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氷の滅慕  作者: SH
三章 死線
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魔人



 ゆったりと歩を進める凱延が、顎を突き出し空を眺めた。


 上空では放物線を描き飛来する無数の矢が、強風に煽られ互いに打ち合わされていた。がちゃがちゃと小煩こうるさい騒音に、凱延が顔をしかめる。


「なんと愚かなことよ。脆弱な人間共めが、数ばかり無駄に集めおって。そのような物で、我が身に傷の一つも負わせられると思うてか」


 その言葉通り、陽光を遮るほどに放たれた大量の矢は、凱延を取り巻く烈風に遮られ、一本たりとも届くことなく、ばらばらと地に落ちる。


「しかし、数が多いですね。すくなく見積もっても一万五千以上……二万近くは居るのではないですか? やはり途中で時間を無意に過ごしすぎたのですよ」


 前面に展開したレギウス国軍と、街道の左右に配され矢を射かけて来る弓兵たちを戒閃かいせんはぐるりと見回す。


「たわけがっ。奴らが兵をまとめる時間を与えるため、わざと関所を潰してまわったのだ。それとも……」


 凱延がみずからの副官へ目をやり、口角を吊り上げる。


「人間ごときに臆したか?」


「ご冗談を……ですが、配下の者はそうはいかないでしょう。さすがに数が多すぎる」


 凱延に付き従う魔族たちは、いずれも単身で小隊程度の兵士なら造作もなく殲滅出来得(できう)る力を持っていた。だが、さすがにここまで数の差があると、対応することは難しく、みな緊張感を漂わせた固い面持ちで凱延の言葉を待っている。


「ふん、情けない。ならば戒閃、お前が行って少し人間共の数を減らしてきてはどうだ?」


「えー」


 不満げな声を上げた戒閃が、とても嫌そうな顔をする。

 普段はきびきびとした受け答えをする戒閃であったが、ときたま見せる子供っぽい言動は、どこか彼女の従姉である灰塚を彷彿とさせるものがあった。


「わたしでは効率が悪い。凱延殿のように大風を起こせる訳じゃありませんからね。ああいう群がってるのは苦手です」


「ククッ。ならばしょうがない。我自身の手で、人間共を蹂躙してくれよう」


 始めからそのつもりだったくせに、といった表情で戒閃は歩みを止め、派手好きな上官から一歩退(しりぞ)いた。

 凱延を取り巻く風が強さを増していた。レギウス軍の前衛との距離は、すでに配下の者たちが使う魔法の射程圏に入ってる。しかし、凱延の許しが出るまで攻勢に出ようとする者はなかった。


 一歩、凱延が踏み出すたびに、最前列に立った兵士が後ずさる。その後方から、下がるな、かかれい、と隊長らしき者の檄が飛んだ。それでも兵士たちの後退は止まらなかった。

 昨日見た竜巻もさることながら、いま実際にその目で、雨のように降り注がせた矢が一本も届かぬ様を見てしまったのだ。レギウス軍の戦意は、すでに皆無に等しかった。

 数千にも及ぶ矢がまったく役に立たなかったのに、剣で切り掛かってどうにかなるのか? といった疑問もある。だが、兵士たちの後退はそういった疑念や恐怖からのみではなく、凱延から吹き付けてくる凄まじい強風による物理的な圧力のためでもあった。


「フハハハハッ。人間共が脅えておるわ」


 その身にまとった風が激しさを増し、凱延が魔力を解き放つ。


「吹き飛べい!」


 じりじりと後ずさる兵士の頭上から、暴風が吹きおろす。思わぬ方向から圧力を受け、たたらを踏む者、地に倒れ伏す者、膝をつきなんとか堪えようとする者、戦列の中央部が大きく崩れ出した。

 あたりの大気が急激に気圧を増し、大地に叩きつけられた風が上昇気流を生む。その流れに、凱延から吹きつけた烈風が加わり、空気が渦を巻き始めた。

 絶望的な悲鳴があがる。気流の渦に呑まれ、巻き上げられた者たちの喉から絞りだされたものだった。


「ふ……む」


 天高く放り出された十数人ほどの兵士を見上げながら、凱延が首をかしげる。


「どうなさいました?」


「いや、思ったより飛んで行った者の数が少ない。……それに、予想したより上がらなかったな」


 凱延の後方で、戒閃も空を見上げる。

 巻き上げられた兵士らが気流の渦から弾き出され、引力に従い落下し始めていた。ほとんどの者が、すでに意識を失っているらしく、悲鳴を上げているのは数名だった。

 やがて、人が大地に叩きつけられる凄まじい衝撃音と共に土埃が立ち、軽く地面が揺れた。


「ずいぶんと重い鎧を身につけているようですね。凱延殿の風に対抗するための装備なのではないですか? 人間は意外とさかしいですからね」


「なるほど。以前の教訓を活かしておるという事か」


 凱延の周囲を取り囲む兵士たちは、みな恐怖に引き攣った顔をしていたが、背後からかかる部隊長の叫びに押され、じりじりと距離を詰めて来ていた。

 数人の魔族がうろたえた顔を凱延と戒閃に向ける。

 凱延の周囲を包む風の影響下にあれば、矢などからは完全に身を守れるという恩恵もあるが、逆に魔族の者たちも自由に力を振るうことが出来ない。


「人間ごときを相手に怯んだところを見せるでない。心配するな。我が力が、風を操るのみではないことを見せてくれるわっ」


 マントをはためかせた凱延が、勢いよく腕を水平に振る。


 目に見えぬ大気の塊が、横殴りに叩きつけらた。直撃を受けた兵士たちの肉がひしゃげ、血をしぶかせながら弾け飛ぶ。それに巻き込まれて倒れ伏した後列の兵士も、騎乗鎧に匹敵する重さを備えた甲冑を着込んでいるため、立ち上がることが困難な状態だった。

 吹き荒れる突風のために、歩くよりも遅い速度でしか前進することの出来ない兵士たちが、次々と不可視の衝撃に狙い撃たれていく。



 そして、凱延により再び巻き起こされた風の竜が、とぐろを巻いてレギウス軍に襲い掛かった。





 わずか半時(約一時間)足らずの間に、三千人近い将兵が凱延一人のために犠牲となっていた。


 天空からわらわらと降り注ぐ、断末魔の悲鳴をあげる人影を眺め、凱延は上機嫌で高笑いをあげる。


「フーハッハッハッハァ! 見てみよ戒閃、まるで人がゴミの――――」


「凱延殿っ!」


 言わせねーよ、とばかりに、間一髪のところで凱延の言葉を遮った戒閃が、前方を指差す。


「兵を引いているようですね」


 左右両翼に布陣していた部隊は早々と潰走し、かろうじて踏み止まっていた中央主力も撤退を始めていた。


「ふむ……だいぶ散らしはしたが、まだまだ結構な数が残っておったのにな。臆病なことだ」


 侮蔑の表情を浮かべた凱延へ、戒閃が首を振る。


「もともと士気も低かったようですしね。むしろよく踏み止まった方だと思いますよ。――なにしろレギウス教国で凱延殿の名は、魔族の代名詞のように恐れられているらしいですからね」


「むぅ……それは、まずいな……」


 一声唸った凱延へ、戒閃が怪訝そうな目を向ける。


「そうなんですか?」


「当然だ! 考えてもみろ。我の名が、主である灰塚様より恐れられるなど、あってはならんことだっ」


「あー……確かに。あの方に知れたら、あなた生意気よっ! などと難癖をつけられて、嫌がらせの一つも覚悟した方がよいでしょうね」


 意外と特徴を押さえた灰塚の声まねをしてみせた戒閃を見て、凱延は苦い顔をする。



 かつて凱延がレギウス教国を攻めたのには理由があった。なにも気まぐれや暇つぶしのために、街をひとつを滅ぼした訳ではない。





 百二十年前、事の発端は美貌の女魔族との出会いであった。その女の噂は以前より聞いてはいた。北部に居を構える凱延の領地よりも更に北、ほとんど訪れる者のない極寒の地に、白蓮というこの世の者とは思えないほど美しい女が住んでいるという噂を。

 一目で白蓮に魅了されてしまった凱延は、すぐさま彼女に言い寄った。先代の魔王から重用され、隣接する人の王国からも非常に畏れられるみずからの力を語って聞かせ、己の権勢を誇示して見せた。

 だが、信じられないことに、白蓮は貴族である凱延の求愛をあっさりと袖にしたばかりか、レギウス教国には何度か足を延ばしたこともあるが、凱延の名など聞いた事もないと言う。それどころか、人間たちは最近魔王が代替わりしたことすら知らないだろうと言ったのだ。


 凱延は白蓮の拒絶の言葉より、その事実に激怒した。魔族の領域から出てはならないという禁忌のせいで、人間は安寧の中、魔族に対する畏れを失ってしまったのだ。

 魔王の座に新しく着いた主、灰塚のためにも、人間共にその威光を刻みつけねばならないと感じた。

 手始めに、配下のオークに人間の王国を攻めさせた。旺盛な繁殖力を持つオークは、増えすぎる人口のため十数年周期で大規模な飢饉に見舞われる。ならば人間から奪えと命じたのだ。

 時を置くことなく、凱延自身もレギウス教国へ攻め込んだ。灰塚の偉大さを叫び、街を一つ瓦礫の山へと変えた。結果、手傷を負い撤退を余儀なくされ、灰塚からきつく咎められたのだが、その威光は伝わったと思っていた。

 しかし、少々やり過ぎてしまったようだ。人間たちの間では、灰塚の名より、ガルナを一夜にして滅ぼした凱延の名前の方が広く伝わっているらしい。



 あってはならない事だった。





「おい、お前達」


 背後に控えた配下の者へ、凱延が声をかける。


「灰塚様の名を声高こわだかに叫びながら、逃げる兵士を追撃してこい」


「はっ!」


「深追いする必要はないぞ。灰塚様の威光を喧伝する者を、なるべく多く残しておかねばならんからな。殺しすぎてはいかん」


「わたしも行って来ましょうか? だいぶ楽をさせて頂きましたからね。すこし働いてきますよ」


「いや、それには及ばん」


 凱延が首をこきこきと鳴らしながら、みずからの肩を軽く叩く。


「少し疲れた。ガルナの城門に向かう間、我が前に立ち、露払いをいたせ」


「わかりました。連日のように関所を潰していましたからね。さすがにお疲れでしょう」



 すでに、凱延たちの視界に入るレギウス兵もまばらとなり、遠目にはガルナの東大門が見えて来ていた。





 ガルナの西側からやや南に外れた小高い丘の上で、シグナムとフレインが、凱延とレギウス軍との戦いを遠く見やっていた。

 それほど高い丘陵ではないため、戦場の大半はガルナの城壁に隠れて見えない。それでも時たま、上空に舞い上げられる米粒のような人影が目に映り、風に乗った喧騒が届いて来る。


「凄まじいもんだな……」


「ええ」


「もう、あんまり長くは持たないんじゃないか? あんたはこんな所にいていいのかよ?」


「私はぎりぎりまでアルフラさんの様子を見ているように、と(おお)せつかってますからね」


 フレインが視界の端に捉えていたアルフラの方へ顔を向ける。ジャンヌがなにやら熱心に、アルフラとルゥに語って聞かせているようだ。


「以前にもお話しした通り、ギルドは戦いの後、人間の手によるレギウス教国の自治を認めて頂く、という密約が魔王雷鴉との間にあります。たとえ凱延を倒したとしても、アルフラさんが先走り、命を落とすようなことがあれば、その約束を反古にされかねませんからね」


「ふうん……でもさ」


 ちらりとアルフラの方へ目をやったシグナムが、声を落とす。


「その後は、アルフラちゃんを戦わせることもしないで、飼い殺しにするつもりなんだろ?」


「……ええ、ですが私は――」


 やや声の調子が強くなったフレインの導衣をシグナムがつまみ、引っ張った。

 今度は棒を投げて遊び始めたジャンヌやアルフラからすこし距離を取る。

 完全に声が届かないだろうと思える辺りまで移動し、シグナムが真剣な面持ちで話し始めた。


「なあ。あんたんとこの大将はさ、本当にアルフラちゃんをどうにか出来ると思ってるのか?」


「……は?」


 一瞬、なにを言われているか分からず、聞き返したフレインへ向けられるシグナムの眼差しは暗い。


「以前にさ、あたしの知り合いが言ってたんだ。この世で一番怖いのは女の情念だってね」


「はぁ……」


 なんとなく頷いたフレインだったが、やはり何を言われているのか、話の流れが掴めなかった。


「あたしもね、その時は何を言ってるのかピンと来なかったよ。酒の席での馬鹿話だったしね」


「……」


「でもね、最近のアルフラちゃんを見てると思うんだ。まあ、まだ女って感じじゃないし、情念てのもよく分からないけどさ……」


 うっすらとシグナムの言いたいことに察しの着いてきたフレインが、真顔で聴き入る。


「確かにあのホスローって爺さんやカダフィーはとんでもない化け物だよ。その手のことには(うと)いあたしにだって一目で分かったさ」


 さすがに肯定することははばかられ、何ともいえない顔をするフレインに構わずシグナムは話をつづける。


「でもさ、アルフラちゃんの白蓮て人に対する……なんていうんだろ……やっぱり情念か? 執着かな? とにかくそういうのってさ……あたしはホスローの爺さんやカダフィーなんかより、よっぽど恐ろしいと思うよ」


「そう……ですね……」


 苦しげな表情を浮かべたフレインが、きれぎれの声で頷いた。彼自身、アルフラのそういった一面を幾度か垣間見ている。白蓮という女魔族に対し、苛烈なまでに想いを募らせるアルフラを。


「考えてもみなよ。アルフラちゃんを戦わせないってことは、白蓮て人との再会を邪魔するようなもんだろ?」


「はい……」


「アルフラちゃんを一番怒らせる行為だと思わないか?」


「……だからこそ、そうならないように私は…………っ?」


 言いかけたフレインが、きょろきょろと辺りを見回す。


「ん? ――――なっ!?」


 釣られて周囲を見回したシグナムも、すぐにその異変に気づいた。


「ふえ?」


 そこには棒を手にしたルゥが、きょときょとと不思議そうな顔でアルフラとジャンヌを探す姿があった。


「くそっ! やられた!!」



 いつの間にか、丘の上からアルフラとジャンヌだけが居なくなっていた。





 戦いが始まって間もなく、丘の上へ移動したジャンヌは、アルフラとルゥに英雄ガイル・ディアーの話を聞かせていた。


 五百年ほど前に三人の仲間と共に、爵位の魔族を倒したと言われるガイル・ディアーは、ジャンヌが最も尊敬する勇者の一人だ。


「そのガイル・ディアーも、レギウス神の敬謙な信者だったのです」


「ふ~ん」


 それまで、ガイル・ディアーが苦難の末に貴族を倒す話をわくわくした様子で聞いていたアルフラとルゥが、レギウス神の名が出始めた辺りから生返事をするようになっていた。


「でも、ボクがまえに聞いた話では、ガイ・ルディアって名前だったよ」


 あら、とすこし驚いた顔でジャンヌがルゥを見る。


「よくご存知ですね。わたしが持っている本の中でも、当時の書物を忠実に写本したと言われている物の中では、確かにそのような名で記載されていることがあります。それにガイル・ディアーが連れていた仲間は、三人ではなく五人だったとも」


「長老さまのお話では、十人以上で貴族をやっつけたって聞いたよ」


「十人以上? それは初耳ですわ。なにぶん五百年も前の話ですし、いろいろと細かい部分は違った伝わり方をしているようですね」


 二人の会話を上の空で聞きながら、アルフラはぼんやりと戦場の方へと目を向けていた。


「とにかく。ルゥもレギウス神に帰依(きえ)なさい。獣人族は祖霊をまつると聞いていますが、それは未開の蛮族の行いです。真に正しき神はレギウス神族だけなのです。だからルゥも――」


「やだ」


 ルゥはにこにこと満面の笑顔で簡潔に拒否した。


「……ルゥ。人として真っ当に生きていくには、レギウス神教に入信しなければならないのですよ。ダレス神は他の神々に比べればとてもおおらかです。しかし、異教徒を容認出来るほどの慈悲は、いかなダレス神とて持ち合わせてはいません」


「ふ~ん」


「ダレス神はこうおっしゃれています。異教徒には改宗か死を選ばせよ、と」


「ジャンヌのとこの神様は、ろくでもないね」


「まぁ! なんという罰当たりなことを……あぁダレス神よ、どうかこの迷える子狼をお許し下さい」


 ダレス神に祈り始めたジャンヌの胸元へ、ルゥが木の棒をぐいぐいと押し付ける。


「痛いですわっ! なんなんですの!?」


「投げてっ」


「……は?」


 ジャンヌは押し付けられる棒をまじまじと見つめる。


「ボクの一番お気に入りな棒なの。投げてっ」


「……しょうがありませんわね」


 犬を相手に遊ぶ時の要領で、ジャンヌは棒を放ってみた。

 すかさずルゥが駆け出す。とても嬉しそうだ。


「…………」


 アルフラと二人、取り残されてしまったジャンヌの視界の端に、なにやら深刻な顔で話し込むシグナムとフレインが映った。すこし距離を取り、真顔で話す二人の会話は聞こえない。

 ふと、ジャンヌは閃いてしまった。


――今なら誰の注意も向いてない


 ジャンヌは現状を不満に思っていた。

 神官たちの半数ほどは、ガルナの東側へ移動し、布陣しているレギウス軍の後詰めに回されている。ジャンヌも志願したのだが、他の宗派の神官から司祭令嬢を戦場へやることは出来ないと反対されたのだ。

 憧れである貴族殺しのガイル・ディアーと同じ武勲を立てるチャンスであるにも関わらずだ。

 もちろんこの機を逃すつもりはなかった。子供の頃からの夢なのだから。

 その目が、難しい顔で遠い戦場を見つめるアルフラへと向けられる。(かたく)なに一人でも戦うと言い張っていた彼女も誘ってあげようという名案が浮かんだ。シグナムお墨付きの剣士ならば、よい供となるだろう。


「ねぇ、アルフラ」


「……え?」


 考え事をしていたらしいアルフラが、すこし驚いた顔で振り向いた。


「戦場へ、出たいのでしょ?」


「う……ん」


 アルフラは悩んでいた。いま間近に、これまで倒してきた魔族とは比べものにならない力を持った貴族がいる。どれほどの危険が(ともな)おうと、倒すことが出来れば白蓮を取り戻すという目標へ大きく飛躍するはずだ。しかし昨日の、もしも死んでしまえば、白蓮に会うことも出来なくなるというシグナムの言葉が、それまでは無縁だった迷いを芽生えさせていた。

 正直、死ぬのが怖いのかと考えると、アルフラにはよく分からない。怖いとは思うのだが、この先白蓮と会えないことの方がよほど怖い。そんなことになるくらいなら、むしろ死んでしまった方がいいとさえ思える。

 いろいろと考えているうちに、アルフラには何が何だか、どうすればよいのか解らなくなっていた。元来ものを考えること自体苦手なのだ。


 そんなアルフラの迷いを晴らすかのように、ジャンヌが囁きかける。


「いまなら、ほら。シグナム様や魔術師もこちらにまったく注意を払っていませんわ」


 アルフラがジャンヌの視線を追うと、何事かを話し込む二人の姿が目に入った。

 すこし苦手に思っているジャンヌのくまの浮いた目が、問いかけるように覗き込んでくる。二人で貴族を倒しましょう、と。


「はやくしないと市街地にいる魔導師に、先を越されてしまいますわよ」


 そうなれば、凱延の死体は処理されてしまうだろう。こともあろうに、アルフラを魔族から遠ざけようとしているギルドの手によって。


――白蓮は、とおい……


 今まで倒してきた魔族程度の血では、魔皇である戦禍を倒す力を得ることなど不可能だろう。

 貴族にすら勝てないようでは、魔皇に勝てる道理もない。


「白蓮……」


 愛しい人の名が自然と口から漏れ出る。

 いつもは冷たい昂揚感が訪れ、白蓮以外のすべてが無価値となるその名は、なぜか嫌な悪寒をもたらした。

 アルフラは、たちの悪い薬物の常用者が禁断症状を覚えたかのように、その身を震わせた。

 激しい欲求が沸き上がる。


 白蓮に会いたかった。

 冷たい肌に触れたかった。

 細い肢体を抱きしめたかった。


 もう、我慢できなかった。


「凱延の血を……」


「え……?」


 アルフラの震える声を聞き取れなかったジャンヌが顔を寄せる。

 迷いの元となったのも白蓮の存在なら、それを断ち切ったのも、やはり白蓮への想いだった。


「行くわ……でも、ルゥが……」


 お気に入りの棒を握りしめたルゥが、ぱたぱたと駆けて来る。


「任せて」


 ふたたびルゥから棒を受け取ったジャンヌが大きく振りかぶった。


「届け――――ダレス神のもとへっ!」


 その細腕からは想像もつかないほどの膂力(りょりょく)を見せ、放たれた棒は大空の彼方へと消えていった。


「あーっ!」


 あまりの飛距離にあんぐりと口を開け、お気に入りの行方へ見送ったルゥが涙目で走り出す。


「うわ――――ん!!」


「これで問題ありませんわ」


「う、うん。――行こ、凱延を倒しに」


 アルフラの言葉に、ジャンヌが満足げな笑みを漏らした。その顔が、おや? といった感じにかしげられる。

 もう春先だというのに、ジャンヌは妙な寒気を肌に感じた。

 不審に思いながらも、ジャンヌはアルフラと共にこっそりと丘を下りて行く。



 彼女が最も憎む、神に敵する魔族の血を、その身に色濃く宿した少女と共に。

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