見ていた。
「あっ、あの、ねずみが出てきて……」
「……はあ」とロランは気の抜けた返事を返していた。
そんなもの、安宿ではよくある話だと思ったからだ。
けれどシャルロッタにとっては死活問題であるらしく、今もその柔らかい体をロランの背中にぎゅっと押し付けてくる。
「わ、私、ねずみが苦手で……。お、お願いします。助けてください……」
涙声で乞われて、ロランはどぎまぎとしていた。
ロラン的には、ねずみなんかよりも背中のシャルロッタだった。
(……めちゃくちゃ柔らかい)
ロランはどうしても意識せざるを得なかった。
剣闘士のように激しい運動をしないせいだろう。基本的に華奢でしなやかな体付きをしていたイルヴァと違って、シャルロッタの体は……どこを取っても驚くほど柔らかい。だからといって過剰にふくよかなわけではなく、“程良い肉付き”とはこういうものかと思わせるものだ。
(さ……触りたい)
思わずごくりと唾を飲むロランに、シャルロッタが懇願するような声で言っていた。
「は、早く、なんとかしてください……」
そうだった。ねずみだった。とロランは思い出すと、足を踏み出していた。
そうしてシャワールームを覗き込んでみたが、……既に何も居なかった。
「何も居ないんだが……」
そう呟いたロランの言葉を聞いて、「えっ」とシャルロッタは硬直していた。
「ど、どうしましょう……。どこかに隠れてしまったということですよね……?」
シャルロッタの声は尚も不安そうだ。
そのことは可哀想だと思ったが、それよりも問題なのは現状だった。
「うう……今日はもうシャワールームに入れません……」
しゅんとするシャルロッタに対して、ロランは振り返るに振り返れない状況に陥っていた。
背を向けたままいつまでも動かないロランを見て、シャルロッタはキョトンとしていた。
「あの……ロラン? どうしたのですか?」
「い、いや。その、とりあえず服を……」
しどろもどろにロランが言ったことで、やっとシャルロッタは自分が全裸であるという自覚を持ってくれたらしい。
みるみる赤面して行くようになった。
「あ、あ……! わ、私っ、なんてはしたない真似を……!」
シャルロッタは慌てた様子で体を両手で隠したが、もう一度シャワールームに戻るという選択はできなかったらしい。
「あう……ど、どうしましょう。服を取りに行けません……」
落胆した声を零すシャルロッタは、よほどねずみが怖いらしい。
「仕方ない……」
(俺が行くしかないのか?)とロランは自問自答していた。
いや、行くにしても、色々とまずくないか? 服だけじゃなく下着とか色々あるだろうに。
まさに、前門の虎・後門の狼ならぬ、前門の下着・後門の裸体である。
(……どっちを選んでも敗北しか無いじゃないか!!)
ロランは絶望して頭を抱えていた。
「…………」
シャルロッタもそれがわかっているようで、沈黙するとじっと考え込んだ様子だった。
しかしやがて、彼女が出した結論はこれだった。
「……一度も二度も同じですよね?」
ぼそ。とシャルロッタの呟きが耳に届き、「え?」とロランは耳を疑っていた。
そんなロランの腕に、ぎゅ。と抱きついてくる柔らかい感触があった。
シャルロッタはロランの腕にすがりつくと、真っ赤な顔をしながら、縋るような上目遣いを向け。
「ひ……一人は怖いから……。……一緒に来てください」
そんな風に耳元で囁き掛けてきた。
(一番最悪な選択じゃないか!!)
ロランは内心で叫んでいた。
でもシャルロッタはそれに気付いていない様子で、益々ロランの腕に体をぴったりくっ付けて来たから、ロランは慌てていた。
「や……やばいって! そんなことされると!」
顔を背けながら思わず叫ぶと、シャルロッタはキョトンとした目を向けてきた。
「もしかして、ロランもねずみが苦手なのですか?」
「いや、そういうわけじゃないが……!」
「でしたら、お願いします。頼れる方はロランしか居ないのです」
シャルロッタは真剣な目になってお願いしてきた。
あ、ダメだ。この人天然だ。とロランは確信していた。
「あー……わかった、わかった! 行ってやる! 行けば良いんだろ!」
ロランは投げやりに叫んでいた。
とにかく早く終わらせて、現状からとっとと抜け出すしかないと判断したからだ。
でもシャルロッタは、そんなロランの態度を別のものとして受け取ったらしい。
「あ……も、申し訳ありません。私、ワガママですよね……」
しゅんとした声を出されて、ロランはもはや抑えが効かなくなっていた。
「っ――ああもう!」
ロランは堪らなくなって背けていた顔をシャルロッタに向けると、グッと彼女の肩を掴むなり、自分の胸の中に抱き寄せていた。
「っ――?!」
シャルロッタはビクッとなると、硬直するようになった。
カチンコチンに強張って怯えていることを腕の中で感じ取ると、やがてロランは深呼吸した後、ゆっくりシャルロッタを離しながら、再び顔を背けていた。
「……俺が行くから、キミはここで待ってて」
それだけ言うと、結局、ロランは一人でシャワールームに入って行った。
(あーもう……俺は何やってるんだよ……)
ロランはそう考えて、自己嫌悪を覚えていた。
一方でシャルロッタは、あっ気に取られながらロランを見送った後、ホッと胸を撫で下ろしていた。
(び……ビックリした)
さっき抱き締められた時は、どうしようかと思った。
シャルロッタは本気でロランを優しくて紳士的な人だと信じていたからだ。
(……でも、ロランが優しい人で良かった……)
そう思ってシャルロッタはホッと胸を撫で下ろしていた。
ロランはきっと、行こうとしたシャルロッタを引き止めるためにああいう行動を取ったのだ。証拠に、俺が行くと言ってくれた。
きっと荒っぽくて少し怖い態度だったのも、シャルロッタが無理しようとした事に対して腹を立てただけなのだろう。
だからこうしてドキドキしてしまっているのも、無理は無いのだ。
ロランは相変わらず目を背けたまま手に取った服とタオルをシャルロッタに差し出すと、自分はすぐに部屋の隅まで行って、背中を向けていた。
「着ると良いよ。俺はこうして、後ろを見てるから」
落ち着きを取り戻した声で、ロランはそう言っていた。
「は……はい」
シャルロッタは頷くと、慌てて体を拭いた後、衣服を身につけていた。
「お……お待たせしました」
シャルロッタにそう言われたから振り返ると、シャルロッタはきちんとローブを身に付けており、ロランと目が合うとはにかむようになった。
「あの……ありがとうございました。やっぱり優しいですね。ロランって」
そうやって無防備な態度で言われると、ロランはついドキリとしてしまうのだ。
「そ、そんなことはないよ」
慌てて目を背けるロランに、シャルロッタは首を横に振った。
「いいえ、謙遜は要りません。優しいからこそ、イルヴァの保護者も買って出ていたのでしょうし。そこまで出来るロランは、立派な人だな……って思います」
「い……いやいや」
もしかして俺って、彼女の中で変な誤解をされているんじゃないだろうか? とロランは薄々感付き始めていた。
(そんな善意から始まるような関係じゃなかったんだが……)
そんな風に思いながらも、訂正をしようとはしなかった。
見ればシャルロッタは、人伝に聞く以上の剣闘士を知らない様子だったから。
(……言わない方が良いよな)とロランは判断していた。
そもそも彼女は法を厳守する価値観を持っているようだから、まかり間違っても、本当は未成年だったイルヴァと主従関係があった事を知られてしまえば、軽蔑されてしまいかねないし。
(過去の事は黙っておこう)とロランは心に誓うのだった。