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氷の滅慕  作者: SH
三章 死線
67/251

死神の供物(後) ※挿し絵あり



 崩れ落ちた瓦礫に埋もれ、アルフラは全身がひび割れたかのような激しい苦痛に身悶えていた。

 すでに痛みからみずからの怪我の程度を計る、といったことが不可能なほどに、いたるところから激痛を感じる。


 身をよじらせるたび、体に降り注いだ石片が転がり落ちてきた。柱に近い場所にいたことがさいわいし、大きな岩に押し潰されることだけは避けられたらしい。


 喉に絡み付く湿った咳とともに胃液を吐き出す。妙に綺麗な檸檬(レモン)色の胃液には、幾筋もの鮮血が混じっていた。

 内臓の傷が死に至ることは、アルフラも知っている。だが、全身を(さいな)む苦痛と吐き気が、まともな思考を妨げる域にまで達していた。


 無意識の内に、痛みを和らげようと背を丸め、涙を流しながら何度も胃液を吐き散らす。

 呻き声すら出てこぬような状態で、アルフラは必死に愛しい人の名を呼んでいた。


――白蓮、白蓮、白蓮……痛い、すごく痛いよ…………助けて、白蓮……


 救いは訪れなかったが、しだいに苦痛は薄らいできた。

 口に残った胃液を吐き棄て、上体を起こそうと(こころ)みる。

 喉は焼けるように痛み、左肩から先の感覚がない。左腕はまったく動かなかった。

 全身が熱を持ち、自分の体ではないかのように言うことを聞かない。気を抜けば意識が遠のきそうだった。


 瓦礫の中でもがきながら、痛みに擦りへった自我は、内へ内へと沈み込んでゆく。

 みずからの最も奥深くに刻みつけられた心の原風景。

 かつて、死を迎えようとするアルフラを傲然と見下ろした氷の美貌。


――白蓮……


 あの時、アルフラの命を救った愛する人の血が、鼓動とともに身の内を駆け巡る。


 アルフラの口から、血とともにその名がこぼれ出た。


「白蓮……」


 それは、アルフラにとっての魔法の言葉。

 痛みは去り、行き過ぎた多幸感に陶酔する。


 白蓮を想う時――アルフラの中で白蓮以外の一切は、等しく無価値だった。

 そこは、痛みも、怖れも、ためらいも存在しない完璧な空間。生への執着すら介在しえないアルフラの聖域。


 それが、とても危険な状態だということに気づかない。

 冷たく、甘やかな白蓮への執着に逃避し、アルフラは瓦礫を押しのけ立ち上がった。

 迷いはなく、ただただ力と凱延を求め、首を巡らせる。

 鷹のごとき容貌をした爵位の魔族は、不可解な面持(おもも)ちでアルフラを見つめていた。


「……なぜその名を知っている?」


 名状しがたい複雑な表情をした凱延が問いかけた。


「…………」


「お前のような小娘が、なぜあの女の名を知っているのだっ?」


 何を言われているのかすぐには理解出来なかった。まとまらない思考の中で、アルフラはぼんやりと思い出す。

 かつて高城から聞いた話。――以前、凱延は白蓮に求愛したことがあるのだと。そして白蓮は、凱延をひどく嫌っていたらしい。


 赦せない、と思った。

 生かしてはおけない、と。


 もともと殺すつもりではあった。が、高城の言葉を思い出し、凱延に対して戦禍へ向けるものと同等の憎悪が湧きあがってくる。

 アルフラが異性に対して持つ嫌悪感。その根底には、男性だというだけで白蓮との恋愛対象となりえ、あまつさえ子をなす事も出来る、という無意識の思いがあった。

 自分には、決して出来ないことだと心の奥底で自覚もしていた。


 強い羨望が、どろどろとした嫉妬が、アルフラの中で渦巻き殺意に変わる。


――絶対に生かしておけない


 そして凱延から魔力を奪う。

 力は絶対だ。魔族の価値観がすべてを解決する。

 たとえ自分が女であろうが子供だろうが、戦禍を凌ぐ力さえ手に入れれば……


「白蓮……」


――あたしだけの、白蓮……



 アルフラの口角が弧を描き、にいと笑みが形作られる。

 冷たい情念が流れ出し、周囲の気温が一気に下がった。





 崩れ落ちて来る天井部の石材を避け、シグナム達四人は壁際の神像に身をひそめていた。

 やや離れた場所に崩落した瓦礫を覗きこみ、ジャンヌがぶるりと体を振るわせる。


「なんなんですか、急に寒く……」


 シグナムとルゥ、そしてフレインには覚えのある現象だった。


「あたしが前に言ったことは覚えてるか? アルフラちゃんに対して、下手なことは言うなって話」


「え……ええ」


「すこし……不安定なんだよ、アルフラちゃんは。たまにこんな感じになっちまう」


「これは、アルフラが……?」


 ジャンヌが懐疑的な目でシグナム見る。

 それには気にせず瓦礫の一角を見つめていたシグナムが、安堵とともに息をはいた。


「よかった、アルフラちゃん無事だった……か……」


 その視線の先では、石片を押しのけて立ち上がったアルフラの姿があった。しかし、すぐに無事、とは言いがたい状態であることが見てとれた。


「ああっ――!?」


 フレインが呻きを喉に詰まらせる。


 立ち上がったアルフラは、一目で命に関わる傷を負っていることが分かった。

 額から流れる血が右頬を大量に伝い、亜麻色の髪の右半分が真っ赤に染まっていた。

 左肩は不自然に垂れ下がり、肘関節がありえない方向に折れ曲がっている。

 そして最も危険なのは、にかわで固められた革の鎧。その胸部が内側に陥没し、明らかに肋骨と内臓に損傷を受けていると推察出来た。それは口許を汚す、胃液と鮮やかな色の血痕からも明らかだ。


 普通に考えれば、意識を保つことも困難な激痛に見舞われているはずだ。しかし、アルフラはそんなものを一切感じさせることなく、何かを探すように周囲を見回していた。


「痛みを、感じてませんの?」


 ジャンヌの呆然とした問いに、フレインが答える。


「あれはおそらく過度の興奮により、一時的に痛みや怖れを感じない状態になっているのだと思います」


「過度の興奮?」


「はい。ギルドでも、魔族との戦いに役立てるため、人為的にその状態を作りだす薬物の研究をさかんに行っています」


「ダレス神に捧げる苦行の中でも、同じような事があります。わたしも瞑想の最中に、ふと一切の苦痛を感じなくなったことがありますわ」


「ボクも知ってる。優秀なシャーマンが精霊を降ろすとなることがあるって。入神(トランス)状態? とか長老さまが言ってた」


「いや、たぶんそれだけじゃない」


 シグナムが最も現状を正確に把握していた。


「早く戦いをやめさせて、高位の神官に治癒魔法を使って貰わないとまずい」


 戦場で、何度となく見たことがあるのだ。

 戦いの後、助からないほどの傷を負った者に、とどめを刺してまわることがある。苦しみと死への恐怖を無駄に長引かせないためだ。

 そういった者の多くは、すでに虫の息で意識がない場合も多い。だが、強い精神力からか、致命傷を負っても意識を(たも)っている者もいる。

 そういった者は、えてして痛みを感じなくなる。限界を超えた激痛を脳が遮断するのだ、と聞いた覚えがあった。

 死の間際に、笑みすら浮かべていたゼラードが思い出された。



 いまのアルフラの現状は、そういった類いのものだとシグナムは考えていた。





 戒閃は、瓦礫の中から少女が立ち上がる姿を、信じられない、という表情で見つめていた。そして、人間が発するとは思えない強い魔力に驚愕を深める。

 周囲の気温が下がるにつれ、少女の魔力はなおも増大していた。

 凱延と向かい合いあった少女の声が、風に乗って聴こえてくる。それは以前に凱延の口からも聞いたことのある名だった。


 神殿内に存在する複数の敵の中で、冷気をまとったこの少女が、最大の脅威であると戒閃は認識した。

 さきほどまで、女戦士や神官娘との戦いで見せていた余裕と(あなど)りを捨て、背中を見せる少女へ一足飛びで詰め寄る。


 極限にまで魔力を高め、少女の存在自体を抹消するつもりで閃光を放つ拳を振り抜く。

 だが、撃ち抜かれた拳に手応えはなく、そこに立っていた少女の後ろ姿は忽然と消え失せていた。


 瞬間、これまで魔族同士の戦いですら感じたことのない、凄まじい戦慄に心臓が跳ね上がる。

 とっさに飛びさがったその背後に、少女がいた。


 激しい衝撃が、少女の細剣とともに戒閃の魔力障壁に叩きつけられる。

 背後からの斬撃を完全に防いだ、と思ったのもつかの間――障壁に食い込んだ氷のような刃が燐光を放つ。

 少女から大量の魔力が刀身に流れこんでいた。


 戒閃は振り下ろそうとしていた拳を止め、少女から大きく距離を取る。

 用心深く構えを取った戒閃は、刺すような冷たさを右の二の腕に感じた。


「な……!?」


 浅くではあるが、白いブラウスが斬り裂かれ、うっすらと血が滲んでいる。


「貴様……!」


 怒りはあったが、それに身を任せてしまうには危険な相手だ。

 用心深く間合いを詰めようとする戒閃の目に、少女を挟む位置に立っている凱延の背後から、無数の怨霊が這い寄るさまが見えた。


「凱延殿っ」


 魔導師から伸ばされた幽体の腕が、凱延の命を(むし)り取ろうと掴みかかる。そして少女は、戒閃に目を向けることなく凱延の方へ駆け出そうとしていた。

 同時に、漆黒の外套をはためかせた女吸血鬼が、戒閃の頭上から血槍を片手に降って来る。

 体重の乗った一撃を障壁により苦もなくしのぐが、毒々しい色合いをした槍の穂先から幾筋もの血が触手のようにうごめき出た。


「くっ!」


 どこか生理的嫌悪を催すおぞましさを感じ、一歩身を引いた戒閃を追撃せず、女吸血鬼は少女へと走る。


「この場から引くよっ。しばらくおとなしくしてな」


 おそらく重傷を負った少女を担ぎあげようと考えたのだろう。女吸血鬼の手が、少女の腰へ回される。


 だが――振り向きざまに、少女の細剣が振られた。

 反射的に手にした得物で受けるが、細剣により血槍は半ばから絶ち割られ、女吸血鬼の身体が揺らぎ、大きく跳びのく。


「この小娘ぇ、なにしやが――――っ!?」


 細剣にざっくりと斬りつけられた胸元に目を落とし、女吸血鬼が絶句する。

 その傷口は、さながら凍傷を起こしたように青く変色し、ぱっくりと桃色の肉を露出させていた。そして、吸血鬼の強い再生力をもってしても塞がることなく、白煙を上げ続けている。


「あたしの邪魔を、するな」


 少女の冷たい視線と言葉に、女吸血鬼が一歩後ずさる。

 血を吸う鬼は、より恐ろしい血を欲する鬼にたじろいでいた。


 すでに戒閃には、おびたたしい瘴気をまとった魔導師も、強い妖気を発する女吸血鬼も念頭になかった。

 まともに動けることが不自然なほどに満身創痍な少女。彼女だけはこの場で殺しておかないとまずい、そう感じていた。

 だが、追撃に移ろとうした戒閃は、凄まじい轟音に動きを止める。魔導師の操る巨大な神像が地響きを立てながら近づいて来ていた。さらに背後から、呪縛の強制力を持った咆哮が響く。



 ルオォォォォ――――――――ン!!



 振り返った戒閃の正面では、真っ白な体毛を持つ人狼が雄叫びを上げていた。


「チッ! ワーウルフまで……この神殿は一体どうなってるんですかっ!」



 人狼だけではなく、先程の女戦士と神官娘、そして導衣姿の青年が戒閃の行手を阻むかのように取り囲んでいた。





 死へ誘おうとする亡者の腕を薙ぎ払った凱延は、突風を走らせ魔導師を吹き飛ばした。

 とどめを刺したいところだが、背後から剣呑な殺意を叩きつけてくる少女が迫っていた。

 吹き荒れる強風の中を、凱延の魔力に抗い前進してくる。

 風を操り、回避出来ない状況を作り、少女へ圧縮した大気を放つ。

 だが先程と違い、正面から受けた少女は、後ろへ弾き飛ばされながらも石畳がえぐれそうなほどの摩擦音をたて、自身の足で立ち凌いでいた。


「クッ――――!」


 少女は笑みを浮かべ、絶え間なく“その名”をつぶやいていた。

 かつて魔族ですら立ち入らないほどの極寒の地に、一人住んでいた美貌の女魔族。現在では凱延の領土にも程近い、人の領域に城を構えていると聞いていた。

 その女、白蓮との関係も気になったが、現状、その名を口ずさむたびに魔力と殺気を増していく少女への対処が急務だった。


 普段は気性が激しく、頭に血が昇りやすい凱延だったが、こと戦いに置いては多くの経験を持ち合わせている。

 熱くなった意識を切り替え、冷静に思考を巡らせた。

 凱延と戒閃、二人の指揮官が揃って足止めをくらっては、外で待たせている配下にも不安が出てくる。

 潰走したレギウス軍が兵を再編するには、まだまだ刻がかかるだろうが、あまり時間はかけられない。


 それに、目の前の少女が戒閃に手傷を負わせたのを凱延も見ていた。おそらく侮りもあったのだろう。だが、人間にはほぼ不可能とされる、爵位の魔族に傷を負わせたことは事実だ。凱延にもすでに油断はない。

 当初の目的であったギルドの長はひとまず置いておき、こちらへ尋常ではない殺気を向ける少女に全力を注ぐべきだ、と結論づけた。


 凱延は二度、三度と少女へ魔力を叩きつける。

 だが、魔力とともにその耐性もが増しているらしい少女を倒し切ることが出来ない。

 すでに少女は満身創痍だ。口からは血反吐をはき、身体の節々がいびつに歪んでいる。それでも、細剣を握る右腕だけは庇っている辺りに脅威を感じた。


 周囲に転がる屍と同様、身体のあちこちが折れているのは確実だ。

 しかし、やはり屍と同じように、死への恐怖を見せることなく少女は向かってくる。

 屍とは違い、少女には命があるにも係わらずだ。


――命があるのならば、このまま手傷を負わせ続ければ、いつかは動かなくなる……はず……


 だが、少女のどろりと光る、笑みを湛えた凍える視線は、片時も凱延から外れない。


 もはや人間を相手にしているという意識はなかった。そして徐々に……漠然とした得体の知れない不安が、凱延の中に湧き上がってくる。――――同時に、強い怒りを感じた。


 凱延は、絶対の主である灰塚から爵位を(たまわ)る魔族として、たとえ何者が相手であろうと圧倒的な力で打ち倒し、一顧(いっこ)だにしない気概(きがい)を己に求めていた。


 みずからの矜持(きょうじ)を守るため、次の一撃で少女を倒し切ろうと決意する。



「小娘。爵位の魔族の力……見せてやる」





 レギウス軍との開戦以来、長い戦いが続き、さすがに底の見え始めた凱延から膨大な魔力が溢れ出した。

 アルフラの周囲を凄まじい旋風が吹き荒れる。それに耐えるため、細剣を石畳に突き立て、右腕だけでしがみつく。

 己を吹き飛ばそうとする暴風を、なんとか持ちこたえようとするアルフラは息苦しさを感じた。

 辺りの気圧が下がり、空気が薄くなっている。

 頭上からも風が吹きおろし、乱気流が発生していた。


 空気が渦を巻き始める。


 さらに凱延から叩きつけるような風が流れ込み、アルフラの体が浮き上がった。

 右手だけで細剣を掴み、アルフラはその場に釘付けとなってしまう。――その眼前に、高圧な大気の塊が現れ、さらに凝縮されていく。


「さらばだ」


 静かに告げた凱延の声は、激しい風切り音にかき消され、アルフラに届くことはなかった。


 そして、極限まで圧縮された大気が、アルフラの目の前で爆発した。

 大気が波となり、細い少女の身体をさらおうとする。それでも細剣を掴んだ右手は離されることはなかった。だが、あまりの衝撃に直下の石畳が砕け、アルフラを地に繋ぎ留める細剣が抜ける。


「――――ッ――――!!」


 声にならない叫びは風に吹き消され、アルフラの体は木葉のように舞い上がっていった。

 のたうつ風の竜が、憐れな獲物をみずからの(あぎと)にまで押し上げる。


「そん……な……」


 フレインが空を見上げ、絶望的な声音で呻いた。

 神殿内ではすべての動きが止まり、皆が頭上を見上げる。すでにアルフラの姿は、飛び抜けて視力の良いルゥの目にも、小さな黒い点となるほど上空まで巻き上げられていた。


 フレインががっくりと膝を折り、床に両手をつく。

 ルゥは腰が抜けたかのようにしゃがみ込み、茫然とつぶやいた。


「アルフラぁ……」


 やがて竜巻は治まり、万有引力にひかれ、黒い点は徐々に大きさを増して来た。


「真下に! ここに落ちて来てる!!」


 シグナムが叫び、手にしていた大剣を投げ捨てた。


「…………まさか――――!?」


 フレインの声を肯定するかのように、シグナムが落下地点とおぼしき場所へ駆け出す。

 その意図を察した者すべてが、無理だ! と思った。


 遥か上空から降ってくる人間を受け止めるなど出来るはずがない、と。


 それでもシグナムは走った。――だが、その動きを阻むように戒閃が立ち塞がる。


「……無理だとは思いますが、一応邪魔はさせてもらいます」


 戒閃の拳に、極大の白光が宿る。


「少女より一足先に、あなたをあの世へ送ってあげますよ」


「どけえええ――――!!」


 無手で殴りかかろうとしたシグナムの腰に、ジャンヌが必死ですがり付いた。


「やめて下さいっ! そんな事をしたらシグナム様まで……もう、わたし達にはここで戦う理由は――」


 まるで、すでにアルフラが死んでしまったような物言いをするジャンヌを、激昂したシグナムが膝で蹴り飛ばす。


「だまれっ!! まだアルフラちゃんは――」


「もう、遅いようですね」


 冷静に告げた戒閃の声が、妙にはっきりと神殿内に響き渡った。


 直後――――――


 凄まじい衝撃とともに、神殿が揺れた。

 アルフラが落下した場所を中心にして、石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。


 砕けた石畳の破片が四方に飛び散り、神殿中に土砂と埃が舞い上がった。

 壁にも亀裂が入り、その一部が崩落する。わずかに残っていた神像も、あまりの衝撃によりディース神像を除き、大半が崩壊した。


 もうもうと立ち込める土煙の中から、勝ち名乗りをあげる凱延の声が響く。


「フーハッハッハッハァ!! これが魔王灰塚様の下僕(しもべ)たる、凱延の力よ!」


「くっ……う……」


 石畳に膝を着いたシグナムが、地面を殴りつける。

 土埃によって視界は閉ざされているが、たとえそうでなかったとしても、アルフラがどうなったかを確かめる気にはなれなかっただろう。

 巨大なディース神殿を半壊させるほどの勢いで、石畳に叩きつけられた友を直視する勇気。そんなものを持ち合わせている人間は、この場に一人も居なかった。


 そして、凱延は上機嫌で言葉をつむぐ。


「どれ程の力を持とうが所詮は小娘。これで…………」


 ふと、凱延の動きが止まる。

 周囲の気温は、今なお下がり続けていた。


「これで…………も……」


 キラキラと光を乱反射する細氷が、凱延を取り巻く風の中に混じり出していた。

 気温が氷点下を大きく下回り、空気中の水分が氷晶化することにより起こる“ダイヤモンドダスト”と呼ばれる現象だった。


「これでも殺し切れないと、いうのか……」


 治まりかけた土埃の中から戒閃が姿を現し、凱延の傍らに立つ。


「凱延殿……あの少女、普通じゃありません……」


 戒閃の声は、緊張からか硬く強張っている。

 それは、言われるまでも無い事だった。


「戒閃。――お前はすぐにこの場を離れ、外にいる者達と合流せよ」


「凱延……殿?」


「刻が経ちすぎた。あまり時間をくうと、人間共が兵をとりまとめ反撃に出るだろう」


「ですが――」


 異を唱えようとした戒閃に、厳しい眼光が向けられる。


「あまり配下の者を失う訳にはいかん。お前は急ぎ兵を取りまとめ、サルファ付近まで下がれ」


「なにを言ってるんですか、あの少女はまだ生きてます。ここは二人で――」


「灰塚様の臣である貴族が、二人がかりで人間に対すると言うのか!? そのような真似をすれば、よい物笑いの種だ。灰塚様のご威光に傷がつく」


「あの少女は――あれはもう人間とはいえません! いくら凱延殿と言えど、万が一という事もありえます!」


「たわけがっ!!」


 一喝した凱延の目が厳しさを増す。


「ならば尚更だ。万が一にも、ここで我等二人共が倒れるようなことになれば、外にいる者達はどうなる。誰が灰塚様に事の次第を報告するのだ」


「それは……二人でかかれば万が一などありません!」


 戒閃も強い眼差しで凱延を睨み返す。


「だいたいあなたは、普段配下の者など手駒くらいにしか考えておられないくせに、なんでこんな時に限ってその身を案じるのですかっ!」


「我は魔族の者を手駒などと思った事はない。灰塚様からお預かりしている大切な手勢だ」


「こんな時にまで灰塚様、灰塚様と……あなたはそんなにあの方が恐ろしいのですか!?」


「ああ、恐ろしいな。この世の何よりも怖い」


 臆面もなく告げる凱延に、戒閃も言葉を失う。


「戒閃子爵。お前は今すぐに手勢を取りまとめ、サルファ付近にて待機せよ。我は神殿内の輩を殲滅した後合流する」


 滅多に呼ばれることのない爵位付きでの命令に、戒閃が身を堅くする。


「これはお前の上官である、伯爵位を持つ者としての命令だ。拒否することは許さん」


「ぐっ……」


 戒閃はキッと凱延を睨みつけ、歯ぎしりを立てるほどに強く口を引き結んだ。


「……わかりました。ですが、もしも凱延殿がこんな所で倒れたら、わたしは灰塚様にある事ない事報告します。きっとあの方は大変お怒りになりますよっ!」


「フッ。よかろう、もし我が死ぬような事になったなら、灰塚様にはこう伝えよ」


 酷薄な笑みを浮かべていた凱延の表情が、ふっと和らぐ。


「我は死よりもなお、灰塚様のご不興を怖れていたとな。そして、凱延めは死の間際まで、灰塚様の忠実な下僕であったと伝えよ」


「縁起でもないことを……」


「ハッ! 言い出したのはお前の方だ。――だいたい我が不覚など取るものか。さあ、もう行け。行って少しでも多くの者を取りまとめよ!」


「了解です! 凱延殿に武運をっ」



 目上の者に対する正式な礼をとり、戒閃は崩れた壁の隙間へと走った。





 放射状に亀裂の走る石畳。その中心に立ち尽くす少女は、周囲に散らばる屍と大差がないほどにぼろぼろだった。

 違いがあるとすれば、まだかろうじて命があるという事だけだろう。

 いびつに歪んだ手足。左腕だけではなく、細剣を持つ右の腕も折れ曲がり、砕けた肩からぶらりと垂れ下がっている。もはや上げる事は出来ないであろう右手で、それでも握った細剣だけは離さない。

 みずからの作った血溜まりに着いた足も、左の膝はやはり砕けているらしく、つま先は不自然に横を向き、後ろに引きずられていた。

 おそらく右足も無事ではないのだろうが、かろうじて自力で立っている。


 頭部にべっとりと血で張り付く髪は赤く染まり、もとの肌色が分からないほどに顔面は血まみれだ。その下では、確実に死相が出ている事が容易に推測できた。

 それでも、血の泡を吹いた口許は笑みの形に吊り上がり、真っ赤に充血した眼球は、ギラギラとした異様な精気を帯びている。


 なぜ生きているのか? 誰もがその理不尽さを問いかけたくなるような有様だ。


 即死でなければ気合いで治る。そう豪語していたジャンヌですら、ぺたりと地に腰を着いたまま、あまりの無惨さに言葉も無い。


 武神ダレスの教義。即死でなければ…………今のアルフラは、まさにそういった状態にあった。

 かつて焼失した部位ですら、数日で復元した白蓮の血。普段は自在に扱うことの出来ない強い力を持ったその血が、アルフラの命を繋ごうと、極限にまで活性化していた。


 アルフラが笑う。


「すごい……すごくつよいね。……爵位の魔族……ふふふふふ……」


 とうの爵位の魔族は顔をしかめる。凱延の強さを称賛するアルフラの声からは、彼を害しようとする悪意しか感じとれなかった。

 なんとも言えない不安を呼び起こすアルフラの視線の正体に、不意に凱延は気づいた。


 それは、己が捕食対象として見られることに対する本能的な危機感。

 神族と並び、食物連鎖の頂点に位置する魔族にとっては、決して向けられるはずのないおぞましい視線。


 アルフラが嬉しそうに笑う。


「すごいね。つよいね。うふふふ……」


 凱延のこめかみを、一筋の汗が伝った。

 今にも倒れて死んでしまいそうな少女に、爵位の魔族が気圧されていた。


 一体、どうすればこの少女を殺せるのか? 最早考えることはやめ、己に残された魔力の全てを振り絞る。

 アルフラからも極寒の冷気が立ち上り、凍てつく大気が肌を刺した。

 凱延の頬骨から顎にかけて、ざっくりと裂傷が走る。急激な気温の低下により肌が変成し、凍裂とうれつを起こしたのだ。


 アルフラがとても嬉しそうに笑う。


 真っ赤な眼球が、凱延の顎先から滴る血に釘付けとなっていた。

 朱に染まったアルフラの口が、血の糸を引いてぱっくりと開く。


「く…………」


 凱延は無意識の内に、足を一歩後ろに引いていた。

 血まみれのアルフラは、がくがくと身を震わせ笑い続ける。

 聞く者すべてが耳を塞ぎたくなるような笑い声はやがて哄笑となり……………………不意に途切れる。


 アルフラが右足だけで弾かれたように跳躍した。

 凱延は凝り固めた魔力で迎撃する。なんの変哲もない魔力塊だが、ありったけの力を注ぎ込んだ、とてつもない殺傷力を持った一撃。

 当たりさえすれば、たとえ爵位の魔族ですら耐えることは不可能だろう。


 放たれた魔力塊は一直線に襲い来るアルフラを正確に打ち抜く。――と思われた瞬間、その前面で氷雪を()いて四散した。


 凱延の視界を覆った雪煙からアルフラが飛び出して来る。

 爵位の魔族が、人間の軍を一方的に蹂躙せしめる事を可能とする最大の要因。――人間の力では破ることの出来ない魔力障壁がアルフラを阻んだ。


 すでに細剣を掴んだ右手が動かないアルフラは、みずからの身体ごと障壁に叩きつける。

 赤い眼球がぎょろりと凱延を()めつけ、唇からは血の泡を吹きながらも、ぎちぎちと歯を噛み鳴らせる。

 幽鬼のような凄惨な様相のアルフラ。その瞳は婬欲に濡れ光り、口許にはおぞましいまでの歓喜が張り付いていた。


 遂に、凱延の口からその言葉が洩れる。


「化け物……」


 人外の身に堕ちた、ホスローやカダフィーにすら向けられなかった一言。


「この、化け物めっ――――!!」


 あらゆる物理的、魔法的な力から身を護る障壁が、凍りつき、ひび割れた。

 アルフラが悦びの咆哮を上げ、凱延の喉首に喰らいつく。


「グッ――ガアアァァァ――――――!」



 喉から溢れる断末魔の叫びを、アルフラの顎が噛み殺し――――閉じられた。





 ディース神殿。


 死の神を祀るこの神聖な場は、荘厳な静寂に満たされていた。

 誰一人動くことなく、息遣いさえ殺し、その儀式に魅入っている。


 すべての視線はディース神像の真下に向けられていた。

 アルフラは四人の仲間と二人の人外に見守られ、神に祈りを捧げるように(こうべ)を垂れる。

 アルフラの頭の先には、すでに動くことのない凱延の屍があった。


 周囲に神を賛美する旋律が響く。

 命の残滓を啜りあげる、死神(ししん)ディースを賛美するに相応しい旋律だ。


 皆が青ざめた顔色で、目を背けることも出来ずに立ち尽くしていた。

 一心不乱に爵位の魔族を捕食する少女の姿には、どこか凄惨な清らかさがあった。


 だが、凱延に強い恨みを持っていた瘴気の魔導師も、その恐るべき光景に喜びを感じる事はなかった。

 傍らに立つ、血を吸う鬼ですら眉をひそめた。



 死者の神殿に、いつ果てるとも知れない旋律が、殷々と響き渡る。



挿絵(By みてみん)


イラスト 柴玉様

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