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氷の滅慕  作者: SH
三章 死線
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月に吠える



 地に片膝をついたフレインは、忙しく頭を働かせていた。


 相対する魔族、可砕かさいはだいぶ疲弊しているようだった。肩からの出血は止まっているが、決して浅い傷ではない。そして度重なる魔法の行使による疲れも見える。明らかに石槍を生成する間隔が開いていた。


 だが、それはフレインとて同じことだ。

 みずからの現状を考えれば、これ以上の抗戦にはなんら意味がない。

 人間の扱う魔術をほぼ無効化してしまう魔族を向こうにまわし、自分一人で勝利することは不可能に近いだろう。

 動ける内に撤退を選ぶのが、最も合理的な状況だ。


 だが……


――逃げる?


 まだ森の中で戦っているであろうアルフラや、目の前で折り重なるように倒れているシグナムとルゥを残して……


――逃げるのか?


 フレインはあっさりと、その選択肢を破棄した。

 逃げることなど出来るはずもない。

 以前の彼ならば、生きて帰るという最大の任務を優先し、仲間を見捨てる事にためらいなどしなかっただろう。


 フレインは思う。


 可憐で、気が強く、時に激烈な感情をかいま見せる少女を想う。

 いまだ森の中で戦っているであろう彼女を見捨て、逃げるなど出来るはずもない。

 それにシグナムとルゥも、まだ死んだとは限らない。


 凄まじい頑強さを見せた女戦士と、強い生命力を持つ獣人族の少女なのだ。まだ希望はある。


 なんとか二人を助けて、彼の恋した、あの月の精のような愛らしい少女を助けに行こう。そうフレインは考えた。


 そこで、なにかもやもやとした物が、フレインの思考のすみに湧いて出る。


 妙に生温かい風が吹いた。


――獣人族……月…………?


 分厚い雲が流れ、赤みを帯びた月が周囲を照らす。


 強い魔力の流れを感じた。


「…………?」


 その源、ルゥの方へと目を向ける。


「な――!?」


 可砕からも驚愕の声が響いた。


 蒼白い月の光をその身に受け、ルゥの背からしゅうしゅうと紫煙が立ち上っている。


 瀕死の状態にも見えるその体がかすかに動いた。――いや。正確には、(うご)めいた、というべきだろうか。

 まるで皮膚の下を無数の虫が這いずり回るかのように、表皮の内部が――肉が、蠢動(しゅんどう)していた。

 めきり、めきり、と不気味な音が連続して響く。関節がぎちぎちと軋み、骨格は歪み、筋肉が膨れ上がる。


 ふさふさとした体毛に覆われたルゥが、むくりと身を起こした時、すでにその頭部は人のそれではなかった。


 呉欄にすら匹敵する体躯を持った人狼が、背を反らし胸を突き出した。

 ぎっちりとした筋肉の束が、四本の石槍を押し出す。

 血に塗れた石槍が抜け落ち、肉が盛り上がった傷口は、すでに塞がりかかっていた。


「グレーター……ワーウルフだと!?」


 可砕が呻くように言った。


 魔導士であるフレインも、グレーターワーウルフについての知識はあった。

 白い体毛を持つ人狼の上位種。驚異的な身体能力と再生力、そして強い魔力を合わせ持った恐るべき怪物だ。

 ルゥが人狼の一族だということは聞いていたが、そこまでの稀少種であるとは想像もしていなかった。


「くっ……厄介な相手ではあるが――」


 言いかけた可砕が、はっと息を呑む。

 フレインと可砕、そして人狼と化したルゥが、ほぼ同時に天を仰ぐ。


 可砕の表情が引き攣り、ルゥは口を裂くように開き、笑んだ。


 真円の月が中天に瞬いていた。


 月齢十五日。その日は満月だったのだ。


 煌々(こうこう)とした月光を全身に浴びたルゥの周囲に、膨大な量の魔力が満ちていた。


 一歩、二歩と可砕が後退る。


 月を仰いだルゥが、白い体毛を逆立たせ、濡れたような深紅の瞳を輝かせた。

 ずらりと列んだ鋭い牙を覗かせ、その喉から魂を削る咆哮が響き渡る。



 ルオォォォォ――――――――ン!!



 大気がびりびりと震える。

 召喚された恐怖の精霊が、可砕とフレインの心臓を鷲掴んだ。


「クッ、オオォォォ――――――」


 その呪縛に抗おうと、可砕はありったけの魔力を振り絞った。

 全身を小刻みに痙攣させる可砕へ、ルゥが駆ける。

 苦し紛れに放たれた石槍を、ルゥが腕の一振りで薙ぎ払った。その内の数本はルゥの身体に突き立ったが、分厚い筋肉が押し戻し、すぐに傷が塞がる。

 人狼の力が最も増す満月の夜は、再生というより復元に近いほどの治癒能力がある。その強い不死性は、同じ夜の眷属である吸血鬼にすら匹敵する。


 鋼をも引き裂く人狼の爪が鈍く光った。

 見開かれた可砕の瞳にその光景が映し出された時には、逃れ得ぬ間合いと速度とが、確実な死の訪れを約束していた。



 ルオォォォォ――――――――ン!!



 ふたたびルゥが、高らかな咆哮を放った。みずからの勝利を誇る雄叫びだ。



 地に落ちた可砕の首は、ちょうどルゥの方へと表面を向けてた。しかしその瞳は、すでに何も映し出してはいなかった。





「ルゥ……さん?」


 呆然としたフレインが問いかける。


「お姉ちゃんの手当してっ! 早く!!」


 シグナムを覗き込むルゥに(うなが)され、フレインも慌てて駆けよる。

 うつぶせに倒れたシグナムは、意識こそ無いものの、緩やかな呼吸を繰り返していた。

 吐血していたことを考えれば、臓器に損傷を受けている可能性が高い。呼吸に乱れは見られないので肺ではない。おそらく食道か胃に近い部位に、折れた肋骨などが傷を付けたのだろうと推測された。


「無理に動かさい方がよいでしょう。急いで待機させている神官を呼んで来てもらえますか」


「わかったっ」


 その場を離れようとしたルゥの目に、こちらへと走って来るアルフラの姿が見えた。


「ルゥ! もぅ終わったの?」


 人狼化したルゥの咆哮を耳にしたアルフラが、食事を後回しにして様子を見に来たのだ。

 しかし、その姿はシグナムにも劣らず酷いものだった。身体の中心、首から股間へかけて一文字に革鎧が切り裂かれ、口許から下は大量の血で真っ赤に染め上げられている。


「アルフラ! だ、だいじょぶなのっ!?」


 ルゥの驚愕の声に、アルフラが微笑む。


「ふふ、大丈夫よ。あたしの血じゃないから。魔族なら二人とも殺してきたわ」


 満腹したチェシャ猫のような後を引く笑みが、アルフラの口の端に浮かんだ。


「そ、そう……なんだ。こっちも二人倒したよ」


 極寒の冷気を感じ、ぶるりとルゥが身震いした。ぴんと立っていた耳が垂れ、ふさふさのしっぽが丸まる。


「そう、ルゥも怪我は――――シグナムさん!?」


 ぐったりと倒れて動かないシグナムに気づき、アルフラが悲鳴のような声を響かせた。


「大丈夫です。出血は止まっていますし命に別状はありません。かなり血を失っていて体温が低下していますので、ルゥさんに神官を呼んで来て貰おうとしていたところです」


「ルゥ! なにしてるの。早く行って!!」


 やや理不尽なアルフラからの叱責を受け、しょんぼり顔のルゥが駆け出す。


「アルフラさん。そう心配なさらなくても大丈夫ですよ。しばらくの間、体温を維持させるくらいなら私にも出来ますから」


 フレインはシグナムの首筋に手を当て、その触れた箇所からは淡い光がもれ出ていた。


「そ、そう。……ルゥには悪いことしちゃったわね。あとで謝っとかなくちゃ」


 だいぶ焦っていたらしいアルフラが、ほぅと息をつく。


「あのぉ……アルフラさん、怪我のほうは……?」


 フレインの遠慮がちな視線がアルフラへ向けられている。

 裂けた鎧が左右に開き、アルフラの胸元から、かなり際どい下腹部までの素肌が外気にさらされていた。


「ちょっと! へんな目で見ないでよねっ」


「す、すいません!」


 慌てたアルフラが外套で身体をくるむ。きつい目付きで睨みつけ、向けられる視線を撃退することも忘れない。

 本人に自覚はないが、いやらしい、と感じたフレインの視線は、アルフラが白蓮の体を見る時の目と、よくよく似かよっていた。


「え……と。シグナムさんのことは私に任せて、神官達が来るまで休んでいて下さい」


「え、うん。そうね……」


 とりあえず自分に出来ることはないらしい、と感じたアルフラがすこし考える。


「あたしもちょっと行って来るわ。まだ途中だったし」


「途中? 魔族は倒したのではなかったのですか?」


「うん。そっちは片付いたんだけど、ね……」


「…………」


 何事かを察したらしいフレインが、べったり血の付着したアルフラの口許をまじまじと見つめる。


「あ、あはは。そういうことだから……ちょっと行ってくるね」



 まるで、つまみ食いがばれたことを恥じらう乙女のように、アルフラは艶やかに微笑む。そしてくるりと背を向けると、ふたたび森の中へと走って行った。





 魔族の領域北部、凱延(がいえん)伯爵の居城。


 謁見の間で片膝をついた高城は、目の前に立つ凱延に苦笑していた。


 いったい灰塚が、どのような使者を立て、高城のことをどう伝えたのかは分からない。だが、いたって手厚い歓待を受けていた。

 それは、一介の使用人にしか過ぎない高城を相手に、伯爵位を持つ領主である凱延が、一段高くなった玉座を降り、同じ高さに目線を合わせて来ていることからもうかがる。


「では、諜報の任に秀でた者を四名ほどお貸しする、といった具合でよろしいでしょうか?」


 そろそろ初老の域に達しようかという、高城よりやや若いくらいの凱延が、腹を探るような目を向けてくる。その顔立ちは痩せていて、非常に神経質そうに見えた。


「はい。それで充分です」


 高城が軽く(こうべ)を垂れ、謝意を表す。

 先に紅武城を訪れ、五名の手勢を借り受けているので、人手としては事足りると考えた。


「それで……灰塚様から何か言伝(ことづて)のようなものはございませんか?」


「いえ、特には」


「おお、そうですかそうですか。高城殿、こたびは我が助力を頼って頂き、とても感謝している。どうか灰塚様にもよろしくお伝えください」


 ほっとした表情の凱延が上機嫌に笑う。いまにも揉み手をしそうな勢いだ。

 さらに何事かを言い募ろうとした凱延が、口を開きかけたとき、ぶしつけに扉を叩く音が響いた。


「何事だ! 来客中だぞッ」


 一転して高圧な物言いが、凱延の口から飛び出した。


「はっ、申し訳ございません。なれど火急の使者が参っておりますれば」


「ええい、後に――」


「凱延殿。私のことなら気になさらず、使者をお通し下さい。よほど急ぎの用件なのでしょう」


「し、しかし……」


 躊躇(ちゅうちょ)の色を見せた凱延であったが、うながすような高城の目に押され、入室の許しを出す。

 室内に通された小柄な魔族の男が、謁見の間の中程まで進み出てひざまづいた。


「客人の前だ、手短にな」


「はっ。サルファ近郊で、斥候の任についていた者からの報告です」


「おお、呉爛からの知らせか」


「いえ、それが……」


「ん? どうした、さっさと話せ」


「はい。その呉爛殿なのですが……数日前からその消息が掴めないそうです。また、定時連絡のほうも完全に途絶えているとの知らせを受けました」


「な――――!」


 思わず、といった感じで凱延が身を乗り出す。


「呉爛殿を含む四名は、ガルナ周辺にまで捜索の足を延ばしていたらしいのですが――」


「待て!」


 使者の言葉を制した凱延が、高城の顔をうかがう。


「高城殿。これは身内の話になりますので、申し訳ないが席を――」


「いえいえ、お気になさらず。私がここで見聞きしたことは、誰にも他言いたしませんよ」


「そ、それは……」


「もちろん、灰塚様にもです」


 親しげな表情を浮かべた高城が、ためらう凱延に言葉を被せた。


「……わかりました」


 とても誠実そうな高城の顔をまじまじと見つめ、凱延がうなずく。高城は己の外見や表情が、どうやれば最も効果的に見せられるのかを知り尽くしていた。


「報告を続けよ」


「はっ。呉爛殿が消息を絶つ前後、魔術師達が常ならぬ動きをしていたとの知らせがあります」


「まさか……人間ごときに呉爛が討たれるなどといった事もあるまいが……」


 いらいらとした様子の凱延が目線で先をうながした。


「さらに時を同じくして、北方に住む獣人族のものらしき遠吠えが、ガルナにごく近い方角から聞こえて来たとのことです。なんらかの関係性があるのではないかと推測されます」


「獣人族?」


 声を上げたのは高城だった。

 凱延のもとで人手を増やした後は、まず獣人族の地を訪れ、アルフラの行方を追う足掛かりにしようと考えていたのだ。

 雪原の西に広がる森林地帯をもテリトリーとする彼らならば、アルフラとフェルマーがどの辺りから南下したのか、見知っている可能性があると高城は踏んでいた。


「使者殿。よろしけれその話、もう少し詳しくはお教えいただけないでしょうか?」



 凱延がうなずくのを見た使者が、己の知りうる事柄を細かに語り出した。

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