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氷の滅慕  作者: SH
六章 悲恋
241/251

これより先は希望を捨てよ(前)



 補給を終えた《女王エルメラの復讐》号は、(せわ)しなくも日没を前に(いそ)ぎ出航することとなった。アルフラに()かされたということもあるのだが、物見遊山に集まった人魚たちの悪意なき悪戯(いたずら)(おも)な理由である。コバルト船長は大切な乗船を、貝殻や海藻(かいそう)で豪華に飾り付けられることが()えられなかったのだ。

 出航後には多くの人魚が見送りに押し寄せ、ルゥはぽろぽろと別れの涙をこぼしながらナーシャへ向かっておおきく手を振りつづける。しかしどこまでも着いてくる人魚たちにすこし疲れてしまった狼少女は、あたりが暗くなると早々に寝入ってしまった。

 翌朝、ルゥが起き出すと、甲板上には餞別(せんべつ)魚介(ぎょかい)がこれでもかと投げ入れられていた。

 ぴちぴちと()きのよい海魚、蛸や烏賊(いか)などといった頭足類、若布(わかめ)昆布(こんぶ)。なかでもうねうねと不気味にうごめく海の悪魔が、狼少女の興味を()いたようだ。


「……これって大かいまの赤ちゃん?」


「いや、ただの蛸だ」


 おっかなびっくりといった様子で蛸の頭をつつくルゥに、涼府(りょうふ)がほほえましげな視線を向ける。


「かみつかない?」


「噛みつきはしないが絡みついてくるな」


 とくに害はないらしいと知るやいなや、狼少女は大胆にも蛸の頭をわしづかみにする。


「うひぃ!?」


 蛸に絡みつかれてなぜか嬉しそうにするルゥを、ジャンヌが遠巻きに見守っていた。神官娘は大海魔に手酷く締め上げられた経験から、触手に対して若干の苦手意識があるようだ。


「こっちの白いのはなに?」


「それは烏賊だな。見た目はアレだが切り身にすると(うま)い」


 片手に蛸、もう片方の手で烏賊を掴んだ狼少女は、それらを高く(かか)げ持ち、ご満悦(まんえつ)といった表情である。


「たこー、いかー。きゃあ――!!」


 とらえた獲物ににょろにょろと絡みつかれる狼少女を見て、涼府はその無邪気な様子にこれまで感じたことのない、不思議な心持ちとなっていた。その感情が庇護欲(ひごよく)と呼ばれるものであることに気づいたとき、意外と自分は子供好きだったのだな、と涼府は自覚する。



「ふむ……この航海を終えたら、所帯(しょたい)を持ってみるのも悪くはないかもしれんな」





 人魚の島から出航した五日目の夕刻。見張りの一人が北東上空を優雅に舞う水凪鳥(みずなぎどり)を視認した。これは畢竟(ひっきょう)、陸地が近いということの証左(しょうさ)である。コバルト船長は海図をしばし眺めたのち、アルフラたち一行を上甲板へと呼んだ。そして翌早朝(よくそうちょう)には目的とする魔族の領域南部に到達するであろうことを伝えた。


「いよいよか……」


 そうつぶやいたシグナムの口調は重く、表情には諦観(ていかん)の相があらわれていた。遠からず起こるであろう、アルフラによる殺戮を想像してしまったのだ。その予想を肯定するかのごとく、アルフラの総身からは(こら)えきれない喜悦(きえつ)(にじ)み出ていた。

 朱色の唇がうすく開き、白い呼気が()(こぼ)れる。

 愛しい人の名が(ささや)かれ、狂おしいほどの想念が(あふ)れだす。

 周囲に()()ちた寒気(かんき)の鋭さに、居合わせた者たちは思わず三歩退(しりぞ)いた。

 これまでほとんど感情の動きを見せることのなかったアルフラの豹変に、船乗りたちははぞっと背筋の凍りつくような寒気(さむけ)を覚えた。

 以前、コバルト船長や商会長エーギルが初見でアルフラから感じた漠然(ばくぜん)たる不安。それは天災や疫病などに対する(おそ)れや忌避感(きひかん)と同種のものである。そしていま、感情を(あらわ)にしたアルフラから想起(そうき)される印象(イメージ)は「死の蔓延(まんえん)」であった。この少女と数日とはいえ同じ船内で()ごして(いま)だ命があることは、望外(ぼうがい)の幸運であったのだと船乗りたちは知る。

 底冷(そこび)えのする寒さに震え、みな一様に立ち(すく)むなかで一人、ジャンヌだけがにこやかな笑みを口許に(たた)えていた。


「我が神はとてもお喜びです」


 コバルト船長に浅く目礼をし、謝意をあらわす。


「アルフラさまが魔皇を討ち果たしたのちには、その偉業の一助(いちじょ)(にな)いし者として、あなた方の働きは後世にまで語り継がれることでしょう」


 神も神ならそれを(まつ)祭司(さいし)もまた尋常(じんじょう)ではなかった。

 身を切るような寒さのなか、肌を火照(ほて)らせた神官娘が祈りの言葉をつぶやきはじめる。その病的に輝く(あお)い瞳は正気の者に生理的な嫌悪感を(もよお)させた。



 女神の歓喜は波風を呼び、やがて風のなかに白い綿毛(わたげ)のようなものが混じりだす。――南方海域には訪れるはずのない『冬』の到来であった。





 西の海に(よう)()した夜の()り。

 暗く波打つ海面を見下ろし、涼府(りょうふ)は火酒の壺を(かたむ)け喉を(うるお)す。

 アルフラたちの上陸を翌朝に(ひか)えたこの夜を、彼は人目につかぬ船の舳先(へさき)で飲み明かすことに決めていた。――なるべくアルフラから離れた場所で一夜を()ごしたいという切実な思いからの行動である。それというのもここ最近、なぜだか頻繁(ひんぱん)にアルフラと目が合うという恐ろしい体験をしているのだ。ふと気づくとじっと見られている。――相手がアルフラであれば、身の危険を感じるに充分な状況である。――やはり自分は命を狙われているのではないか。そう考える涼府の心情はごくごく自然なものと言えるだろう。

 夜の間は身を(ひそ)め、明るくなる前に船倉(せんそう)へ移動する。おそらく魔王に比肩(ひけん)しうるほどの力をもつアルフラであれば、わざわざ自分ごときを探し回ってまで殺しはすまい。涼府の目論(もくろ)みはそういった安直なものであった。――とはいえ不安はそうそう(ぬぐ)いされず、厨房から壺ごと持ち出した火酒の減りはおそろしく早い。

 つよい酒精はいい案配(あんばい)に酔いを回らせ、涼府はつらつらと今後の身の振り方について考えはじめていた。

 これまで色恋といったものに無関心であった涼府であるが、ここ最近で微妙な心境の変化があった。天真爛漫(てんしんらんまん)な狼少女と接するうちに、ゆくゆくは所帯を構え、みずからの子を(はぐ)んでみたいと思いはじめたのだ。それにはまず子を()すための相手が必要である。

 沿岸都市国でも有数の豪商から厚遇(こうぐう)される彼は、エンラムの繁華街ではそれなりの顔であり、女性から色目を(つか)われるという経験も少なくはない。気のいい酒場女や色事(いろごと)()けた娼婦(うかれめ)たち。そういった女と恋仲になってみるのも悪くはないかもしれない。


「……そうだな。子が欲しいのであれば年若い小娘よりも、手練(てだ)れの……いや、出産経験のある女のほうが……」


 ひとりつぶやき、涼府はふと苦笑をもらす。魔族と人との間に子を為せる確立は極めて低い。寿命の長い魔族であれば急がずともそのうちに、と気長に考えればよいのだが、人間を伴侶(はんりょ)とした場合、相手の女性に空虚な時間を強要することになりかねない。


「やはり異種族との色恋沙汰はなにかと難しい……。子を(はぐく)む以前に、まずは俺のようなはぐれ魔族と連れ()ってくれるような女を見つけて愛情を育まなくてはな」


 残りすくなくなった火酒を(あお)り、ひとり納得するかのようにうなずく。


「そうだな、この航海がおわったら――」


 独白めいてつぶやかれた言葉が不意に途切れる。

 背中に感じた軽い衝撃。

 不審(ふしん)に思い振り返ろうとしたところで視界が暗転した。

 声もなく絶命した涼府の背から魔剣が引き抜かれる。その体は膝から崩折(くずお)れ、座り込むような姿勢で力尽きていた。

 甲板に血溜(ちだ)まりを広げる遺骸(いがい)を見下ろしてアルフラは魔剣を鞘に収める。

 背後から心臓をひと突きにされた涼府。彼は断末魔(だんまつま)の悲鳴をもらすこともなかったため、あたりは静かなものだ。

 以前、レギウス教国において幾人もの術士を闇討ちした経験から、アルフラにとって夜間の暗殺は()れ親しんだ作業といえた。もはや特技と(ひょう)せる手際のよさだ。

 しばしの間、船の舳先(へさき)から暗い海を(なが)め、アルフラは(きびす)を返す。

 明日には待ち望んだ魔族領への上陸だ。――その前夜に人知れず命果(いのちは)てた魔族のことなどすぐに忘れてしまうだろう。アルフラにとって涼府とは、それほど矮小(わいしょう)な存在であった。並みの魔族より強い力を有するとはいえ、いまのアルフラからすればその魂魄(こんぱく)を取り込んだところで実感できるほど魔力の増強はなされない。実利の点で考えれば、とくに殺す必要もなかったのだが……すでにアルフラは決めていたのだ。――白蓮を奪われ雪原の古城を旅立ったあの怒りの日に。魔族を皆殺しにしてでも愛する人を取り戻すと。



 もとよりアルフラに、魔族を見逃すとなどという選択肢はなかったのである。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なぜ、これほどの作品が、たったこれだけの総合評価なのでしょう。もったいない……。 [一言] 続き楽しみにしております!!
[良い点] 迅速なフラグ回収お疲れ様です [一言] 正直例のセリフを見た瞬間に察した
[一言] 涼府次回死ぬなと思ったら今回死にました… ちょっと笑っちゃったので感想書いてみました
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