29.絶望と希望・中
シャルロッタがロランを連れて来た先は、領主館だった。
そこの客間にシャルロッタはロランを通しながら、「ここを領主様が私室として貸してくださったのです」と話した。
来賓用であるだけあって、客間は広々とした造りになっていて、高級そうな広いベッドや、立派な木の二人掛け用のテーブルが設置されている。足元の絨毯は毛足が長く、宿ならハイクラスに相当するだろう。
イルヴァの借りていた部屋でも驚いたものだが、ここは更に立派なものだった。
そこのクッション付きの椅子に腰掛けると、シャルロッタはロランにも座るよう促した。
そこでテーブルを挟む形で、ロランは椅子に腰掛けていた。
「何か飲み物をお出ししましょうか?」
シャルロッタにそう尋ねられたが、ロランは首を横に振っていた。
そんなことよりも、早く話が聞きたかったからだ。
「そうですか」と言った後、すぐにシャルロッタは話し始めた。
「これは私の推測ですが」
そう前置きをしてから、シャルロッタは話していた。
「魔導士村がジュードの襲撃を受けた時、仲間たちは魔法を使って対処しようとしました。しかし、どれ一つとってもジュードに効いた様子が無くて、手も足も出ませんでした。……いえ、正しくは、“吸われて”いたのです。私たちが放った魔法を全て、まるで飲み込んでいくようにして、あの剣が吸い取っていった」
シャルロッタの話を聞きながら、ロランは思い出していた。
(……そういえば、イルヴァも吸い取られてしまうと話していたな)
ずっと前にイルヴァから襲撃の話を聞いた時も、同じ事を言っていた。
考え込むロランをじっと見据えながら、シャルロッタは続きを話していた。
「イルヴァの力の源は、マナにあります。加重無効は施術者の体全体を包み込むようにして精霊力が発揮されるエンチャントなのです。恐らく、あの子がジュードと戦うと、加重無効が支えている武器防具に剣が接触する度に、マナを吸い取られてしまう筈」
「……――」
ロランは言葉をなくしていた。
確かに自分がイルヴァを見つけたとき、彼女は地に伏して動けない様子だったから……。
「そんな……じゃあ、イルヴァがジュードと戦おうとすることって、殺されに行くようなものじゃないか……」
グッと拳を握り締めるロランを見て、シャルロッタは苦々しい表情を浮かべ頷いていた。
「……その通りです。ですがその事に、あの子は気付いていないように見えます。それはきっと……あの子が“子供のエルフ”だからなのです」
「……どういうことなんだ?」
身を乗り出すロランに、シャルロッタは説明をしていた。
「エルフ族は生まれて物心がついた後、最初の五百年間を魔法学習に費やすそうです。ですがあの子は……イルヴァは見たところ、まだ四百歳にも満たない歳のエルフであるように見えます。つまり、恐らくは……――下手をすれば、身体強化系の魔法のメカニズムを、キチンとは知らない恐れがあるのです」
「そ、そんな。それじゃあ……――」
「はい」と、シャルロッタは頷いていた。
「あの子がジュードと戦うのを、なんとしても止めなければなりません」
ロランは大きく頷いた後、ギリッと奥歯を噛み締めていた。
「絶対に……戦わせてなるもんか」
ロランの呻るような声に、シャルロッタは大きく頷いていた。
「はい。私も同じ気持ちです。ですが、イルヴァの気持ちも痛いほどわかるのです。あの時は……イルヴァに聞かれた時は、法に従うのが人だと答えました。けれど、それは“大人”としての答えです。不条理な殺戮を受けて、悔しい気持ちや憎いという気持ちが生まれるのは私だって同じなのです。私は……その手段があるというなら、あの子に助力したい。ですが、あの子が自分で戦うような事は絶対に避けさせなければならない」
それからシャルロッタは口を噤むようになった。
視線を落とすと、しばらく躊躇うような様子を見せたが、再び口を開くようになった。
「ロランさん。その為にも、あなたに重大な頼みごとをしなければなりません」
シャルロッタが言い出したのはそれだった。
来た。と思って姿勢を正すロランに、シャルロッタが話をした。
「私の憶測が正しければ……――きっとあなたは、剣王にとって重要な存在になりうる筈なのです。もしかしたら、あなたの事を利用する形になってしまうかもしれません……。ですが、イルヴァを助けるには……ジュードを打ち倒すには、きっと必要な事なのです。……それでも、協力してくださいますか?」
シャルロッタは意を決した目をして、真っ直ぐにロランを見つめるようになった。
ロランは迷わずに頷いていた。
「……もちろんです。俺にできる事なら何だってします」
シャルロッタの目を真っ直ぐ見返すと、ハッキリとそう答えていた。
「……ロランさん」
シャルロッタは申し訳なさそうな微笑を浮かべていた。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げたシャルロッタの姿を見て、ロランは照れ笑いをしていた。
「お礼なんていりません。これはイルヴァのためでもあるし、何より俺のためでもあるんだから」
そう言ってロランは表情を引き締めていた。
イルヴァは部屋の中でただ一人、ベッドの上で、静かに座ってじっとしていた。
しばらくそうやってぼうっとした様子だったが、やがて自らの衣服に手を掛ける。
するりと肩をはだけさせて胸の下辺りまで降ろすと、染み一つ無い白い肌が、柔らかそうな女性の象徴である膨らみが、露になった。
胸元にはロランから貰ったサファイアのチャームがキラリと光っている。
「…………」
イルヴァはそのチャームをぎゅっと握り締めたものの、間もなく手を離していた。
(やっぱり……信頼して良いのは私自身しか居ない)
イルヴァは意を決すると右手を伸ばし、傍らに置いていた剥き身のナイフを握り締めていた。それはイルヴァが唯一、財布以外に持ち歩いている道具だ。
イルヴァは無表情のまま、ナイフをそっと自ら紋様で覆われている左腕に宛がっていた。
刃を立て、つっと血の筋を引きながら、イルヴァが持って行ったのは、紋様が途切れている鎖骨の下だった。
「…………」
イルヴァはすうっと息を吸った後、吐き出していた。
いつの間にか手が小さく震えている。
浅く線を引いた左腕の痛みは大した事が無かった。けれど……。
(そう――私の努力が足りないから……勝てなかったのよ)
どうしようもない悔しさを覚えながら、イルヴァは唇をギュッと噛んでいた。
ジュードの剣に対して、イルヴァの戦法が全く通用しなかったどころか、一振りの剣撃を受けてマナを全て吸い尽くされてしまった事なら覚えている。
自分自身がいかに無力かということを、身をもって体験した。――しかし。
イルヴァはその事実を、どうしても認められなかったのだ。
認めれば――たちどころに、今まで成してきた事の全てが無に還る。そんなことはあってはならないのだ。だからこそイルヴァは、その原因を自分自身に求めていた。
(私が不甲斐ないから、遅れを取ったのよ! だから……あと一つ……もう一つ、刻印を増やせば……今度こそ……!)
イルヴァはやがてナイフをのろのろと体から離すと、ぽすっ。とベッドの上に落としていた。
「……これ以上、どうしろというの……」
イルヴァは震えながら涙を零していた。
もう一つ刻印を増やせば、今度こそジュードとやりあえるかもしれないと思った。
……けれど、あと一つ刻印を増やせば、たちどころに死に至ることも理解していたのだ。
結局、自分自身に原因を求めたところで……結果は何も変わらない。
そんな残酷な現実に、イルヴァは打ちひしがれながらうずくまるしかなかった。
(私に出来る事は、これしか無いというのに……)
イルヴァは子供のように泣いているしかできない自分に気付いて、がく然としていた。
強くなったつもりで居たのに。……結局、何も変わっていない。十年前、全てを失ったあの日から、何もかもが……変わらない。
(ロラン……やっぱり、会いたいよ……)
今の自分の苦しくてたまらない感情を、彼ならなんとかしてくれると思ったから。
助けて。と、イルヴァは呟いていた。
でも彼は……言っていたのだ。
“ごめん。”と。
「何もしてやれなくて……守ってやれなくて……ごめん」
そんなロランに言われた言葉が今も残っていて、胸が張り裂けそうに辛くなる。死んでしまいたいほど苦しくなる。
結局、弱くて情けない自分を彼は見限ったのだろうと、イルヴァはそう思った。
自分には何も無い。何もかもが残っていない。
ならば、後は……一つしかなかった。やる事は決まっていた。
それがどれだけ徒労だとわかっていても。無駄な足掻きとわかっていても――もう後戻りはできないのだから。
「……ジュードを殺してやる。刺し違えてでも、相打ちになってでも、……私の儚い残りの命を差し出しても良い。私も一緒に地獄に堕ちるから……だから、神様。悪魔でも良い。もし本当にこの世に居るなら」
――私に最期に残った、唯一つの望みを叶えて。
イルヴァはそう願っていた。
翌日の昼過ぎ、雨が上がった頃に、ロランはシャルロッタと待ち合わせをした。
約束どおり町の門の所で待っていると、シャルロッタが遅れてやってきた。
「すみません、遅くなりました」
そう言って駆け寄ってきたシャルロッタは、魔導士のローブやケープ以外に、バックパックを背負い、更には背丈ほどある木製の杖を手に持っていた。
ロランのすぐ横まで来ると、腰を折ってハアハアと息を整えるようになったシャルロッタを見て、ロランは苦笑していた。
「そんなに急がなくて良かったのに。大丈夫ですか?」
「ええ、少し休憩したら行きましょう。あ……そうそう」
言葉を繋ぐシャルロッタに、ロランはキョトンとした目を向ける。
そんなロランににこりと微笑みかけると、シャルロッタは言っていた。
「敬語は使わなくて良いですよ。あなたも剣闘士です。本当のところ、堅苦しいのは嫌なのではないですか?」
「まあ……確かに、それはありますね」
ロランは素直に頷いていた。
といっても、実際には堅苦しさを毛嫌いするほどでもなかったが、確かにフランクにやれたほうが気楽だし有り難い。
シャルロッタはそろそろ息が整ったようで、ちゃんと立っていた。
「……お待たせしました。では、参りましょうか、ロランさん」
シャルロッタは相変わらず、丁寧な物腰をしていた。
そんなシャルロッタに、ロランは言っていた。
「俺に敬語が要らないって言うなら、さん付けはいらないよ。一方的にフランクなのもヘンだし、キミも気楽に話してほしい。俺もキミのことは、シャルロッタって呼ぶからさ」
「そうですか?」
シャルロッタは目を丸くしたが、すぐに微笑むと頷いていた。
「それなら、ロランと呼ばせてもらいますね。よろしくお願いします」
シャルロッタは細くて白い手をロランに向かって差し出してきたため、ロランはその手を握っていた。
「よろしく、シャルロッタ」と返しながらも、(敬語は相変わらずなんだな)と内心思って苦笑していた。
ロランにとって、他の誰かと旅路を一緒にするのはイルヴァ以外にはシャルロッタが初めてだった。
イルヴァは普段から運動し慣れている剣闘士である上、移動中は基本的に加重無効を使っているため、足取りも軽く、さして気遣う必要が無かった。
しかしシャルロッタはというと、体力が無い上にあまり旅慣れをしていない様子であるため、定期的に休憩を挟む必要があった。
今も後ろを付いてくるシャルロッタが辛そうに息を切らしている事に気づいて、ロランは歩みを止めていた。
「そろそろ休憩を挟もうか?」
ロランが声を掛けると、シャルロッタはしゅんとした表情を見せていた。
「も……申し訳ありません。足を引っ張っていますよね」
「いや、良いんだ。俺もちょうど休みたかったし」
そう言ってロランは笑い掛けていたが、彼はさほど疲れていない様子であることが一目瞭然である。
しかし結局シャルロッタはロランの言葉に甘えることにして、近くに倒木を見つけると、そこに腰掛けていた。
ロランもまた地べたに腰降ろすのを見ると、ぽつりと呟いていた。
「……あなたは変わった剣闘士ですね」
「えっ?」とロランはシャルロッタに目を向けていた。
シャルロッタは相変わらず穏やかに微笑みながら、ロランに話した。
「私が至らないにも関わらず、責めるどころか気遣ってくださっています。剣闘士でそういう方は稀だと思っていました。私たちのような官とは、かけ離れた存在であると……そう思っていました。でも、思えば同じ人ですものね。剣闘士だからって、誰も彼もが絵に描いたように荒くれ者ではないのですよね」
「……剣闘士……か」
ロランは苦笑を浮かべていた。
「シャルロッタの考えはおかしくないよ。俺は剣闘士の中では変わり者だと思う。現にそう言われていたし……荒くれ者の方が、普通の剣闘士だと思う」
ロランは俯くと、考え込んだ面持ちを浮かべるようになっていた。
「……俺ってきっと、剣闘士に向いていないんだ。こんな性格をしているからさ。イルヴァもそう言っていたし、父も……そんな風に言っていた」
ロランの様子を見て、シャルロッタは何か思う事があるのだということを察知すると、黙り込むようになった。
そんなシャルロッタのことを忘れたかのようにして、ロランはしばらくの間、ぼうっと考え込んでしまった。しかしやがてハッと気付くと、慌てて顔を上げてシャルロッタに苦笑を向けていた。
「……ごめん。ちょっと、物思いに耽ってしまって」
「良いんですよ」と言ってシャルロッタは優しく微笑んでいた。
「……うん」
ロランは頷いたあと、ぼんやりと空を仰いでいた。
それからしばらく黙り込んでいたが、気遣ってくれたようで、シャルロッタは話し掛けて来ようとしなかった。
後は沈黙が流れるだけになったが、ロランにとって、これほど他人と一緒の沈黙を心地良く感じたのは初めてだった。きっとシャルロッタは、他人を安心させるような雰囲気を持っているのだろう。
(……剣闘士には居ないタイプだよな)とロランは思っていた。
穏やかで大人しいかんじだし、見るからに女の子らしいし。
(見た目も可愛いし、俺のタイプど真ん中の筈なんだが……)
不思議とドキドキしたりしないし、意識することもない自分にむしろ驚いていた。
(……何故だろう)と、ロランは考えたが、まあ大した問題点とも思えなかったので、すぐに考えることを止めた。
やがてしばらくした頃、ロランは立ち上がっていた。
「さて……そろそろ行こうか?」
ロランが話しかけると、傍らに置いていた杖を手に取ると、「はい」とシャルロッタが頷いた。
歩きながら、シャルロッタが尋ねてきた。
「首都まで後どれぐらい掛かるでしょうか?」
「うーん……そうだな。今のペースだと、六日くらいか」
「えっ……や、やっぱり急いだ方が良いですよね?」
慌て始めたシャルロッタに、ロランは苦笑を浮かべていた。
「良いよ。旅慣れてないんだろ? なんなら、途中の町から馬車を使うという方法もある。まあ……一日くらいしか変わらないから使った事はなかったけど、シャルロッタの足だと有効かもしれないな……」
「う……も、申し訳ありません……」
しゅんとするシャルロッタを見て、ロランは「はは」と笑っていた。
「気にしなくて良いよ。どうせイルヴァはマナ切れだったからあと二、三日は首都へ向かわないんだろうし、焦らなくても大丈夫だよ」
「……出来るだけ早くに手を打てれば良いのですが」
ふとシャルロッタは真剣な面持ちになると、呟いていた。
「あの子が間違いを犯す前に……そうしなくても良いようにする必要があります」
シャルロッタの言葉に、ロランはつい微笑んでいた。
「……ありがとうな、シャルロッタ。イルヴァの為にそこまで考えてくれて」
「半分は私の為ですよ」
シャルロッタはそう言って笑ったが、すぐに笑みを消していた。
「もう半分は……見ていられないからです。作法も知らないエルフ族の子供が、あそこまで無茶を重ねているのです。そんな子が居ると知って、放っておける人が居ますか?」
「…………」
ロランは沈黙していた。
イルヴァが子供だなんて、未だにピンと来ない自分が居る。
けれど確かに時々垣間見せていた子供っぽさに身に覚えがあって、それが未だにズキズキと胸を痛めている。
(……なんでイルヴァは俺に打ち明けてくれなかったんだろう)とロランは思っていた。
(信用してくれていると思ったのにな。それに、最初から教えてくれていれば、俺だって……梃子でも奴隷契約になんて応じなかった)
イルヴァとのあの一月程の出来事は、相手が子供だということを大前提として考えると、ロランにとって瞬く間に“正しくない事”としてひっくり返ってしまう。
大体、剣闘士はヒューマン年齢で言う所の十五歳以上――要するに、成人でなければ登録する事が出来ない筈なのだが。エルフ族なら、四百五十歳を超える必要がある。間違いなく年齢を誤魔化したんだろうな。とロランは確信していた。
しかしその根本を作ったのは、ジュードなのだ。イルヴァをそこまで追い詰めた張本人。
(正しくないことをしたなら……俺は、正しい形に正さなければならない)
ロランはぐっと拳を握り締めていた。
以前、イルヴァは言っていた。
“あなたの思う正しさを貫きなさい”と。“あなたはあなたの道を貫くべきだ”と。
――それが剣闘士なのだと。
(わかっているよ。俺は……俺らしく“真の剣闘士”になる)
きっとそうすれば、イルヴァは俺のことを認めてくれるよな?
ロランはそう思うのだった。




