めっかっちゃった ※挿し絵あり
アルフラたちが黒エルフの森に踏み入り三日ほどが過ぎていた。
森の中はフレインの予想よりも道がしっかりと整備されており、狼などといった危険な生物にも出会うことなくその旅路は順調である。とはいえさすがに馬車を乗り入れられるほど剥き出しの地面は均らされていない。二頭の馬には積めるだけの荷物を背負わせ、軛を外して馬車自体は森の入口に放置せざるえなかった。
黒エルフの森は一種の禁足地となっており、魔族は一人も住んでいない。それを知ってからはアルフラの冷気も落ち着きをみせていた。おそらくその殺意に応じて気温の低下がもたらされるのだろう。
一行の先頭に立つのは囚われの女公爵、熾南である。皇城への道筋など知らないにも関わらず案内を任された彼女は、分かれ道に出くわすたびに運を試されているような危うい状況だった。ただ、皇城の方角だけは把握しているので、太陽の位置を確認しながら予想を立てれば、あながち間違った道を選ぶこともないはずだ。しかし森の中では木々の枝葉が邪魔をして太陽が見えないこともあり、頻繁に空を見上げる熾南はいささか挙動不審に見えた。
「おい、ほんとうにこの道であってるのか」
「……間違いない」
そもそも一万八千もの軍勢が往来可能な道なのだ。それほど入り組んだ地形にはなっていないだろうという希望的な予想が熾南にはあった。皇城まで案内をすれば見逃してやる、というアルフラの言葉はやや信憑性に欠けるものの、道を間違えて寿命を縮めることはどうしても避けたい。――そんなことを考えている内に、道の先が左右に別れた三叉路に辿り着いてしまっていた。
「……くっ」
ちいさくうめいた熾南にアルフラから不審の目が向けられる。
「いま、くって言った?」
「……言ってない」
アルフラは勘のいい小娘だ。ほんとうかな、あやしいなあ、の顔で熾南の瞳をのぞきこむ。
「なんかだんだん道がほそくなってる気がするんだけど……ほんとに道まちがえてない?」
内心では冷や汗を流しつつも、熾南は平静をよそおい真顔で答える。
「ああ、大丈夫。心配しなくていい」
太陽の位置的に右の道、北東に進めば正解のはずだ。そちらへ足を踏み出したとき、狼少女が熾南の尻をふにふにとつついた。
「こら、やめろ」
ルゥは初対面のときこそおっかなびっくりといった様子で公爵位の魔族に接していたのだが、どうやらアルフラのおかげでこちらに手出しはできないと知るやいやなや、その日のうちに熾南に対して馴れ馴れしくなっていた。
「尻をつつく……な、なぜ揉もうとする!」
無抵抗の相手にはやりたい放題のルゥだ。そんな狼少女をジャンヌが白い目でながめていた。
「あ……んっ! ちょっと、ほんとにやめてよ……」
どちらかというとそちらが素の口調らしく、顔を耳まで赤くした熾南が弱々しく身をよじる。しかしその手をやや興奮気味の狼少女がぐいっとひっぱった。
「こっち! こっちの方からくまのにおいがするよ!」
「え……くま?」
こころもち目をうるませた熾南がきょとんとした顔をする。
これから行こうとしていた道の先をルゥがじっと凝視していた。
「この森、熊が出るのか……」
シグナムがぽつりとつぶやき一行を見回す。
「……問題ないか」
この面子で熊に襲われてどうにかなりそうなのはフレインくらいだ。
「このあたりには狼が住んでいないようですし、熊が多いのかもしれません」
シグナムから問題ないと思われたフレインが暢気にほほえんでいた。
「狼がいないと熊が増えるのですか?」
アルフラのうしろを静々と歩くジャンヌがこくびをかしげる。
「ええ、集団で狩りをする狼は熊の生息圏を狭めますからね」
「へぇ……」
気のない返事をしたシグナムの横を、狼少女がだっと駆け抜ける。
「くまー」
「あ、おい!」
あっという間に遠ざかっていく後ろ姿にシグナムがため息をつく。
「そういやルゥのやつ、熊が大好物とか言ってたな」
「――いや待て! 熊がいるのだろ!? あの娘、食われてしまうぞ!!」
表情をさっと青ざめさせた熾南がものすごい早さでルゥのあとを追いかけて行く。
「赤くなったり青くなったり……忙しいやつだな。そういやあいつ、ルゥが人狼だってことまだ知らないんだっけか」
「彼女、制約の魔法のことを忘れているのではないですか? あまりアルフラさんから離れるとまずい気がするのですが……」
「あっ、そうだな。急いで追おう! さすがにこれで死なれたら寝覚めが悪い」
意外と親しみやすく年若い女公爵は、アルフラ以外からの好感度がそれなりに高かった。
シグナムたちが追いついたときには、すでにルゥと熾南の二人が一頭の熊と対峙していた。熊の足元には食い荒らされた鹿の死骸が転がっている。どうやら食事中であったらしい。
本来、熊とは非常に用心深い獣である。人間の集団と出くわせば逃げ出すことも多いのだが、この熊は獲物を横取りされまいと唸り声を上げてルゥを威嚇していた。さすがに足元の鹿ではなくおのれ自身に食欲が向けられているとは思ってもいないようだ。
うしろ足で立ち上がった熊の体高はシグナムよりやや低い程度。ただしその重厚な体躯は彼女の倍ほども厚みがありそうだ。びっしりと密生した体毛は赤褐色。胸元には三日月形の白い斑紋が浮かんでいる。いわゆる月ノ輪熊と呼称される個体である。この種としてはなかなか大柄な部類であったが、これなら素手で殴りあっても勝てそうだな、とシグナムは考えていた。人狼化したルゥならば容易に狩れるはずだ。――だがあいにくと、ルゥの狩りを邪魔するおせっかい焼きがいた。
「あの熊を食いたいのならわたしが丸焼きにしてやるから下がっていろ」
狼少女を羽交い締めにした熾南が熊からルゥを引き離そうとする。
「やだ! だってきのう猪を食べれなくしちゃったじゃない!」
そう、熾南には似たような状況で猪を消し炭にしてしまった前科があるのだ。
「あ、あのあと何回もあやまっただろ! まだ根に持ってたのか」
しかし熾南に任せると食べる部分がなくなってしまうと考えている狼少女はじたばたと暴れることをやめない。
「もうなんとなく加減はわかった。こんどはほどよく焼き上げてみせる」
食事を邪魔されて気の立っている猛獣を前に、あまりにも隙を見せまくりな二人であったが、もしこの場で襲いかかられたとしても熊のほうが痛い思いをするだけだろう。公爵位の魔族である熾南の障壁は、攻城兵器の掃射を浴びようが小揺るぎもしない。――それほど強大な力を有する熾南も、あばれる子供には手こずっているようだ。
「聞き分けのないやつだな! あぶないから下がっていろと言って――」
「もう! ボクは白狼の戦士なんだからねっ!」
揉み合いながらも狼少女はしゃがみこむ姿勢となり地面に両手をつく。人狼となって熾南を振り払うつもりなのだろう。
「あっ、いけません! 服を着たままでは……」
すかさず駆け寄ったフレインが狼少女の貫頭衣をめくりあげる。衣服の代えはそれほど数がなく、いま着ているものを駄目にされるとおおごとなのだ。しかしこれを見てあわてたのは熾南であった。
「ぉお!? お前!! なんのつもりだ! こんなちいさな子を無理矢理脱がせようなどと」
「ええ!? ご、誤解です! このままでは服が破れて――」
「服を破るだと!? このケダモノめッ! 熊よりさきに貴様を消し炭に――」
「あー!! やっぱりまた食べれなくするつもりだったんだ!?」
フレインの胸ぐらを掴んだ熾南の手にルゥが大口を開けてかぶりつく。
誤解が誤解を生み混沌としてきた場の空気が、突如として発生した突風により吹き散らされる。
「――な、なんだ!?」
重甲冑を纏ったシグナムがよろめくほどの強風。それは頭上遥か高空より飛来した有翼魔獣により齎された。
地響きを立てて舞い降りた魔獣は、その前肢の巨大な鉤爪で月ノ輪熊の頭部を地面に押さえつける。
「鷲獅子!? グリフォンですよ!!」
おおきく目を見開いたフレインが有翼魔獣を指さしていた。書物のなかでしか見たことのない希少生物の出現に、彼としてはめずらしく気分が高揚しているようだ。
月ノ輪熊を組み敷いたグリフォンは威風堂々と一行を睥睨する。鷲の上半身に獅子の胴体を備えたその偉容は、翼を広げると二階建ての家屋に匹敵する質量を有していた。
ばさりと翼をはためかせ、グリフォンの鋭い嘴が月ノ輪熊の頸部に突き込まれる。悲痛な断末魔が森の木々を震わせた。月ノ輪熊の巨体が激しく身悶える。
ずるりと嘴が引き抜かれると、その尖端にはなにやら赤黒い鎖のようなものが銜えられていた。血と筋繊維の絡んだ脊椎である。
――哀れ月ノ輪熊はびくりと躯を痙攣させ、そのまま二度と動かなくなった。
「うおッ!? とんでもない啄みっぷりだな!?」
一歩後ずさったシグナムが狼少女に目を向けると、ルゥは月ノ輪熊に右手を伸ばした姿勢で目をまんまるにしていた。
「ボクのくまああ――――!!」
「ルゥ、こりゃ駄目だ! 熾南にやらせろ」
「ああ、わたしに任せておけ。骨の髄までこんがり料理してやる!」
たのもしく請け合った熾南のうしろ姿に、だれもが「ああ、また炭しか残らないな」という確信をいだく。――そのとき、森の奥からけたたましい女の子のさけび声が聞こえた。
「見つけた! グリンちゃ――――ん!!」
イラスト 柴玉様
 




