おっぱい
大海魔の偉容に気圧され及び腰となった船乗りたちを水夫長が叱咤する。
「ぼうっとしてんじゃねえ! 銛だ! 銛をあるだけ持ってこい!!」
しかし普段であれば命令一下、迅速に仕事をこなす船員たちの動きが悪い。幾人かが緩慢な動作で指示に従う意思を見せるも、多くの者はただ茫然とその場に立ち尽くしている。
はっとフレインの息を飲む声が聞こえた。
「大海魔の目を見てはいけません! あれはおそらく魔眼や邪視のたぐいです!」
あわてて目を背けたシグナムの耳に、助けを求める複数の声が届いた。
さきほど海へと投げ出された水夫たちだ。
欄干に巻かれた索具に駆け寄り、シグナムは海面を見下ろす。
「待ってろ! すぐに……」
船体にしがみつく五人の水夫に声をかけたそのとき、海面に無数の影が浮かび上がった。
水夫の一人がシグナムの顔を見上げてつぶやく。
「……だ、だめだ……腹になんか巻きついて――」
つぎの瞬間、恐怖に顔をゆがめた水夫が海中に引きずり込まれた。同時に――残りの四人も悲鳴を最後にその姿を消していく。
「……くそッ!!」
シグナムは力任せに拳で欄干を殴りつけた。ぎしりと耳障りな音をたて、木材に亀裂が走る。
「シグナムさま!」
不意に呼ばれて顔を上げると、海面から立ち上がった三本の触手が迫っていた。
「うおっ!?」
おそらく先ほど五人の水夫を浚ったものとは別の触手だ。そして涼府は依然、四本の触手と交戦中であり、大海魔本体の周囲にも幾本かの触手が見える。
あわてて船縁から飛び退いたシグナムが叫ぶ。
「――おい!! 計算が合わねえぞ! なにが八本足だよ!!」
視界に入っている触手だけでも、ゆうに十本を越えている。
三本の触手はシグナムを追う素振りを見せたものの、一瞬動きを止めた後、ジャンヌへ向かって殺到する。すでに迎え撃つ構えの神官娘は祈りの言葉を口ずさみつつ、神鎖“雷轟”を鞭のようにしならせた。
細い先端部を強打された触手が青い体液を撒き散らす。
たじろぎのたうつ触手が激しく甲板に叩きつけられた。
船体が大きく傾ぎ、回避行動に移ろうとしていたジャンヌは姿勢を崩す。それを後ろから抱きつくように支えたルゥであったが、神官娘の手により後ろへ押しやられた。迫る触手を避けきれないと判断したジャンヌは、狼少女を巻き添えにすることを嫌ったのだ。
一際巨大な触手が神官娘を絡めとる。それがぎちりと音をさせ、強かに華奢な体を締め上げた。
常人ならば瞬時の圧死を免れ得ぬ状況で、しかしジャンヌはかすかな苦悶の表情を浮かべたのみであった。
――神官娘の額を飾る黒瑪瑙の額冠。かつて神王レギウスから譲り受けた天界の至宝は、装着者に強い不死性と人外の膂力を宿らせる。
触手が捕らえた獲物を海中へ引きずり込もうとする頃合いには、ジャンヌも余裕をもって致命傷の呪文を完成させていた。
黒い粒子を振り撒く手刀が深々と触手に突き刺さる。
ぬめる体躯をびくりと震わせ、大海魔の本体がおぞましくも痛切な悲鳴をあげた。
神官娘を拘束していた触手が鈍色に変色し、力を失い萎れ落ちる。だが、無数に蠢く他の触手は未だ健在であった。
「そんな……」
爵位の魔族を一撃で絶命させた即死魔法。その呪文に絶大な自負心を持っていたジャンヌはしばし茫然としてしまう。
「……まさか触手の数だけ命があるということでしょうか?」
大海魔は十を越える触手を自在に動かすため、その付け根ごとに副脳を有している。各触手が個別に思考をし、本体とは独立した判断をくだせるのだ。そういった事実が関係しているのかもしれない。ともあれ触手のひとつを屠ったジャンヌを、大海魔は優先して対処すべき脅威だと認識したようだ。周囲の触手が指向性をもって這い寄り迫る。
「ルゥ、離れていてください!」
ジャンヌを守るように前へ出ようとした狼少女を制し、死神の王笏を握りこむ。致命の術では効果が薄いと見た神官娘は、大海魔の本体を直接腐海に沈めてやろうと考えたのだ。
押し寄せる触手を避けながら祈りの言葉を紡ぎはじめる。その視界にちらりと欄干から海面をのぞきこむアルフラの姿が見えた。
「アルフラさま!!」
まったくの無防備に見えるアルフラの背後では、いまにも獲物を押し潰そうとする触手が大きく先端を振り上げていた。しかしすでに気づいていたのか、アルフラは慌てることなく振り向きざまに魔剣を一閃する。そしてひらりと欄干に飛び乗り、横断した触手から吹き出た青い血潮をかわす。瞬間、それまで縦横無尽に捕食行動を繰り返していたすべての触手が動きを止めた。その体表は急速に黒ずみ、大海魔本体も、断末魔の悲鳴をあげることなくすみやかに沈黙する。
船上で決死の戦いを強いられていた者たちも、あまりに唐突な幕切れにただただ戸惑うばかりである。
大海魔以上に貪欲な魔剣プロセルピナは、わずか一振りでその魂魄をまるごと呑み干してしまったのだ。
「アルフラちゃん?」
依然、抜き身の魔剣を手にしたまま海面を見下ろすアルフラに、シグナムが不審気な声をかけた。
「もしかしてまだなにか……」
言いかけた言葉が不意に途切れる。
アルフラと並び立ったシグナムが目にしたのは、海中奥底より浮上してくる巨大な影であった。その大きさはすくなく見積もっても先ほど猛威を振るった大海魔の数倍。しかも海面に近づくにつれ、巨影はいまなお膨脹し続けていた。
「おそらく……これが神話に語られる海神ハイラードの落とし子です」
シグナムの背後からフレインの声が聞こえた。
「じゃあ、さっきアルフラちゃんが倒したのは……」
「大きさから推察するに、幼生だったのではないでしょうか」
これには周囲の船員たちも息を飲み、その場で唖然と立ち尽くしてしまう。
いまや大型船である《女王エルメラの復讐》号は、巨大な影の上に浮かんだ木の葉のようなものであった。このまま大海魔が海面に浮上するだけで、文字通り木っ端のように船体が砕け散ってしまうだろう。昔の船乗りが陸地と間違えて大海魔に上陸してしまったという逸話は、けっして絵空事ではなかったのだ。
最早対処のしようもなく、コバルト船長は懐から取り出した火酒の小瓶をぐいぐいと煽り飲む。酒を残したまま死ぬのはもったいないと考えたらしい。だが、船体を真下から突き上げるような揺れにより酒瓶を取り落としてしまう。
「うおッ、俺の酒が!?」
大災厄以前より存在する太古の神が、ついにその姿を現そうとしていた。
シグナムは甲板に伏せて激しい揺れをやりすごす。ルゥとジャンヌは支柱に結わえられた転倒防止の索縄に掴まり事なきをえた。しかし船縁に立っていたアルフラは手をついた欄干が中程から折れ、海へと投げ出されてしまう。そこは先にシグナムが殴りつけて亀裂を入れた箇所だった。
「――ア、アルフラちゃん!?」
焦った様子でシグナムが駆け寄る。
いかなアルフラといえども、大海魔と呼ばれる怪物を相手に水中戦は分が悪い。下手をすれば為す術もなく……そう考えたシグナムであったが、現状はまったく逆であることを知ることになる。むしろアルフラにとって水中にいる相手などなんら脅威となりえない。
轢音が大気を打ち据え、膨大な冷気が海面から吹き上がった。
白く烟った視界のなかに、悠然と佇むアルフラの立ち姿が見えた。足場としているのは弧を描いた状態で凍りついた三日月型の波。見渡す限りの海原は、一面氷に閉ざされていた。
波頭から飛び降りたアルフラが足許の氷に魔剣を突き立てる。深々と刺さった刃の切っ先は、古の邪神にしっかりと届いていた。
神話の時代より恐怖とともに語られてきた南海の大海魔。その最期は、氷の封土に埋もれたまま、より上位の神性にあまさず魂を啜り上げられるという無惨なものであった。
アルフラが下ろされた縄梯子から甲板に戻ると、船員たちは目を合わせないよう気をつけながらその様子をうかがい見ていた。
「しかしこれは……いったいどうなってやがるんだ……」
一瞬にして凍りついた大海原を見やり、コバルト船長は開いた口がふさがらないといった状態だ。
「この目で見ても信じられねえが……あの嬢ちゃんの仕業だよな?」
「まあ、アルフラちゃんだしな」
船長の手から火酒の瓶をひったくりつつ、シグナムは苦笑を浮かべる。
「そう驚くこともあるまい」
みょうに落ち着いた物腰の涼府に、コバルト船長はいやいやと首を振る。
「こんなもん誰だって驚くだろ。どう見ても人間業じゃねえぞ」
「アルフラ様であれば当然のことだ」
「うわっ、なんかこいつジャンヌみたいなこと言い出したぞ」
シグナムが嫌そうに顔をしかめる。
どうやら涼府はアルフレディア聖教に入信すれば、本尊であるアルフラの魔手から逃れられるのではないか、と考えているようだ。しかしその教義に「生け贄」という概念があることを彼は知らない。
涼府はなにごともなかったかのように船室へ戻ろうとする女神さまに深く頭を垂れる。
「あ、ちょっと待ってくれ嬢ちゃん」
呼び止められて振り返ったアルフラに引き攣った笑みが向けられる。
「すまないがあの氷をどうにかしてくれないか。このままじゃ船が進めず立ち往生だ」
えっ? という顔をしたアルフラに怪訝そうな視線が集まる。
「いや……とりあえずな、氷を溶かしてくれるとありがたいんだが……」
アルフラはまじまじとコバルト船長の顔を見つめ、次いで氷の海に目をやり、そしてまた船長へと視線を戻した。
「そういうのは無理」
「……は?」
「溶けなくするのはできるけど、その逆は無理」
予想外の答えに、コバルト船長の表情まで凍りついてしまう。
「おいおいちょっと待ってくれ! じゃあいつになったら氷は溶けるんだ!?」
「ほっとけばあしたの朝にはなくなってるとおもう」
「え、そうなのか?」
こくりとうなずいたアルフラに、コバルト船長はそれ以上なにも言えなくなってしまう。
「霧も晴れてだいぶ陽射しも強くなっているので、まる一日もあれば氷も溶けるのではないでしょうか。四方は暖かな海流にも囲まれていますし」
フレインが場を取り持つようにそう告げると、コバルト船長もたしかにな、と同意する。
「船長、とりあえず氷漬けの大海魔を肴に、みなでひとつ乾杯といきやしょう」
厳つい顔の大男、水夫長が陽気な笑顔で酒盛りを提案した。
「もちろん主役は海の悪魔を退治した我らが女神様だ」
話を向けられたアルフラは、あからさまにむっとした表情である。見た目はいかにも剛毅な風情の水夫長であったが、これには思わずたじろいでしまう。命知らずな海の男も、さすがにアルフラ相手に強気でいられるほど命知らずではないらしい。
「なあ、腹も減ったしまずは食事の用意をしてくれよ。ルゥも……」
そこでシグナムは、ふと狼少女が見当たらないことに気がついた。
「おいジャンヌ。ルゥはどこだ」
祈りの最中であった神官娘は、なぜわたしに聞くのですか、といった顔で答える。
「先ほどまでこのあたりに居りましたけど、いまは存じませんわ」
シグナムが甲板上をぐるりと見回してみると、船尾のほうからなにやら興奮気味なルゥの声が聞こえてきた。
「うわあぁぁ、おっぱいすごーーい!!」
「……おっぱい?」
真顔でつぶやくシグナム。
それまでアルフラの注意を引かないよう息をひそめていた船員たちも、おっぱい? おっぱい? とざわつきだす。
「ルゥ! おっぱいてなんだ?」
シグナムが呼びかけると、すぐに慌ただしい狼少女の足音が近づいてきた。
「おねえちゃん! ボク、すごいの拾っちゃった!!」
ふんふんと鼻息もあらく、なにかを横抱きにしたルゥがうれしそうに駆けてくる。
「ほらっ! 見て見て!! これってあれだよね!?」
狼少女が横抱きにしたそれは、たわわな乳房を抱きかかえて寒さに震える、とても美しい顔立ちの――
「――人魚!!」




