18.粗暴≒愛憎・上
うねるような黒い炎が辺りに燃え盛っている。
大人の叫び声、子供の泣きじゃくる声、鉄のぶつかり合う音、炎の爆ぜる音、地のいななく音……。
そんな音を聞きながら、森の中をイルヴァはただ一人走り続けていた。
それを素早く追いかけてくる男の姿があった。
その男は、蒼い髪をして、口元に歪な笑みを浮かべている――
「ジュードッッ!!」
イルヴァは叫んでいた。
――と同時に、全身にギシギシと痛むような、締め付けるような感覚が襲い掛かってくる。
「ううっ……?」
イルヴァは眉を潜めながらゆっくりと目を開いていた。
ここは最近見慣れるようになっている、宿の一室だった。
(そ、そうだ。私……――)
どうやらロランに気絶させられてしまったらしい。
(……――こんな事をしていられない)と思って、イルヴァはグッと拳を握り締めていた。
「早く、追いかけなくちゃ……」
そう呟くなり、足を動かす。
「……ん?」
イルヴァはすぐに違和感に気付いていた。
なにやら足元がスカスカする。というより……床が無い。
「え……?」
イルヴァは視線を足元の方へ向けていた。
、視線の先に板張りの床があったが、なんとなく遠い所に床がある気がする。……というより、むしろ。
(……浮いてる……?)
十センチほど床から宙に浮いた場所に、自分のつま先があったから、イルヴァはポカンとしていた。
そんなイルヴァの耳に、「……起きたのか」というロランの声が届いた。
顔を上げると、すぐ目の前にロランが腕組みをしながら立っていた。
「悪いが、頭が冷えるまでの間は、しばらくはそうしておいてもらうよ」
その彼のセリフで、イルヴァはようやく自分の置かれた状況に気付いていた。
イルヴァは今、胸元を縛り上げた縄によって、部屋の中央にある天井の梁から吊り下げられていたのだ。
もちろん腕も後ろ手に縛り付けられているせいで、足をぶらつかせる意外に体は自由に動かす事ができない。
「苦しいとは思うけど、キミの精霊刻印で縄を解かれるわけにもいかないからな。そうやって足が浮いていたら、縄を引き千切ろうとしたところで、踏ん張りが利かないから力も入り辛いだろ?」
ロランに言われて、イルヴァはムッとしていた。
「……加重無効じゃ縄を引き千切るような力は生み出せないわよ」
「そうなのか?」
ロランはキョトンとして首を捻ったが、結局、原理がイマイチ理解し切れなかったらしい。
「……まあ良いや」と言って、頷いた。
「とにかく、キミが行かないと約束してくれるまでは、そのままで居てもらうからな」
ロランはそう言うなり、椅子を引いてそこに腰掛けていた。
「……どうして」と、イルヴァは唇を噛んでいた。
「どうして行かせてくれないの! 私の命ぐらい、私の自由にさせてよ!!」
「ダメだよ、イルヴァ」
ロランは首を横に振っていた。
「自由にすることはできない。少なくとも、今はさ。だってキミは俺のモノなんだろ?」
「そんなモノ……!」
イルヴァは悔しげにロランを睨んだが、やがて項垂れるようになった。
「……そうよ。確かに私は、あなたの……。……でも。悔しいよ。こんなのって、悔しい……!」
イルヴァはいつの間にかぼろぼろと涙を溢れさせるようになっていた。
「あと少しで手が届きそうだったのに……! あと少しで……あと少しでッ……!」
体を震わせて静かに泣き続けるイルヴァの姿をロランは黙って見ていたが、やがて椅子から立ち上がっていた。
「キミの気が済むようにはするよ。納得が行かないなら、後で俺を好きなだけぶん殴れば良い」
「ふざけないでよ!!」とイルヴァは叫んでいた。
「私があなたを殴ったところで、何の代わりにもならない!! だったら、私を殺してよ!! 今すぐ殺してッッ!!」
そんな彼女を見て、ロランは悔しくなっていた。
「イルヴァ……」
グッと拳を握り締めていた。
(あいつが……ジュードが、彼女をこんな風にした)と思ってしまって。
「早く殺しなさいよッ、早く!!」
そう言って吼えるイルヴァに対して、ロランは首を横に振っていた。
「……できるわけがないだろ?」
「そんなモノ、許されるわけがないでしょッ!!」とイルヴァは叫んでいた。
「あれもダメ、これもダメ……!! だったら私はどうしろって言うのよ?!」
泣きながら睨み付けられて、ロランは唇を噛んでいた。
「……イルヴァ」と、呻るように吐き出す。
「死んだらどうにもならないだろ? 頼むから、そんな風に自虐的なことを言わないでくれ……」
「自虐ですって?!」
イルヴァはカッとなっていた。
「簡単に言わないでよ!! あなたに私の何がわかると言うの!! 死にたいのよ!! 死にたいほど苦しいの! 辛いの!! あなたが殺してくれないって言うなら、舌を噛み切ってでも自分で死んでやる!!」
「っ――いい加減にしろッ!!」
彼女の剣幕に対して、思わずロランは手を上げていた。
パンッ! と、頬を叩く大きな音が辺りに響き渡る。
「……――!」
イルヴァは驚愕の面持ちを浮かべて、口を閉ざすようになった。
そうやって伏せられた彼女の表情を見て、赤くなった頬を見て、ロランは自分の仕出かした事に気付いていた。
「ご、ごめん」
ロランは慌てて謝っていた。
イルヴァはこのまま泣き出してしまうのだろうかとロランに思わせた。しかし彼女と来たら、やがて口の端を持ち上げるようになったのだ。
「……ふふ」と、イルヴァは小さく笑っていた。
「ロランでもそんな風にする事があるのね」
イルヴァの指摘に後ろめたさを感じて、ロランは視線を逸らしていた。
「お、俺は……」
「……良いわよ、ロラン」と、イルヴァは穏やかな声で言った。
「じゃあ、それで手を打ってあげる」
「……は?」
怪訝な表情を向けるロランに、イルヴァは微笑んでこう言ったのだ。
「今みたいに叩いてよ。ボコボコに叩きのめしなさい。そうしてくれるなら、私も少しは気が済むだろうし」
「……は?」
ロランは再度怪訝な声を上げていた。
「き、気が済むって。それこそ何の代わりにもならないだろ?」
「なるわよ」とイルヴァは言った。
「少なくとも、この情けなくて不甲斐ない私を叩きのめすことはできるのだから。……この身も心も、反吐が出る」
イルヴァは吐き捨てるようにそう言ったから、ロランは言葉を失くしていた。
そんなロランの様子に気付いたようで、イルヴァは首を傾げるようになった。
「……そこまで驚くことなの? ――私はね」
イルヴァは微笑んでいた。
「そうやって生きてきたのよ。自分の腕にナイフを突き立てる時……すごく気持ち良くなるの。そうやって、これまでも心を慰めてきたのだから……。それぐらい、あなたがやってよ。――ねえ、私の“ご主人様”なんでしょう?」
「ッ……」
ロランは震えている手をギュッと握って拳を作っていた。
「き、キミは……」
(……そこまで傷付かないと気がすまないのか?)
「……俺は……」
俯くロランに、イルヴァが透き通った紺碧の瞳を真っ直ぐに向けてくる。
(これは正しいことなのか?)と、ロランは考えていた。
しかし――彼女はロランを試しているのかもしれない。
彼はどこまで踏み込むつもりなのか、……止める以上は、その覚悟はあるのか。
「あなた、気が済むようにしてくれるって言ったわよね?」
イルヴァのその言葉を聞いたから、やがてロランは大きく吸い込んだ息を吐き出していた。
(今はこれがイルヴァのためになると言うなら、俺は……!)
「……わかった」
やがてロランは頷いていた。
拳の震えを押し止めると、イルヴァの前に立つ。
そして――拳を振り上げた。
ゴッと音がして、イルヴァの顔が横へ弾け飛ぶ。
イルヴァは浅く息をつくと、「……それで良いのよ」と言って小さく笑った。
「クッ……うう……」
気付けば、ロランは涙を溢れさせていた。
「なんでだよっ……なんで、こんな事をしなきゃならないんだよ……!」
(こんな事は、正しくない!!)とロランは思っていた。
けれどイルヴァと来たら。
「……止める気なの?」
そう言って責めるような眼差しをロランに向けてきたのだ。
「…………!!」
ロランはグッと息を飲むと、拳を振り上げていた。
「クソォッ!!」
感情と共に拳を振り下ろし、今度はイルヴァの腹を殴り付ける。
ずむっと拳が入り込むと、「ゲホッ」とイルヴァは咳き込んでいた。
「ゲホッ、ゲホッ」
俯いて咳き込むイルヴァの前髪をロランはグッと掴んでいた。
「イルヴァ……!」
前髪を持ち上げて顔を上げさせ、パンッと頬をビンタする。
「あぁっ!」と、イルヴァは苦痛ともなんともつかない声を零していた。――しかし、彼女は微笑んでいたのだ。
「ッ……」
ロランは震える手を握り締めていた。
「なんで笑うんだよ……! クソっ、クソ!!」
ロランはぐちゃぐちゃに感情を乱したまま、イルヴァの頭をグッと掴むと拳をもう一度振り上げていた。しかし、どうしても振り下ろすことができなくて――
とうとうロランは震えながら、イルヴァをギュッと抱き締めていた。
「なんでだよッ……なんでだよ……!」
ロランはイルヴァを抱き締める手に力を篭めていた。
「キミのことを守りたいのに……壊れてほしくないのに! こんなんじゃ……あんまりだ。なんでキミは、こんな事を求めるんだよ……!」
そうやって泣きながら苦悩するロランの姿を見て、イルヴァは小さく首を傾げた後、すぐに彼の肩に頭を預けていた。
「……優しいわね、ロランは」
囁くような声で彼女はそう言ったが、ロランは返事を返さなかった。
それでも抱き締めた手は離してくれないし、胸を通して伝わってくる体温は暖かい。
(どうして……ロランは)
イルヴァは目を閉じていた。
(ロランは……私のために、こうまでして傷付くことを選んで……。腑抜けだと思っていたのに……芯の無いナヨナヨとした男だと思っていたのに……)
イルヴァの目からは涙が溢れ出していた。
「奴隷なんかのためにここまで心を折ってくれる人なんて……世界中に、あなたぐらいしか居ないわよ……馬鹿……」
イルヴァの囁きに、ロランは何も答えなかった。
ただ彼は震えたまま、固く固くイルヴァを抱き締め続けていたから、今はこれに甘んじておきたいとイルヴァは感じていた。
だから頬を摺り寄せると、ロランに言っていた。
「わかった。もう……行かない。今はあなたの言う通りにするから……ごめんなさい、ロラン」
するとロランは大きく頷いていた。
「……うん、ありがとう。ありがとう……イルヴァ」
ロランはホッと胸を撫で下ろしていた。
とは言え……やっと縄を解いてみると、イルヴァの手首にはクッキリと縄の跡が残ってしまっていた。それに、頬も赤くなったり痣が出来ているし、恐らくは服で隠れている部位も同じようになっているのだろう。
これは取り返しのつかないことをしたんじゃないか? とロランは焦っていた。
「ご、ごめん……イルヴァ。殴り方が強すぎたかもしれない」
「ん……やっぱり痣になってる?」
そう言いながらイルヴァは頬を抑えたが、あまり気にした様子ではない。
そればかりか、さっきまでの取り乱し方が嘘のように落ち着きを取り戻している様子なのが、ロランの目から見ると不思議だった。
「……まあ、痣なんて数日置いたら治るものだし。私だって剣闘士なんだから、多少の怪我ぐらいは日常茶飯事だし。気にしなくても良いわよ」
軽い口調でそう言ったイルヴァに、ロランは驚きを隠せなくなった。
「……キミって舞台で怪我する事があるのか?」
むしろそっちの方が意外だったため尋ねてみると、イルヴァはムッとしていた。
こいつは一体、私のことをどれだけ買い被っているのよ。と感じたからだ。
「そりゃあ、ある時はあるに決まっているでしょう?」
「そうなのか?」と首を捻った後、「でも」とロランは続けていた。
「舞台での怪我は治療士がすぐに治してくれるよな。治療院へ行った方が良いかもしれない」
ロランは彼女の身を案じて言ったつもりだったが、イルヴァは不快そうな表情を浮かべると、「嫌よ」と即答していた。
「こんな怪我、どうやって説明するの?」
「ん……?…………」
「ご主人様に吊るされた上で殴られましたって素直に言う?」
イルヴァの質問に、ロランは言葉を失くしていた。
(……確かに)
色々と説明し辛い状況であることは事実である。
「だから、しばらくは私は引きこもっているから良いわよ」
そう言ってイルヴァはベッドの上でゴロゴロと始めたので、ロランは溜息をついていた。
「外出できないのは暇じゃないか?」
「べつに。本さえあれば私は退屈しない自信があるわね」
「……ふむ」
ロランは納得していた。
確かに彼女はしょっちゅう読書ばかりしているイメージがある。
実際、彼女は剣闘士のくせに、本の虫になることが好きなのだろう。
「……でもやっぱり、心配だな」
ロランは居ても立っても居られなくなると、頷いていた。
「ちょっと薬屋へ行ってくるよ。治療士ほどではないけれど、せめて治療薬でもあった方が怪我の治りも早くなるだろ?」
そう言ってロランはさっさと出掛けてしまったため、イルヴァはキョトンとしたまま見送っていた。
パタンと閉ざされるドアを見て、「……べつに良いのに」とイルヴァは呟いていた。
とは言え、ロランは薬を買ってきてくれたから、塗っておくことにした。
ロランはイルヴァにベッドに座るよう言った後、彼女の頬や手首といった見える部位にある痣に薬を塗っていた。
時たま眉を潜めるイルヴァに対して、ロランは聞いていた。
「やっぱり痛いか?」
「そりゃあ、触ると少しは」
「そうか。……ごめん」
謝ったロランに対して、イルヴァは溜息をついていた。
「謝らなくて良いわよ。やらせたのは私なのだし」
「でもな。だからって、やっぱり殴られるのは心も体も痛いものだろ?」
ロランは大真面目に言ったから、イルヴァは呆れ返っていた。
「あなたって、何もわかってくれていないのね」
「……え?」
「体が痛いと心が慰められる事って、あるものなのよ。……あなたにはわからないでしょうけれど」
言いながら、イルヴァはロランの手から薬を取ると立ち上がっていた。
「ありがとう。後は自分で塗るから、もう良いわ」
「そ……そうか?」
ロランは戸惑ったが、確かに後の部位は体なので、塗ってあげるわけにもいかない。
仕方なしに黙ってシャワー室へ消えて行くイルヴァを見送ったが、ロランは溜息をついていた。
「俺にはわからない……か」
確かに、俺はイルヴァのことをまだ理解し切っているわけじゃないよな。と考えていた。
(そう言われても仕方ない事をしているとは思っている。でも……おこがましい事かもしれないが、俺はイルヴァの事がもっと知りたい)
ロランはそんな風に考えていた。
翌日になっても、果たして昨日の出来事が、それで良かったのか悪かったのか、ロランには結論を出すことができなかった。
しかし、イルヴァが衝動を抑えてくれたことだけは事実である。
朝、結果はわかっていても、ロランは舞台に上がらなければならなかった。
『本日の対戦者の一人のジャン・コータスですが……不幸な事故のため、棄権となりました。よって、ロラン・ノールドの不戦勝が決まりました!』
審査人のそんな声を、ロランは舞台の上で一人聞いていた。
あまり歓迎していないような、ぱちぱちというやる気の無いまばらな拍手を耳にしながら、ロランはすぐに舞台を後にした。
控え室から出ると、クレハが駆け寄ってきた。
「ロラン。イルヴァは大丈夫なの?」
クレハの質問に、ロランは苦笑で返していた。
「ああ、まあ」
「ところで、イルヴァは? 客席にもいなかったんだけど」
きょろきょろと辺りを見回すクレハに、ロランは説明していた。
「イルヴァなら部屋で待ってるよ。ジャン・コータスの名前を聞くと、思い出すから来たくないってさ」
まあ本当のところは痣がまだ完全に引いていないというのもあるのだが、そっちはロランは黙っておくことにした。
クレハは特にロランの言葉を疑うでもなく、「ふうん、そうなんだ」と頷いたものの、彼女はどこか険しい色を含んだ面持ちを浮かべていた。
しばらくクレハは躊躇した様子でいたが、やがて躊躇いがちに聞いてきた。
「イルヴァは……あの子は、なんなの?」
「…………」
ロランは無言になってしまったので、慌ててクレハは首を横に振っていた。
「いえ、ごめん。突っ込んだ質問は良くないよね。でも……」
クレハは言いよどんだ後、結局、遠慮がちに言っていた。
「……気をつけてあげて。あの子は、見た目ほどに強くもないし大人でもないよ」
「……っ」
クレハの言葉に、ロランはまるで感情を見透かされたような気がして、ギュッと拳を握り締めていた。
(クレハは……何か知っているのか?)
落ち着かなくなる感情を取り繕いながら、ロランはゆっくりと尋ねていた。
「クレハには何かわかるのか?」
すると、クレハは曖昧な微笑を浮かべていた。
「私にわかるのはイルヴァのことじゃないよ。ただ、ガルダ族は、重力精霊と風精霊のことがわかるってだけで」
それからクレハは、「またね」とロランに挨拶をして、立ち去ってしまった。
「精霊……か」とロランは呟いていた。
(イルヴァをよく知ろうと思ったら、精霊のことを知る必要があるんだろうか?)
ロランはそんな風に考えていた。
ロランが部屋に戻ると、イルヴァはソファに腰掛けながら、本を開いて読んでいるところだった。
昨日の手当てが良かったか、彼女の頬からは青さが既に引いており、わずかに赤味が残るだけとなっている。
彼女自身の態度は、一見普段通りに見えるが、ロランの不安が払拭されるわけではない。
「見掛けない本だな。もしかして、出掛けてたのか?」
ロランの疑問に、イルヴァは本から顔を上げずに頷いた。
「うん。でも、書店に行ってきただけだから」
「…………」
大丈夫なのか? と考えるロランの気持ちに気付いたようで、イルヴァは顔を上げるとロランの方に視線を向けていた。
「剣闘士の頬が多少赤くなっていたからって、誰も気にしないわよ」
「そ……そうか?」
ロランは戸惑ったものの、本人が気にしていないと言う以上は気にしても仕方ないか。と思い直すと、これ以上は聞かないことにした。
イルヴァもまたロランが黙ったのを皮切りに、再び手元の本に視線を落とすようになっていた。
昨日の出来事は、本当にあれで良かったんだろうか。
そんな風に答えを出せないまま、ロランはロングソードを取り外し、ブリガンダイン《胴当て》も取り外すと鎧掛けに掛けていた。
「そういえば、クレハが心配してたよ」
なんとなくぽろっと言ったロランの言葉で、イルヴァがガバッと顔を上げた。
「は? なんで?」
「なんでって……俺に聞かれても」
ロランは思わず苦笑いを浮かべていた。
クレハのことをそんなに信用していないのか。と思ったせいだ。
「クレハは私なんか死んだほうが良いとすら思ってると思ったんだけど」
イルヴァの言葉に、それこそ馬鹿馬鹿しいとロランは思った。
「キミってまさか、マイナス思考ってやつなのか?」
「そんなつもりは無いわよ。だってクレハはガルダ族だもの」
「ガルダ族がキミに対して嫌悪するとでも言いたげだな」
「その通りよ」とイルヴァは大きく頷いた後、左手をすっと持ち上げていた。
「こんな忌々しい腕をしているエルフ族なんて、好かれるハズもないわよ」
「……はあ」
ロランはキョトンとしていた。
イルヴァはしばしば、自分自身の精霊刻印が刻まれている腕のことを、嫌っているんじゃないかと思うような言動をする。
(そういえば昨日、イルヴァは腕にナイフを突き立てる……って話していたな)
それも自己嫌悪から来るのだろうか? とロランは考え込んでいた。
自分と一緒に居る時は、ついぞそんな姿を見た事は無いが……。思えば自分がイルヴァと一緒に居る期間なんて、微々たるものだ。
(精霊刻印ってことは、精霊が関わるってことだよな? クレハはもしかして、この事を知っているという事か?)
聞いてみたかったと考えたが、クレハが喋ってくれない以上は自分で調べるしかないのかもしれない。
(ってことは、イルヴァが読んでいるような、あんな蛇みたいな文字が走った本を読まなきゃならないのか。何年掛かることやら)
ロランは内心で溜息をついていた。
そうこう考えているうちにじっと見てしまったせいか、イルヴァは頬を染めるとばつが悪そうに視線を逸らすようになった。
そうしたまま、ボソボソと話した。
「……あまり心配しなくて良いわよ。もう、勝手なことをする気は無いわ。ロランにはあそこまでさせてしまったことだし……。あなたが、あんな風に手を上げたんだもの。それってきっと、私はよほど“普通じゃない”ように見えたんだろうし」
イルヴァはジュードのことが絡んだ時、どんな目をするか自覚が無いのだろう。
「俺も……普通じゃなかったよ」
まるで懺悔するかのように呻ったロランを見て、イルヴァは目をぱちくりとさせていた。
「まだ気にしてるの?」
「そ、それは……その。まだ跡が残ってるみたいだし。見れば否応無しに思い出してしまうよ」
ロランは苦々しく呟いたが、それは違う。とイルヴァは思った。
「確かに思い出してしまうけれど……ハッキリ言って、私はこれを“暴力”だとは思っていないわよ」
そう言いながらイルヴァは、もう跡の消えている自分の手首をそっと撫でていた。
「ああやって、あなたは私を守ってくれた。私の壊れそうな心を引き止めてくれたんだもの。そうやって罪悪感を覚えられてしまうと……逆に嫌な気持ちになると言うか……」
そう話すイルヴァの頬は赤く染まっていた。
「……私は“これ”について、嫌とは思っていないのよ。あなたが必死に引き止めようとしてくれた事とか……私の為に泣いてくれた事とか、そういう事を思い出すから……嬉しくなるもの」
イルヴァの言葉を聞いて、ロランはあっ気に取られていた。
「……イルヴァ」
その感情のままロランが言ったのは、これだった。
「そういう所まで危なっかしいんだな……キミは。このままじゃ、いつか悪い男に引っ掛かるような気がするぞ……」
「なっ……?!」
イルヴァは耳の先端まで真っ赤になっていた。
「よ、余計なお世話! 大体、私にとってはあなたが既に十分“悪い男”なんだけど?!」
イルヴァの言葉に、ロランはショックを受けていた。
「そ、そんな! 俺は善良に生きてきたつもりなんだが……」
「あ……腑抜けって言われても気にしないクセに、そこは気にするのね」
やっぱり変な剣闘士ね。と、イルヴァはしみじみ思っていた。