少年と初恋
昼下がりの宿舎。
アルフラたちの部屋を訪れたカミルは、扉の前でほんのりと頬を赤らめて硬直していた。その表情には、これ以上ないといった動揺が浮かんでいる。
一言で言い表すと……
あわあわしていた。
聞こえて来たのだ。
扉を叩こうとした瞬間――
「あぁん! ま、待って……そんな太くて硬いの……むりだよ」
というアルフラの嬌声が……。
立ち尽くすカミルは、思わず息を潜めて耳をそばだててしまう。
「……あっ……だめっ! やっぱり痛い……も、もっと優しくして」
「では、このくらいならどうですか?」
かすかに笑いを含んだジャンヌの声がした。
「んぁ! あっ……痛っ、いけど……なんか気持ち良くなってきた」
「おい、カミル。何やってんだ?」
「ぁわっ!?」
いきなり背後から呼びかけられ、カミルはその場で飛び上がる。
慌てて振り返ると、フレインを後ろに従えたシグナムが怪訝そうな顔でカミルを見ていた。
「あ、あの、僕はそのぉ――」
両手をぱたぱたとさせ、どもりながらカミルは言い訳を始める。
「ええと、決してやましい気があったわけじゃないんです。部屋の中から……へ、へんな声がして……」
ふたたびアルフラの変な声が響いてきた。
「あんっ! そんなにグリグリしないで! だ、だめ……あっ、あっ……」
カミルとシグナム、そしてフレインがびくりと肩を震わせる。
「……」
「……」
「……」
三人は首の軋む音が聞こえてきそうなほどギクシャクとした動きで、扉へと顔を向ける。
「だ、だめぇ!」
「ふふ、こんなに腰をくねらせて……何がだめなのですか?」
「んあぁ! もぅ……あ、あたし……そんなにされたら……」
「ア、アルフラちゃん!?」
蝶番が弾けそうな勢いで扉を開いたシグナムが室内へ駆け込む。
さらにフレインが続き、開かれた扉から部屋を覗き込んだカミルが見たのは……
「え? どうしたのシグナムさん?」
戸惑ったような声を出したアルフラが、寝台の上でうつぶせに寝転がっていた。その尻の上に腰掛けたジャンヌが、木の棒でアルフラの足の裏を、なにやらグリグリとやっている。
「……おい、ジャンヌ。お前なにやってんだ?」
「なにと言われましても、ご覧の通りですわ」
「ご覧になってもわかんないから聞いてんだよっ」
「ダレス流足つぼ健壮術ですわ」
「……」
シグナムが大仰にため息をつく。
アルフラとジャンヌが一戦交えそうなほどに険悪な言い争いをしてから三日。当日こそアルフラがジャンヌを避けるようなそぶりを見せていたが、二人ともあまり物事を深く考えない性格であるため、今では以前とあまり変わらぬ関係となっていた。
それまで寝台を背もたれにして昼寝をしていたルゥが、目を擦りながら辺りを見回した。
「……なに? どしたの?」
「ですから、ダレス流足つぼ健壮術ですわ。こう――足裏のつぼをグリグリと……」
グリグリ、グリグリグリ……
「あふんっ」
「アルフラちゃんに変な声出させてんじゃねえ!」
握り拳が神官娘の頭へ落とされる。
「ボクの宝物へんなことに使わないでよっ」
ルゥがジャンヌの手から木の棒を引ったくる。以前にアルフラから貰ったその棒は、今ではルゥにとって一番の宝物なのだ。
シグナムは寝台の上でじゃれあい始めたルゥとジャンヌを横目に見つつ、戸口のカミルを手招く。
「なんか用があったんだろ? 入んなよ」
「あっ、はい」
室内へ入ったカミルは、片手に提げていた木編みのカゴを卓の上に置く。その中には十個ほどの赤い果実が盛られていた。
「市場で買ってきたレアルの実です。今が旬で、とても甘くて美味しいんですよ。皆さんでどうぞ」
ジャンヌに組敷かれて、関節を極められたルゥがじたばたともがく。
「あーん、はなしてー、レアルの実ぃぃ~~」
ジャンヌが手を離してやると、ルゥは寝台から転がり落ちるようにしてカゴへと飛びつく。
カミルはレアルの実を一つ手に取り、ジャンヌへと差し出した。
「あの、ジャンヌ様もいかがですか?」
乱れてしまった神官服を整えていたジャンヌは、ちろりとだけ赤い実に目をやり、素っ気なく首を振った。
「レアルの実はダレス神殿によく供えられます。口にする機会も多いので、わたしの分はルゥにあげて下さい」
わーい、と歓声を上げ、ルゥがカミルの手からレアルの実を掠め取る。
「え、と。それじゃあこれ……」
ローブの懐から半紙の包みを取り出したカミルが、それをジャンヌへと差し出した。
「なんですの? これ……」
「あの、いま王都でとても人気のある焼き菓子なんです。列ばないと買えないうえ、一人に一個づつしか売ってくれないんですよ。市場から走って帰って来たので、まだほかほかだと思います」
「一人一個って……ならあなたが食べればよいではありませんか」
「いえ、その……この前のお詫びというか……あの時の……」
「……あ!?」
ぼっ、とジャンヌの頬が朱に染まる。
カミルの言うところの“あの時”が、腰布一枚きりの着替え中を見られた時のことだと思い当たったのだ。
「あ、あの時のことは忘れなさい!」
上擦った声を出したジャンヌへ、アルフラが首をかしげる。
「え、なになに? あたしそれ得意だよ。手伝おっか?」
レアルの実をしゃりしゃりいわせながら、アルフラは壁に立て掛けられた大剣の方へ歩み寄る。
「ジャンヌはあの時はまだ居なかったもんね。あたし、前にフレインの記憶を“これ”で――」
アルフラが手にした“それ”をシグナムが素早く奪い取る。
「アルフラちゃん、“あれ”を得意とは言わないから。もしも死体を作る事を言ってるなら、あたしも否定はしないけどさ」
こくこくと頷くルゥとフレインを、アルフラはどこまで本気なのかよく分からない顔で睨む。
最初から最後まで本気なのだろうな、とシグナムは思った。
危うく死線を越えてしまうところだったカミルは、話の流れが見えず、よく分からないといった顔でにこにことそのやり取りを見ていた。そして手にした包みをふたたびジャンヌへと差し出す。
「これはジャンヌ様のために買ってきたものですから、どうか召し上がって下さい。――この前は、そのぉ……ほんとうにすみませんでした」
「……わたしのために……」
まだ頬を赤らめたままのジャンヌが包みを受け取った。そのさいに手と手が軽く触れ合ってしまい、カミルもまた顔を紅潮させる。
ジャンヌがかさかさと音を立て、お菓子の包みを開いてみると、あたりに甘く香ばしいよい匂いが広がった。
「あっ、なにそれ! すっごくいいにおい」
ルゥがジャンヌの手元をのぞき込む。
それは手の平と同じほどの大きさをしたクッキーだった。
ジャンヌはこれまで見たこともない巨大なクッキーに驚きつつも、それを二つに割る。
「はい、半分あげますわ。アルフラと一緒にお食べなさい」
惜し気もなく大きい方のかけらをルゥに渡したジャンヌを見て、カミルがほぅっと息をはいた。
「ジャンヌ様は、お優しいのですね」
感心したように言ったカミルの心の内では、まるで粗野なならず者が、小さな犬猫に対して優しく接した場面を目撃してしまったかのような、なんともいえない温かみを感じていた。
「べ、べつに普通の行いですわっ。持たぬ者に分け与えよ。――レギウス神の教えです」
さらに手にした焼き菓子を二つに割り、ジャンヌはそれをシグナムへ差し出す。
「あっ、いや。あたしは甘いのあんまり好きじゃないんだ」
すこし考えたジャンヌは、手にしたそれをカミルへ渡す。今度は手が触れてしまわぬよう気をつけて受け取ったカミルの顔は、耳まで赤くなっていた。
「……?」
そんなカミルを眺めていたルゥが、なにかを閃いたようだ。――女の勘ならぬ野生の直感だろうか。
「もしかしてカミルって、ジャンヌのこと好きなの?」
「――なっ!? ぼ、僕はそんな……」
慌てたように手をぱたぱたと振るカミルから、ジャンヌが気持ち身をのけ反らせる。
首をかしげたルゥは貰ったクッキーを二つに割り、より大きな方を口の中へほうり込む。そしてもう片方をアルフラへと差し出した。
「あげる。“甘くて美味しい”よ」
その言葉に、顔色を蒼白としたアルフラが首を振る。
「い、いい。あたし、いらない」
「なんで? 美味しいのに」
そう言いながらも、ルゥは残りのクッキーを一口で食べてしまった。
真っ赤な顔で何事か言い訳めいたことを口にするカミルと、真っ白な顔でうつむいてしまったアルフラを見比べ、シグナムは不可解そうな面持ちをしていた。――と、その時、扉が叩かれ外側から開かれる。
「失礼いたします」
戸口から室内へ一歩足を踏み入れたのは、神官服を着た大柄な一人の男だった。
「トマス、どうしたのですか? 魔導士嫌いのお前がこのようなところへ――」
「ジャンヌ様。レギウス大神殿へ同行願います。王都に存在する全ての神殿に、助司祭以上の位に在る者は至急大神殿へ集まるよう触れが出されております」
「なんですって!? まさか……」
トマスは緋色の導衣をまとったフレインへちらりときつい視線を送り、ジャンヌへ頭を下げる。
「この場では詳しい話は出来ません。外に馬車を待たせていますので、道すがらご説明いたします」
「わかりましたわ。すぐに参ります」
小走りに駆け出したジャンヌが部屋から去ると、室内はしんと静まりかえった。
シグナムは部屋の隅でしゃくりとレアルの実をかじったアルフラを見つめる。
声をかけたかったが、物思いに沈む悲しげな横顔を見るに、いまはそっとしておいた方がよいと感じた。
場の雰囲気を盛り上げようと、シグナムはことさら陽気な声音でカミルを問い詰める。
「お前、ジャンヌのことが好きなのか? ちょっと前までは部屋にあいつが居ると迷惑そうな顔してたのに、いつからそんな感じになったんだよ?」
「ぼ、僕、好きとかそういうんじゃ……」
「いいっていいって。あたしにはちゃんと分かってるからさ」
シグナムがばしばしとカミルの背を叩く。
「こう見えてもあたしはね、昔はよく団員の野郎共から、恋の悩みを持ち掛けられたもんなのさ。だからこのシグナムねぇさんに話してみなって。悪いようにはしないから」
若干――どころか大いに誇張の入り混じった物言いだった。しかしその真実を知る者は、この室内にシグナムしか居ない。
そういった訳で、ころっと騙された純真な少年は、よせばいいのに喋りだしてしまった。
「えっと、本当に好きとかそういうのじゃないんです。ただ……この前ジャンヌさんが着替えをしているところを見てしまってから、なんだか妙に気になってしまって……」
「へーえ」
緩みかける頬を必死に引き締めるが、シグナムの声には抑えきれなかった笑いが微かに含まれていた。
「可愛い顔してるけど、お前もやっぱり男なんだな。ジャンヌの裸を見てから意識するようになっちまったと……」
「ち、違いますっ! そんな、い、いやらしい意味ではありません! 僕はただ、これまで気づかなかったんですけど、ジャンヌさんはとても優しい人なんじゃないかと思って……」
「ふ~ん。それまではどんな奴だと思ってたんだ?」
「それは……ちょっと乱暴者でずうずうしくて、かなりちゃっかりした方だなぁと」
「ぷっ、くく……」
喉を鳴らしてシグナムは笑う。
「お前ずいぶんと酷いこと思ってたんだなっ。いや、あながち間違ってはいないけどさ」
「――っあ! この話は絶対ジャンヌさんにはしないで下さいね」
「ああ、まあね。あたしの口は堅いけど、アルフラちゃんやルゥがどうかは知らないよ」
意地悪くシグナムが笑う。
カミルは慌てて周囲を見回した。
アルフラは壁にもたれてみずからの想いに浸っていたが、ルゥは物騒な眼差しをカミルへむけていた。
「あしたも美味しいの持って来てくれるなら、それまではボク、黙ってるよ」
ルゥが交渉……もとい、脅迫という概念を身につけた瞬間だった。
「うぅ……」
「どうするんだいカミル。お前がジャンヌをどう思っていたか知れたら、とんでもない目にあわされると思うよ」
「そ、その時は泣いて謝ります」
すでに涙目なカミルが、理不尽な要求には屈しまいと虚勢を張る。――その時、見事なタイミングで扉が開かれた。
「ひぃ……」
戸口に立つジャンヌを見て、カミルの喉から引き攣った息遣いが洩れた。
「ごめんなさいごめんなさい、うあぁぁあぁぁ、ごめんなさい」
「落ち着けカミル。泣くか謝るかどっちかにしろ」
「え、ええと……ごめんなさいジャンヌ様!!」
カミルは混乱しつつも謝ることを優先させたようだ。
「な、なんなんですの……?」
不審げな顔をしたジャンヌは、カミルを大きく迂回して寝台へと歩み寄る。
「わたしは忘れ物を取りに来ただけですわ」
寝台の隅に巻いて置かれた鉄鎖――“脳天かち割り”を手に取ったジャンヌは、そのまま急ぎ足で部屋を出て行った。
ほっと胸を撫で下ろしたカミルに、それまで口を閉ざしていたフレインが声をかける。
「カミル、用が済んだのなら場を外して下さい。私はこれから少々込み入った話をしなければなりませんので」
「あっ、はい。すみません、ついつい長居をしてしまって」
アルフラにとって白蓮の言葉が絶対であるように、カミルにとってフレインの言葉はよく似た効果を持っている。
フレインは向けられた敬愛の視線にやや面映ゆそうにしながらも、ぺこぺこと頭を下げて扉へ歩を進めたカミルの背を見送る。
「では、ギルドの現状と、今後予想されうる状況の推移について説明いたします」




