幽霊船
順調な船旅は、出航から四日目の朝に終わりを迎えた。
いまだ明けやらぬ未明の頃合い。突如として鳴り響いた警鐘がシグナムたちの眠りを醒ました。
寝台に立て掛けた長剣を掴みざま起き上がったシグナムは、同室であるフレインが同じように身を起こしたのを確認する。とくに声をかけるといったことはせず、急ぎ上甲板へと向かう。途中、みずからの名を呼ぶジャンヌの声が背後から聞こえた。
「シグナムさま、この音はいったい――」
「たぶん敵襲かそれに準じた緊急招集だ!」
階段を駆け登り上甲板に出た瞬間、生ぬるい湿った空気が肌を撫でた。
「――くそっ、また霧か……」
みじかく毒づいたシグナムが顔をしかめる。ここ最近、霧にはあまりいい思い出がない。厄介事の予感にうんざりしながらも周囲を見回すと、船首方向にちいさな人影が見えた。
「……アルフラちゃん?」
歩み寄ってみると、すでに魔剣を背負ったアルフラが前方を見つめて目をほそめていた。
「早いな、もう来てたのか」
振り向くことなく微かにうなずいたアルフラの脇を、三人の水夫が走り過ぎていく。鐘の音に起こされた船員たちが続々と上甲板へと集まり始めていた。
前方からは矢継ぎ早に指示を出す、水夫長らしき男の声が聴こえてくる。そちらへ歩きだしたアルフラにつられて歩を進めると、操舵輪に手を掛けたコバルト船長の姿があった。彼の隣ではがっしりとした厳つい顔の男、水夫長が胴間声を張り上げている。その声に従い四方へ散っていく水夫たちは、いずれもが腰に剣を差していた。
慌ただしく駆け回る船員たちを横目に、シグナムがコバルト船長の背に声をかける。
「おい、こりゃなんの騒ぎだ?」
「見張りの一人が船影を見たらしい」
「船影?」
「ああ、霧が濃くなってすぐに見えなくなったそうだが、かなりでかい……おそらくどこぞの軍船じゃないかって話だ」
「あぁ……もしかして戦いになりそうなのか?」
シグナムの問いになにかを答えようとしたコバルト船長であったが、それに被さるように頭上から声が浴びせられた。
「左舷前方に船影確認!! 距離およそ百二十(百十メートル弱)!」
前方帆柱の見張り台からの声だ。それを聞いたすべての者が十時方向に顔を向ける。白く濁った視界の中に、巨大な影がうっすらと垣間見えた。
コバルト船長が操舵輪から手を離し、脇に控えていた操舵手へと顔を向ける。
「おい、代われ」
言うが早いか、彼は左舷の欄干に駆け寄る。本来ならそろそろ陽も昇ろうかという時分なのだが、霧のために辺りは薄暗い。おぼろに見える船影にじっと目を凝らし、やがて引き攣ったつぶやき声を洩らした。
「おいおいおいおい……なんで艦首をこっちに向けてんだよ」
間髪入れずコバルト船長は叫ぶ。
「面舵いっぱーーい!!」
すぐに操舵手が復唱し、舵を右に切る。
かるく左舷側に慣性がかかり、よろめいたフレインの背をシグナムが支えた。
「なあ、これって……ぶつかるんじゃないか?」
いちじるしく視界の悪い濃霧のなか、二隻の進路は交錯するかのように見えた。一行の乗る《女王エルメラの復讐》号は船体の大きさに比例して、旋回性能にはいくぶん難がある。
「いや、さいわい風が凪いでる。ぎりぎり接触はしない、はずだ」
そう答えた操舵手の顔色は真っ青であった。あまり自分の言葉を信用していないようだ。
じっとシグナムが霧中の船影を注視していると、徐々にその輪郭がはっきりと見えてきた。船体はおよそ 《女王エルメラの復讐》号と同程度。三本帆柱の大型船だ。しかし前二本の帆柱は根元から折れ、残った後部帆柱にはずたずたに裂けた襤褸布が纏わりつくばかり。船体箇所にも破損が見られ、横腹には大きな穴が空いていた。
「幽霊船だ……」
どこからか呻くような船員の声が聞こえた。
多くの水夫たちが左舷の欄干から身を乗り出し、その異様な光景に唖然とする。
まず海上に浮いていること自体が不可思議なほどに破損した大型船。甲板上に人影はなく、そのことが余計に不気味さを際立たせていた。
「む、無理だ。そもそも避けられる距離じゃねえよ。俺たちも死霊の仲間入りだ……」
その震える声は、操舵手のものだった。
これはいよいよ危ないぞと感じたシグナムは、ちらりと横目でアルフラを見る。それに気づいたアルフラが幽霊船に顔を向けたまま言った。
「凍らせる?」
「……いや。むしろもっと酷いことになりそうだ」
船形の氷山と衝突する様子を想像したシグナムが首を振る。
「――俺がやる」
背後から聞こえたその声は、かつて軍船を魔法の一撃で沈めた魔族、涼府のものだった。彼がつかつかと左舷に歩み寄ると、コバルト船長が安堵混じりの怒声をあげた。
「涼府、遅いぞ!!」
「すまん。昨晩飲み過ぎて――」
言いざま、涼府が前方に手をかざすと、幽霊船の舳先で巨大な水飛沫が上がり、鈍い破裂音が空気を震わせた。
「おお――――!!」
船員たちから大きな歓声が沸き起こった。
幽霊船の前方下部で浸水が始まったらしく、その船体が前のめりに傾きだす。
「これは……圧縮した魔力を解き放ち、爆圧を生み出す魔法のようですね」
フレインが興味深げな顔で目を瞬かせた。シグナムもかるく目を見張り、涼府の顔を凝視する。その魔法の威力に驚いたということもあるのだが、彼女はふと思い出したのだ。以前、レギウス教国にオークが襲来した折、初めて戦った魔族が涼府と同種の魔法を使っていたことを。――だが名も知れぬその魔族より、涼府の力は数段上だろう。もしそのとき戦った魔族が涼府であったなら、自分はそこで命を落としていた可能性が高いとシグナムは考えた。どうやら将位の魔族に仕えていたという触れ込みに偽りはないようだ。しかし――
「おい、もう一発だ! このままじゃ間に合わねえぞ」
幽霊船は確実に沈み始めているのだが、その大きな船体が沈みきるには相応の時間が必要だ。コバルト船長の指示に従い、涼府はさらに二撃、三撃と強烈な破壊の魔法を放つ。
「くッ、やはり軍船というのは厄介だ」
「構造的にな、船底に穴が空いてもすぐには沈まんように出来てるんだ。――右舷に魔法を集中させて進路を逸らせないか」
すでに幽霊船の前方部分は水没しかけている。しかしそれにより持ち上がった船尾が《女王エルメラの復讐》号の横腹に衝突しそうだ。
そこかしこから絶望的な悲鳴が上がり、徐々に恐怖が伝播していく。
勇猛な船乗りたちも目前に迫った破滅を感じ、恐慌状態に陥ろうとしていた。ついには海神ハイラードに祈る者が出始めた段となり、アルフラの三歩後ろで静かに控えていた神官娘が大きく嘆息した。
「なんと不信心な。この船にはいと高き無窮の神がお乗りあそばされてるというのに……なぜ有象無象の小神などに祈るのでしょう」
祭服の裾を翻して歩きだしたジャンヌの後ろを、ルゥがちょこちょこと追いかける。
船縁に立った神官娘は天を仰ぎ、恍惚とした表情で大きく両腕を広げた。
「ああ、我は願う」
騒然とした船上に美しく清廉な祈りの声が響き渡った。
よく通るジャンヌの声は歌うような抑揚をつけて、切々と至高の女神アルフレディアの名を讚美する。それまで凪いでいた風が渦を巻き、神官娘の周囲から霧が吹き払われる。寄り添うように立っていた狼少女は驚いたように身を竦めると、あたりをきょろきょろ見回した。ジャンヌはすり寄ってきたルゥを左手で優しく抱きしめ、もう片方の手で死神の王笏を握る。
船上の混乱は一時収まり、水夫たちの視線は吸い寄せられるようにジャンヌへと向けられていた。
ゆったりとした祭服を風にはためかせる立ち姿は凛と美々しく、透き通った清らかな声もあいまり、例えようのない神々しさが場を満たしていく。しかしそれもつかの間、祈りの言葉が腐敗の詠唱へと変わると、とたんにねっとりとした瘴気がその身から滲みだした。
「腐界――《被虐の女神》――」
掲げられた王笏から溢れた腐敗の霧が爆発的に広がり、迫り来る脅威をひと呑みにする。
霧の中で朽ち果て腐り落ちる幽霊船を見て、船員たちがぎょっと目を剥き躰を硬直させた。
誰も彼もが息を詰め、さきほどまで騒然としていた船上は耳に痛みを覚えるほどに静まり返る。
やがて腐敗の霧が消え去ると、海面には異臭を発する真っ黒な腐汁溜まりだけが残されていた。
茫然とする船員たちに邪神の司祭が告げる。
「アルフレディア神の加護はここに示されました」
恐怖に限界まで見開かれた目がジャンヌに向けられる。その瞳はいずれもが幽霊船よりもよほど恐ろしげに神官娘の姿を映していた。涼府さえもが身をのけぞらせて畏れをあらわにしている。
「さあ、祈りなさい。あなた方をお救いくださったアルフラさまに、感謝の祈りを捧げるのです」
口々に女神アルフレディアを讃えだした船員たちを見て、ジャンヌはぞくりと身体を震わせた。その瞳は熱く潤み、仄かに頬を紅潮させている。彼女にとって神への祈りは精神的な自慰行為に他ならず、官能と悦楽をもたらす神聖な儀式なのだ。――しかし、女神さまご本人からは怒気のこもったきつい視線がそそがれていることに気づけていない。
この日、敬虔なるジャンヌの布教により、五十名を超える水夫たちがアルフレディア聖教に改宗した。




