さらなる進化
皇城、白蓮の居室。
天蓋付きの寝台に怠惰な様子で腰掛けた白蓮が、ぼんやりとウルスラを眺めていた。
その視線が気になりつつも、ウルスラはてきぱきと仕事をこなしていく。
先程まで訪れていた戦禍が使っていたティーセットを片付けていたのだが、向けられた視線を意識しすぎてしまい、トレイに乗せたティーカップが、カチャカチャと不作法な音をたててしまう。
最近の白蓮は、ふと気づくといつの間にか、目でウルスラを追っている。
別にウルスラ本人が気になるわけではなく、その仕草や顔立ちなどに、アルフラの面影を無意識の内に探してしまっていたのだ。
「……」
白蓮は、アルフラと離れて暮らせば最初は淋しくもなるだろうが、いずれは以前のように何事にも動じず、常に冷静だった自分に立ち返れると思っていた。
しかし、一月も経たぬ内にそれが勘違いだったことに気づく。
人の温もりを知り、溺れそうな程の愛情を注がれた白蓮の心は、ふたたび凍りつくことを拒み、無くした物を取り戻そうと足掻いていた。
そうして、ウルスラを目で追ってしまう。そこに自分の欲する物が無いことを確認するために。
「あのぉ……白蓮さま?」
ウルスラが困ったような顔で白蓮の前に立つ。
「なに?」
「お掃除が終わりました。新しいお茶でもご用意しますか?」
ウルスラの褐色の肌に、白を基調としたメイド服はよく映えていた。仕草も洗礼されていて、さすがは黒エルフの王族といったところだろう。
だが、子犬のようにちょこまかと無駄に動き回っていたアルフラの愛らしさと比べれば、雲泥の差だ。――と白蓮は思う。
――まるで血統書付きの犬と、雑種の捨て犬くらいの差があるわ
実際、アルフラを気まぐれ拾ったことを考えれば、実に的確な例えと言えた。
しかし、白蓮は毛並みの良い優美な犬などではなく、うるさくまとわりついて来る雑種の子犬が欲しいのだ。
ウルスラの顔立ちと比べてもそうだ。美しい切れ長の目より、きょときょとよく動く大きな目の方が好ましい。――玉石のような黒い瞳よりも、柔らかな鳶色の瞳の方が、白蓮にはよほど愛らしく思える。
輪郭も鼻も口もその肌も、全てにおいて非の付け所のないウルスラ。それでも白蓮にとっては、アルフラの方が比べようも無いほど優っている。
放っておいても男が群がって来る白蓮は、今まで恋愛感情らしきものを感じたことがなかった。しかし、一度思いをよせる人が出来ると、その相手がこの世で一番優れて見えるタイプなのかもしれない。
一途で思い込みの激しい、ある意味おそろしく人間くさい性質だ。
その心はとても弱く、同じ理由でとても強い。
「あの……白蓮さま?」
白蓮の前で居心地悪げにしていたウルスラが、ため息をついた主に問いかける。
「えっ……ええ、何だったかしら?」
「新しいお茶のご用意を……」
「ああ、そうだったわね。とくに必要ないわ」
ウルスラは、ぺこりとお辞儀をして踵を返そうとした。
白蓮は誘われるように、柔らかに揺れた黒髪へ手を伸ばす。
――髪質は、似てる……
艶やかな髪を撫でながら、ほんのすこしだけ心が満たされるのを感じた。
撫でる手を滑らせ、心地好さげに目を閉じたウルスラの頬に掌を当ててみた。
「ぁ……」
褐色の肌を朱に染めたウルスラが、ちいさな吐息をついた。白蓮は、頬に掌を当てたまま薬指と小指で耳の裏を撫で上げる。
「白蓮さま……」
覗きこむ白蓮の目から、ウルスラは恥ずかしそうに潤んだ瞳を逸らせた。
白蓮はさらにすこしだけ、心が満たされるのを感じた。
「白蓮、と呼び捨てにしても構わないのよ?」
親指でウルスラの下唇をなぞりながら白蓮が囁く。
「そ、そんな……」
唇を薄く開いたウルスラが、やはり目を閉じてしまった。
白蓮はかるい高揚感を覚えたが、同時に激しい違和感が沸き上がり、その心は急速に冷めていった。
「ウルスラ、やっぱりお茶を新しいものに替えてちょうだい」
「え? ――ええと、はいっ! ただいま」
我に返ったウルスラは、顔を耳まで赤く染めて、早足で部屋から出ていく。
その後ろ姿を見送りながら白蓮は思う。以前、アルフラと妙な雰囲気になったのは、やはり自分に原因があったのだと。
「はぁ……」
また一つ、ため息が零れてしまった。
――私、いったい何をやっているんだろう……
心を凍りつかせていた時には気づくことのなかった冷たさが、ひしひしと全身を蝕む。痛みも冷たさも感じなかった以前彼女は、もう何処にもいないのだ。
白蓮は世界がひどく冷たいことを知ってしまった。その心の奥深く、意思や理性の届かぬ部分が、欠けたものを補うために暖かみを求めていた。
「奥様、魔王鳳仙殿がみえられております。いかがなさいますか?」
「……」
「……」
室内では物憂げにため息をつく白蓮と、どこかふわふわとした表情で吐息をつくウルスラという対照的な二人が、なんともいえない空気を作り出していた。
「……奥様?」
気配に聡い高城は、いささか居心地の悪いものを感じていた。だが、そんなことはおくびにも出さず、ふたたび問いかける。
「え? ……ええ、そうね…………鳳仙?」
「はい。北の盟主と呼ばれる老魔王です」
不意に何かを思い出したらしい白蓮が、さらに憂鬱そうにする。
白蓮は、かなり以前の話ではあるが鳳仙と会ったことがある。一度、求婚を迫られたことがあるのだ。いまここで会うのはまずいと白蓮は感じた。
「いつも通りお引き取り願いなさい」
「かしこまりました」
桃色吐息空間から解放された高城は、続きの間を通り抜け、部屋の前で待たせていた鳳仙に謝罪する。
「申し訳ございません。我が主はとても気分が優れず、ただいま臥せっております」
「ふむ……そうか」
高城よりも若干年上に見える鳳仙が、なにやら考え深げに頷く。
「主も鳳仙殿のおこしを大変喜んでおりましたが、やはり女性でありますので、やんごとなき殿方にやつれた姿をお見せするのは気が咎める様子」
まったくの嘘という訳ではありませんよ? 的なことをすらすらと高城は述べる。
「体調が戻れば、鳳仙殿にご足労かけることなく、みずからお伺いされるそうです」
こちらは完全に社交辞令だった。今後は訪ねて来てくれるな、という。
「なに、わしもとくに用があったわけではない。戦禍帝の大切な客人へ、ご機嫌伺いに来ただけじゃからな」
「かしこまりました。主には宜しく伝えておきます」
今までに来訪した男の魔王は、すべて似たような口上で断っているので高城も慣れたものである。
門前払いを受けた者たちもいずれ劣らぬ強大な魔王なので、そのような扱いを受けることも稀だろう。
だが、戦禍の影響力は絶大であった。彼に気を遣い、無理に会見を望む者は居なかったし、ふたたび訪れる者もなかった。
戦禍はその辺りをふまえて、毎日のように意図のわからないお茶の時間を過ごしに来ているのではないか。高城はそう推測していた。
去り行く鳳仙の背が見えなくなり、高城は物思いに沈みこむ。
白蓮とウルスラの微妙な関係。西方への旅路についたアルフラとフェルマー。とくに口説くでもなく、ただお茶をしに来るだけの戦禍。なかなかに悩みと心配と疑問が絶えない。
どのくらいそうして考え事をしていただろうか。高城が抱える悩みの種の一つが、せかせかとこちらへ向かって来ていた。
ここ数日、戦禍と同じく意図不明な来訪を繰り返す人物。
「こんばんは、高城。白蓮はいるかしら」
大きなバスケットを両手に抱いて、そわそわと扉の中を気にする不審者が目の前に立っていた。
「奥様、灰塚様がおこしになられております」
「そう、通して」
「かしこまりました」
白蓮にとって、灰塚の相手はいい気晴らしとなっていた。たまによく解らない行動を取る彼女は見ていて飽きない。
高城に連れられ入室した灰塚は挨拶もそこそこ、手にしたバスケットから葡萄酒を取り出した。それを見た高城が、純銀製のゴブレットを二杯用意し、テーブルの上へ置く。
「今日は、南部のよい産地で醸造された年代物を持って来たの。お菓子もいっぱいあるわ」
弾んだ声で告げた灰塚の顔に、華やいだ笑顔が広がる。
初日に「次はちゃんと用意して待ってなさい」との捨て台詞を残して去って行った灰塚は、翌日からお菓子と飲み物持参でやって来るようになっていた。
「これがホワイトベリーのタルトで、こっちが洋梨のパイ。で、カスタードのパンケーキとスコーンもあるわ」
嬉しそうに各種デザートを取り出す魔王を見ながら、なかなか可愛げのある娘だと白蓮は思った。
「私、そんなには食べきれないわよ?」
「あぁ……甘い物はあんまり好きではなかったわね……。でもだいじょうぶ! わたしに任せてっ」
すこし悲しげにしながらも、灰塚は次々と甘いお菓子を切り分けていく。
「あ、高城はもう下がっていいわよ」
灰塚から退室を命じられた高城へ、白蓮が小さく頷く。
「では、何かございましたらお呼び下さい」
高城が出て行ったのを確認すると、灰塚がおもむろに立ち上がった。
「そうそう、まだ挨拶をしてもらってなかったわね」
差し出される手を前に、白蓮はすこし困った顔をしてみせる。
最初こそ抵抗感があったものの、自分のそういった反応がむしろ灰塚を悦ばせているらしい、と気づいた白蓮は、逆にそんな灰塚を楽しんでいた。
「なによっ、嫌なの? 早くご挨拶なさいっ!」
かすかに顔をしかめながら、その手をとり口にあてる。
唇から感じる灰塚の体温が急激に上がるのがわかった。その熱に誘われ、ちろりと舌を這わせて撫で上げる。
「ふぇっ――」
妙な声を出して手を引っこめた灰塚を見て、白蓮はすっと目を細める。込み上げてくる笑いを抑え、かるく口を拭い葡萄酒で喉を潤した。
「わ、わたしにキス出来るなんて、そうそうないことなんだからね! 光栄に思いなさいよっ!」
崩れるように座りこんだ灰塚は、手の甲を見つめて顔を真っ赤にしている。
今でこそ男嫌いな白蓮も、初めからそうであった訳ではない。しつこく言い寄られることが度重なり嫌気がさしたのであって、当初は男たちからの称賛や甘い口説き文句、向けられる好意に対し、優越感や高揚感を覚えもしていた。
このところ毎日のように訪ねてくる灰塚は、毎回手の甲への口づけを強要し、なにかと白蓮に触れたがる。
男性から向けられるそうした好意を、最近では煩わしいと思っていた白蓮であったが、自分の言動に一喜一憂する灰塚を見ていると、長らく感じなかった愉悦感めいたものが、かすかに甦って来るような気がした。
心は満たされぬが、気晴らしにはなった。
「あなたって、本当に可愛らしいわね」
灰塚の臣下、とくに以前おいたをして、こんがり焼きあげられた経験のある凱延あたりが聞けば、卒倒してしまいそうな台詞だ。
艶然と微笑む白蓮に、魅入られたかのように動きを止めていた灰塚が声を裏返えらせる。
「な、な、なんですってぇ!」
一瞬、怒気を見せた灰塚であったが、白蓮の蒼い瞳に見つめられ、どう反応してよいのか分からなくなる。
「……ふんっ、わたしが美しいのは当然よ! わざわざ言われなくても知ってるわ」
とりあえず、高飛車に出ることにしたようだ。
そんな灰塚に白蓮の手が伸ばされる。
先程、白蓮の唇が触れた辺りを、火傷でもしてたかのように押さえていた灰塚の手へ。
「――!」
白蓮の手が触れた瞬間、灰塚は跳ねるように椅子ごと身を引く。
「な、なにするのよっ!」
「そんなに手を押さえてるから、なにか失礼でもあったのかと思って」
白蓮の声音からは、完全には抑えきれなかった笑いが、ほんのすこしだけ感じ取れた。
普段はなにかと理由をつけて白蓮の体に触れたがっていた灰塚だが、逆の立場になると心の準備が必要らしい。
「べ、別になんでもないわっ。それより少しは食べなさいよ、せっかく用意させたんだから」
なぜか微妙に身体を震わせている灰塚が、みずからの持ち込んだタルトに手を伸ばした。
そんな灰塚をおもしろそうな目で見ながら、白蓮は葡萄酒に口をつける。
「お菓子の方はともかく、この葡萄酒はなかなかいい味ね」
「あら、やっぱりわかる? 今朝、南部の王が持って来た物なの」
得意げにしながらも、その手はスコーンへ伸ばさる。
「あなたが葡萄酒を好むって聞いたから、わざわざ持ってきてあげたのよ」
感謝しなさいよねっ、と言いながらも次々とお菓子を捕食していく。
「そんなに食べたら太るんじゃなくて?」
「平気よ、わたし燃費が悪いから」
たまによく解らない自慢を灰塚はする。
「それに甘いのは、お肌にもいいのよ」
テーブルの上にある物が、あまり大きいとは言えない灰塚の口の中へ次々と消えてゆく。
確かに彼女のオリーブ色の肌は艶やかで美しい。
そして他愛もないお喋りがつづき、夜は更けて行く。
白蓮と灰塚の逢瀬を、寝室の扉から覗くのが日課となっていたウルスラだったが、今日は普段に比べ、あまり艶っぽい場面が展開されなかったことをすこし残念に思った。




