ガールミーツガール
穏やかな朝のひと時。
部屋には柔らかな午前の陽光が差し込み、小鳥たちの鳴き声が耳に心地好い。
朝食を摂るアルフラの表情はとても明るかった。見るからに機嫌が良さそうである。
最近は憂鬱な様子で過ごすことの多かったアルフラが、にこにことスプンを口へ運ぶ。その姿を見て、シグナムも常になく気分が上向いていた。
おそらく、昨夜のフレインとの逢瀬で、何か良いことでもあったのだろう、とあたりを付けていた。
実際、何があったのかはシグナムも気になっているのだが、下手な聞き方をしてアルフラの笑顔を損ねてしまうことがためらわれる。
もしかすると口づけのひとつでも、と思っていたところで、ルゥがとんでもないことを言い出した。
「ねぇ、口づけってなに?」
「ぶっ――!?」
シグナムとジャンヌが同時に吹いた。
ルゥの視線は部屋の隅でパンをかじっていたジャンヌへと向けられている。
「な、なな、なんでわたしにそんな事を聞くのですかっ!」
いくぶん頬を赤らめたジャンヌが、怒ったように大きな声を出した。目尻のクマの青さと頬の赤さとの対比が、見事な彩りを見せている。
「ジャンヌ、知らないの?」
「そ、そんな事くらい、そのぉ……存じていますわよ」
はっ、と我に返ったジャンヌは、抱き込むようにしてルゥの目線からパンを隠す。昨日スープを奪われたこともあり、今日こそは自分の朝食を死守する構えだ。
「ルゥ、お前どこでそんな言葉覚えて来たんだ?」
半ば予想はついているのだが、思わずシグナムはその疑問を口に上らせていた。
「あたし知ってる。一昨日、カダフィーがルゥに言ってた」
アルフラの言葉に、シグナムは目を閉じ眉根を揉む。
そう、大方の予想はついていたのだ。
「で、なんだって?」
「口づけは蜜の味、だって」
「……あの淫乱吸血鬼めぇ。妙なことばっかり教えこみやがって――いったいルゥをどうしたいんだっ」
「ボク、はちみつ好きだよ」
その間にも、ルゥはジャンヌをじっと見つめていた。くりくりとした瞳が好奇心に輝いている。
「知ってるならけちけちしないで教えてよっ。すっごく美味しいんでしょ」
涎が垂れそうなほどに狼少女の口許は緩んでいた。
「それは、ええと……す、好き合う者同士が、こう……互いの唇を重ねて……」
ジャンヌは赤面しながらも、身振り手振りを加えながら説明する。どうやら口づけを食べ物のことだと誤解している節のある狼少女に、正しい知識を伝えなければ、という使命感に駆られているようだ。
「――――っ!?」
あたふたとしていたジャンヌが気づいた時には、すでにルゥが目の前に立っていた。
おもむろに伸ばされたルゥの両手が、がっしとジャンヌの頬を挟み込む。
「なっ、なにを――!?」
寄せられるルゥの顔を鷲掴みにし、なんとか引き離そうとする。
「お、おやめなさいっ!」
「なんでさっ。ボク、ジャンヌのこと好きだよ」
じりじりとルゥのぽってりした唇が近づいてくる。
「ち、違っ――そういう好きではなく……」
ぎりぎりとジャンヌが引き離そうとする。
「……っ……っ…………!」
「く――――――――!!」
二人の力は拮抗していた。
普段であれば、筋力に関してはジャンヌに分がある。だが、この時のルゥは常ならぬ力を発揮していた。
不意に、今日が満月であったことを思い出し、ジャンヌが焦りを覚える。獣人が最大限にその力を引き出すことの出来る日だ。夜にならなければ月は昇らないが、いまのルゥは武神の信徒をも上回る力を持っていた。
「なんでそんなに嫌がるのさっ。ジャンヌはボクのこと嫌いなの!?」
月の影響なのか、ルゥの目つきが普段とはやや違う。すこし興奮気味なようだ。
渾身の力で抗うジャンヌに、言葉を返す余裕などなかった。
ジャンヌの両頬に手を添え、引き寄せようとするルゥ。
ルゥの顔を鷲掴みにし、必死で押し離そうとするジャンヌ。
だが、アルフラの一言でその均衡が破れる。
「ジャンヌって“した”ことあるの?」
「――え!? それは、まだ……」
律儀に答えようとしたジャンヌの意識が、わずかにルゥから逸れてしまった。ほんの一瞬、その腕からも力が抜ける。
そして、神官娘と狼少女の唇は…………出会ってしまった。
かぷっ
「っ~~~~~~!?」
かぷっ、かぷっ
「うあぁぁぁ!! 待てっ、ルゥ! ジャンヌは食べられないっ!!」
戦場ですら発したことのないような悲鳴が、シグナムの口から上がっていた。
慌てて二人を引きはがす。
「いくらルゥでも腹壊しちまうぞっ!」
ひどい言われようではあるが、シグナムのその言葉はジャンヌに届いていなかった。
神官娘はぐるぐると目を回し、放心したようにへたり込んでいる。
朝食を奪わないよう十分に注意はしていたのだが、唇を奪われる心構えなどあろうはずもなかった。
「だいたいなあ、口づけってのは異性とするもんなんだよ」
言い聞かせるシグナムも、ルゥの視線がみずからの唇に焦点を結んでいることに気づき、じりじりと後ずさる。
「待て待てっ! だからっ! 普通女同士でするもんじゃ――」
「そんなことないわっ!!」
シグナムの切羽詰まった制止の声を、アルフラの叫びが打ち消す。
「ルゥ、大丈夫。女同士でも普通にしていいのよ」
「……え? いや……アルフラちゃん?」
「ただ、噛んじゃだめ。甘噛みならいいけど、もっと優しく唇に歯を立てたり、軽く舌をなぞらせたりするのよ」
自分ですら経験のない、高度な技術を平然と語るアルフラに、シグナムは絶句してしまう。
目を丸くしたルゥが、なぜか尊敬の眼差しでアルフラを見る。
「アルフラ、したことあるの?」
「ええ、白蓮からいっぱいして貰ったわ」
「やっぱり、美味しいの?」
ふふん、と笑ったアルフラが、うっとりと語る。
「はちみつなんて目じゃないわ。あれは本当に……夢見心地よ!」
ぐびりと唾液を嚥下したルゥが、ささっとジャンヌへ向き直った。
放心状態で座り込んだ神官娘に、シグナムが祈る。
ジャンヌ、逃げて……
「ひぃ――――あむっ……」
覆いかぶさったルゥの下から、ジャンヌのくぐもった呻きが聞こえた。
阿鼻叫喚と化した室内。先程から扉の叩かれる音が響いていたことには、誰も気づかなかった。
扉の前に立つカミルが小首をかしげる。何度かノックをしたにも関わらず、まったくいらえがない。
室内からは、なにやらどたばたと慌ただしい物音が聞こえてきていた。
「…………?」
とりあえず扉を開いてみたカミルの眼前で、理解不能な光景が展開されていた。
なぜかルゥとジャンヌが濃厚な――――
「………………」
何も見なかったと自分に言い聞かせ、カミルはいま開いたばかりの扉をそっと閉じた。
王宮に残して来た書類の山を片付けたフレインは、ギルド本部にある自室へと向かっていた。
アルフラとの件で頭を悩ませていたこともあり、結局一晩がかりの仕事となってしまっていた。
いまフレインの頭を占めているのは、どうアルフラを説得し、無謀な考えを思い止まらせるかということだ。彼が求めた三日という猶予は、そのための時間だった。
アルフラに対しては計画の細部を練るためだとは言ったが、どう考えても自分には出来ない、とフレインは思っていた。だが、話の持って行き方を間違えれば、命に関わることも重々承知している。
重い足取りで自室の扉の前に立ったフレインは、微かな違和感を覚えた。そしてすぐに、施錠したはずの鍵が開いていることに気づく。
不審に感じながらも扉を開くと、部屋の中央に立つ導衣姿の男と目が合った。
「あなたは……サダム」
意外な人物の出迎えに、フレインは思わずその名を口に上らせていた。
彼の姿を目にするまで、まったくといっていい程気配を感じ取れなかったことにも軽い驚きがある。そして、サダムが遠見だけではなく、隠形にも秀でた導士であることに思いあたった。
「……どうやってこの部屋へ入ったのですか? 鍵はどうしました」
自室の扉には、魔術を併用した鍵を用いている。そういった方面に明るい導士でも、やすやすとは開錠出来ないはずなのだ。
「どうやっても何も、元から鍵など掛かっていなかったぞ」
「――え?」
鍵を掛け忘れた、という事実に直面してしまう。
「王宮詰めとなって重要な書類も扱っておるのだろう? もう少し身辺には気を配った方がよいな」
サダムが机上に積まれた書類の山に目を向けて渋い声で告げた。
「す、すみません」
最後にこの部屋へ戻ったのは幾日前だったかを思い出そうとするフレインを見て、サダムが苦笑する。
「お前のうっかりは相変わらずだな。立場を弁えぬと、場合によっては大変な失態へと繋がるぞ」
返す言葉もなく身を縮こませるフレインの前で、サダムが椅子に腰を下ろす。
「まあよい。それより……お前に話があるのだ」
「あっ、そうですね。なぜあなたが私の部屋へ?」
サダムがどうやってこの部屋へ入ったかより、彼がこの場を訪れた理由の方がよほど重要だ。
「昨晩、王宮へ出向いたのだがな、ギルドからの使いが来て、お前はすでに馬車に乗っていずこかへ出かけたと聞いたのだ」
「――!? では、昨晩からこの部屋で?」
「うむ、待たせて貰った。王宮やギルド内では遠見が使えぬのでな。一度ねぐらへ戻り、お前の足取りを追ってみようかとも思ったのだが、行き違いになっても困るであろう」
よく見れば、フードの奥から覗くサダムの目は落ちくぼみ、フレインに負けず劣らずの心労が見てとれた。よほどの大事が起きたのだろうと察せられる。
「他の者に、私がお前の部屋を訪れている事を知られると、ちとまずい状況になっている。そういった訳で気配を消して待っていたのだ」
「なるほど、だから昨晩はアルフラさんに監視がついていなかったのですね」
「ん……ああ。しくじったな。そのことを忘れておった。昨夜はあの娘が大導師様と会っておったので、一旦監視を外したのだが……ふたたび監視の任にあたるよう、手の者に命を出しておらなんだわ」
珍しいことだ、とフレインは思った。
サダムがそういった仕事の大半を任されているは、遠見の術と抜目ない性格を評価されてのことだ。なにか余程の事態が起きたのであろうことはフレインにも容易に推測出来た。
「そうか……ではお前は、今まであの娘と会っていたのだな?」
「えっ? いえ、それは違います。確かに会いはしましたが、すぐに王宮へ戻り仕事を片付けて来たのです」
妙に慌てた様子のフレインをうろんな目で見つつ、サダムが大きくため息をつく。
「ほかでもない、あのアルフラという娘の件なのだ。抜き差しならん事になっておる……是非、お前の知恵を借りたい」
「あの……知恵と言われましても……」
一回りほども目上の導士であるサダムの言葉に困惑してしまう。そうでなくとも、いまのフレインほど抜き差しならない状況にある者も、そうは居ないはずだ。
「これはお前以外に話せるような内容ではない。――いや、大導師様は、お前にだけは話すなとおっしゃられていたがな……」
その言葉に、フレインの顔が強張る。
「いったい、何があったのですか?」
「捕縛の命が、下ったのだ。あの娘に」
「な――――!?」
「声が大きい」
口許を押さえたフレインが、ぐらりとよろけるように寝台へ腰を落とす。
「すぐにという訳ではない。ガルナへ赴いたカダフィーの帰還を待つそうだ」
「カダフィーの……」
「ああ。あの女吸血鬼がガルナへ向かって二日。おそらく数日中に王都へ戻って来るだろう。――あまり猶予はない」
「そんな……なぜ急にそのような……」
茫然自失といった態のフレインへ、サダムが苛立たしげな声で応じる。
「急なものか、遅いくらいだ。私はいつそう命じられるのかと、びくびくしておったのだぞ」
「ですが、アルフラさんは凱延を倒し、このレギウス教国を救ったに等しい働きを……」
「なればこそだ。フレイン、お前は頭の回りはよいが人が良すぎる。いまあの娘が出奔すれば、多くの人員を失い弱体化したギルドでは、その身柄を押さえるのは至難であろう」
「確かに……」
「ガルナでの戦い以来、いささか大導師様の様子がおかしい。以前ならば凱延討伐直後にでもその命がなされておって然る状況だったのだ。……まあ、王宮関連での立ち回りに多忙を極めておった時期なので、致し方ない事ではあったのだろうがな」
「あなたは、どうするお積もりなのですか?」
「どうするも何も、私一人の手には余るからお前に話を持って来たのだ」
サダムが神経質そうな様子で、右の手首を撫ですさる。
「以前に話したであろう。あの娘に何かあれば、私は身の破滅なのだ」
「そうは言われましても……」
フレイン自身の命も、一つ間違えば風前の灯なのだが……動機は違えど、アルフラを守りたいという思いは同じであった。
せわしなく頭を働かせるフレインへ、サダムが一つの提案をする。
「お前はあの娘に好意を持っているのだろう」
「……ええ、それはまあ……」
「ならばカダフィーが戻る前に、この王都から二人で逃げてはくれぬか?」
「はっ!?」
「大導師様も、お前があの娘へ想いを寄せておることは察している。そういった事態を避けるため、娘の捕縛命令を内密にせよと命じられたのだろう」
「ま、待って下さい。そんなことをすれば、どの道ギルドから追っ手がかかり、あなたにもその命が下るのではないですか?」
「そうなればむしろ好都合だ。お前達への捜索が難航するよう手を回すことも出来る」
「ですが――それ以前に、なぜ私がアルフラさんの危険を察知し得たのかということを考えれば、あなたにも疑いの目が向けられますよ」
「覚悟の上だ。最悪、私自身ギルドから逃れる算段もしてある」
信じられない、といった目をするフレインに、暗澹とした声音が返される。
「お前は断首の刑に処された者が、首を落とされて尚、数瞬の間意識があることを知っているか?」
「い、いえ」
話の展開が理解出来ず、フレインは訳がわからないといった顔をする。
「私の子飼いの術師に、そういった研究をしている者がおってな。罪人の一人に、断首の後、可能な限りまばたきをするよう頼んだらしいのだ」
フレインが息をのむ。
サダムの意向は分からずとも、話自体には若干の興味を覚えた。
「その罪人はな、地に首が転がったあと、十数回に及びまばたきを繰り返したそうだ。――凄まじいまでの、苦悶の形相でな」
「それは……」
「人は首を落とされても即死はせぬのだよ。……しばらくの間は痛みに苛まれもすれば、恐怖も感じる」
フレインにとっては初めて聞く話だった。サダムの妙な博識さに軽い感嘆を覚えつつも、疑問が生じる。
「なぜ、そんな話を……?」
「……怖いのだ。まったく気配を感じさせない、あの恐るべき魔族が」
深く俯き、フードに隠された口から、しわがれた声が答える。小刻みに震える肩からも、サダムの感じる強い恐怖が伝わって来ていた。
「……私はな、たびたび悪夢の中に見るのだ。気付かぬ内に首を落とされ、血を吹きながら崩れ落ちる、みずからの身体を見上げる光景を……」
伏せられていたサダムの顔が上がる。そこには、哀願するかのような表情が浮かんでいた。
「頼む。あの娘を逃がしてくれ。――魔族に命を狙われるくらいなら、私はギルドから追われた方がまだましだ。お前達に出来得る限りの力を貸そう。決して悪いようにはせん」
「それが……こちらもそうはいかない状況になっているのですよ」
フレインは力なく肩を落とす。
「ギルドの地下に爵位の魔族が囚われいることが、アルフラさんに知れてしまいました。彼女はいま、その魔族を欲しています。……その願いが叶うまでは、どのような理由があろうと、この王都から離れようとはしないでしょう」
「だが、みずからの身に危険が迫っていると知れば――」
「無駄です。アルフラさんは、そんなことでは動きません」
「馬鹿な……命が懸かっておるのだぞ!? あの娘は気が違っておるのか……」
それは、みずからの命が一番大切だと考えるサダムと、命より大切な想いを抱えたアルフラとの差なのだろう。
狼狽しつつもサダムは言い募る。
「お前は、それでよいのか? もしあの娘が拘束されれば、おそらく二度とは無事に、日の目を見ることは叶わぬぞ。魔族との和平を目前とした今、凱延を殺したあの娘は、ギルドにとって邪魔者以外の何物でもないのだからな」
「……少し、考えさせて下さい」
とても即答出来るような問題ではない。
呻くような声を上げたフレインは、頭を抱え込む。そして、考えをまとめるため瞳を閉ざし、自我の中へと没頭していった。
フレインは苦渋の決断を迫られていた。
取るべき道は、限られている。
アルフラを救える道は、大恩あるギルドと恩師に対する裏切りを強いる道だった。その先は、確実な破滅をもたらす死地へと続いているかのように思えた。
だが――――
実際に必要なのは、その外れた道へ踏み出す決意だった。
外道の行いを、みずからの意思で歩む決断。
そう、彼の考えなど、最初から決まっていたのだ。
アルフラのために命を懸けると言った、あの日から。
月を仰ぎ、涙する少女を見て、恋に落ちた瞬間から。
室内は、緊張を伴う沈黙が続いていた。
目を閉じ、黙考する年若い魔導士を見つめ、サダムはいい知れぬ不安を感じていた。
フレインが目を開いたとき、その漠然とした思いは、さらに強固なものとなる。
「実は、アルフラさんからあるお願いをされました。先程話にも出た、爵位の魔族の件です」
語り始めたフレインの双眸は暗い。
ギルド内の汚れ仕事に多く携わってきたサダムをして、思わず身を引いてしまうような仄暗さだった。
話が進むにつれ、サダムは顔を引き攣らせる。彼は今まで、フレインのことを取るに足らぬ魔導士の一人だと思っていた。
学術に関する才と、たゆまぬ努力を持って取り組む姿勢には、ある種の敬意を感じてはいた。しかし、普段のおっとりとした態度や、どこかそそっかしいその性格が、フレインを軽んじる要因となっていた。
優秀ではあるが、人の良い不器用な男。それが、ほとんどの導士が持つ、フレインへの印象とも言えただろう。
だがこの瞬間。サダムの前で、恐るべき計画を淡々と語るフレインは、あまりに異質だった。
「やはり、あの娘は頭がおかしい。……そのような事が出来るはずない」
無言で、じっとサダムを見つめる真摯な瞳。焦燥感が込み上げてくる。
「まさかそれを……実行しようと考えている訳ではあるまいな?」
うろたえるサダムに、やはり言葉は返されない。だが、フレインの表情を見れば、その答えは明白だった。
「本気なのか? いや……正気なのか、お前は? 大導師様を裏切り、そのような……」
「いろいろと穴のある計画だとは、私も感じます。あまりに短絡的だともね」
「当然だ。出来るはずが――」
「ですが、あなたが協力して下されば、不可能ではないとも思います」
揺らぐことのない視線から、サダムはおのが身を隠したくてしょうがなかった。
いったい、どんな悪魔がフレインに囁いたのだろう。そう思わずにいられないような変貌ぶりだった。
もしかすると、狂気というものは伝染するのかも知れないと本気で考える。
アルフラの狂気が、フレインへ伝わってしまったのではないか、と。
「よく考えて下さい。あなたに取れる選択は多くないはずです。だからこそ、若輩の私などに助けを求めたのでしょう? 実際、あなたが窮地から脱する手助けを、私なら出来ると思いますよ」
みずからにも、悪魔が囁きかけてきたのだとサダムは思った。
優しげに差し延べられた手を取れば、その先にはさらなる危局が待ち構えているとしか思えない。
「あなた自身は、なにもする必要は有りません。ただ数人……そうですね、そういった仕事に慣れた者を、三人ほど紹介して下さい」
「人手を貸せ、と?」
「はい。出来れば、ギルドの地下に囚われているのが、爵位の魔族だという事を知らぬ下級の術士が好ましい」
「そ、その程度でよければ、今日中にでも手配出来るが……」
「そうですか……さすがに私の方でも用意が必要なので、決行は明日ということにしましょう」
「ま、待ってくれ! そんな――」
「声が、大きいですよ」
サダムは思わず高くなっていた声を潜める。
「お前は失敗した場合を考えているのか? そんなことになれば私まで――」
「あなたはただ、私に人を紹介するだけです。それ以外は何も知らない、ということでどうですか?」
それで身の安全は図れるのか、サダムは必死で頭を働かせた。その目はせわしなく動き、フレインを観察する。だが、普段目にする気弱げな態度やおどおどとした様子はなりを潜め、何事かを決意してしまった者の揺るぎない姿勢しか見出だすことが出来なかった。
「時間があまりないのはお互い様でしょう。カダフィーが王都へ戻る前に、なんらかの手を打たねばなりません」
「そ、それは確かに……」
「では、計画の細部を詰めましょう。こういった事には、あなたの方が手慣れているはずですからね」
おそらくフレインを決断させてしまったのは、アルフラの窮地を伝えた自分なのだろう。
サダムは自身の手に余る状況であったとはいえ、今日この場を訪れたことに、強い後悔の念を覚えた。




