月に吠える
地に片膝をついたフレインは、忙しく頭を働かせていた。
相対する魔族、可砕はだいぶ疲弊しているようだった。肩からの出血は止まっているが、決して浅い傷ではない。そして度重なる魔法の行使による疲れも見える。明らかに石槍を生成する間隔が開いていた。
だが、それはフレインとて同じことだ。
みずからの現状を考えれば、これ以上の抗戦にはなんら意味がない。
人間の扱う魔術をほぼ無効化してしまう魔族を向こうにまわし、自分一人で勝利することは不可能に近いだろう。
動ける内に撤退を選ぶのが、最も合理的な状況だ。
だが……
――逃げる?
まだ森の中で戦っているであろうアルフラや、目の前で折り重なるように倒れているシグナムとルゥを残して……
――逃げるのか?
フレインはあっさりと、その選択肢を破棄した。
逃げることなど出来るはずもない。
以前の彼ならば、生きて帰るという最大の任務を優先し、仲間を見捨てる事にためらいなどしなかっただろう。
フレインは思う。
可憐で、気が強く、時に激烈な感情をかいま見せる少女を想う。
いまだ森の中で戦っているであろう彼女を見捨て、逃げるなど出来るはずもない。
それにシグナムとルゥも、まだ死んだとは限らない。
凄まじい頑強さを見せた女戦士と、強い生命力を持つ獣人族の少女なのだ。まだ希望はある。
なんとか二人を助けて、彼の恋した、あの月の精のような愛らしい少女を助けに行こう。そうフレインは考えた。
そこで、なにかもやもやとした物が、フレインの思考のすみに湧いて出る。
妙に生温かい風が吹いた。
――獣人族……月…………?
分厚い雲が流れ、赤みを帯びた月が周囲を照らす。
強い魔力の流れを感じた。
「…………?」
その源、ルゥの方へと目を向ける。
「な――!?」
可砕からも驚愕の声が響いた。
蒼白い月の光をその身に受け、ルゥの背からしゅうしゅうと紫煙が立ち上っている。
瀕死の状態にも見えるその体がかすかに動いた。――いや。正確には、蠢めいた、というべきだろうか。
まるで皮膚の下を無数の虫が這いずり回るかのように、表皮の内部が――肉が、蠢動していた。
めきり、めきり、と不気味な音が連続して響く。関節がぎちぎちと軋み、骨格は歪み、筋肉が膨れ上がる。
ふさふさとした体毛に覆われたルゥが、むくりと身を起こした時、すでにその頭部は人のそれではなかった。
呉欄にすら匹敵する体躯を持った人狼が、背を反らし胸を突き出した。
ぎっちりとした筋肉の束が、四本の石槍を押し出す。
血に塗れた石槍が抜け落ち、肉が盛り上がった傷口は、すでに塞がりかかっていた。
「グレーター……ワーウルフだと!?」
可砕が呻くように言った。
魔導士であるフレインも、グレーターワーウルフについての知識はあった。
白い体毛を持つ人狼の上位種。驚異的な身体能力と再生力、そして強い魔力を合わせ持った恐るべき怪物だ。
ルゥが人狼の一族だということは聞いていたが、そこまでの稀少種であるとは想像もしていなかった。
「くっ……厄介な相手ではあるが――」
言いかけた可砕が、はっと息を呑む。
フレインと可砕、そして人狼と化したルゥが、ほぼ同時に天を仰ぐ。
可砕の表情が引き攣り、ルゥは口を裂くように開き、笑んだ。
真円の月が中天に瞬いていた。
月齢十五日。その日は満月だったのだ。
煌々(こうこう)とした月光を全身に浴びたルゥの周囲に、膨大な量の魔力が満ちていた。
一歩、二歩と可砕が後退る。
月を仰いだルゥが、白い体毛を逆立たせ、濡れたような深紅の瞳を輝かせた。
ずらりと列んだ鋭い牙を覗かせ、その喉から魂を削る咆哮が響き渡る。
ルオォォォォ――――――――ン!!
大気がびりびりと震える。
召喚された恐怖の精霊が、可砕とフレインの心臓を鷲掴んだ。
「クッ、オオォォォ――――――」
その呪縛に抗おうと、可砕はありったけの魔力を振り絞った。
全身を小刻みに痙攣させる可砕へ、ルゥが駆ける。
苦し紛れに放たれた石槍を、ルゥが腕の一振りで薙ぎ払った。その内の数本はルゥの身体に突き立ったが、分厚い筋肉が押し戻し、すぐに傷が塞がる。
人狼の力が最も増す満月の夜は、再生というより復元に近いほどの治癒能力がある。その強い不死性は、同じ夜の眷属である吸血鬼にすら匹敵する。
鋼をも引き裂く人狼の爪が鈍く光った。
見開かれた可砕の瞳にその光景が映し出された時には、逃れ得ぬ間合いと速度とが、確実な死の訪れを約束していた。
ルオォォォォ――――――――ン!!
ふたたびルゥが、高らかな咆哮を放った。みずからの勝利を誇る雄叫びだ。
地に落ちた可砕の首は、ちょうどルゥの方へと表面を向けてた。しかしその瞳は、すでに何も映し出してはいなかった。
「ルゥ……さん?」
呆然としたフレインが問いかける。
「お姉ちゃんの手当してっ! 早く!!」
シグナムを覗き込むルゥに促され、フレインも慌てて駆けよる。
うつぶせに倒れたシグナムは、意識こそ無いものの、緩やかな呼吸を繰り返していた。
吐血していたことを考えれば、臓器に損傷を受けている可能性が高い。呼吸に乱れは見られないので肺ではない。おそらく食道か胃に近い部位に、折れた肋骨などが傷を付けたのだろうと推測された。
「無理に動かさい方がよいでしょう。急いで待機させている神官を呼んで来てもらえますか」
「わかったっ」
その場を離れようとしたルゥの目に、こちらへと走って来るアルフラの姿が見えた。
「ルゥ! もぅ終わったの?」
人狼化したルゥの咆哮を耳にしたアルフラが、食事を後回しにして様子を見に来たのだ。
しかし、その姿はシグナムにも劣らず酷いものだった。身体の中心、首から股間へかけて一文字に革鎧が切り裂かれ、口許から下は大量の血で真っ赤に染め上げられている。
「アルフラ! だ、だいじょぶなのっ!?」
ルゥの驚愕の声に、アルフラが微笑む。
「ふふ、大丈夫よ。あたしの血じゃないから。魔族なら二人とも殺してきたわ」
満腹したチェシャ猫のような後を引く笑みが、アルフラの口の端に浮かんだ。
「そ、そう……なんだ。こっちも二人倒したよ」
極寒の冷気を感じ、ぶるりとルゥが身震いした。ぴんと立っていた耳が垂れ、ふさふさのしっぽが丸まる。
「そう、ルゥも怪我は――――シグナムさん!?」
ぐったりと倒れて動かないシグナムに気づき、アルフラが悲鳴のような声を響かせた。
「大丈夫です。出血は止まっていますし命に別状はありません。かなり血を失っていて体温が低下していますので、ルゥさんに神官を呼んで来て貰おうとしていたところです」
「ルゥ! なにしてるの。早く行って!!」
やや理不尽なアルフラからの叱責を受け、しょんぼり顔のルゥが駆け出す。
「アルフラさん。そう心配なさらなくても大丈夫ですよ。しばらくの間、体温を維持させるくらいなら私にも出来ますから」
フレインはシグナムの首筋に手を当て、その触れた箇所からは淡い光がもれ出ていた。
「そ、そう。……ルゥには悪いことしちゃったわね。あとで謝っとかなくちゃ」
だいぶ焦っていたらしいアルフラが、ほぅと息をつく。
「あのぉ……アルフラさん、怪我のほうは……?」
フレインの遠慮がちな視線がアルフラへ向けられている。
裂けた鎧が左右に開き、アルフラの胸元から、かなり際どい下腹部までの素肌が外気にさらされていた。
「ちょっと! へんな目で見ないでよねっ」
「す、すいません!」
慌てたアルフラが外套で身体をくるむ。きつい目付きで睨みつけ、向けられる視線を撃退することも忘れない。
本人に自覚はないが、いやらしい、と感じたフレインの視線は、アルフラが白蓮の体を見る時の目と、よくよく似かよっていた。
「え……と。シグナムさんのことは私に任せて、神官達が来るまで休んでいて下さい」
「え、うん。そうね……」
とりあえず自分に出来ることはないらしい、と感じたアルフラがすこし考える。
「あたしもちょっと行って来るわ。まだ途中だったし」
「途中? 魔族は倒したのではなかったのですか?」
「うん。そっちは片付いたんだけど、ね……」
「…………」
何事かを察したらしいフレインが、べったり血の付着したアルフラの口許をまじまじと見つめる。
「あ、あはは。そういうことだから……ちょっと行ってくるね」
まるで、つまみ食いがばれたことを恥じらう乙女のように、アルフラは艶やかに微笑む。そしてくるりと背を向けると、ふたたび森の中へと走って行った。
魔族の領域北部、凱延伯爵の居城。
謁見の間で片膝をついた高城は、目の前に立つ凱延に苦笑していた。
いったい灰塚が、どのような使者を立て、高城のことをどう伝えたのかは分からない。だが、いたって手厚い歓待を受けていた。
それは、一介の使用人にしか過ぎない高城を相手に、伯爵位を持つ領主である凱延が、一段高くなった玉座を降り、同じ高さに目線を合わせて来ていることからもうかがる。
「では、諜報の任に秀でた者を四名ほどお貸しする、といった具合でよろしいでしょうか?」
そろそろ初老の域に達しようかという、高城よりやや若いくらいの凱延が、腹を探るような目を向けてくる。その顔立ちは痩せていて、非常に神経質そうに見えた。
「はい。それで充分です」
高城が軽く頭を垂れ、謝意を表す。
先に紅武城を訪れ、五名の手勢を借り受けているので、人手としては事足りると考えた。
「それで……灰塚様から何か言伝のようなものはございませんか?」
「いえ、特には」
「おお、そうですかそうですか。高城殿、こたびは我が助力を頼って頂き、とても感謝している。どうか灰塚様にもよろしくお伝えください」
ほっとした表情の凱延が上機嫌に笑う。いまにも揉み手をしそうな勢いだ。
さらに何事かを言い募ろうとした凱延が、口を開きかけたとき、ぶしつけに扉を叩く音が響いた。
「何事だ! 来客中だぞッ」
一転して高圧な物言いが、凱延の口から飛び出した。
「はっ、申し訳ございません。なれど火急の使者が参っておりますれば」
「ええい、後に――」
「凱延殿。私のことなら気になさらず、使者をお通し下さい。よほど急ぎの用件なのでしょう」
「し、しかし……」
躊躇の色を見せた凱延であったが、うながすような高城の目に押され、入室の許しを出す。
室内に通された小柄な魔族の男が、謁見の間の中程まで進み出てひざまづいた。
「客人の前だ、手短にな」
「はっ。サルファ近郊で、斥候の任についていた者からの報告です」
「おお、呉爛からの知らせか」
「いえ、それが……」
「ん? どうした、さっさと話せ」
「はい。その呉爛殿なのですが……数日前からその消息が掴めないそうです。また、定時連絡のほうも完全に途絶えているとの知らせを受けました」
「な――――!」
思わず、といった感じで凱延が身を乗り出す。
「呉爛殿を含む四名は、ガルナ周辺にまで捜索の足を延ばしていたらしいのですが――」
「待て!」
使者の言葉を制した凱延が、高城の顔をうかがう。
「高城殿。これは身内の話になりますので、申し訳ないが席を――」
「いえいえ、お気になさらず。私がここで見聞きしたことは、誰にも他言いたしませんよ」
「そ、それは……」
「もちろん、灰塚様にもです」
親しげな表情を浮かべた高城が、ためらう凱延に言葉を被せた。
「……わかりました」
とても誠実そうな高城の顔をまじまじと見つめ、凱延がうなずく。高城は己の外見や表情が、どうやれば最も効果的に見せられるのかを知り尽くしていた。
「報告を続けよ」
「はっ。呉爛殿が消息を絶つ前後、魔術師達が常ならぬ動きをしていたとの知らせがあります」
「まさか……人間ごときに呉爛が討たれるなどといった事もあるまいが……」
いらいらとした様子の凱延が目線で先をうながした。
「さらに時を同じくして、北方に住む獣人族のものらしき遠吠えが、ガルナにごく近い方角から聞こえて来たとのことです。なんらかの関係性があるのではないかと推測されます」
「獣人族?」
声を上げたのは高城だった。
凱延のもとで人手を増やした後は、まず獣人族の地を訪れ、アルフラの行方を追う足掛かりにしようと考えていたのだ。
雪原の西に広がる森林地帯をもテリトリーとする彼らならば、アルフラとフェルマーがどの辺りから南下したのか、見知っている可能性があると高城は踏んでいた。
「使者殿。よろしけれその話、もう少し詳しくはお教えいただけないでしょうか?」
凱延がうなずくのを見た使者が、己の知りうる事柄を細かに語り出した。




