降竜の亜神 アベル・ネスティ
「……やっぱり、誰もいないね」
森を切り拓いて作られた黒エルフの集落。辺りに人気はなく、閑散とした路地は非常に見通しがよい。
「むこうの広場が集落の中心じゃないかしら」
歩を進めながら指を差し、巫女姫フィオナは幼馴染の横顔を見上げる。馬の手綱を曳きつつ傍らを歩むアベルは、周囲に気を配りながらうなずいた。
「そこですこし休憩しようか」
「……うん」
返答のわずかな間が気になり、アベルは目顔でどうしたの、と問いかける。
「アベル、またすこし背が伸びたでしょ」
「そうかな? 僕、もうすぐ十八歳だよ。成長期は終わってるはずなんだけど」
「ぜったい伸びてるわ。いつもとなりを歩いてる私にはわかるの。もうヨシュアさんより高いんじゃないかしら」
「ほんとに? つぎ会ったとき兄さんびっくりするかな」
アベルの兄、ヨシュア・ネスティがアルフラに殺されたことなど知りようもなく、二人はたがいに穏やかな笑みを交わす。
やがて広場に踏み入るが、そこでもやはり人の気配はない。途中、いくつかの家屋をのぞいてはみたのだが、ごく最近のものらしき生活の痕跡が残されたまま人だけが消えていた。
「あわててみんなで移動したような感じだけど……」
その理由には皆目見当がつかない。
「まあ考えてもわからないものはしょうがないよね」
アベルは馬に括りつけた荷物から地図を取り出す。
「たぶん皇城まであと二日くらいかな」
「二日……」
魔族のロマリア襲撃に端を発したこの旅も、いよいよ終わりに近づいていた。竜神スフェル・トルグスの予言した魔皇との戦いが間もなく現実のものとなる。そう考えてフィオナはにわかに表情を曇らせた。かつて神々をも駆逐した魔族の支配者を相手に、はたしてアベルは勝てるのだろうか。自分に出来ることはあるのか。来るべき戦いに考えを巡らせると、つよい不安に苛まれる。――だが、懸念はそれだけではない。スフェル・トルグスはこうも予言していた。
『皇城への旅路が終わりに近づく頃、其方は一人の少女と出逢う』
『それが大きな転機となるだろう』
そしてその少女は、アベルの運命とも呼べる存在なのだと。
フィオナはなぜだか不思議と確信していた。
かつてカモロアの街で出会った、暗い目をした不吉な少女。彼女こそが予言の少女その人なのだと。
スフェル・トルグスの予言に間違いがなければ、その出会いは今日かもしれないし、いまこの瞬間に起こりえるかもしれないのだ。
白く見えるほどに顔色を青ざめさせたフィオナは、我知らずのうちに身体をふるわせていた。
「愛してるよ、フィオナ」
とうとつな言葉とともに、やさしく抱きすくめられる。
「――っ!? ――っ!?」
あわてふためくフィオナの顔色は、急速に青から赤へと変わっていた。
「ななな、なに!? きゅうにどうしちゃったのアベル!?」
「フィオナが不安そうな顔してたから、こうしたら落ち着くかなとおもって」
「そ、そうなんだ……でも、ちがった意味で落ち着かないかも」
「うん、顔が真っ赤になってる」
そういうアベルの顔もまた、やや赤い。
「……あっ! 愛してるって言ってくれたの、初めてだわ」
「う、うん」
「もう一回、言ってほしいな」
「えぇ……あらたまって言うのは、恥ずかしいよ」
てれてれと顔をそむけたアベルの頬を両手で挟み、フィオナは強引に正面を向かせる。
「はい、どうぞ」
催促の言葉と眼差しにアベルはたじろぎ気味だ。
「そんなにまじまじと見られたら、言いにくいんだけど……」
「もうっ」
しょうがないわね、といった顔でフィオナは目をつむる。
およそ二呼吸ほどの間をおいて、アベルがおずおずと口を開いた。
「……あ、愛してるよ」
花が咲くようにフィオナの表情がほころぶ。
頤がうわむき、さくら色の唇がうすく開かれた。
そういった事にはすこし鈍感なアベルも、これはおそらくキスを求められているのだろうな、と察する。
とまどいの気配を感じたフィオナは、アベルの背中に回した腕にぐっとちからをこめる。その行動を言語に訳すなら「はやくしてよ」であろうか。
意を決したかのように唇を引き結んだアベルが顔をよせる。
あしもとに落ちた影が完全にかさなり合い――
「なんでおでこ?」
フィオナが不満げにつぶやいた。
おおきな胸をそらしてアベルを見上げる。
「ねぇ、なんで?」
「え、ええと……ほら、フィオナはお姫様なんだし、やっぱりそういうのはちゃんと婚約とかしてからじゃないと……」
え!? 婚約してくれるの!? と内心で叫んだフィオナであったが、だらしなくゆるみかけた表情を保つことに必死だった。
「そ、そう……婚約、してからなんだ? ふぅん……」
もじもじと顔をうつむかせ、赤くなった頬をアベルの胸当てに押しつける。
「だからこの戦いが終わったら……」
言葉を途切れさせたアベルを不審に思い、フィオナは顔を上げた。
「アベル?」
いつになく厳しい表情。
視線はほそい路地の先へ。
気配までもが一変し、先鋭化された闘志が志向を持って伸ばされている。
しばしの間を置き、声が聞こえた。
「ほう……聡いの。完璧な隠形のはずだったのじゃが」
かるい足取りで姿を現したのは、長い顎髭をたくわえた白髪の老人だった。
小柄で顔は皴深く、纏った白い衣は簡素でありながらも仕立てがよい。
いかにも好々爺といった風情ではあるが、なにかしらこわいものが感じ取れる人物であった。
「そなた、竜の勇者と呼ばれとる者じゃろ?」
問いには答えず、老人の視線からフィオナを隠すようにアベルが前へ出る。
「フィオナ、僕の後ろに」
その様子を見て白髪の老人が呵々と笑った。
「そう警戒せずともよい。やりあうにしても、そちらの嬢ちゃんに害が及ぶような戦い方はせんよ」
ちらりとだけフィオナへ向けられた視線がアベルへと戻される。
「戦禍帝から竜の勇者を見かけたら殺すようにと命ぜられたが、それはあくまでついででな。本命は人探しなんじゃよ。そなたがおとなしく来た道を引き返すのなら、見逃してやらんこともないぞ?」
老人の矮躯から、じわりとその本性がにじみでた。希薄であった存在感が膨大な魔力により膨れ上がる。
「ア、アベル、このおじいさん……」
フィオナが一歩後退り、アベルは剣の柄に手をかけた。
「……たぶん魔王だ」
白髪の老人は口許の皴を深めてにぃと笑う。
「ご名答じゃ。儂の名は鳳仙。北部の盟主などと呼ばれておる」
言葉と同時、アベルが皇竜の宝剣を抜き放つ。
魔王鳳仙は余裕を持ってこれを眺めていた。
「そう急くな。見目好い娘に怪我をさせとうない。嬢ちゃんはすこしこの場から離れておるがよい。それまで待ってやろう」
アベルは用心深く鳳仙に視線を置きつつ、背負った黒竜の大盾をフィオナへ渡す。
「これを持っていって。加護の力がフィオナを守ってくれる。でも、あんまり離れすぎないでね」
つかの間の逡巡を見せたフィオナであったが、すぐにひとつうなずき、小走りに集落の入り口へと駆け去る。彼女は自分がここに留まっても、足手まといにしかならないことをよくよく理解しているのだ。
遠ざかるフィオナの背を見送った鳳仙がアベルへと向き直る。
「さあ、始めてよいぞ?」
無造作に佇立する鳳仙を前に、アベルは油断なく剣を構えた。しかし攻めあぐねるかのごとく、微動だにしない。いや、実際に攻めあぐねているのだ。
かつてアベルは魔王雷鴉と対峙し、なにも出来ないまま敗北を喫している。その苦い経験が彼に迷いを生じさせていた。――眼前に在るのはそれと同格の魔王。人の身には過ぎた相手である。
だが魔王鳳仙は、アベルを人間とは認識していなかった。
聞いていた話とはだいぶ違う。
それが鳳仙の内心であった。
戦禍から黒エルフの王女、ウルスラ捜索を命じられた際、もののついでのように、竜の勇者を見かけたらこれを討伐するようにと言付かった。
「あなたならば簡単な仕事でしょう」
その言葉の根拠は、いぜん雷鴉がロマリアへ赴いた折、偶然行き会った竜の勇者を一撃で瀕死に追い込んだ件にある。その後公爵位の魔族を倒している事実を鑑みるに、幾分ちからを増してはいるのだろう。とはいえ所詮は人間である。魔王の敵とはなりえない。――はずであったのだが……
実際目にしてみれば、明らかに気配が人ではない。魔族とも違う。あえて言うならグラシェールに降臨した戦神バイラウェのそれに近いのではないだろうか。
いずれにしても鳳仙の主目的はウルスラの捜索であり、その片手間でこなすにはいささか骨が折れそうな仕事だ。しかしこうして向かい合ってみれば、久しく感じることのなかった高揚が心を沸き立たせる。――老いたりといえども、戦いを好む魔族の性というものだろう。
「さあ、始めてよいぞ?」
剣を構えた竜の勇者へ鷹揚に告げる。
喉元に向けられた鋭い刃先からはなかなかの威圧感を覚える。
高まる戦意は臨界に達し、揺らめく陽炎のようにその身体から溢れでていた。
難敵である。
それでも鳳仙には相手の出方をうかがう程度の余裕があった。
だが竜の勇者は足を止めたまま微動だにしない。
無防備に見える鳳仙の立ち姿が逆に警戒心を強めているのだろう。
「ふむ。儂はあまり気の長い性格ではないのでな」
竜の勇者の頭上に、人の胴回りよりもなお太い氷柱が生成された。
それが複数。
「動かんと死ぬぞ?」
言葉と同時に氷の牙が降り注いだ。
アベルは前へ出ることによって間髪で氷柱を避ける。
しかし避けた先の地面が凍りつき、そこから氷の長槍が生え出た。
「――――ッ!」
瞬時に飛び退き串刺しこそは免れたものの、鋭い穂先が頬の皮膚を薄く裂いていた。
あふれた血を拭う間もなく、ふたたび足元から生え出た氷槍を皇竜の宝剣で打ち砕く。
気づけばあたり一面の大地が氷に閉ざされていた。
逃げ場がない。
しかも頭上では巨大な氷柱が無数に生成されつづけていた。
まともに戦っていては間合いを詰めることも叶わない。
魔王とは強大な障壁を有する以前に、まず近づくことすら困難な相手だ。それをアベルは最悪の状況で再確認する。
そして鳳仙は圧倒的優位にありながらも一切手を緩めない。
大気を凍らせる氷風を呼び、広範囲の地面に氷の長槍を生成する。さらには氷柱を束ねた巨大な杭がアベルに叩きつけた。
物理的に回避は不可能だ。
鳳仙は大質量の氷杭が着弾する際の衝撃波に備えて障壁に魔力を流し込む。そしてそれは彼の意図とはすこし違った用途で役に立った。凄まじい熱風が障壁を打ったのだ。
この結果に鳳仙は大きなため息を落とす。
「……これ、知っとるわ」
おそらく水蒸気爆発だ。
大量の氷が瞬時に蒸発したことにより、大気が爆圧を生むほどの勢いで膨張したのだろう。
「むかし灰塚にようやられた」
炎熱使いは苦手じゃ、と鳳仙はふたたびため息を落とした。そして頭上に目を向ける。
乳白色の蒸気で視界は通らないが、気配は依然捉えている。
「――無限永劫火ッ!」
予測通りの位置から声が聞こえた。直後、火焔を纏った剣が障壁を斬りつける。阻みはしたものの一瞬で障壁が炎に包まれた。
「これは……」
鳳仙が一足飛びに後方へ退いたのと皇竜の宝剣が障壁を焼き斬ったのは同時であった。
刺すような痛みを覚えて鳳仙は左の肩口を押さえる。
軽い熱傷。
赫熱の刃が掠めたのだ。
戦いにおいて手傷を負ったのは何時以来であろうか。
鳳仙は口許を笑みの形にゆがめる。
周囲に凄まじい寒気が吹き荒れ、いまだ燃え盛る魔力障壁を吞み込んだ。
障壁の燃焼が目に見えて弱まる。
魔王の呼んだ冷気は永劫の火すらも凍てつかせた。
だが鳳仙は開けた視界の先に、あまりに予想外の光景を見る。
集落に建ち並ぶ家屋よりもなお巨大な竜の頭部。青白く発光するそれは大きく顎を開いていた。
渦巻く光輝が吐き出される。
最大級の危機感が鳳仙の脳内で警鐘を鳴らした。
魔王の全力が竜神の息吹を迎え撃つ。
極々低温の氷嵐が荒れ狂い、竜神の一撃を掻き消した。さらにはその頭部を破砕し、後方のアベルに襲い掛かる。
峻厳なる氷雪が猛威を振るうも、アベルは瞬時にこれへ対応した。
「……やりおるのう」
鳳仙のつぶやきにはかすかな驚愕の色が含まれていた。
アベルの背に現出した一対の皮翼。光り輝くその羽ばたきが赫炎を放ち、鳳仙の冷気を薙ぎ払ったのだ。
「竜神の加護を受けた勇者と聞いておったのじゃが……まさかそなた自身が竜神なのか?」
そして鳳仙は思わずといった様子で苦笑する。
この状況を楽しみはじめていることを自覚してしまったのだ。
「命懸けの戦いをするような歳でもないんじゃがのう」
勝てない相手ではない、と鳳仙は考える。しかしまだまだ底が見えないのもまた事実。必ず勝利できるとは断言できない。ちから押しだけではなく搦手も織り交ぜた戦い方が効果的かと思案したとき、
「これは……」
「――!?」
鳳仙とアベル、たがいが相対した敵の存在をも失念し、同じ方向へ体ごと向き直る。
南方から迫りくる異質な気配。
それは破滅と殺意の具現のごとき存在感を宿していた。
熱くなりかけた血が急速に冷えていく。
鳳仙はじりと後ずさり、即座に退くことを決断した。
おそらく口無を倒した少女だ。
戦禍からは決して交戦しないよう言い含められている。
だがそれ以前に竜の勇者と同時に戦えるような相手ではない。
たとえ差し向かいであったとしてもかなりの無理がある。
鳳仙は冷気の霧に紛れ、その場からの離脱を図った。
迫る脅威は確実にアベルを捕捉していた。
逃げるという選択はあまり現実的ではない。
魔王が躊躇することなく撤退を選ぶような相手だ。フィオナを連れて逃げることはほぼ不可能だろう。
アベルは腰を落として剣を構える。
鳳仙との戦いで倒壊した家屋の残骸が散乱しているため足場が悪い。くわえて霧と水蒸気が混在していて視界も劣悪だ。
集落の入り口付近からフィオナの不安気な気配が感じられる。
しかしそちらに気を配る余裕はない。
瓦礫を踏み砕き疾駆する足音がすぐそこまで迫っていた。
突如霧の中から躍り出た人影がアベルに剣を振り下ろした。
皇竜の宝剣が金色の燐光を発する刃を受け止める。
剣戟とは異なる甲高い金属音が響く。
魔剣プロセルピナが歓喜の旋律を高らかに奏で上げた。




