大海魔
船員たちに説法を始めたジャンヌを、シグナムが眉をひそめて見やっていた。その背後で、フレインが誰にともなくひとりごちるようにつぶやく。
「……霧が収まりませんね」
これにはシグナムもそういえば、と不思議に思う。以前、死霊の森で異常な濃霧に足止めをくらった経験から、今回はおそらく幽霊船が元凶であり、それをどうにかすれば霧が晴れるのではないかと考えたのだ。
「たぶんここは霧の海域だ」
操舵手とふたたび配置を代わったコバルト船長が重い口ぶりで告げる。
「なぜかは分からんが予定の航路から逸れて、だいぶ南に流されちまってる」
「霧の海域とは?」
問いかけたフレインに視線を移すことなくコバルト船長は答える。
「南の海に広がる、その名の通り霧に覆われた海域だ。一旦迷い混めば二度と出られない、ハイラード神の忌み子である大海魔の棲み処。俺たち船乗りに古くから伝わる話だ」
「ハイラード神の忌み子……ギルドの書物で読んだことがあります。産み落とした我が子のあまりのおぞましさに、海神ハイラードは南海に子を投げ捨て、霧の牢獄に封じ込めた、と」
「ああ、正直なとこ、俺は霧の海域自体が迷信みたいなもんだと思ってたんだが……」
「なあ、クラーケンてのはどういう化け物なんだ?」
ちゃんと分かるように説明しろ、といったシグナムの視線がフレインに向けられる。
「古い伝承では、小島ほどもある大きな蛸のような姿をしていると語られていますね。あまりの巨大さに生物とは認識出来ず、クラーケンに上陸してしまったという逸話があるほどです」
「……いや、まず蛸ってのがよく分からないんだが」
「八本足の気色悪い生き物だ」
「足が八本もあるのか!?」
ざっくりとしたコバルト船長の返答に、シグナムの脳内ではとんでもない怪生物が想像されたようだ。
「海に住んでるのになんで足があるんだ? 魚じゃないのか? しかも八本て……」
「なんにしてもこの海域から早く抜け出さねえと、じきに俺たちも幽霊船の二の舞だ」
「じゃあさっきの船はそのクラーケンて奴にやられたってことか」
「おそらくそうなのでしょう。クラーケンはただの怪物ではありません。ハイラード神の一子、神の一柱なのです。その異様な外見とはうらはらに高い知能を備え、船を沈めることなく餌箱をつつくように人を捕食するそうです」
「船乗りの間じゃ魂まで貪り喰われるって言われてるな」
「そいつがとんでもない化け物だってのは分かった。とりあえずは霧の海域ってとこから出れば襲われないのか?」
「たぶんな。だがそれ以前に、風が凪いでてほとんど海流に流されてる状態なんだ。いつこの海域から抜けられるのか見当がつかねえ。しかも羅針盤がいかれちまって方角すら分からない状況だ」
「羅針盤?」
「ああ、北方人のお前らが知ってるわけねえか……」
コバルト船長は外套の懐からくの字形に曲がったスプンのような物を取り出す。それを操舵輪のわきに据えられた木製の台座に乗せる。台座の高さはシグナムの腰ほどで、青銅製の金属盤が嵌め込まれていた。金属盤の上ではスプン型の磁石が微弱に揺れながらゆっくりと回転していた。
「これが羅針盤だ。こいつは本来、かならず北を指し示す便利な道具なんだが……霧の海域に入ってからどうにも具合が悪い。霧がなければ太陽の位置で方角を計ることも出来るんだけどな」
「霧か……」
シグナムはさきほどからぼんやりと頭上を見上げていたアルフラに尋ねる。
「なあ、アルフラちゃん。さすがに霧を消したりは……」
いくらアルフラでもそれは無理かと言葉を濁したシグナムであったが、あっさりとした肯定が返される。
「できるよ」
「――え!? 出来るのか!?」
シグナムとコバルト船長の声がきれいに重なった。
「うん、やる?」
「やってくれ! いますぐ頼む」
「わかった」
こくりとうなずき、アルフラは総身から真っ白な冷気を漂わせはじめた。周囲の大気が冷やされるにしたがい飽和水蒸気量は低下し、霧はよりいっそう濃度を増してゆく。
「お、おい! むしろ霧が濃くなってやがるぞ」
コバルト船長は強烈な寒気にがたがたと震えながら外套の前をかき合わせる。
いつの間にかジャンヌの説法の声も消え、やがて霧の中から神官娘と狼少女が姿を現した。
「アルフラさま、これはいったい……?」
ふたりの背後ではコバルト船長同様、寒さに身を竦めた船員たちが不安そうな目でアルフラを見ていた。
「な、なあアルフラちゃん。さすがにこの寒さはきつい。しかも霧が濃くなってるし……」
寝起きの肌着姿であったため、北国育ちのシグナムもかなり堪えているようだ。
一見、ただ単に霧を濃くしているだけのようにも思えるが、アルフラは現在、雑巾を絞るかのように大気中から水分を絞り出していた。霧の粒子が体積と数を増し、やがて甲板や帆柱に結露が生じる。水分を失った大気は密度を減じ、気圧差の影響で上空から暖かな空気が流れ込みはじめた。
「……風が……」
船員たちの間から声があがった。
やがて頭上から吹き下ろした風は海面にぶつかり、ゆるやかに渦巻きだす。空気の渦は上昇気流を生み、船の周囲からは急速に霧が晴れつつあった。
あっけにとられた様子でアルフラを見ていた水夫たちの顔は、しだいに畏敬と尊崇の表情へと様変わりしていた。
神官娘は当然です、といった顔で胸を張る。ふたたびアルフラへの祈りを強要しようとしたところで、見張り台からの叫び声が降ってきた。
「左舷の海面に気泡が見えます!!」
声が響くと同時、コバルト船長が操舵輪を大きく右に切る。
「くそッ! やっぱり出やがった!!」
「野郎共、剣を抜け――! 戦闘準備だ!!」
みずからは腰の手斧を片手に、水夫長が船内隅々にまで届く大音声で号令を下した。途端に周囲からは剣を抜き放つ鞘鳴りの音が無数に発せられる。
シグナムは長剣の柄に手を掛けたまま、じっと気泡の浮き出る海面を見つめていた。
「なあ、あれって本当にクラーケンてやつなのか?」
「たぶん間違いない。前兆なんだよ。船乗りの間じゃ有名な話さ。――霧の海域で海が泡立ち始めたらもう手遅れだ、ってな」
コバルト船長がそう応じると、シグナムはゆっくりと長剣を抜き放ち、邪魔になった鞘を足元に落とす。
「海面からなにかが……あ、足です!! 十一時方向!」
ふたたび見張り台から声があがり、船上の目がそちらへと集中する。気泡からはやや離れた船首左手。ほとんど波のない海面から、帆柱よりもなお太い「なにか」が突き出ていた。それは際限なくするすると空へ伸びていき、見る間に見張り台の水夫が頭上を見上げるほどの高さとなった。
思わずといった調子でシグナムがつぶやく。
「な、なんだありゃあ……」
「足だ! クラーケンの足だよ!」
「いや、あたしの知ってる足とだいぶ違うぞ!?」
そう、それは本来――触手、もしくは触腕と呼ばれるものであった。
その触手は異臭を放つ粘液を滲ませおり、ぬらぬらと不気味に濡れ光っていた。常時は日光の届かぬ深海を住処としているため体表は生白く、どこか生理的嫌悪を喚起する物凄まじい偉容であった。
船員たちがただただ呆然と見上げるなか――不意に天を衝く巨大な触手が降り下ろされる。直後、轟音とともに船体が揺れ、船縁にいた水夫が数人海へと投げ出された。
船上の触手は緩慢にのたうち、やがて逃げ遅れて下敷きとなっていた水夫の体に巻き付く。巻き付いた触手がかるく絞り上げられると、周囲には骨肉のひしゃげる異音が低く響いた。犠牲となった水夫はすでに意識がないのか、悲鳴ひとつあげることなくだらだらと口から血を溢れさせる。
「なにをしてる! クラーケンの餌になりたくなかったら戦え――!!」
あまりに酸鼻な光景を目にし、棒立ちとなっていた船員たちへ水夫長の檄が飛ばされた。
いち早く動いたのはシグナムだった。
触手へと駆け寄りざま大上段から長剣を降り下ろす。その刃は深く触手に埋まるも、シグナムの膂力を持ってしても振り抜くことができない。
巨大な触手はその自重を支えるため、それ自体が筋繊維の固まりで形成されている。筋密度も人のそれとは比ぶべくもなく、おそろしく堅い手ごたえにシグナムの顔に驚愕の表情が浮かんだ。しかも刀身が深く触手に食い込んでいるため、剣を抜くことすら困難であった。
シグナムの判断は早かった。
長剣を抜くには時間がかかると見るやすぐにそれを諦め、甲板に転がっていた水夫の得物を拾い上げる。舶刀と呼ばれる片刃の曲刀だ。
それを手に取ったシグナムが盛大に顔をしかめた。おそろしく軽かったのだ。
海戦を主とする船乗りたちは、長剣よりも刀身が短く刃も薄い舶刀や新月刀といった剣を好んで使う。これは足場が不安定で海へ落ちると致命的な船上では、取り回しの悪い長物は著しく不利であるからだ。同じ理由で金属鎧を着用する者もいないため、斬撃に特化した曲刀が海戦での最適解となる。対して、長剣は鎧を纏った敵をその重さで叩き斬ることを前提としているので、刀身も分厚く頑丈である。
普段から長剣や大剣を主武器としているシグナムからしてみれば、船乗りの使う曲刀はまるで玩具のように軽く、どうにも頼りなく感じられるのだ。
「くそッ!! 戦場でこんなもん使ってたらすぐ死んじまうぞ」
罵りながらもシグナムは全力で斬りかかる。舶刀の刃は触手の表皮を切り裂きはしたものの、そのまま強引に振り抜こうとした瞬間――かん高い金属音を響かせて根本から折れてしまった。
「――だよな! 分かってたよ!!」
叫んで手のなかに残された柄を投げ捨てる。やはり命を預ける相棒としては不十分だ。
水夫を捕らえた触手は剣による手傷など感じさせない挙動で、ずるずると海へ戻っていく。おそらく骨を砕いて柔らかくした餌を喰らうつもりなのだろう。
一旦この場を離れて船室まで大剣を取りに戻ろうかと考えたシグナムの背後で、鋭い破裂音が数度連続した。
振り返るとそこでは、四本の触手を相手に三面六臂の大立ち回りを見せる涼府の活躍があった。彼は船に近づこうとする触手へ次々と破壊の魔法を放ちそれを寄せ付けない。しかし軍船に風穴を空ける魔法の威力を持ってしても、触手にたいした痛手は与えられていないようだ。焦りを感じさせる涼府の声が響く。
「なんなのだこの化け物は!? 見た目と違って恐ろしく硬いぞ!!」
その後方、操舵輪の傍らでは、フレインもまたなんらかの魔法を詠唱しているようだが、魔族である涼府が苦戦を強いられている現状、彼がなにかの役に立つことはないだろう。
「――そういや、アルフラちゃんは……」
シグナムが辺りを見回すと、左舷の欄干から身を乗り出し、じっと海上の一点を見つめるアルフラの姿があった。その海面では一際大きな気泡が湧き立ち、徐々に黒い影が浮き上がって来ていた。
「なんだありゃあ……」
大量の海水を掻き分けぬらりと現れ出でたのは、ぼこぼこと歪な瘤を無数に生やした巨大な肉塊であった。 その途方もない大きさたるや、大型船である《女王エルメラの復讐》号と比べても、質量的にかるく数倍はあるだろう。そしてその異様な姿の最たるは、瘤に埋もれて落ち窪んだ眼窩からのぞく、鮮血色の真っ赤な眼球であった。その瞳は船上で右往左往する水夫たちを眺め、嘲りと愉悦の感情を示していた。塵芥のごとき小さな餌が、己の一挙手一投足で命を落とす様が楽しくてならないのだ。――人とはあまりにかけ離れているが、そこには確かに邪悪な知性が存在していた。
喜色に染まるおぞましい眼球の下部には、びっしりと密生した繊毛が長く伸び、まるで顎鬚のごとく異形の肉塊を飾りつけている。
「……神の一柱だと?」
さきほど聞いたフレインの話を思い返し、シグナムは絞り出すように吐き捨てる。
「ありゃどう見ても邪神だろ!!」
人の目から見ればおそろしく異質で異常な精神性を有する大海魔。この怪物を神と呼称することが適当であるのなら、アルフラもまた、まごうことなく神であると言えるだろう。
人間を餌としか認識していないその視線は、寸分違わずアルフラが魔族に向けるものと同質であるのだから。




