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氷の滅慕  作者: SH
三章 死線
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襲来



「おい……なんだ、ありゃあ?」


 ガルナ東部に陣を張っていた兵士たちの間にざわめきが起こった。日が傾き、すでに辺りは薄暗くなってきている。東の空を見上げた者たちの目に映ったのは、一筋の黒い竜巻だった。

 揚々な物を巻き上げ、黒々とした竜がのたうつようにゆっくりとうねるその威容は、兵士たちの動きを止め、唖然とさせるに充分な光景であった。


「なあ、あれって関所がある辺りだよな?」


 城塞都市ガルナから最も近いのは、徒歩半日ほどの距離に位置する関所だ。


「来たんだ……凱延が……」


 一人の兵士の呟きが、恐怖と共に全軍へと伝播し、そこかしこから「凱延が来た」という、呻きにも似た声が上がり始めた。

 レギウス教国の者ならば知らぬ者のないその名は、兵士らの士気を大きく(くじ)いていた。ほとんどの者が、幼少の頃より聞かされてきたのだ。百年二十年前、このガルナを壊滅させた恐るべき魔族の名前を。


「なあ……?」


 兵士の一人が、辺りを見回しながら隣の者に囁く。


「……逃げないか? かなう訳がない。竜巻や嵐を起こしちまうような化け物が相手だぞ。まともに戦ったって死ぬだけだ」


 声を潜めたその言葉に、まだ年若い兵士も青ざめた顔で頷く。


「あ……あぁ。どう考えたって無理だよな。どっかに鎧を捨てて逃げよう」


 レギウス教国の紋章が刻印された胸当てに手をやり、若い兵士が答えた。


 その夜、地方から駆り出された者たちを中心に多くの脱走兵が出た。



 凱延の襲来を間近に控え、レギウス国軍司令部は、浮足立った兵士たちへ敵前逃亡は極刑に処すと布告し、多くの歩哨を立てた。しかし、その者たちの間からも逃げ出す兵士が後を絶たない状況だった。





 東の空に巻き起こった黒い竜は、ガルナの西部に天幕を張っていたアルフラたちにも、高い城壁ごしに見えていた。


「来たようですね。明日には戦いが始まるでしょう」


 すでにギルドの者から凱延の接近を報告されていたフレインは、アルフラに先走らないよう釘を刺すために天幕を訪れていた。


「すごい……あれ、本当に凱延て奴がやってるの?」


「ええ、規模はそれ程大きな物ではありませんが、実際の竜巻と変わらぬ威力があると聞いています」


 目を丸くし、口を開いて空を見上げたアルフラは、ひどくあどけない表情をしていた。フレインはそんな表情もするのだな、といった感想を持って、好ましげにアルフラを見つめる。


「アルフラちゃん。魔族との戦いが始まったら、どさくさに紛れて前線に出るつもりなんだろ?」


「う、うん」


「今回ばかりは諦めよう。相手が悪いよ。あたしはあんなの相手に戦いたくない。どう足掻いたところで勝てる気がしない」


「…………」


 黙り込むアルフラへ、シグナムが優しく諭す。


「ここで死んじまったら、白蓮て人にも会えなくなるんだよ。そんなの嫌だろ?」


「それは……」


 これまで何度かフレインから決して戦いに赴かないように言われ、その全てを聞き流してきたアルフラだったが、実際に爵位の魔族の持つ強大な力を目にし、さすがに逡巡の色を見せていた。


「あたしもガキの頃から魔人凱延の話は聞いてる。どんなに手練の剣士だとしても、人一人の力でどうにか出来る相手じゃないよ」


「シグナム様! なにを弱気なことをおっしゃられているのですか」


 横から割って入って来たジャンヌへ、シグナムがうんざりとした表情をした。そんな彼女にかわり、フレインがやんわりとジャンヌをたしなめる。


「ジャンヌ様。レギウス神教主要神の一柱であるダレス神の司祭令嬢が、供の者も連れず、このような所にいてはまずいですよ」


「魔術士! あなたはお黙りなさい」


 視線を向けられることもなく一喝されてしまったフレインが、口の中で私は魔導士です、と呟く。


「いや、あんたこそ黙っててくれないか。あたしはアルフラちゃんと話してるんだよ」


 初対面の日以来、ジャンヌは事あるごとに天幕を訪れ、魔族と戦った時の話を聞かせてほしいと幼い子供のようにせがんでいた。アルフラたちはそんな神官娘をすこし迷惑に思っているようだ。

 アルフラはあまり人に語って聞かせるということは得意ではないし、シグナムも子供相手に武勇伝をぶつといった趣味はない。なぜか不思議と波長の合うらしいルゥが、かなり尾ヒレをつけた大立ち回りをぺらぺらと喋ったりもしていたのだが、基本的にジャンヌの方がルゥを嫌っているようだ。初対面でのルゥの言動を考えれば、ごく自然なことともいえた。

 それでも、人狼と化したルゥが、魔族をちぎっては投げする話などに目を輝かせて聴き入っていたジャンヌは、中でもシグナムが呉爛ごらんを素手で打ち倒したというくだりに大変な感銘を受けたらしく、お伽話の英雄を見るかのような称賛の目をシグナムへ向けている。


 そのシグナムから黙っていろと一蹴され、肩を落としたジャンヌは、いぢいぢと地面に武神ダレスの聖印を木の枝で落書きし始めた。


 ふっとため息をついたシグナムが、アルフラへの説得を再開する。


「とりあえずさ、貴族なんて化け物はギルドや軍の奴らに任せとこうぜ。やるにしても、戦いの推移を見ながら弱ったとこを狙うのが賢いやり方ってもんだ」


「なにを言ってるのですっ。強大な力を持つ相手は、さらに強い力で捩じ伏せる。それが武神ダレスの教えです」


 ふたたび話に割って入ったジャンヌの首根っこを、シグナムがひょいっとつまみ上げる。


「お前んとこの神様はどうしようもないな。ルゥ、ちょっとこいつで遊んでやってくれ」


 ぽいっ、とルゥの方へジャンヌを放ったシグナムは、さすがにだれた感じのアルフラへ向き直る。


「ガルナの東部には二万近い兵が布陣してるんだ。いくら爵位の魔族でも、全部を倒し切ることは無理だろ。焦ることはないよ。凱延が疲れてきた隙をついて、さっくり殺っちまおうぜ。な?」


「う……ん」


 あまり納得はしていない様子のアルフラへ、今度はフレインが言葉をかける。


「ギルドとしては市街戦を想定してます。大導師様は、布陣しているレギウス軍にはあまり期待はしていません」


「市街戦?」


 アルフラとシグナムが、怪訝な顔でフレインに問う。纏わり付くルゥを引きはがそうと四苦八苦していたジャンヌも動きを止め、その言葉に耳を傾けた。


「ええ、ちょっと言いにくいのですが……」


 ちらりとみずからに目をやったフレインにジャンヌが気づく。


「わたし、ここで見聞きしたことは決して口外しませんわ。ダレス神にも誓えます」


 戦いが始まってしまえば、ギルドの意図する処はすぐに明るみとなる。そして凱延を倒しさえすれば、それを批難する者はおらず、負ければ批難出来る者すらいなくなるだろうとフレインは考えた。


「……わかりました」


 己の信奉する神の名を口にしたジャンヌにかるく頷き、フレインは話を続ける。


「ガルナの外周部に布陣している軍勢は、ある意味捨て駒です。魔族といえど、無尽蔵の魔力を持つ訳ではありません。シグナムさんが考えたように、凱延を疲弊させるために散って貰うのが、兵士たちの役割です」


「それ、ある意味っていうか……完全に捨て駒じゃないか」


 棘のあるシグナムの指摘に、フレインも済まなそうに顔をうつむかせる。


「仕方……ないのですよ。爵位の魔族というのは、そうでもしないと(こう)することさえ出来ない相手なのですから」


「……市街戦ていうのは、どういうことなんだ」


「消耗した凱延をガルナの中に引き込んで、大導師様みずからの手でとどめを刺すそうです。これ以上詳しくは話せないのですが、もしかするとシグナムさんとルゥさんには動員がかかるかも知れません」


「あたしは?」


 名を呼ばれなかったアルフラが不満げな顔をする。


「アルフラさんの待機命令が解かれることはないでしょう。今後魔族との戦いに駆り出されることもないはずです」


「そんな……それは雷鴉って奴のせいなの?」


「はい。そうなりますね」


「その雷鴉って奴に会わせて!」


「それは……さすがに無理ですよ。召喚の儀は導士以上の者でなければ立ち会えません」


「じゃあホスローていうお爺さんにもう一度会わせてっ。あいつがいろいろ決めてるんでしょ!」


「凱延との戦いが終われば、ギルドの方から出頭要請が来るはずです。大導師様もアルフラさんの話を聞きたいとおっしゃられておりましたからね。私もアルフラさんにとって、悪いようにはならないよう尽力します。ですから今回のところは(こら)えてくれませんか」


 アルフラは唇を噛み締め、きつい眼差しを注ぐ。しかし、穏やかに見返すフレインの意思は動かぬようだと見て取ると、ふいと目を逸らし、天幕の方へと歩いていった。

 その背を見送りながら、シグナムがぽつりと呟く。


「ありゃあ絶対に納得してないな……」


「ええ」


「あとでもう一度、無茶をしないよう言っとくよ。あたしもまだ死にたくないし、アルフラちゃんを死なせたくもない」


 言外に、アルフラが無茶をすれば自分も付き合う、と含みを持たせたシグナムの言葉に、フレインは軽い驚愕と強い信頼の表情を浮かべた。

 それまで話の内容がよく分からず、なんとなく会話に入りそびれていたジャンヌが遠慮がちに声をかける。


「あの……シグナム様?」


「なんだ?」


「あくまでも魔族と戦うというアルフラの決意は素晴らしいのですが、あの子はシグナム様のように立派な体格をしている訳ではないですし、ルゥのように獣人族でもないのでしょ? 本当に魔族と戦うことなど出来るのですか?」


「あー……まあ、普通はそう見えるよね。でもアルフラちゃんは強いよ。あたしの知るなかでも、とびきりの剣士さ。神官団の警護っていっても戦いにならないとは限らないし、もしかすると見る機会があるかもね」


 あまり想像がつかない、といった感じでジャンヌが首を捻る。


「そうなのですか? わたしには、気の強いだけの普通の女の子にしか――」


「やい、新入り!」


「し、新入り……?」


 ルゥが珍しく厳しい目でジャンヌをにらむ。


「あんまりアルフラを馬鹿にしちゃだめだぞ」


「そんな、わたしは別に――」


 ルゥは、最近加わった新たな一員に、この群れのしきたりを教え込まねばならい、と考えていた。


「アルフラを怒らせるとほんとにこわいんだからね! へんなこと言ってボクにまでとばっちりが来たら許さないぞっ」


「え? ルゥはアルフラが恐いのですか?」


 司祭の娘である自分に対してすらぞんざいな口をきく、恐いもの知らずなルゥの言葉にジャンヌは興味を示したようだ。


「そりゃそうだよ。こわいときのアルフラは、魔族なんかよりぜんぜんこわいんだからね」


 何かを思い出したように、ルゥはうぶ毛を逆立たせ、ぶるりと身を震わせた。


「ま、そういうことだ。よく分からない内は、アルフラちゃんに対する口のきき方には気をつけたほうがいい。周りにも迷惑になるし実害もある――主にフレインにとってね」


「そう……ですね。私の場合は命の危険すら伴いますので、宜しくお願いします」


「は……はぁ」



 あまり理解は出来ていないようだったが、切実な響きをおびたフレインの懇願こんがんに、ジャンヌも思わずうなずいていた。





 早朝からガルナの東部平原に布陣した軍勢の間を、幾人もの伝令兵が(せわ)しなく行き交っていた。

 次々と凱延接近の報を告げる声が響き渡り、周囲の空気は重苦しさを増してゆく。

 一時は、わずか十日の間に二万に届こうかという兵士が集結していたのだが、一晩の間に千人近い脱走者が出て、軍としての体裁を保つことすら困難なほどに士気が削がれていた。

 それでも、各部隊の隊長は声を張り上げ、将軍みずからも陣中を駆け回り兵士らを鼓舞する。

 前線に立つ者は一様に、機動性を無視した重甲冑を身につけていた。凱延の操る強風に対抗するためだ。


 太陽が中天にかかる前に会敵することが確実であろうと知れた段階で、最前線へ配された兵に、魔術士ギルドから魔力を帯びた剣が支給された。ギルドは所有する数百振りに及ぶ魔剣を惜し気もなく提供しはしたが、戦場に魔術師らしき者の姿は一人もなかった。そのことも、士気の(ふる)わぬ一因といえただろう。


 指揮官であるドルバス将軍は、ホスローから兵士を密集させることなく大きく展開させるように、と助言されていた。凱延が操る風は、その力こそ凄まじいが、戦場全体に効果を及ぼすほど広範囲のものではないため、大きく部隊間の距離を取ることで、いくらかは被害を抑えられるという理由からだ。

 魔族を包囲した後は、凱延本人ではなく付き従う者を優先的に排除するようにして、自軍の損耗が激しくなるようなら、ある程度のところで軍を引くようにとも言われていた。


 ドルバスも、自身が率いる軍勢は捨て駒として使われるのだろうと、薄々ながら察しはついていた。憤りはあったが、ユリウス六世から直々に、対魔族に関しての軍令権を与えられたホスローには従わなければならない。しかし昨日(さくじつ)見た竜巻、凱延の恐るべき力をの当たりにしてからは、それも仕方のないことだと割りきっていた。

 百二十年前に、かつてのガルナを一夜にして滅ぼしたと伝えられる爵位の魔族は、伝説にたがわぬ力をドルバスの目に焼き付けたのだ。


――もしも、あのような化け物がガルナを抜け王都に達したら……


 その想像はドルバスにぞっとするような恐怖をもたらした。

 現在王都には、国教騎士団本隊やカルザス公の手勢が防備を固め、レギウス西部からも多くの領主が兵を引き連れ馳せ参じている。だが、自然災害にも匹敵する力を振るう魔族を相手に、王都を守り抜くことが出来るとは思えなかった。

 凱延が首都であるカルザスを攻めれば、最悪の場合、国家として立ち行かなくなるほどの被害をこうむる可能性が高い。

 たとえ、ガルナを守る兵二万の軍勢が犠牲になったとしても、凱延を撃退することが出来るなら、(いた)し方ないだろう。


 自分達の役割は、城壁の内に篭って何事かを画策している魔術士ギルド――彼らのために凱延を疲弊させる、もしくは時間稼ぎ、おそらくはその両方だろうとドルバスは予想している。

 ギルドの策が、どういったものなのかはドルバスも知らされていない。以前にこのガルナでも魔族の斥候がうろついていた事をかんがみれば、情報統制のためには当然ことだと軍人である彼は考えていた。


「ドルバス将軍!」


 駆けて来た伝令兵が、切迫した様子でひざまずく。その表情は硬く強張っていた。


「来たか……」


 それまで、そよとも動きのなかった戦場の空気に、風の流れが出来ていた。

 陣中深くで東の空を見上げるドルバスの目にも、巻き起こった砂塵が、ゆっくりと近づいて来ているのが見てとれた。


 二万と百。普通に考えれば戦いにすらならない数の差である。しかし、相手は爵位の魔族。どれ程の兵力差があったところで、(ひる)むことなど有りはしない。


「百名ほどの魔族が、こちらの陣容を視認出来る距離にまで近づいておりますが、その歩調を緩めることなく前進して来ます!」


「だろうな……いまさら使者を()てても無駄だろう。戦闘準備だ」


 ドルバスの命に従い、二人の副官が伝令兵に指示を飛ばす。ほどなくして急設された無数の物見矢倉から、途切れることなく警鐘が打ち鳴らされ始めた。

 周囲はにわかに騒然となった。剣を抜き放つ鞘鳴り、鎧の擦れる金属音。指示を出す叫び、ときの声を上げる者。様々な音が幾重(いくえ)にも重なり、生きた戦場が形作られていく。



 そしてもう間もなく、惜し気もなく命を撒き散らす戦いが始まろうとしていた。

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