これより先は希望を捨てよ(前)
補給を終えた《女王エルメラの復讐》号は、忙しなくも日没を前に急ぎ出航することとなった。アルフラに急かされたということもあるのだが、物見遊山に集まった人魚たちの悪意なき悪戯が主な理由である。コバルト船長は大切な乗船を、貝殻や海藻で豪華に飾り付けられることが堪えられなかったのだ。
出航後には多くの人魚が見送りに押し寄せ、ルゥはぽろぽろと別れの涙をこぼしながらナーシャへ向かっておおきく手を振りつづける。しかしどこまでも着いてくる人魚たちにすこし疲れてしまった狼少女は、あたりが暗くなると早々に寝入ってしまった。
翌朝、ルゥが起き出すと、甲板上には餞別の魚介がこれでもかと投げ入れられていた。
ぴちぴちと活きのよい海魚、蛸や烏賊などといった頭足類、若布や昆布。なかでもうねうねと不気味にうごめく海の悪魔が、狼少女の興味を惹いたようだ。
「……これって大かいまの赤ちゃん?」
「いや、ただの蛸だ」
おっかなびっくりといった様子で蛸の頭をつつくルゥに、涼府がほほえましげな視線を向ける。
「かみつかない?」
「噛みつきはしないが絡みついてくるな」
とくに害はないらしいと知るやいなや、狼少女は大胆にも蛸の頭をわしづかみにする。
「うひぃ!?」
蛸に絡みつかれてなぜか嬉しそうにするルゥを、ジャンヌが遠巻きに見守っていた。神官娘は大海魔に手酷く締め上げられた経験から、触手に対して若干の苦手意識があるようだ。
「こっちの白いのはなに?」
「それは烏賊だな。見た目はアレだが切り身にすると旨い」
片手に蛸、もう片方の手で烏賊を掴んだ狼少女は、それらを高く掲げ持ち、ご満悦といった表情である。
「たこー、いかー。きゃあ――!!」
とらえた獲物ににょろにょろと絡みつかれる狼少女を見て、涼府はその無邪気な様子にこれまで感じたことのない、不思議な心持ちとなっていた。その感情が庇護欲と呼ばれるものであることに気づいたとき、意外と自分は子供好きだったのだな、と涼府は自覚する。
「ふむ……この航海を終えたら、所帯を持ってみるのも悪くはないかもしれんな」
人魚の島から出航した五日目の夕刻。見張りの一人が北東上空を優雅に舞う水凪鳥を視認した。これは畢竟、陸地が近いということの証左である。コバルト船長は海図をしばし眺めたのち、アルフラたち一行を上甲板へと呼んだ。そして翌早朝には目的とする魔族の領域南部に到達するであろうことを伝えた。
「いよいよか……」
そうつぶやいたシグナムの口調は重く、表情には諦観の相があらわれていた。遠からず起こるであろう、アルフラによる殺戮を想像してしまったのだ。その予想を肯定するかのごとく、アルフラの総身からは堪えきれない喜悦が滲み出ていた。
朱色の唇がうすく開き、白い呼気が洩れ零れる。
愛しい人の名が囁かれ、狂おしいほどの想念が溢れだす。
周囲に満ち充ちた寒気の鋭さに、居合わせた者たちは思わず三歩退いた。
これまでほとんど感情の動きを見せることのなかったアルフラの豹変に、船乗りたちははぞっと背筋の凍りつくような寒気を覚えた。
以前、コバルト船長や商会長エーギルが初見でアルフラから感じた漠然たる不安。それは天災や疫病などに対する畏れや忌避感と同種のものである。そしていま、感情を顕にしたアルフラから想起される印象は「死の蔓延」であった。この少女と数日とはいえ同じ船内で過ごして未だ命があることは、望外の幸運であったのだと船乗りたちは知る。
底冷えのする寒さに震え、みな一様に立ち竦むなかで一人、ジャンヌだけがにこやかな笑みを口許に湛えていた。
「我が神はとてもお喜びです」
コバルト船長に浅く目礼をし、謝意をあらわす。
「アルフラさまが魔皇を討ち果たしたのちには、その偉業の一助を担いし者として、あなた方の働きは後世にまで語り継がれることでしょう」
神も神ならそれを祀る祭司もまた尋常ではなかった。
身を切るような寒さのなか、肌を火照らせた神官娘が祈りの言葉をつぶやきはじめる。その病的に輝く碧い瞳は正気の者に生理的な嫌悪感を催させた。
女神の歓喜は波風を呼び、やがて風のなかに白い綿毛のようなものが混じりだす。――南方海域には訪れるはずのない『冬』の到来であった。
西の海に陽の没した夜の入り。
暗く波打つ海面を見下ろし、涼府は火酒の壺を傾け喉を潤す。
アルフラたちの上陸を翌朝に控えたこの夜を、彼は人目につかぬ船の舳先で飲み明かすことに決めていた。――なるべくアルフラから離れた場所で一夜を過ごしたいという切実な思いからの行動である。それというのもここ最近、なぜだか頻繁にアルフラと目が合うという恐ろしい体験をしているのだ。ふと気づくとじっと見られている。――相手がアルフラであれば、身の危険を感じるに充分な状況である。――やはり自分は命を狙われているのではないか。そう考える涼府の心情はごくごく自然なものと言えるだろう。
夜の間は身を潜め、明るくなる前に船倉へ移動する。おそらく魔王に比肩しうるほどの力をもつアルフラであれば、わざわざ自分ごときを探し回ってまで殺しはすまい。涼府の目論みはそういった安直なものであった。――とはいえ不安はそうそう拭いされず、厨房から壺ごと持ち出した火酒の減りはおそろしく早い。
つよい酒精はいい案配に酔いを回らせ、涼府はつらつらと今後の身の振り方について考えはじめていた。
これまで色恋といったものに無関心であった涼府であるが、ここ最近で微妙な心境の変化があった。天真爛漫な狼少女と接するうちに、ゆくゆくは所帯を構え、みずからの子を育んでみたいと思いはじめたのだ。それにはまず子を為すための相手が必要である。
沿岸都市国でも有数の豪商から厚遇される彼は、エンラムの繁華街ではそれなりの顔であり、女性から色目を遣われるという経験も少なくはない。気のいい酒場女や色事に長けた娼婦たち。そういった女と恋仲になってみるのも悪くはないかもしれない。
「……そうだな。子が欲しいのであれば年若い小娘よりも、手練れの……いや、出産経験のある女のほうが……」
ひとりつぶやき、涼府はふと苦笑をもらす。魔族と人との間に子を為せる確立は極めて低い。寿命の長い魔族であれば急がずともそのうちに、と気長に考えればよいのだが、人間を伴侶とした場合、相手の女性に空虚な時間を強要することになりかねない。
「やはり異種族との色恋沙汰はなにかと難しい……。子を育む以前に、まずは俺のようなはぐれ魔族と連れ添ってくれるような女を見つけて愛情を育まなくてはな」
残りすくなくなった火酒を呷り、ひとり納得するかのようにうなずく。
「そうだな、この航海がおわったら――」
独白めいてつぶやかれた言葉が不意に途切れる。
背中に感じた軽い衝撃。
不審に思い振り返ろうとしたところで視界が暗転した。
声もなく絶命した涼府の背から魔剣が引き抜かれる。その体は膝から崩折れ、座り込むような姿勢で力尽きていた。
甲板に血溜まりを広げる遺骸を見下ろしてアルフラは魔剣を鞘に収める。
背後から心臓をひと突きにされた涼府。彼は断末魔の悲鳴をもらすこともなかったため、あたりは静かなものだ。
以前、レギウス教国において幾人もの術士を闇討ちした経験から、アルフラにとって夜間の暗殺は馴れ親しんだ作業といえた。もはや特技と評せる手際のよさだ。
しばしの間、船の舳先から暗い海を眺め、アルフラは踵を返す。
明日には待ち望んだ魔族領への上陸だ。――その前夜に人知れず命果てた魔族のことなどすぐに忘れてしまうだろう。アルフラにとって涼府とは、それほど矮小な存在であった。並みの魔族より強い力を有するとはいえ、いまのアルフラからすればその魂魄を取り込んだところで実感できるほど魔力の増強はなされない。実利の点で考えれば、とくに殺す必要もなかったのだが……すでにアルフラは決めていたのだ。――白蓮を奪われ雪原の古城を旅立ったあの怒りの日に。魔族を皆殺しにしてでも愛する人を取り戻すと。
もとよりアルフラに、魔族を見逃すとなどという選択肢はなかったのである。




