これより先は希望を捨てよ(後)
「なんとか言いやがれ! この餓鬼ッ!!」
東の空が白みはじめた明け方の上甲板に、コバルト船長の鋭い怒声が響き渡った。
ことの発端は一刻(約三十分)ほど前。見張りが陸地を確認し、上陸のための小船や荷物の積み降ろしが為されている最中に起きた。――みずからの血溜まりに沈む、涼府の遺骸が発見されたのである。
強力な障壁を有する魔族を殺せる者などそうはいない。すくなくとも船乗りたちには不可能だ。自然と容疑者は絞られる。――いや、むしろ明白とさえ言えるだろう。
「お前が涼府を殺ったんだろ!?」
すでに身支度を整え、下船を待つアルフラを、コバルト船長が険しい表情で睨めつける。とくに隠すつもりもないらしく、アルフラはその口許にうっすらと笑みをのぼらせていた。
「なにが可笑しいんだこの野郎!!」
激昂したコバルト船長の手が腰に吊るしたサーベルの柄を握る。同時に魔剣に手を伸ばしたアルフラを見て、水夫長がコバルト船長へ飛びかかった。
「駄目です船長!! 堪えて下さい!」
必死の形相でコバルト船長を押さえ込み、水夫長はその剛力で柄から腕を引き剥がす。もし彼がサーベルを抜いてしまえば、船員のほとんどが命を落としかねない惨劇へと発展する。水夫長はそう考えたのだ。そしてその危惧は正しい。上陸を間近に控えたこの現状では、船乗りの大半を殺してしまってもアルフラはなんら困らない。魔剣を抜いたついでに不要な命を刈り取ることに躊躇いはないだろう。
遠巻きに輪を作り、戦々恐々と成り行きを見守っていた船員のたちに水夫長の叱責が飛ぶ。
「お前らぼうっとしてんじゃねえ! 早く上陸の準備を済ませろ!!」
「ふざけるな!! 離しやがれッ!」
羽交い締めにされたコバルト船長が怨嗟の視線をアルフラへ向ける。
「この餓鬼を見逃せってのか!? 涼府が殺されたんだぞ!! 手前ェらそれでも“海の兄弟”かよ!!」
海賊仲間を指す隠語を発して荒れ狂うコバルト船長をなんとか抑え、水夫長はアルフラたち一行に懇願する。
「左舷に船を下ろしてあります。どうかあっしらには構わず行ってください」
「……アルフラちゃん」
やや距離を置いて静観していたシグナムに声をかけられ、アルフラは言葉を返すことなく水夫長たちに背を向ける。言われるまでもない。誰よりも上陸を急いでいるのはアルフラ自身なのだから。一刻を無駄にすればそのぶん白蓮との再会が遅れてしまう。
ほっと安堵の息を吐いた水夫長であったが、ぽつりと佇むジャンヌと目が合い顔色が蒼白となる。その害意溢れる視線は水夫長からコバルト船長へと流される。
神官娘からしてみれば、ここ数日の間にアルフレディア神への信心を身につけた涼府は、満願成就の夢叶い、女神の祝福を受けて安住の地に回帰した敬虔なる信徒なのだ。万人が羨望すべき涼府の死に様に対し、女神への暴言をもって応えたコバルト船長は断罪に値する背信者であった。――とはいえ狂人の心積もりなど常人には窺い知れるはずもなく、水夫長には仲間を殺された自分たちがなぜ憤怒の視線を向けられているのかが解らない。――神官娘はすでに、死神の王笏に手を添えていた。
「な、なあ……頼むよ。俺たちゃエーギルさんに言われた通り、あんたらを魔族領まで運んだだろ。そのうえ命までよこせってのは、さすがに理不尽じゃねえか……」
水夫長の声は震えていた。
相対するのは邪術を操り腐敗を齎す異端の司祭。常人には理解不能な教義に則り神罰を代行する異常者である。人間にとっての脅威度は偽神とさして変わりない。
緊迫した状況下、その窮地を救ったのは誰よりもジャンヌの扱いに長けた狼少女であった。
「ジャンヌ! アルフラがいっちゃうよ」
ぐいぐいと乱暴に祭服を引き、殺気を放ちはじめたジャンヌの意識をアルフラへと逸らす。
「……あ」
神官娘が振り返ると、女神さまはすでに縄梯子に手をかけたところであった。
「お待ちくださいアルフラさま」
すでにそれ以外のことは頭の中から消えてしまったらしく、ジャンヌはいそいそとアルフラのあとを追う。狼少女は航海の間、なにくれとなく世話を焼いてくれた船員たちを上手く助けられたことにほっと安堵する。そしてすこし困ったような顔で笑い、彼らにちいさく手を振った。
水夫長に口許を塞がれ、押し殺した罵声を上げていたコバルト船長もやや落ち着きをとりもどし、自身を拘束する太い腕を振り払う。
「なあ、嬢ちゃん……あんただけこの船に残らないか? あんな奴らと一緒に行ったら、ろくでもない目に遇うだけだぞ。嬢ちゃんひとりくらいならうちの商会で面倒を見てやれる」
コバルト船長も口にしてみてそれはとてもいい考えだと思ったらしく、さらに言葉を重ねる。
「なんなら行きたい場所まで送り届けてやってもいいし、俺らと一緒に世界中の港を巡ってみるのもきっと楽しいぞ」
「船長の言う通りだ。あいつらに着いていったら嬢ちゃんは間違いなく不幸になる。悪いこたぁ言わねえ。俺らと一緒に来なよ」
コバルト船長の提案は、好奇心旺盛な狼少女にとってどれほど魅力的に聞こえたのだろう。――ルゥは驚いたように目をまるくし、ついで一瞬だけ悲しげな表情を見せ、しかしすぐに元気いっぱいの笑顔でこう答えた。
「だいじょうぶ。ボクは白狼の戦士だからね!」
陸へと向かう船上で、シグナムはあまり意味がないとは知りつつも、アルフラに苦言を呈さずにはいられなかった。
「揉め事を起こせばそれだけ行程が遅れるのは……アルフラちゃんにだって分かるよな? 上陸したからって見境なく魔族に斬りかかってちゃあ、いつまで経っても皇城にはたどり着けないよ」
無言で陸地を見つめる横顔に、フレインもまた穏やかな口調で語りかける。
「沿岸部には魔族だけでなく、比較的多くの人間が住んでいると聞きます。せめて内陸に入るまではなるべく戦闘を控えていただければ、これからの旅路も順調なものになると思いますよ」
すこし考えるような間を置いて、アルフラは二人が驚くほど素直にうなずいた。
「うん、わかった」
魔族の領域南部。一路、沿岸の大都市計峰へと至る街道沿いの野営地には、三つの商会とその護衛たちで構成される八十名ほどの隊商が宿泊していた。彼らが運ぶ積み荷は良質な小麦や香油、精製された砂糖などといった贅沢品であった。これらは計峰の領主、条漸侯爵への献上品であり、この隊商には条漸直属の配下が護衛として同行していた。
未だ夜気覚めやらぬ払暁の頃合い。人の駆け寄る気配を感じ、紫響は扉を開く。
「あ……紫響様!」
戸口ではいままさに扉を叩こうと右手を掲げた壮年の男が、焦りと戸惑いの表情を見せていた。
「状況は把握している。賊であろう?」
「そうです! 街道の東から武装した者たちが近づいてくると見張りの者が――」
隊商のまとめ役たる壮年の男、彼の言葉を紫響は目顔でさえぎる。
「声を抑えろ。息子が起きる」
ちらりと向けられた視線の先では、まだ幼い年頃の男の子が一人、寝台の上で安らかな眠りの中にあった。
壮年の男は慌てて声をひそめる。
「も、申しわけありません」
紫響は戸口をくぐり、街道の東へと首をめぐらせる。
「……賊は二十人ほどか」
視認した野盗たちのほとんどがすでに抜剣している。そして高圧的な語調で何事かを叫んでいるようだ。おそらく金品を差し出せば、命は助けてやるとでも言っているのだろう。
「帯剣していない者が数人……どうやら魔族が混じっているようだな。お前らが雇った護衛だけでは手に余るか」
「はい、ですので紫響様にご助力いただければと思いまして」
「了解した。お前はここで待っていろ。すぐに戻る」
「ありがとうございます。どうか御武運を」
フッと鼻で笑い、紫響は気負いなく歩きだす。
「所詮は野盗風情に身を堕とした木っ端魔族だ。武運が必要となるような相手ではない」
臨戦態勢に移行した紫響からは、視覚可能なほどに色濃い魔力の気炎が立ち昇っていた。その頼もしい背中を見送りながら、壮年の男はふと気づく。街道右手の沖合いに、帆を畳んだ大型の帆船が停泊していることに。
漁船でもあるまいし何故こんな所に、と男は疑問に思う。
――野営地からでは死角になった近くの岩場に、二艘の小舟が接岸したことには誰も気がついていなかった。
悪寒をともなう強い肌寒さを覚え、魔族の少年、莉響は寝台から身を起こした。彼はあまり立て付けのよくない丸太小屋を寝床としていたからこんなに寒いのだろうか、と寝起きの頭で考える。そしてまだ眠たげな目をこすりこすり、室内を見回してみる。
「……父さま?」
となりに寝ていたはずの父がいない。
鎧戸や扉の隙間からは目映い朝の光が差し込んでいた。
父はすでに起き出して小屋を出たあとなのだと気づき、莉響も身繕いをはじめる。
それにしてもどうしてこんなに寒いのだろうか。小声でぼやきながら着替えを済ませたところで、莉響の幼い顔立ちが不思議そうな表情になる。
あまりにも静かなのだ。
ここは八十名からの隊商が寝起きをする野営地である。ふつうであれば日の出とともに起き出した人々がたてる物音や、商人たちの話し声が絶えず聞こえてくるはずなのだ。莉響もそういった雑多な生活音で目覚めることが常であった。それなのに今日に限っては、あり得ないような寒さを感じて目を醒ましている。
「なんでこんなに静かなんだろ……?」
まるで野営地の者たちがすべて死に絶えてしまったかのような静寂。
「はは……まさかね。こんなこと考えてたら、また父さまに莉響はこわがりだってからかわれちゃう」
ふだんは口にしない独り言をしきりにつぶやくのは、やはり不安のあらわれであろうか。
「……あれ?」
とりあえず外に出て、父を探しにいってみようと思い立った莉響が首をかしげる。
戸口から差し込む光がふと翳ったのだ。
おそらく扉の前に誰かが立ったのだろう。
「父さま?」
戸口へと駆け寄った莉響は、うすく開いた扉の隙間から――じっと内部をのぞき見る鳶色の瞳と目が合ってしまった。




