死神の供物(前)
「逃げろッ、アルフラちゃん! そいつらはまずい!!」
シグナムの鋭い叫びが響いた。
二人の魔族と対峙するアルフラは、年かさの男の方が凱延だとあたりを付け、細剣を構える。
だが、凱延とアルフラのちょうど中間に立つ魔族の女からも、凄まじい力を感じていた。
これまで相対したことのないほどの魔力を持った魔族が二人。ただ立っているだけで強い威圧感が肌を刺す。緊張に身がすくみ、細剣を握る手はじっとりと汗ばんでいた。
以前と違い、魔力の流れを気配として感じられるようになっていたことが裏目となっている。
「逃げよ! 我らもこの場を引く」
ホスローからも撤退を命じる声が飛んだ。
それにはジャンヌが反応する。
「ふんっ。臆病者は逃げればいい!」
魔族へ向けるのと同等の敵意をホスローへ向け、ジャンヌは身を硬くするアルフラを叱咤する。
「いくら魔族といっても相手は二人。数の上では互角ですわっ!」
「馬鹿野郎!! 数の問題じゃない! そいつら二人とも爵位の魔族なんだぞ」
すぐさまシグナムが怒声で返す。
その叫びが、逆にアルフラの覚悟を強固なものとした。
爵位の魔族が二人。背を向けて生き延びることが不可能だということは、対峙した瞬間にわかっていた。ならば戦うしかない。そうシンプルに、アルフラの思考は帰結した。
急速に高まるアルフラの戦意を察知したジャンヌが、鉄球を振りかざし手近な女魔族へと走る。彼女はこの期に及んでも、みずからが囮になりアルフラが後ろからばっさり、という作戦を実行しようとしていた。
「戒閃、そちらは任せる。我が魔導師を狩るあいだ、適当に遊んでおれ」
アルフラは戒閃と呼ばれた魔族を迂回し、凱延へと迫る。
「えぇぇ!?」
段取りとは違うアルフラの動きに狼狽しつつも、ジャンヌは鉄球を戒閃へと投げつけた。
横を走り去るアルフラには反応することなく、戒閃はジャンヌを迎え撃つ。
飛来した鉄球に輝く拳が叩きつけられ、神殿内を激しい閃光が駆ける。
ダレス教徒の至宝“脳天かち割り丸”は、拳の一振りにより、白光とともに消失していた。
「あああっ!? わたしの“丸”が――」
手の中に残された鎖を見つめ、ジャンヌが悲痛な声をあげた。
「おやおや、そんなに大切な物だったのですか? だったら投げたりしないで大事にしまっておかないと」
戒閃が笑いを噛み殺しながらジャンヌをからかう。
「どうします? 今度は鎖の方でも投げてみますか?」
「くっ……ぅぅ……」
悔しげに呻いたジャンヌは、脳天かち割りをそっと床に置いた。そして強く握りしめた右の拳を顎先に添えるように構え、右足を軽く後ろに引く。踵はわずかに浮かせ、膝を曲げ腰を落とす。
前に出された左腕は、構えることなく相手を呼び込むかのように垂らされていた。
「ほぅ……なかなか堂に入った構えですね」
「当然ですわっ! 武神ダレスの信徒は拳で語り合います。たとえ素手でも神に敵する者を打ち砕くには充分です」
「武神ダレス……おもしろい。すこし手加減をして遊んであげましょう」
戒閃がにやにやと馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
肩幅に構えた拳からは発していた光が弱まり、無造作に歩を進める。
迎撃に主眼を置いたジャンヌの構えとは真逆。守りといったものを一切考慮していない構えだ。
「どけっ!」
重い鋼の音を響かせ、駆けてきたシグナムがジャンヌの襟首を掴む。そのまま力任せに後ろへと放り投げた。
「素手でどうにかなる相手かよっ」
壁際まで転がされたジャンヌを振り返ることなく、シグナムが大剣を構えた。
戒閃は目の前に立つ巨大な甲冑を見上げ、茫然とした面持ちで尋ねる。
「人間、ですか?」
無言のシグナムに対し、戒閃は感心したような声音でつづける。
「びっくりしました。一瞬、動く大鎧の類いかと思いましたよ」
「たまに……よく言われる」
「ははっ。しかも中身が女性とは……人間の中では名のある戦士なのでしょうね?」
戒閃の拳からは、ふたたび強い白光が溢れ出していた。
「おい、手加減してくれるんじゃなかったのかよ」
「あなたには必要ないでしょう?」
その問いに、シグナムは答える余裕がなかった。戒閃の拳から発する光芒が増すにつれ、物理的な力を持った圧力がひしひしと感じられる。対峙したわずかの時間の内に、全身の毛穴から汗が吹き出していた。
圧倒的な力を持つ爵位の魔族を前にして、敏感な傭兵の嗅覚が最大限の危険を告げる。幾多の戦場を生き抜いたシグナムですら、それまで覚えがないほど間近に死を感じていた。
深く下ろした面頬の中で、目だけを動かしアルフラを探す。すでに凱延は神殿の奥、祭壇付近へと移動し、それを追って行ったアルフラの姿は、亡者の群れに紛れてしまい判別がつかない。
「くそっ! アルフラちゃん頼むっ。引いてくれ。こいつは無理だ!」
切迫したその叫びにいらえはない。
あるのはさらに圧力を増した戒閃からの言葉だった。
「来ないのなら、こちらからゆきますよ」
戒閃が前に出ると同時に、すでに闘争を諦めかけていたシグナムの、戦士としての経験が身体を動かしていた。
踏み出された戒閃の足が地に着く瞬間に合わせ、大剣が振り下ろされた。
避けることは不可能であろう間合いから放たれた一撃は、岩でも打ったかのような痺れを残し、叩きつけたのと同じ勢いで跳ね上げられていた。
魔力障壁により難なく大剣を弾いた戒閃が、流れるような動作でみずかの間合いへ入る。
その輝く拳が振られたのを目にし、シグナムの全身を悪寒が駆け抜けた。大楯を叩きつけざま反射的に後ろへ跳ぶ。
起こるであろう閃光を予測し、瞼を閉じて腕で覆った。
地を転がり、立ち上がったシグナムの左手に残されていたのは、大楯の持ち手の部分だけだった。受けた楯からは衝撃、というより強い力で押されたような感触がした。だが、分厚い鋼の合板は、綺麗に消滅している。
これまで人間相手の戦争で、剣や矢に対して絶大な護りを誇った鋼の防具が、なんの役にも立たないことをシグナムは瞬時に理解した。
「ちょっと待てっ。頼む、待ってくれ」
片手を戒閃へ突き出し、大剣を石床に置いて兜を脱ぎ捨てる。
シグナムは死重量と化した甲冑を手早く外しにかかった。
戒閃はシグナムの意図を察したらしく、興味深げな顔でその様子を眺めている。
「てっきりオーガのような鬼女を想像してたのですけど……これはまた意外です。――あなた達は本当におもしろいですね」
「そいつはどうも。ジャンヌ、こいつを脱ぐの手伝ってくれ」
「あ、はい」
拳を構え、すり足で戒閃との間合いを詰めようとしていたジャンヌが駆け寄る。
武神の信徒らしく、手慣れた手つきで甲冑の止め具を外していく。
「神様の加護でどうにかなるような相手じゃないのは分かるよな?」
「それは……」
シグナム自身も、みずからの手に負える相手ではないことを理解していた。そして、初太刀をやすやすと防がれたことで確信する。
これまで相手にした魔族は、障壁で刃が届かないことがあっても、その衝撃により少なからず痛手を負わすことが出来ていた。
だが、実際に対峙した爵位の魔族は、明らかに格が違い過ぎる。
大剣での渾身の一撃を苦もなく弾かれた時点で、シグナムには打つ手も、勝てる見込みも皆無といえた。
おそらく、戦うよりは逃げた方が生き延びる確率は高い。
戒閃から戦いを楽しむ雰囲気は窺えるが、敵意といったものはあまり感じない。
何かの気まぐれで見逃してくれるといった奇跡も起こり得るかもしれない。だがその場合、凱延の許へ向かったアルフラは、二人の貴族を相手にしなければならないという致死的状況に陥る。
不思議と、シグナムの中で逃げるという考えは選択肢から外されていた。
かつて戦場においては、団員を預かる立場として、より多くを生き残らせるために仲間を切り捨てたこともあった。逆に絶望的な殿を押し付けられたこともある。
戦争という場において、当然の話だ。その事に引け目や恨みはない。
だが今現在、なすすべもないまま、死へと直結する戦いに挑もうとしている。
自分はいつから命を無駄にするような馬鹿者になってしまったのかと自嘲しながら、大切な戦友を救うためジャンヌに囁く。
「しばらくあたしが時間を稼ぐ。いいか、長くは持たない。お前は急いで……」
言いかけたところで、自分以上の大馬鹿が二人揃って駆けて来るのが見えた。
「シグナムさん!」
「……なんで戻った。お前達が来ても、どうにもならないのは分かってるだろ」
神殿から出るように言っておいた二人。フレインだけではなく、爵位の魔族に対してあれだけ怯えていたルゥまで戻って来たのは意外だった。
「すみません。ですが、やはりアルフラさんを残して逃げることなど出来ません!」
「あたしは逃げろとは言ってない。退路を確保しておいてくれと言ったんだ」
たとえ逃げろと言ったとしても、アルフラを見捨てるに等しい行為に、二人は納得しないだろうとシグナムは考えていた。
そのため、退路の確保、という名目を提示したのだ。それでもフレインとルゥは戻って来た。すこし二人を見そこなっていたとシグナムは自省する。
ぷるぷると震える腕で剣を構えたルゥが、さきほどシグナムが言いかけた台詞を口にする。
「ボ、ボクがこいつの相手をするから、お姉ちゃんはアルフラを探して来てっ」
「お願いしますシグナムさん。封印術式が破られた以上、爵位の魔族を倒すことなど不可能です。早くアルフラさんを止めないと――」
そこでフレインは、戒閃が妙な動きをしていることに気がつく。
こちらに注意を払いつつも神殿の奥、凱延がいる方をしきりと気にしていた。
その戒閃が、ふと頭上を見上げる。
同時にフレインも、神殿の上方に集約されつつある、とてつもない魔力を感じた。
「これは……なにかまずいです!」
みしり、と目に見えて神殿の天井が内側にたわんだ。
幾本もの柱に支えられた石材に亀裂が入る。
すぐにシグナムとルゥ、ジャンヌもその硬質な音に気づいた。
「な……天井が――!?」
シグナムの声が響いた時、すでに戒閃は動きだしていていた。
凱延殿、やりすぎです……とひとつぼやき、壁際へと退避する。
そして、凄まじい轟音とともに、堅固な石造りの天井が崩壊した。
アルフラは戒閃を完全に無視し、凱延を目指して走った。
「えぇぇ!?」
後ろからジャンヌの声がするが、すでにアルフラの耳には入らない。
身を低くし、吹き付ける強風に逆らい凱延へと肉薄する。
アルフラに背を向け、神殿の奥へと歩を進める凱延が不意に振り返る。――その腕が振るわれた瞬間、なんらかの攻撃が横合いから来ることが察知出来た。
だが、叩きつけられた高圧の大気は、矢のような点での攻撃ではなく、避けるには困難な面での攻撃。
風にあおられぬよう低く重心を落とし、前傾姿勢を取っていたアルフラが回避行動に移るのは至難の技だった。
凄まじい衝撃を全身に受け、壁際まで弾き飛ばされる。
ほんの数瞬意識がとび、受け身を取ることが出来ず肩口から石畳に叩きつけられてしまう。
体中に痺れが走り、しばらくは痛みすら感じなかった。
だが、息がつまり、呼吸をしようにも肺に空気が入って来ず、強い嘔吐感に苛まれる。
わずかのあいだ意識を失っていたが、細剣はしっかりと右手に握られていた。
立ち上がろうとして軽い脳震盪を起こしていたアルフラの膝が、がくりと折れる。反射的に石畳へ手をつくと左肩に鋭い痛みが走った。
一瞬、肩が外れたのかと思ったが、腕は動くし力も入る。
なんの問題もないと判断し、ふたたびアルフラに背を向けて祭壇を目指す爵位の魔族へ走る。
凱延を取り巻く風は、近づくほどに強さを増し、細剣の間合いに入ることすら多大な労力を要した。
這うような姿勢で前進するアルフラの気配を察した凱延が、歩を止め向き直る。
「ほう、丈夫な小娘だ。肉片にしたつもりだったがな……」
その腕が上がるのを目にし、アルフラは風に逆らうことなく後ろへ跳ぶ。
だが、さきほどと違ったのは、横からではなく正面からの攻撃だったということだ。
アルフラは風に流されながらも空中で身を捻り、直撃だけは避ける。――結果、またも石畳に投げ出されてしまうが、ほとんどダメージはない。
「しぶといな」
不機嫌さを表情に出した凱延が、アルフラの発する異常な殺気と強い魔力に気づき目を細める。
「小娘……お前、人間か?」
無言で立ち上がったアルフラは、膝と腰に強い痛みを覚え、眉をひそめつつも凱延の左手へ回り込むように移動する。
少しづつ間合いを詰めようと考えていたところに、ふたたび横合いから大気の塊が叩きつけられた。
後ろへ下がったアルフラの動きに合わせ、今度は頭上から圧力を感じて横へ跳ぶ。
しかし、凱延のまとう風が瞬時に風向きを変え、襲い掛かる大気の真下へとアルフラを押し戻した。
「あ……ガァッ――!?」
とっさに体を丸め、すこしでも衝撃を減らそうとしたアルフラは、凄まじい勢いで石畳に打ち付けられた。
肺の中の空気が押し出され、苦痛にのたうつアルフラの頭上から、さらに高圧な大気の塊がその身をすり潰そうと打ち降ろされる。
石畳にひびが入り、自分の骨が砕ける嫌な音が体内から聞こえた。
口の中に血の味が広がり、体中から激痛を感じる。
痛みによりまともな思考が働かないまま、アルフラはもがきながらも立ち上がろうとしていた。
そのしぶとさに、凱延が不愉快さをにじませる。
「虫けらがっ。そのまま潰れよ」
三度、質量を持った大気がアルフラの頭上から襲い掛かる。
吐き出すような呼気をあげ、アルフラが動きを止めた。その体から、じわりと石畳に血溜まりが広がる。
だが、倒れ伏しながらも、凱延に向けられた敵意は消えない。
目障りな虫を踏み潰したつもりでいた凱延が、さすがに驚愕の色を浮かべる。
込み上げてくる嘔吐感に身体を痙攣させつつも、強い殺意を宿した鳶色の瞳は、凱延を見据えて離れない。
「お前は一体……」
普通の人間なら、最初の一撃で絶命していただろう。
屈強な鬼族の戦士でも、二回受ければ生きてはいまい。
貴族であろうと、まともに三度食らえばただでは済まないはずだ。
「お前は一体、なんなのだ……?」
驚くべきことに、アルフラは満身創痍の身体で、なおも立ち上がろうとしていた。
「チッ、小娘風情に手間取っている暇はない」
鋭く舌打ちし、凱延はこのとても人間とは思えない少女に確実なとどめを刺すべく、膨大な量の魔力を注ぎ頭上に大気を集中させた。
ほぼ真空と化した負圧の影響で、内側に吸い寄せられた天井が軋みをあげる。
特大の大気と魔力の塊が、アルフラを押し潰そうと叩きつけられた。
さらに、崩壊した天井の一部がその身を埋葬するかのように降り注ぐ。
「フハハハハハッ!! 見たかっ、我が力を!」
凱延はもうもうと舞い上がる埃を風で薙ぎ払い、予想外に手こずらされた少女が瓦礫に埋もれたことを確認する。
瓦礫以前に、みずからの一撃により、すでにアルフラが原形を留めぬ肉塊と化していることを凱延は確信していた。
「これで生きているようならば、もはや人とは…………」
踵を返しかけた凱延の耳に、彼にも覚えのある名をつぶやくアルフラの声が聞こえた。
「……っ…………!?」
無言で気配を探る凱延の顔が厳しいものへと変わった。
すでに春先にも関わらず、周囲を吹き荒れる旋風に、強い寒気が混じる。
神殿内の気温が下がり、凱延は刺すような冷気を感じていた。




