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氷の滅慕  作者: SH
三章 死線
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月の涙



 宿舎で寝泊まりするようになって一週間ほどがたっていた。

 アルフラがそろそろ就寝の仕度(したく)をしようとしていた頃、とても不穏当な発言がなされた。


「……みたいだ」


 シグナムが呻くようにつぶやいた。


「え――?」


 アルフラとルゥは、己の耳を疑った。


「なん……ですって……」


「また胸がでかくなったみたいだ」


 げんなりとしたシグナムが、でかくなったらしいそれを、かるく上下に揺すっていた。

 信じられぬ言葉と光景だった。アルフラとルゥの表情に、恐怖が色濃く浮かび上がる。


 世の中の不条理さに蹂躙され、うちひしがれた様子の二人。見かねたシグナムがすかさずフォローを入れる。


「あ、いや……気のせいかもしれない。ただ、ルゥと出逢った頃から、すこし胸に違和感があってさ……」


 アルフラには思い当たるふしがあった。

 ルゥの寝言と、シグナムのうなされる声は、宿舎に来てからも毎晩つづいていたのだ。


「なんか気になってたんだよ。そしたらすこしでかくなったような気がしてさ」


――まさか……


 そう、アルフラは以前に聞いたことがあったのだ。


 胸は揉めば大きくなる、のだと。


 いくどか白蓮で試したこともあった。しかし効果は確認できなかったため、迷信の類いだと思っていたのだ。


――もしかして……正解は、吸う……?


 アルフラの畏怖にまみれた視線が、ルゥのぽってりとした唇に向く。


「ふえ?」


 妙な圧力を感じたルゥが、アルフラを怪訝な顔で見つめる。


「ねぇ、あたし今日は真ん中で寝たい」


――試してみなければならないわね。ぜひともこの身で



 アルフラは不敵な笑みを浮かべ、平らかな胸を期待にふるわせた。





 深夜。すやすやとした寝息が両側から聞こえてくる。


 むくりと身を起こすアルフラ。気配を殺しつつルゥ上に屈み込む。

 寝巻きがわりのブラウスを、おもむろに胸元までたくし上げた。

 狼少女の唇に、その先端をよせてみる。


 なにやら気配を察したらしいルゥが、くるりと背を向けてしまった。


「な――っ」


 しかしアルフラは、めげることなく寝台から降りる。ルゥの側へ回りこみ、今度は(じか)に押しあててみた。


「ん……んぅぅ……」


 ルゥは嫌そうに身をよじっている。


――くっ……シグナムさんには毎晩してるくせに、あたしのじゃ嫌だってゆうの!?


 アルフラの顔に、挫折感がただよってきた。


――あたしとシグナムさんのどこが違うってゆうのよっ?


 たぶん大きさである。


「…………」


 アルフラは憎々しげな表情でルゥの両頬をつまむ。そしてひっぱった。


「あぅ~、あぅ~」


 かなり伸びた。


 いやいやをするようにルゥの顔が振られた。その手がアルフラの指に絡まる。

 思わず頬をはなしたアルフラの指を、ルゥがそのまま口に含んでしまった。


「あっ」


 口の中で、ルゥの舌先がちろちろと指を舐めあげる。

 おどろいたアルフラが指を抜こうとする。しかし、ルゥは凄まじいまでの吸引力を見せ、なかなか指が抜けない。狼少女の唇から脱出することは、とても困難だ。


 その吸引力だけで、頭を浮かせてアルフラの指に付いてくるルゥの顔を片手で押さえる。さらに捻りをくわえながら、なんとか指を引き抜いた。


 ちゅぽんっ!


 小気味よい音が鳴る。なんとか生還を果たしたアルフラの指は、よだれでべとべとだ。


「はっ――!?」


 ルゥの唇が薄くひらかれ、物欲しげにぱくぱくしていた。


――いまなら……いける。――――勝機っ!


 手加減なしに、ぐいぐい押しつけた。

 ルゥの鼻がひくひくと動く。


 犬科の動物が見慣れない物体を前にし、食べることが出来るかを判別する時のしぐさだ。


 ふんふん…………


「フンっ!!」


 小鼻にしわを寄せたルゥ。どうやら“不可”だったらしい。

 まるで、食べられない物の匂いをかいでしまった野良犬のように、鼻を鳴らして寝返りをうってしまった。


「はうっ……」


 敗北感と屈辱にたえかねたアルフラが、ぐらりとよろめいた。背が壁にあたり、崩れ落ちまいとするように身を預ける。


 平静さをとり戻すため、鎧戸を開き、冷たい外気を浴びてみた。


 きれいな月夜の晩だった。澄んだ空気とほのかな月明かりが、アルフラを青白く照らしだす。

 溢れる涙が零れ落ちぬよう、星空を見上げた。



 仲間だと思っていたルゥの拒絶は、アルフラのささやかな胸の内を、ざっくりとえぐっていた。





 フレインはごくごく幼少の頃から、将来を有望視される魔術士であった。十代半ばにして基礎魔法学を修め、現在では二十四という若さで、導士にまで登りつめた。


 ひたすら魔術理論の習得に打ちこんできた彼は、これまであまり女性と接する機会がなかった。

 そんな彼にとってアルフラたちとの出会いは、いろいろな意味で衝撃的なものだった。


 その夜、宿舎の鎧戸が開かれる瞬間を目撃したのは、ほんの偶然である。


「ッ――――!?」


 なぜかブラウスをたくし上げ、美しい胸元をはだけさせたアルフラが、戸口から姿をあらわした。

 思わず上体をのけ反らせて硬直したフレインは、必死で目を逸らそうとした。しかし、魅入られたかのように視線が外せない。


 胸から、ではない。憂いを秘めたアルフラの、可憐な横顔からだ。


 一目見たときから、美しい少女だとは思っていた。愛らしい外見とはそぐわないほどの怜悧(れいり)な魔力を漂わせる少女。それでもその純真さは、損なわれることなく感じられた。

 旅を共にし、やや特殊な性癖があることには気づいていた。ホスローの言動から、アルフラが見た目通りの少女でないことも悟っていた。


 だが、夜空を見上げ、大きな瞳をきらきらと輝かせる憂いた雰囲気の少女は、フレインが初めて目にするものだった。

 月明かりに煌めく柔らかな色合いの瞳から、大粒の涙が流れる。月の雫のごときそれが、はだけられたなだらかな胸元にこぼれ落ちた。


 フレインはその幻想的な光景を、直視してしまう。女性に免疫のない彼にとって、それは必殺の一撃となった。



 ライトニング・ストライク



 自分の中の遠いどこかで、何かが打ち抜かれたような音が聞こえた。


 微動だにしないアルフラを見つめたまま、刺すような激痛を胸に感じてフレインはよろめく。

 それでも目が離せない。彼は一目で心奪われてしまったのだ。

 周囲には嘆きの精霊が満ちていた。哀惜にむせぶアルフラ。いったいどれほどの悲しみをその心に負っているのだろう。


 月明かりの中、儚さと憂いに(いだ)かれた少女を、フレインはただただじっと見つめていた。



 傷心中のアルフラは本人の知らぬ間に、純情な青年の初恋を墜していた。





 魔術士ギルドの地下。大導師ホスローの居室に、カダフィーが訪れていた。


「サルファ近郊で魔族の斥候がうろちょろしてるそうね?」


「ああ、フレイン達に殺された二人の間者を探しているのだろう」


 相変わらず、喉にこもった不気味な声でホスローが答える。しかしその口調は、他の者たちに聞かせる老人然としたものではなく、彼本来のものだった。


「奴らが人員を小出しにしている内は、確実にその数を減らしておきたい」


「私が行ってこようか?」


「いや、フレインとあの三人に任せようと思っている」


「あの三人? フレインが連れてきた娘たちかい?」


「そうだ。彼女らはここ数日、驚くべき濃度のカンタレラを飲み干している。どれほどの成果をあげられるのか試してみたい」


 目深におろされたフードの奥から、楽しげな笑いがもれ聞こえた。

 上機嫌な大導師へ、カダフィーも妖艶な笑みで返す。


「まあ、フレインとあの娘たちなら、きっと上手くやってくれるでしょうね」


「ああ、そうすれば次はいよいよ……」


「あの化け物が……」


「そうだ。一夜にしてガルナを滅ぼした魔人。凱延(がいえん)みずからが出向いてくるはずだ」


 かつて、凱延により滅ぼされた王都の衛星都市ガルナ。現在では再建され、周囲を城壁でかためているため、城塞都市とも呼ばれている。


「百二十年……」


「そう。百二十年だ」


「その時のためだけに、備えて来たわ」


 カダフィーの腕が、ホスローの背に回される。導衣から立ちこめる濃密な瘴気がまとわつくことも気にせず、その胸に顔を埋める。


「心に決めていた。つぎにまみえた時は、必ず貴奴(きやつ)めを地獄へ叩き落とすとな」


「私もよ」


「ヴァレリーとお前の仇を討とう」


 ホスローはかつて愛した――妻だった女の妹を、優しく抱き返した。人ならざるその身から、湧きたつ妖気が絡みつくことも気にせずに。


「ええ、姉さんと私の仇を討つわ」


 百二十年前の戦役で致命傷を負い、人間であることを辞めた女魔導士。その代償として手に入れた強大な魔力。ただただ凱延を殺すことのみを欲して、今まで力を蓄えて来たのだ。


「それを確実たらしめるためにも、いま一度召喚の儀を()り行い、魔王殿の助力を乞わねばなるまい」


「ええ。でも、気をつけて。契約があるとは言っても、やはり魔族は信用ならないわ」


「わかっている。だが、互いの利害が一致している内は、それほど心配することはない」


「そうね……あなたを信じてるわ。ホスロー」


 カダフィーの手がフードの中に差し入れられ、愛おしげにホスローの頬へ添えられる。彼女の薄く開いた朱色の口元からは、鋭い犬歯が覗いていた。


 大導師から溢れるおどろおどろしい瘴気と、血を啜る鬼へと身を堕とした女から発せられる妖気が絡み逢う。



 まがまがしく澱んだ魔力に満たされた室内。

 常人ならば身体に異常をきたすほどの惨状のなかで、二人の人外はいつ果てるともなく、長い口づけを交わした。





 冷たい光沢をはなつ黒磁石につつまれた薄暗い控えの間。

 高城は片膝をつき、サテン地の布で区切られた隣室を見つめていた。

 魔族の領域中北部。高城の雇い主が住家としている地下の一室である。


「で、そっちの様子はどんな感じなの?」


 問いかけてきた声は、白蓮よりいくらか年下であろうかと想像のつく、ごく若い男のものだった。

 高城はなにか変わったことがあれば白蓮の様子を報告しにくるよう命じられていた。

 彼はみずからの雇い主がどういった人物なのか、ほとんど聞かされていない。ただ、白蓮のみならず、戦禍とも面識があるらしいということは知っていた。


「奥様は変わりなくお過ごしです。ただ、古城で別れた人間の娘の行く末に、いまでも心を悩まされているご様子」


「ああ、我が子のように可愛がってたとかいう?」


「はい」


「あの白蓮が、ねぇ……」


 信じられないな、とつぶやく声は、どこか軽薄な響きがした。


 高城から隣室の様子は、一切うかがい知ることが出来ない。彼はこれまで一度も、その姿を見たことがなかった。かろうじて隣室からは二人の気配を感じるものの、もう一人は声すら聞いたことがなかった。


「人間達との戦争も、まだ時間がかかりそうな感じなのかな?」


「はい。東部四王のうち、三人までもが勅令に背き、かたくなに登城を拒んでいるらしいです。下手をすると、まずそちらで戦端が開かれる可能性もあるかと」


「はぁ……なんで魔族ってこんなに纏まりがないんだろ。やっぱ我が強すぎるんだよなぁ」


 軽いため息のあと、ごくごくと何かを嚥下する音が聞こえてきた。


「んー、他にはなんかある?」


「はい。実は奥様から、先に話しました人間の娘の安否を確認して来るように、と申しつけられております」


「そうなんだ。人間の領域だよな?」


「はい。しばしの間お暇をいただき、奥様の側から離れることを許可していただきに参りました」


「よっぽどその娘のことが気に入ってるんだなぁ……じゃあついでにさ、人間達の神殿関連をちょっと探ってきてくれないかな?」


「かしこまりました」


 意外とあっさり許可が出たことに、高城はほっとする。いくぶん軽薄な感じのする雇い主だが、そういった気質は嫌いではなかった。

 だが、その物腰や口調の軽さからは、悪くいえば小物感がにじみ出ている。けっして軽視するわけではないが、白蓮や戦禍へ対して抱いている敬意を、この雇い主に向けることは難しかった。


「たぶん魔族が本格的に宣戦すれば、神官とかが神族の力を借りようとするはずなんだ。そのあたりを大雑把にでいいから見てきてよ」


「御意」


「でも人探しって言っても、場所はわかってるの?」


「いえ。ただその娘は西に向かう際、獣人族のテリトリーを通っております。まずは彼らに尋ね、そこから足跡を辿ろうかと考えております」


「時間かかりそうだな……ま、いっか。しばらく戦いも起きなそうだしね。すこし長めの休暇だと思って、人間の王国を楽しんでくるといいよ」


 雇い主は軽いうえ、いささか大雑把な性格だった。


「ではお言葉に甘え、そうさせていただきます」


 あとは紅武城へおもむき間者を借り受けて、アルフラの行方を捜索するだけだ。


「あ、そうそう」


 立ち上がった高城へ声が掛けられる。


「もしその娘がさ。白蓮にあまりいい影響がないようなら、見つからなかった、てことにして殺しといて」


「……は?」


「いや。もしかすると白蓮には後々働いて貰うことになるかもだからさ。すこし不安なんだよね」


 意図が読めず、隣室の気配をうかがうが、そこからは何も感じ取ることが出来なかった。


「白蓮てもともと、人に執着するような性格じゃないだろ? 最近、人が変わったようになったのも、その娘の影響だろうからさ。場合によっては始末しといてよ」


「か、かしこまりました」


 なにげない口調でアルフラを殺せと命じる雇い主に、戸惑いながらも返事をする。あくまでも、場合によっては、ということなので、その命は忘れることにした。


「じゃ、頼んだよ」



 高城の雇い主は、なかなかに(とら)え所のない性格だった。

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