25.分かたれる信念・下
結局何事も無いまま、添い寝だけで翌朝を迎えることとなった。
ロランが目を覚ました時、イルヴァは既に髪を編み込んでアップにまとめ終えていて、鎧を身に付けている途中だった。
(とうとうやる気なのか)
そう思って、起き上がったロランの方を振り返ると、イルヴァは微笑んで「おはよう」と言った。
「うん、おはよう」
ロランはそう返した後、聞いていた。
「やるのか?決闘」
「……うん」
頷いた後、イルヴァは笑顔を消していた。
「やっぱり、いつまでもこのままで居るわけにはいけないもの。だって私はジュードを殺さなければならない。前みたく、あなたにああやって止められることは二度とごめんなのよ。私には私の目標があるの。何かが足枷になるなんて、二度とあってはならない事よ」
「……そうか」
ロランは苦々しい気持ちで俯いていた。
(やっぱりイルヴァは、復讐心から離れられないんだな)
そのために身を滅ぼす事になったとしても、彼女ならそれで良いと言うのだろう。
そんな彼女にとって、今の自分というのは障害なのだ。
それがわかっていたからこそ、やがてロランは決意すると、ハッキリと言っていた。
「約束どおり、受けて立つよ。……やろう、イルヴァ」
ロランは顔を上げると、真っ直ぐにイルヴァのその紺碧の目を見つめていた。
とうの昔に慣れ親しんだといえ、いつ見てもキレイだなと思うその瞳は、きっと今日限りで自分のモノでは無くなってしまう。
けれど、彼女を引き止めることは自分には無理なことなのだろう。
そう思ってロランは、感じていた寂しさや名残惜しさを噛み殺していた。
そんなロランの目の前で、イルヴァは最後に残っていたガントレットを左腕に嵌めると、カチャンと留める。
「結局、最後まで不束者の奴隷だったけれど……――」
溜息のあと、イルヴァはロランの目を真正面から見据えていた。
「再決闘、お願いするわね、ロラン」
イルヴァの言葉に、ロランは頷いていた。
『フリーマッチをお楽しみの皆様に朗報です! 先ほど、ハプニングマッチの申請が入りました!しかも、剣闘士同士の決闘です!』
昼下がりの闘技場、まばらな客席の中から、どよめきの声が上がるようになる。
そんな中で、審査人は風精霊の魔法に声を乗せて言う。
『それは月が変わる前、定められた制定がありました! 今日はそれを解消すべく、再決闘の場が組まれたのです! 果たして呪縛から解き放たれ、自由を手にすることはできるのでしょうか! アイアン・ティターニア《鋼鉄の妖精王女》のイルヴァと、ラッキーソード《幸運の剣》のロラン・ノールドの入場です!』
次の瞬間、どよめきが益々大きくなる。
「アイアン・ティターニアだって……?」
「あいつら、再決闘するのかよ?!」
観衆たちがどよめく中、格子門が跳ね上がり、二人の剣闘士が舞台へと上がった。
鋼色に輝くフルプレートアーマーで身を包む、エルフ族の女戦士と、ブリガンダイン《胴当て》を身にまとった、ヒューマン族の剣士が。
イルヴァは久しぶりの舞台の感覚に、目を細くすぼめていた。
(……帰ってきた。ここに。私は、帰ってきた)
しみじみと思いながら、真っ直ぐに正面に立つロランを見据える。
一方でロランもまた、イルヴァに対峙しながらごくりと唾を飲んでいた。
(……やっぱりアイアン・ティターニアは凄い)
そう、思っていた。
構えなくてもすぐわかる、威風堂々としたその佇まいは、まるで鋼のドレスを身にまとった女王のように美しく荘厳だ。
勝てる気がしないとは、まさにこのことだった。
そんなロランの気持ちをお構い無しに、審査人の声が響き渡る。
『両者――構え!』
イルヴァは何ら迷うことなく、背負っていた大盾とハルバードを手に取ると、大盾を前に、ハルバードを後ろに構えていた。
ロランもまた、腰のロングソードを引き抜くと正中線上に構えを取る。
『――始め!』
鐘が鳴ると同時に、イルヴァが一気に飛び出した。
「はっ!」
澄んだ気合の声が空気を震わせる。それは本気の証だった。
ブンッ! とハルバードが一閃、ロランを貫こうと襲い掛かる!
「っ……!」
ロランはそれをすれすれでかわすが、あっという間に二撃、三撃が襲い掛かってくる。
(イルヴァとの手合わせを思い出せ! 懐に入り込めッ!)
ロランは腰を落とすと、ハルバードのラッシュの隙間を縫うようにして体を突っ込んでいた。
次の瞬間、ぐんっ! と大盾が迫ってくる。
ゴッ! と音がし、ロランの体は重厚な大盾に打ち付けられて後ろへ吹き飛んでいた。
「グァ……!」
(死角が無い……!)
体制を立て直そうとする前に、吹き飛んでいる途中のロランを追うようにイルヴァが迫ってくる。
(速いっ……!)
まるで鬼神のようだと思った。
イルヴァの目が冷淡にロランの動きを追いかけ、そして、ヒュン! と鋭い突きが繰り出される。
「っ……!」
慌ててロランは剣身を前に出すと、ガチンッ! とハルバードの切っ先を受け止めた。
そのままロランはごろごろと床に転がっていた。
仰向けになったロランの腹部を、ブリガンダイン《胴当て》越しにイルヴァは踏み抜いていた。
サバトンによる蹴りは相当重く、ドムッ! と重々しい音がして、「がはっ!」とロランは咳き込んでいた。息が詰まり、思わず眉を潜めるロランの眉間にイルヴァはハルバードの切っ先を定めていた。
(舞台の上においては、剣闘士が誰であろうと生と死を分かつわけにはいかない!)
イルヴァはギリギリとハルバードを握り締めていた。
(引け。引け、引け、引け……そして貫け!!)
イルヴァはロランの眉間にハルバードを定めたまま、動けなくなっていた。
彼女の手が震えている事に気付いて、ロランはイルヴァの目をじっと見ていた。
「……イルヴァ」
ぼそ。とロランは呟いていた。
その目を見ると、彼女の動揺が手に取るようにわかる。
彼女は躊躇っているのだ。ロランを殺すことを。
あの、舞台の上ではためらい無く真っ直ぐに相手を穿ちに掛かるイルヴァが。ロランを目の前にして、苦悩の表情を浮かべている。
やがてイルヴァは吐き出すようにして言っていた。
「……降参しなさい」
そんな彼女の声を聞いて、ロランはふっと笑っていた。
そして言ったのだ。
「降参する」と。
『――降参です! ラッキーソード降参しました! やはりアイアン・ティターニアはティターニア《妖精女王》だった! 名誉挽回です! 勝者は――アイアン・ティターニアのイルヴァに決まりました!!』
ワアァァという歓声が辺りを包み込む。
まばらといえど、この勝負に立ち会うことができた幸運な観衆たちは、諸手を上げて歓迎の声を上げていた。
「イルヴァ!」「イルヴァ!」という声を受けて、イルヴァはスッとハルバードを引くと空を仰いでいた。
これこそがアイアン・ティターニアなのだとしみじみ実感して、ロランは、負けたのに笑みを浮かべるのだった。
まるで夢が終わったような気分で、ぼんやりとしながらイルヴァがコロッセオから出ると、パチパチという手を叩く音を聞いた。
振り返ると、ドアのすぐ脇にロランが立って拍手をしていた。
「やっぱり強かったよ、キミは。俺の理想通りの剣闘士だった」
ロランは満足げに微笑むと、スッと片手を差し出してきた。
「ありがとう、イルヴァ。俺はキミとの一月を忘れない」
「……ロラン」
イルヴァは躊躇していた。
(私は……あなたが思うような理想的な剣闘士じゃない)
そう思ったからだ。
さっきだって、躊躇してしまった。
どんな剣闘士であろうと、生と死を隔てない。それがイルヴァの信念だったのに、それを曲げてしまった。そんなことは初めてだった。
(きっとロランの性格に当てられてしまったんだわ)
そう思って、溜息を付いていた。
「……イルヴァ?」
ロランは手を差し出したまま、不思議そうな表情を浮かべていた。
だからイルヴァは首を横に振ると、やがてガントレットで覆われた手を差し出して、ちゃんとロランと握手を交わしていた。
ロランはホッとすると、改めて言っていた。
「今までありがとうな、イルヴァ」
イルヴァは頷いていた。
「私こそ。あなたは……」
イルヴァはロランを真っ直ぐに見つめると、微笑んでこう言った。
「あなたは、私が認めた唯一の剣闘士よ。だから誇りを持って」
「イルヴァ」
ロランはなんだか名残惜しさを覚えてしまった。
後ろ髪は引かれないつもりだったのに。
「あ……そうだ」
ロランは思い出した様子で、ゴソゴソと腰に吊るした鞄を漁っていた。
そして「これ」とロランが差し出してきたのは、シルバーのネックレスだった。
細いチェーンの先に、透き通った碧いサファイアのチャームがあしらわれている。
「……え?」
キョトンとするイルヴァに、ロランは言った。
「これを最後に渡したかったんだ。俺からのプレゼントだよ」
「え、え」
イルヴァは困惑した表情を浮かべた後、かあっと頬を赤らめるようになった。
ロランは照れた様子で髪をぽりぽりと掻いていた。
「どうしてもお金を受け取ってくれないからさ。だから代わりに、これならどうかなって思って。キレイだろ? イルヴァの目と同じ色の石が付いてるんだ」
「ロラン……あなた」
イルヴァは苦笑を浮かべていた。
「エルフ族に対して、瞳と同じ色の宝石を送ることの意味がわかっているの?」
「え?」
キョトンとするロランを見て、イルヴァはやっぱり。と思っていた。
「……あのね。プロポーズの時にするものなのよ、こういう事は」
「……なっ?! な、ななな……?!」
ロランはギョッとした後、赤面するとあたふたとしていた。
「ごっ、ごめん! そ、そんなつもりは無くてだな……!」
「わかっているわよ」と言って、呆れたようにイルヴァは笑っていた。
「……でも、ありがとう」
イルヴァは思いの他すんなりと受け取ってくれたので、ロランはホッとしていた。
「ごめんな、イルヴァ」
「最後まで謝らないでくれる? また腑抜けって呼んでしまうわよ」
つんとそっぽを向いて言われた言葉に、ロランは苦笑していた。
「……それは嫌だな。じゃあ、受け取ってくれてありがとう。で、良いのかな?」
こく、とイルヴァは頷いた。
「これ、大切にするね」
そう言って微笑んだ後、イルヴァは自分の首にネックレスを取り付けようとしたが、ガントレットで覆われている手では案の定上手く行かず、「あ」と呟くのと同時に、チャリ。と地面に落ちていた。
ロランは苦笑すると、それを拾い上げた後歩み寄るなり、前から手を回してイルヴァにネックレスを取り付けていた。
離れようとした時、おもむろにイルヴァが爪先立ちになり、軽く触れるだけの口付けをした。
えっと思って思わず動きを止めたロランを押し離しながら、はにかんだ笑顔を見せた。
どこか寂しげに微笑みながら、「この関係もこれで終わりね」とイルヴァが囁いた。
「…………」
そうだな。と言えなかった。
黙り込んでじっと見るロランは、誰が見ても名残惜しそうに見えた。
「何やっているの」とイルヴァはあっけらかんと笑った。
「行かないの?」
「……うん……そうだな」
ロランはやがて渋々とイルヴァから背を向けていた。
また会えたら良いな。なんて言えなかった。
……会えない気がした。ここで別れたら、二度と会えない気がした。
普通なら、剣闘士をやっていればどこかのコロッセオで再開できる機会は幾らでもあるはずなのに。何故かイルヴァとは永遠に会えないような気がしてしまうのだ。
その理由ならすぐわかった。彼女はいつも、死を覚悟している。
(……ジュードが居るから)
ロランは、見ず知らずの相手を“憎い”と思った。許せないと思った。そんな感情は生まれて初めてだった。
それでも行かなければならず、顔を上げると……遠巻きに冷やかすような表情をした野次馬が生まれていることに気付いた。
「……あ」
ロランは呟いていた。
そうだった。外ではいつでもどこでも注目を浴びるのが剣闘士だった。
そしてその迂闊さはイルヴァも同じだったようで、黙り込んだまま赤面して頭を抱えていた。
その時だった。
「衛兵ッ、衛兵――っ!!」
血相を変えた町人が、十字路を右から左へとかけて行く姿が見えた。
「……何かあったのか?」
キョトンとするロラン動揺、野次馬たちの意識もそちらに持っていかれたようで、「なんだなんだ?」「何があったんだ?」と、ガヤガヤと言い出すようになる。
「なんでも、背中を斬られた人が居るんだってよ」
「この前の町外れであった通り魔と同じだな」
そんな声がどこからともなく聞こえてきて、次の瞬間、イルヴァが駆け出していた。
ロランの横をすり抜けて、人々を押しのけ一目散に騒ぎの正体の方へ走り去っていく。
(……まさか)
ロランもまた、咄嗟にイルヴァの後を追いかけていた。
そうせざるを得なかったのだ。
(まさか……まさか……!!)
ロランの頭の中は嫌な予感で占められていた。
まるで青ざめた死神が覆い被さっているかのような、冷たい感覚が付いて離れない。
(居るのか……ジュード……!)
ロランはギリリと奥歯を食い締めながら、町の中を駆けて行った。




