死招く少女 虜囚の見た夢
「フレイン様が昨夜の場所で待たれているそうです」
夕刻を迎え、部屋を訪れたカミルがアルフラへ告げた。
「そう、ありがとう」
機嫌良く応えたアルフラは、細剣を片手に部屋を後にする。
「…………」
見送ったシグナムが、どこか腑に落ちないといった顔をしていた。
「おい、カミル……フレインの奴はどんな様子だった」
「それが……」
沈んだ声で答えたカミルが、心配そうに眉根を寄せる。
「とても顔色が悪く、今にも倒れてしまうのではないかといった感じで……」
「よほど仕事に追われてるんだろうな。よく時間が作れたもんだ」
「それもあるのでしょうが……なにか、ものすごく思い詰めたようなご様子でした」
どうも恋人たちの逢瀬、といった感じではない。
ここに来てようやく、シグナムは己の女の勘について疑念を持ち始めていた。
――滅多に外れた覚えはないんだがなぁ
冷静に考えてみれば、不自然な話である。アルフラはほんの一昨日まで、殺意に近い怒りをフレインへ向けていたのだ。
それが今では喜々として出迎えに行っている。――顔を見ることすら厭うていたアルフラがだ。
そう、あまりにも不自然なのだ。ギルドに囚われている貴族、もしくはカンタレラの話が関係しているとは思うのだが、どう考えを巡らせたところで答えは見つからない。
うなるような声を出し、シグナムは大仰に首を捻った。
アルフラは程なく戻って来た。
どんな話をしていたのかシグナムが聞いてみると、大したことではないとの返事がなされた。
明日、同じくらいの時間に、フレインと出掛けるのだという。
やはり心配になり、なにか危険なことをしようとしているのではないかと問うと、きょとんとした顔をされた。
そういった演技をアルフラが出来ないことは、シグナムもよく知っている。
目許を綻ばせ――食事に行くの――と、はにかんだアルフラの顔は、とても嬉しそうだった。
――これじゃあまるで……本当の恋人同士みたいだ……
二人が仲良くする分にはシグナムも大歓迎だ。――が、やはり釈然としない。
食事の一言に反応し、ルゥがついて行きたがったが、それはさすがにシグナムが止めた。
ずるいっ、一人だけ美味しい物を食べるつもりだ、とルゥがごねる。それに返されたアルフラの笑顔が、鮮烈にシグナムの印象に残った。
神官娘は部屋の隅で肩を震わせていた。たまに、わたしの初めてが、などとつぶやき声が聞こえてくる。
意外と年相応に可愛らしいところもあるのだな、とシグナムは笑みを漏らす。
いつもはやかましいジャンヌも、今日だけは大人しい。今朝の出来事がよほど堪えたのだろう。
一抹の不安はあるものの、久方ぶりの平和な時間が流れていた。
翌日、普段着のチェニックのまま出掛けたアルフラの背を送り、シグナムは苦笑する。
らしいといえばらしいのだが、いつものように帯剣した姿は、どう考えても異性と食事へ行くといった格好ではない。
それが逆にシグナムを安心させた。
もしアルフラが年頃の娘のように、めかし込んだりなどした日には、真剣に正気を疑ったかもしれない。
この時シグナムは、どこかで鳴った微かな音を聞き逃していた。それが、彼女に向けられた警鐘ではなかったからかもしれない。
真っ赤に染まった危険信号…………早鐘のように打ち鳴らされるそれは、ギルド本部へと向かっていた。
薄明るい竪穴を、アルフラとフレインは下へ下へと降りてゆく。
ギルドの下層へと掘り抜かれた、岩肌の剥き出しとなった螺旋階段。所々に据えられた小皿の上で揺れる炎が、足元に濃い陰影を描く。獣油の燃えるなんとも言えない臭気が辺りに立ち込めていた。
普段は導士以上の者でなければ立ち入ることの出来ない場合である。
フレインと同じ導衣を身につけたアルフラは、足場の悪さなどものともせず、早足で歩を進める。
宿舎でシグナムに告げた通り、これからフレインと楽しい食事へ向かうところである。
シグナムに対し、嘘をついたという自覚はない。アルフラにとっては何も危ない事などないし、ちょっと爵位の魔族をいただきに行くだけなのだから。
身の内にある力、今まで取り込んで来た多くの魔族の仲間に加えてやるのだ。ギルドなどに囚われてしまった憐れな魔族を。
晩餐会場は、ギルドの最深部である。
道のりは長いが、この先のお楽しみを考えればなんの苦にもならない。
やがて、目的の終点が見えて来る。
どっしりとした重厚な一枚扉。要所を鉄で補強された、おそろしく頑丈そうなものだ。
無言で前へ出たフレインが、鍵を開ける。その奥は竪穴と違い、石造りの堅固な城塞を思わせる小部屋となっていた。
室内には木卓と一組の椅子が備えられ、一人の男が突っ伏すように寝こけている。その足元には革袋が落ちており、赤紫色の液体が零れ出ていた。
フレインが人手を介し、男に差し入れた葡萄酒である。――もちろんその中身には、睡眠効果のある薬物が盛られていた。
男がよく眠っていることを確認し、フレインは卓上に置かれていた鍵束を手に取る。
微妙にかび臭い空気と、立ち込めるアルコールの香りにアルフラの顔がしかめられた。
寝入る男の前に立ち、細剣を抜いたアルフラを見て、フレインが慌てて制止する。
「駄目ですっ! 無駄に命を奪うことは止めて下さい!」
どうして、とアルフラの目が語る。
「生かしておいたら、あなたがまずいんじゃないの?」
「それは大丈夫です。彼には後々、働いて貰わなければなりません」
腑に落ちない、といった顔をするアルフラに、フレインは再度懇願する。
「お願いします。無益な殺生は控えて下さい。彼の処遇については、私に考えがあるのです」
「べつに……いいけど」
アルフラとしても、男を殺したい訳ではない。ただ――生かしておくと邪魔になるのではないか、と気を回しただけなのだ。
その事を、何とはなしに察したフレインは、背筋に冷たいものを感じる。
大した理由もなく、当然のように人の命を絶とうとする思考が、まったく理解出来ない。
すでに覚悟は決まっている。だが、フレインとアルフラとでは、命に対する考え方が決定的に違っていた。
「……こちらです」
入って来た側の正面に位置する扉へ、アルフラを誘う。後に従う少女は、暗い室内に揺らめく不吉な影のようだった。
フレインには、抜き身の細剣を手に笑みを浮かべるその姿は、さながら人の衣をまとった死のように思えた。
決まったはずの決意にわずかな揺らぎが生じる。だが、それも今更な話だ。時はすでに遅い。
迷いを打ち消すかのように首を振り、フレインは扉を開いた。
囚われた子爵位の魔族、星蘭はぼんやりと石の床を眺めていた。
視線は焦点を結ばず、その美しい顔立ちはからはげっそりと精気が削げ落ちている。
数年前から連日繰り返される投薬により、まともに意識のある時間はほとんど存在しない。
今も、何を見るでもなく、ただまぶたを開いているだけだ。
――なぜ…………?
まとまらない思考の中で、幾度となくその疑問がこだまする。
四肢は石壁に埋め込まれ、投げ出された豊満な乳房に色素の薄い髪が垂れかかっていた。
長い幽閉生活のため、その肌は光にあたったことのない軟体動物のような青白さを見せている。
星蘭には、自分が何故このような状況に身を置いているのか、正確には理解出来ていなかった。
今では月日の流れも意味もなさぬが、事の起こりは数年前だ。中央と北部の魔王達の間で行われた戦乱。彼女は魔王雷鴉の配下として戦場に立っていた。
相対したのは、やはり子爵位の魔族だった。しかし、己と同位とは思えぬ力を奮う敵に、彼女は不覚を取った。
白光を放つ拳を武器に接近戦を挑まれ、腹部の肉をえぐられ重傷を負ったのだ。
命からがら逃げ帰った星蘭のもとを、主君である雷鴉が訪れた。灰塚の配下に遅れを取ったことを詫びる彼女に、お前はよくやった、と雷鴉は労いの言葉をかけてくれた。
それまで見たことのないような優しげな笑みで、これからの働きに期待している、とまで言われた。
主の暖かな言葉に、涙すらにじんだ。
それなのに――――――
――なぜ…………?
最後に見たのは、網膜を焼くような激しい雷光。そこで記憶は途切れ、気が付けばこの石牢の中だった。
主の期待した働きとは、いまのこの惨状だという事を、星蘭は理解出来ない。
室内に何者かが入って来た気配に、常時朦朧としていた意識がわずかに覚醒する。
これから行われることはあらかた予想がついている。日課と言ってもよい。――だがそれも、どうでもいいことだ。
すでに極限にまで擦り減った星蘭の神経は、血を抜かれるという作業に、たいした痛みを感じなくなっていた。
ただ、意識があるということだけが苦痛だった。
終わりの見えない緩慢とした死が、いつまでも星蘭を苛みつづける。
――なぜ…………?
こんな苦しみを、味わいつづけなければならないのか。
普段であれば、来訪者はローブ姿の男のはずだった。――が、この日は違った。
ぼんやりと目を向けた星蘭の前に立っているのは、一人の少女だった。
子供がなぜ? という思いもあったが、やはり星蘭には理解出来ない。
視線を上げることすら億劫なのだが、その目は少女の姿にくぎ付けとなる。
緋色の導衣をマントのように後ろへ流し、フードの奥から覗く顔には、零れんばかりの笑みが湛えられている。
慈悲深い声音で、少女が星蘭に告げた。
「ひどい格好。かわいそうに…………すぐ楽にしてあげるわ」
星蘭は本質的な部分で、その少女がどういった存在であるかを悟った。
助けが訪れたのだ。
みずからを解放してくれる、助けが。
純度の高い濃密な殺気が、星蘭の肌に突き刺さる。――混濁する意識の底から、ひとつの名が浮かび上がった。人間達が信仰する神族の一柱。
神々の長子、女神ディース。
緋色の衣を身にまとい、幼い少女の姿で地上をさすらうと言われる、刈り入れの女神。
悪神、厄神の類いともされるが、この世で唯一あらゆるものに対し、平等な存在でもある。
万物の魂魄を刈り取り、等しく死をもたらす、安寧と救いの神だ。
「大丈夫よ、痛くはないから」
冷涼たる少女の声は、どこまでも優しげだ。
まさか、魔族である自分にまで手を差し延べてくれるとは、思いもよらなかった。
少女の振り上げた細剣を見て、ふと星蘭は疑問に思う。――確か女神ディースが手にするのは、大鎌だったという記憶がある。
だが、慈愛に満ちた少女の笑顔を見ると、それはどうでもいいことだと感じた。――いまの星蘭にとって、死と救い、殺意と慈悲は同義なのだ。
「あなたも全部、あたしのものよ。さぁ、来なさい――――――あたしの中へ」
刈り入れの女神が腕を振るう。
銀光が死線を描き、視界が紅く染まる。
一切の痛みは、無かった。
最後の瞬間、星蘭の脳裏で少女の優しげな笑みと、雷鴉の浮かべていた笑みとが重なる。
――雷鴉、さま…………
星蘭は安らぎの中で、意識を刈り取られた。
閉ざされた扉が開き、小部屋にアルフラが入って来る。
「終わり、ましたか?」
「ええ」
問いかけたフレインへ、満腹した猫のような笑みが返される。
「ねぇ、他にもいくつか部屋があるようだったけど……あれは?」
「そちらは魔族の雑兵や、古代人種の末裔達が囚われています。残念ながら、アルフラさんが望むほどの力を持つ者はいませんよ」
「そうなんだ……」
「それより」
まだ物欲しげに背後の扉を気にするアルフラを、フレインが急かす。
「あまり時間がありません。まだやらねばならない事が、いくつかあるのですから」
「……わかってるわよ」
アルフラからすれば、すでに目的の大半を終えている。だが、フレインにとってはここからが本番ともいえた。
おそらく、爵位の魔族はアルフラの手により屍と変えられているであろう。その処理は、後々サダムから借りた者達に任せるとして、眠らせた見張りに対する工作も必要だ。
そして、問題はホスローである。
ここで一つ間違えば、自分だけではなくアルフラにまで危険が及んでしまうだろう。
「私は通常使われているこちらの扉から出ます。アルフラさんはこれを」
フレインが手にした呪符をアルフラへ渡す。これもサダムから借り受けたものの一つだ。
隠形の術を得意とするサダムが作った呪符で、気配を隠す効果がある。かつて東方から伝わったとされる、符術という特殊な技術により作られた品だ。
ギルドの扱う魔術とは、まったく異なる体系であるため、あまり研究も進んでおらず、たいした効果は期待出来ない。だが、現状ではそれで充分だ。
アルフラは受けとった呪符を、物珍しそうにぴらぴらと透かし見る。表面に赤い字で書かれた、のたくるような紋様が気になっているらしい。
どことなく愛らしい、子供っぽい反応である。しかし、状況が状況なので、見ているフレインも微笑ましい気分にはなれない。
「ちゃんと身につけておいて下さいね」
「うん……」
ごそごそとチェニックの胸元に、呪符をしまい込む。
「ここで一旦別れますが、この後どうすればよいかは分かりますね?」
「だいじょぶ」
気のない返事をしたアルフラは、まだ呪符が気になっているらしい。襟を摘んでひっぱり、ちらちらとみずからの胸元を覗き込んでいる。
そんなアルフラをやや心配そうに見てから、フレインは入って来たのとは別の扉から出て行った。
しばらくして、アルフラもまた小部屋を後にする。




