La Isla Bonita ~美しき島~
うっかりとルゥに捕獲された人魚の娘、ナーシャは二十歳をいくらか越えたそこそこよいお年頃の乙女であった。
彼女はある日の昼下がり、日課である遊泳の途中に《女王エルメラの復讐》号を発見した。
人魚の常としてとても好奇心の強いナーシャは、めったに見ない大きなお船に夢中となり、ひょこひょこそのあとを追いかけた。
船上では幾人もの船乗りが作業を行っていたが、みなナーシャに気づきはしても、あえて目をそらし、見て見ぬふりを決めこんでいた。海の男たちは知っていたのだ。人魚は非常にいたずら好きであり、下手に関わりあうと、だいたいろくな目に遭わないということを。
すこし悲しくなってしまったナーシャはしょんぼりとしながらも、貝殻で船底に落書きをするという一人遊びをひらめいた。
《女王エルメラの復讐》号はその大きさに比例して、落書きできる面積も広かった。
船乗りたちにとってはいささか迷惑なやり甲斐を感じたナーシャは、その広い船底にみずからの半生を綴った一大絵巻を完成させることを決意したのだ。
途中で仮眠をはさみつつ、描きつづけること丸一昼夜。壮大な自叙伝の出来映えはなかなかに見事なものであった。どうやら彼女には絵心があったらしい。ナーシャ自身も満足し、すこし疲れたこともあり、仮眠のときに使った船尾の突起部分(舵)に身を寄せてお昼寝をすることにした。
「それでね、気がついたら大かいま? がおこした大波で、船に打ち上げられちゃったんだって」
なるほど、とシグナムはルゥの説明に首肯する。最後のあたりでだいぶ状況説明が省かれたような気もするが、たぶん話が長くてめんどうになったのだろう。いかにもルゥらしい。
人魚は呼吸器の作りが人とは異なり、水中での意思伝達が必要なため声帯もまた特殊であった。その声は非常に音域が高く、成人した者にはほとんど聞き取れない。会話にはルゥによる通訳が必要であるが、逆にナーシャのほうは問題なく人間たちの言葉を理解していた。
「しかし、子供にしか声が聞こえないってのも不便だな」
シグナムが独り言のようにつぶやき、ちいさなため息を落とす。そしてちらりと横目でアルフラの様子をうかがい見た。表情にあまり動きはないが、そこはかとなく不機嫌そうな気配が感じられる。どうやらアルフラにも人魚の声が聞こえてしまったらしい。
「なあ、人魚のねえちゃん。この近くに陸地はあるか? 知ってたら教えてくれ」
コバルト船長に尋ねられ、ルゥにお姫さま抱っこをされたナーシャがにこにこと答える。さきほどまで寒さに震えていた人魚姫の体には、緋色の導衣が掛けられていた。フレインの仕業である。彼は戦闘時頻繁に衣服を散失してしまうアルフラとルゥのおかげで、全裸の女性にさりげなく上着を着せ掛けるという特技を修得していた。ナーシャのゆたかな胸が隠されたことにより、船乗りや狼少女からは強い非難の視線がフレインに向けられている。
「あっちのほうにいくと人魚の島があるみたい」
ナーシャが北東の方角を指差し、大歓迎よ、と満面の笑顔で両手を広げる。
「そいつは助かる。予定してた寄港地で補給するはずだった水や食料を融通してほしいんだ」
水に関しては島に上陸すれば、そこかしこで湧水が見つかるはずだとナーシャは微笑む。
「食べ物はおいしいお魚と海藻をいっぱいくれるって」
ナーシャは厳つい船乗りたちに囲まれつつも物怖じすることなく、にこにこと身振り手振りを交えて話をつづける。
人魚の島まではおおよそ二日ほどの距離があり、海の氷が溶け次第、ナーシャが案内をしてくれることになった。
翌日にはアルフラの言葉通り、あらかたの氷が溶けていた。しかし嬉々として海に飛び込んだナーシャは、あまりの水温の低さにふたたび水揚げされ、船上の人魚となっていた。それでも《女王エルメラの復讐》号は偏西風に乗り、順調な航海を続ける。穏やかな波の谷間に美しい人魚の島が見えてきたのは、ナーシャを拾ってから二日目の正午過ぎであった。
島に近づくにつれ船の周りにはどこからともなく人魚たちが集まり、物珍し気な好奇の視線を向けてくる。船底に描かれた自叙伝は多くの人魚から好評を博し、巨匠ナーシャは鼻高々であった。
船上では島への上陸に備え、船乗りたちが慌ただしく動き回っていた。
「帆をたため――!」
コバルト船長の号令が波風に負けず響き渡る。
島の南側は遠浅の浜辺となっており、帆をたたんだ《女王エルメラの復讐》号から錨が降ろされる。
人魚の島で水と食料を確保するため、船員たちは三艘の小舟に分乗して上陸する手筈となっていた。
碧く澄みきった海の底には淡い色合いの珊瑚礁が広がり、まばらに見える真砂の白さは北限の氷雪をアルフラに思い出させた。島の植相もまた豊かで、濃い緑と色とりどり花々が広く群生している。
「――綺麗ですわ」
花を愛でるという感性からは程遠いジャンヌも、さまざまな色合いの南国花に思わず目を奪われていた。意外にも人魚の島への上陸を望んだアルフラのあとに付き従いつつ、神官娘は感嘆の息を洩らす。アルフラの足取りはまるで行き先が定まっているかのように確固たるもので、森林に踏みいろうとしたところで立ち止まり、無言のまま振り返る。その視線に「邪魔だからついてくるな」という意思を読み取ったジャンヌは、その場で足を止めて一礼する。敬愛する女神さまを見送る神官娘の背後では、なぜか涼府が同じように頭を下げていた。
おいてけぼりをくらい手持ちぶさたとなったジャンヌは、涼府を引き連れて浜辺へ戻る。途中、荷車と大樽を運ぶ水夫たちとすれ違うが、涼府は彼らを気にすることなく神官娘の三歩うしろを粛々とついて来た。
波うちぎわには人魚のナーシャと戯れる狼少女の姿があった。ルゥはすでに全身ずぶ濡れで、またたびでも食らった猫のようにナーシャへじゃれついている。そのにこにこと楽しげな様子がなぜかジャンヌには腹立たしい。狼少女はナーシャの豊満な胸がいたくお気に召したらしく、そのちいさな手は揉んだり摘まんだりとやりたい放題だ。人魚のナーシャはすこし困ったように微笑みながらも、狼少女のやわらかな髪をあやすように撫でていた。
「…………」
むっとした表情の神官娘が目をほそめる。
ほんの数日前までは、ジャンヌにべったりついてまわっていたルゥの心変わりがやはりおもしろくないようだ。
歩み寄ったジャンヌは若干のトゲを含んだ声で狼少女を揶揄する。
「ルゥは意外と気が多いのですね」
え? という顔で体ごと振り向いた狼少女は、意味がわからなかったらしくこてりと首をかしげる。それでもなにかばかにされているような気がしたらしく、ジャンヌとナーシャの胸を見比べて、ふんっとひとつ鼻を鳴らす。
「……なんですか、その勝ち誇った顔は」
ルゥの態度にかちんときた神官娘はきりりと眦を吊り上げる。
「よいですか、ルゥ。胸などというものは単なる醜い贅肉なのですよ。そのようなものに一切の価値はありません。――そうですね、涼府?」
「はい、仰せの通りです」
とつぜん話を振られた涼府はしかし落ち着いたもので、よどみなくジャンヌの望む答えを述べた。
「女性というものは、アルフラ様のように直線的で無駄のない体つきこそが至高。その神々しさはまさにすべての女性が辿り着くべき美の極致と言えましょう」
ジャンヌは満足げな様子で耳を傾け、ルゥは急に語りだした涼府をぽーっとした顔で見つめていた。
涼府はじつに運がよいと言えるだろう。
もしもアルフラがこの場に居たら、彼の命運は即座に潰えていたはずだ。女神さまはみずからの身体的特徴を指摘されるのが大嫌いなのである。
腕組みをし、ふっと勝ち誇り返したジャンヌの背後から、よく響く声が彼らを叱咤した。
「おい、お前ら! 遊ぶ前にまずは水樽運ぶの手伝えよ」
荷車に三つの樽を積んだシグナムである。
暑い日射しのなか重労働に励むシグナムは、薄手の貫頭衣が肌に張りつくほど汗にまみれていた。体の線がくっきりと浮き彫りになっており、一歩踏み出すたび、圧巻の胸元が傍若無人に揺れ動いている。じっとその様子を凝視したルゥが、なぐさめるようにナーシャの頭を撫でる。
「……相手がわるかったね」
「??」
なにに敗北したのかよくわからない人魚のナーシャは、やはり困ったように笑っていた。
補給の作業も終り、日暮れも間近といった頃合い。一人森林に踏み込んだアルフラが足取りも軽やかに帰還した。浜辺でその帰りを待っていたシグナムたちは、みょうに機嫌良さげなアルフラの顔を見て、ああ、なにか殺ってきたんだろうな、と察しをつけた。シグナムが事の詳細を聞いておくべきか軽く頭を悩ませている間に、アルフラが先に口を開く。
「ねえ、魔族の領域まで、あと何日くらいなの?」
「ん、ああ。たぶん十日はかからないって話だったが……あとで詳しく聞いておくよ」
「そうなんだ……」
鳶色の瞳を瞬かせ、心の原風景を見上げたアルフラは、夢見るようにうっとりと笑う。
「うん。――もうすぐだね」
持ち主の感情に呼応し、魔剣プロセルピナもうれしげな旋律を奏ではじめた。




