進化する怪物
皇城の謁見の間へと呼び出された灰塚は、ひざまづくことなく玉座の戦禍へと視線を向けていた。すでに人払いがなされており、室内には二人きりだ。
戦禍はとくに臣下の礼を強要するでもなく、淡々とした口調で語る。
「諸王は皇城へ馳せ参じよ、との勅令を出してからおよそ三ヶ月。一向に登城の意思を見せない東部の王達に対し、そろそろ手を打とうかと考えています。――力を貸して貰えますか?」
「お命じくださればやぶさかではございません。が、戦禍さまは、東部との戦を始めるおつもりですか?」
灰塚は注意深く戦禍の表情をうかがう。しかし、その柔和な面持ちからは、なんら思惑は読み取れない。
「今回はなるべく穏便に事を済ませたい。いまだ登城せぬ三人の王達へ、使者といった形で出向いて欲しいのです」
灰塚は、主君である戦禍の前だということも憚らず、あからさまに顔をしかめた。
「誤解しないで下さい。あなたに使い走りをさせる積もりはありませんよ? 三人の王にはそれぞれに使者を立て、その内の一人としてお願いしたいのです」
「……後の二人は?」
「私と雷鴉を予定してます」
「――っ!? それは……」
「場合によっては、力ずくで私に対する恭順の意を示させて頂きたい」
戦禍の唇にうすい笑みが浮かんだ。
「それだけの力を持った者ではないと、任せられない仕事です。あなたなら――可能ですよね?」
灰塚の目に満足げな光が浮かぶ。
相手の居城へ単身赴き、魔王を屈服させてこい、と言われているのだ。戦いになったとしても、配下の貴族連中であれば何人束になろうと、ものの数ではない。しかし、敵地の真っ只中で魔王と戦うという事は、かなりの困難を伴うだろう。それを命じるということは、戦禍が灰塚の力を信頼しているという、意思のあらわれでもある。
「もちろんですわ。しかし……雷鴉を使うのは危険ではありませんか?」
「あなたの危惧はわかりますよ。雷鴉が私を毛嫌いしているのは、周知の事実ですからね」
愉快そうに笑う戦禍へ、灰塚がなんともいえない表情を浮かべる。
「雷鴉がいろいろな方面へ手を回していることは、私も聞き及んでいます。あなたの所へも、足しげく顔を出しているそうですね」
「そこまでご存知ならば、あえて言わせていただきますが――おそらく、雷鴉は東部の王とも繋がっていると思いますわ」
黒曜石の一枚岩から切り出した玉座に、ゆったりと腰掛けた戦禍が、先を促すように灰塚を見つめる。
「まずは身の回りでちょろちょろと策謀を巡らす奸臣を、どうにかした方がよろしいのでは? それを見過ごすどころか、雷鴉を伴って東部に足を延ばせば――」
「私が足元をすくわれる、と?」
「……そうは言いませんが――先代の魔皇は、やはり亜人種共へ宣戦を布告しようとした折、配下の魔王に裏切られて命を落とした、と聞き及んでいます」
それは灰塚が生まれる以前の話。ここ数百年の間、魔王達を統べるほど卓越した力の持ち主は存在しなかった。戦禍は五百年ぶりに誕生した皇帝であった。
「もちろん雷鴉の方には、それなりの対処を講じるつもりです。ただ、その前にあなたの考えが聞きたいと思い、他の者に先立ってお話ししたのですよ」
「それは光栄なこととは思いますが……」
「それとも、もし私が雷鴉を含めた東部の王達に謀られたとして、そうやすやすと敗北を喫すとお考えですか?」
「……いえ」
「大丈夫です。後日、改めて雷鴉も交えて話をしましょう」
「わかりました」
軽く息をついた戦禍が、笑みの混じった視線を灰塚へ向ける。
「しかし……妻を娶るのならば、確かにあなたのような女性がよいのかも知れませんね」
「は……?」
あまりの話の変わりように、灰塚は一瞬なにを言われているのか理解出来なかった。
「あの人の見る目もなかなか……」
その呟きで、やっと灰塚も思い当たる。以前に白蓮が、戦禍の妃として灰塚を薦めたという話を。
「灰塚。あなたはとても聡明だ。そのうえ妃として迎えれば、北部の王達の支持も強固なものとなるでしょう。各方面の王達からも一目置かれているようですしね。考えてみれば、これ以上の縁組はないかもと思えてくる」
突然の美辞麗句に、灰塚は緩みかかる頬を苦心して引き締める。
「あ、あら。戦禍様もなかなか見る目がありますわね。でも、そういった政略のみに主眼を置いた求婚は好まれませんわよ」
戦禍が苦笑する。
「はは、求婚というほど大袈裟なものでもないのですけどね」
「そんなことだから、いつまでたってもお姉さまがなびかないのだと思いますわ」
「いや、まあ……魔王達の中でも、付き合いの長いあなたにだから言いますがね。あの人が私の想い人だというのは、ただの噂ですよ。その方がなにかと都合がよいので、あえて否定をしないだけです」
「そう……なのですの?」
あれほどの美貌を誇る白蓮を、欲さぬ男など存在するのだろうか? といった懐疑的な目が戦禍へ向けられる。
だいぶ“お姉さま”に傾倒してしまっている灰塚には、信じられない話だった。
「まあ、今のはここだけの話にしておいてください。他言無用ということで」
「わかりました……あら、いけない。だいぶ時間を過ごしてしまったわ。そろそろおいとま願ってもよろしいかしら?」
戦禍の苦笑が深まる。
「ええ、あらかた話も終わりました。どうぞ退室なさって下さい」
軽く会釈をし、いそいそとお姉さまのご機嫌伺いへと向かう灰塚であった。
雷鴉がここ数日ご無沙汰な魅月の居室を訪れると、扉を隔てた室内から「んしょっ、んしょっ」と、らしからぬ妙な声が聞こえてきた。
思わず案内をする魅月の使用人へ、目を向けてしまう。
「…………」
使用人は、どうぞお入りください、といった感じで黙礼する。
顔をしかめながらも、雷鴉はうすく扉を開いてみた。
葡萄酒の樽らしき物に、ぐるぐると縄を巻き付けている魅月の姿が飛び込んでくる。
魔王が荷造りをしていた。
「…………」
無言で扉を閉めそうになったが、かるく眉根を揉みつつ魅月へ声をかける。
「おい……なにを、やってる?」
「ああ、雷鴉。ごめんなさいねぇ。これからちょっとお出かけするの。あなたは明日にでも出直してね」
荷造りを終えた魅月が、上機嫌で雷鴉を追い返そうとしていた。そして荷造りを終えた樽を、ひょいっと抱え上げる。
どうやら樽が大きすぎて腕が廻らないため、縄を巻き付けて持ち手を作っていたようだ。
「いや、それより白蓮の方はどうなったんだよ?」
雷鴉と魅月が白蓮の部屋を訪れたのは、すでに四日ほど前のことだった。
かなり気難しげな白蓮と会話が続かず、雷鴉は魅月一人を残し、先に退室したのだ。その夜、魅月がみずからの部屋へ戻ることはなかった。
おそらく上手くやっているのだろうと思っていたのだが、その後いっこうに音沙汰がない。不思議に思い、何度か足を運んだのだが、何故か部屋を空けていることが多く、なかなか会えないでいた。
「ふふふ。なんの問題もないわよぉ」
「別にお前の心配はしてない。ただ、やり過ぎて白蓮をミイラみたいにしてないかと思ってな……て、なんかお前やせてないか?」
いつもは蛇のようにつやつやとした魅月の肌に、あまり張りがない。
「あらぁ、水分には気をつけてたんだけど……それよりどいてくれないかしら。通れないわ」
扉の前に立った雷鴉を押し退けるようにして、魅月が部屋を出る。
「そんなもん担いでどこ行くんだ?」
「お姉さまの所よぉ。あなたは明日の昼にでも、また訪ねてきてね」
一抱えほどもある酒樽を担いだ魅月が、うきうきとした軽い足どりで歩いて行く。
いつも冷静で、なかなか腹の読めない魅月のその態度に、雷鴉は思わず唖然としてしまう。
我に返ったときには、部屋に取り残されてしまっていた。
ふたたび使用人へと目を向けてしまう。
「…………」
私にもわかりかねます、といった感じの黙礼が返された。
「いや……お姉さまって…………??」
雷鴉の知らぬところで、彼には理解不能な世界が繰り広げられていた。
げんなりとしたウルスラが、かるく目頭を押さえる。
白蓮の居室の入口。彼女の前には二人の魔王が立っていた。
魔王とはとても恐ろしい存在だ。かつて神族をこの地上から一掃し、天界と呼ばれる異世界へ引きこもらせた、魔族の頂点に位置する者達である。
独特な価値観を持つ者も多いが、その気になれば亜人種の王国を滅ぼすこともたやすい力の持ち主。
――のはずだよね?
灰塚と魅月を見ていると、魔王に対する畏敬の念に疑問符がついてしまう。
「早くお姉さまに取り次ぎなさいよ」
真っ赤なドレスを着た灰塚が言った。大きく開かれた胸元に、特大のバスケットを抱えている。
甘いお菓子のよい匂いと、フローラルな香水の香りが漂ってくる。
華やかな舞踏会へ行くのか、近場にちょろっとハイキングへ出かけるのか、微妙に解りにくいいで立ちだ。
「早くしなさいよ、おチビちゃん。さっさとしないと、いぢめちゃうわよぉ」
下着のような、きわどい衣をまとった魅月が言った。黒地に銀糸の刺繍をあしらった生地は、肌が透けそうなほどに薄い。
まるで踊り子のごとき扇情的なよそおいの背には、なぜか特大の酒樽が担がれている。
ここまでくると、どういった感想を持てばよいのかすらウルスラにはお手上げだった。
――意味がわかりません
しかし魔王を相手に門前払いできる器量の持ち合わせもない。
「少々お待ち下さいませ」
ウルスラの顔はだいぶ引き攣っていた。内心が表情に出まくりだ。ぺこりと頭を下げるだけの動作に、かなりの気力を必要とした。
「騒がしいわね」
ウルスラが来客を告げるために扉へと向き直った時、白蓮みずからが内側から扉を開いた。
やや不機嫌そうな目線が、灰塚と魅月の間を往復する。
「あなた達ときたら毎日のように……魔王というのはそれほど暇なものなの?」
「ごめんなさいお姉さまぁ。――おチビちゃんがもたもたしてるからいけないのよ」
白蓮へ愛想笑いを浮かべた魅月が、ちゃっかりとウルスラのせいにしようとする。
しかし、予想外の所からフォローが入った。
「でもウルスラは、主思いのなかなかいい子だわ。高城が皇城を離れてから、お姉さまがふさぎ込みがちだと心配してたのよ」
思わぬ灰塚の助け船に、ウルスラが目を白黒させる。
「え、えーと、あたしは白蓮さまがここのところ元気がなかったから……」
「ウルスラ」
白蓮から冷ややかな視線が送られる。
「は、はいっ」
「私がいない所での無駄口はやめなさい」
「も、申し訳ありません!」
涙目になってしまったウルスラを庇うように、灰塚が口を開く。
「ウルスラはお姉さまが一人きりの時、物思いに沈みこんでしまうのが心配なのよね? だから私に話したのでしょ?」
「はい、そうなんです。あたし、つらそうな白蓮さまを見ていられなくて」
ウルスラへ向けられた白蓮の表情はあまり変わらなかったが、その冷たさはいくぶん和らいでいた。
「……いいわ。とりあえず入りなさい」
もしかすると灰塚は、とても優しい魔王なのではないかとウルスラは思った。
――いままで意地悪で派手な服を着て、変な奇声を発する魔王だと思っててごめんなさいっ!
内心で、ずいぶんと失礼な独白混じりの謝罪を行ったウルスラであったが、実際のところは、灰塚の機嫌がとても良かったというだけの話である。単なる気まぐれともいえた。
さきほど戦禍から褒めちぎられたのが原因で、今の灰塚は誰にでも優しくなれる高みにまで心が舞い上がっていた。
白蓮の居室では、卓上に色とりどりのお菓子が並べられ、南部の上質な葡萄酒での酒宴が開かれていた。
ウルスラも席に座り、葡萄酒の注がれたゴブレットにちびちびと口をつけていた。その向かいの席で、灰塚が木苺のタルトをかじりながら尋ねる。
「たしか魅月は、子供が生まれてからニ、三年しか経ってないのよね? 毎晩のようにお姉さまの部屋に入り浸っていて平気なの?」
日課である白蓮との夜会に加わった新参者を、すこし邪魔に感じているらしい。
「子は南部に置いてきてますし、ちゃんと乳母もいますからぁ」
「じゃあ雷鴉とはどうなってるのよ? こんなとこでお姉さまに色目を使ってていいわけ?」
「雷鴉とはそういう関係じゃありませんわぁ」
「……そういう関係だから子供が生まれたんでしょ」
遠回しに牽制してくる灰塚へ、魅月がちくりと反撃をする。
「灰塚様ともあろうお方が、そんなやり方でライバルを蹴落とそうとするなんて……幻滅ですわぁ」
「……ぬ」
「それに雷鴉とは、本当にそういうのじゃありませんわ。彼って中央の盟主でしょ? だからその子供が欲しかっただけですものぉ。本当に愛しているのはお姉さまだけですわ」
不意に放たれた愛の言葉と熱い視線は、完全に黙殺される。
白蓮は興味なさげにゴブレットを傾けていた。
「……そんな明け透けと世継ぎだけが目当て、みたいなこと言ってて平気なの?」
呆れたような灰塚の眼差しが魅月へ向けられる。
「そんなの雷鴉だって承知してるし、彼だってあたしを上手く使ってやろう、くらいのことは考えてますわぁ」
「なるほど……ね。あなた達、なかなかお似合いだわ」
妙に納得した様子の灰塚へ、魅月が微笑みかける。
ウルスラにとって、灰塚と魅月がそういった軽口を叩けるほどに親しげだということが、とても意外だった。
北部と南部では距離も離れているし、あまり接点がないように思える。ウルスラはその疑問を素直に口へのぼらせてみた。
「あたしと灰塚様はぁ、遠縁の親戚なのよ」
「とは言っても、本当に遠縁だし、今まで数回ほどしか会ったこともなかったのだけどね」
「あらぁ、でもあたしは、年若い頃から魔王の座についていらした灰塚様を、尊敬してましたわ」
「だったら気を利かせて今日は帰りなさいよ。たまには私とお姉さまの二人きりにさせてちょうだい」
「あら。それとこれとは話が別ですわぁ。こういう事は、性々堂々と寝台の上で勝負を付けましょう」
妖艶に微笑んだ魅月へ、白蓮からとんでもない爆弾が投下される。
「そういえば夢魔の一族って、みな魅月みたいに汁っぽいのかしら?」
「っ――!?」
白蓮にしてみれば、疑問に思っていた事をたまたま思い出したので、本人に聞いてみただけだった。しかし、思わぬ所から不意打ちを受けた魅月は絶句してしまう。
それを見た灰塚が、くすくす笑いながらも炎上しかけている場の空気を、ウルスラへと延焼させる。
「そういえばウルスラが言ってたわね。近ごろ敷布を替えるのが大変だって。――だれかさんがぐっしょりにするせいで」
「はわわっ! あたしそんなこと――」
「おチビちゃんにはぁ、後でたっぷりとお仕置きが必要なようね……」
ねっとりとした視線がウルスラに絡みつく。かなりのピンチだ。ウルスラも魅月の実力はよく知っている。
雷鴉と魅月が初めて白蓮の部屋を訪れた晩のことを、ウルスラは思い出した。
寝台の上で悶絶し、痙攣を繰り返す二つ躯。――あまりにも凄惨な結末を迎えてしまった、あの闘いの記憶を――。
その日もウルスラは、性懲りもなく扉の隙間からのぞき見をしていた。
不思議なことに、メイドという仕事に着いてからというもの、ウルスラののぞき見スキルは急速に向上していた。
ウルスラは見た!
それはまさに、超越者達の戦い。絶技の応酬。血、ならぬ体液が飛び散る修羅の戦場だった。
ウルスラ程度の実力ではとても目が追いつかず、もしその暴風のごとき間合いに立ち入ろうものなら、数瞬の内に逝き果ててしまっただろう。
白蓮と魅月。どちらもが道を極めし達人だ。攻防一体となった秘技を駆使する両者の実力は拮抗していた。
ウルスラごときには、その微細な動きを見せる指や舌が、どれほど効果的に相手の急所を捉えているのかすら想像の域を出ない。
片や、天性とも言える技前で勝利を積み重ねてきた氷の女王。
対するは、神技の域にまで踏みこんでしまった夢魔の女王。
両者一歩も退かぬ均衡が崩れ出したのは、朝日も差し込む明け方頃のことだった。
それは必然であったのかもしれない。
極限にまで高められた魅月の技量。そして非凡ながらもおのが才覚だけで戦場を翔けぬけてきた白蓮。
その戦いの中で、白蓮は魅月の動きをすこしづつ盗んでいた。みずからの体を的にして、受けた技術のかぎりをその身に刻み、独自の技量へと昇華させていたのだ。
そして一気に形勢は傾く。
たがいに敗北を知らぬ者同士の一戦。崩れ始めると一瞬だった。
白蓮の放った渾身の一撃が、正確に魅月の芯を捕える。
大量の体液をほとばしらせた魅月は、断末魔の絶叫を長く響かせながら、ついに倒れ臥した。小刻みに痙攣を繰り返す彼女はすでに虫の息だった。
熾烈を窮めた戦いに終止符が打たれた時、ウルスラは感動のあまり思わず飛び出していた。
「白蓮さま! おめでとうございますっ」
大粒の涙を浮かべたウルスラが、一夜をかけて決着をつけた勝者を祝う。自分がのぞき見していたことなど、すっかり忘れていた。
そして粗相のばれた黒エルフの王女は、魅月を沈めた臨戦状態の白蓮にやっつけられてしまった。




