楽しい船旅(前)
フレインの船室を出たジャンヌが上甲板への階段を登ると、よく晴れた青空の下、十人近い水夫たちが車座になって酒盛りをしていた。おそらく手の空いた夜番の者たちなのだろう。そのなかにはシグナムや船長であるジャン・コバルトの姿もあり、ジャンヌが船首の方を見てみると、航海士らしき男が船長に代わって舵を握っていた。
「ほんとうにこの船は大丈夫なのでしょうか……」
なにやら木札を使った賭博に興じている彼らに歩み寄り、神官娘はシグナムに告げる。
「フレインさまが一度お目覚めになられました。いまはまたお眠りになられていますが、命に別状はございませんわ」
「そうか……あとで見舞いに行っとくよ」
ちらりとだけジャンヌに目をやったシグナムは、すぐに手もとの木札に視線を戻す。負けが込んでいるのか、その表情はとても険しい。
「……アルフラさまの使徒ともあろうお方が、なんと嘆かわしい」
昼日中から酒を飲み、あまつさえ賭け事に耽るシグナムたちを冷たい眼差しで一瞥し、ジャンヌは彼らに背を向けた。アルフラを探して辺りを見回してみると、右舷前方の欄干から身を乗り出すようにして海を眺める狼少女の姿が目についた。
「ルゥ、気をつけないと海に落ちてしまいますよ」
ジャンヌが歩み寄り声をかけると、ルゥは欄干から飛び降りて笑顔を見せた。そしてぱふりと軽やかな音を立てて神官娘に抱きつく。
「海ってすごく広いんだねー。あの向こうにはなにがあるのかなあ?」
右腕をジャンヌの腰に回したまま、寄り添うように立ち並んだルゥが左手で海原の彼方を指し示す。
「ずっと南の方には氷に閉ざされた大陸があるそうですわ」
「え、そうなの?」
「はい。知識を司るラムザ神は、かつて私たちに世界儀というものをもたらしました」
「なにそれ」
「この世界を縮小した模型です。それによると、南の極には広大な氷の大陸が存在するらしいですよ」
「すごいね! でっかい氷が海に浮いてるの? じゃあそのもっと向こうには何があるのかな?」
好奇心に瞳を輝かせる狼少女は、見果てぬ大海原に心を飛び立たせたようだ。ふたたび欄干に駆け寄り、無心に水平線の先を食い入るように見つめる。
「氷の大陸の向こうにも海が続いていて、そこから真っ直ぐに進むとレギウス北部に行き着くはずです」
「??」
意味が分からない、といった顔の狼少女に、ジャンヌはくすりと笑いかける。
「この世界は丸いのですよ。一方向に進み続けると、同じ場所に戻って来るのだとラムザ神はおっしゃられています」
「ええー、うそだよ。地面がまるかったらボクたち落っこちちゃうもん」
「それは……なぜでしょうね」
困り顔のジャンヌが首をかしげると、近くで船具の手入れをしていた老水夫が二人に声をかけてきた。
「世界が丸いというのは本当じゃよ。儂ら船乗りは誰から教えられるまでもなく、昔からそのことを知っておった」
「そうなのですか?」
「ああ、俺たちは交代で見張り台から周囲の警戒をしてるんだがな、他の船を見つけたときは、決まって支柱の先っぽから見えて来るんだ」
老水夫はきょとんとした顔の狼少女に、なぜそういったことが起こるのかを分かりやすく説明した。
「ようするに、地面や海面てのはゆるやかな曲線で出来てるんだ。あまりにでかすぎて平たいように感じるが、実際はお日さまや月と同じで、俺たちが住んでる場所も丸いんだよ」
ほーっ、と吐息をついたルゥが納得したようにうなずいた。どうやら太陽や月が丸いからこの世界も同じなのだという単純な論理が、すんなりと腑に落ちたらしい。
「じゃあ迷子になっても真っ直ぐ歩いてけばちゃんと帰ってこれるんだ」
安心だねっ、と笑う狼少女にジャンヌは苦笑してしまう。
「さすがに帰り道を探したほうが幾分も早いと思いますよ」
しかしルゥはすでに話を聞いておらず、海原の向こうを見通そうとつま先立ちになっている。ジャンヌもそれ以上はなにも言わず、静かに寄り添い佇んでいた。――と、不意に狼少女がくるりと振り返る。視線の先にはゆったりと歩く一匹の三毛猫。その三毛猫は後尾帆柱の根本に座り込み、目をほそめて毛繕いをはじめた。
「……ねこ」
ぽつりとつぶやいたルゥに、老水夫が人の良さげな笑顔を向ける。
「船乗り猫じゃよ。大型船の航海ではネズミ避けに猫を乗せるんだ。とくに穀物を運ぶ船にとっては欠かせない相棒なんじゃ」
ルゥはやや緊張の面持ちで三毛猫を見つめる。狼の獣人であるルゥは基本、小動物からひどく警戒される。この船乗り猫のように、おそれ気もなく寛いだ様子を見せることは非常にめずらしい。
どうやら狼少女は三毛猫に触れてみたいらしい。しかし近づいたら逃げてしまうのではないか、という葛藤が表情にありありと浮かんでいた。
「あいつはねここという名前なんじゃ。機嫌がいいときは呼べば寄ってくる」
言われたルゥは期待に満ちた瞳で船乗り猫を見る。
「ねここ……おいで、ねここー」
ねここは毛繕いの舌を休ませて狼少女に顔を向けた。だがすぐにまた、ぺろぺろと右の前足を舐めはじめる。ルゥはむぅ、とうなって考えこんだ。
「…………にゃーん」
考えたすえに、鳴き真似で気を惹こうとしたようだ。――が、ルゥのそれはおそろしく棒読みだった。あまりに雑な鳴き真似に、ジャンヌがすこし驚いた顔で狼少女を見る。ねここもびっくりしたようにヒゲを震わせてルゥを注視していた。目論見外れて悲しげな顔になってしまった狼少女を見かねて、老水夫が助け船を出す。
「ねここは釣りをしてるとおこぼれを狙って近づいてくる。やってみるかね」
「釣り?」
「魚を釣り上げるんじゃよ。どれ、竿を持ってきてやろう」
踵を返した老水夫はほどなく二本の釣竿をかかえて戻ってきた。
「あ、わたしは結構ですわ。ルゥが釣るのを見ています」
「ふむ。ならば……」
老水夫は懇切丁寧に釣りのしかたを説明する。ルゥは物珍しげに釣竿と疑似餌をぺたぺた触りながらうなずいていた。その視線がそわそわとねここへ向かう。船乗り猫も釣竿を持った狼少女をじっと観察していた。
「……ただ、いまは追い風で船脚も速いから、すこし釣れにくいかもしれんな。まあ釣りってのは気長にやるもんだ」
ねここを意識しながら釣糸を海に垂らすと、さっそくその足許に船乗り猫が寄ってくる。
「わあっ」
猫がみずからルゥに近づいてきたのは生まれて初めての快挙だった。ねここは魚が釣れたらいつでも横取りできる態勢である。
「ジャンヌ、これ持ってて」
釣竿を渡した狼少女はその場で四つん這いとなり、伏せるような姿勢で船乗り猫と目線を合わせた。そしておもむろに手を伸ばし、ねここの額を指でぐりぐりとやる。
乱暴に扱ってねここに逃げられてしまうのではないか、とはらはらしながら見守っていた神官娘であったが、意外にもその心配は杞憂であった。むしろ船乗り猫はルゥに全身を撫で回されて喉をごろごろいわせている。同じ四足獣同士、狼少女は触れられると気持ちのいい場所を心得ているのだ。
「――あっ、ルゥ。なにかものすごく引いていますよ」
ジャンヌの持った釣竿の先端がしなり、大きな弧を描いていた。
「わわっ、かしてかして」
「引き具合からしてなかなかの大物じゃな。あまり力任せに釣り上げようとすると糸が切れるぞ。網を持ってくる」
老水夫が早足で駆けていく。
ルゥの足許でねここがキラリと目を光らせた。
すぐに長柄の網を両手に持った老水夫が戻ってくる。
「よし、ゆっくりと魚を引き寄せてくれ」
欄干の下から半身を乗り出した老水夫が網を海面に向けた。
「おお、こりゃねここよりもでかいの」
船体に釣り寄せられた魚影は、船乗り猫と比べても二回は大きい。
「きょうはおさかなパーティーだねっ」
狼少女ははしゃいだ声を上げて後ろに下がりながら軽々と竿を引く。いまだ新月期ではあるが、月長石の効果でその膂力は成人男性を遥かに上回っている。
「網に入ったぞ」
老水夫の声と同時、竿を引く力が失せて、しなりも消える。ルゥはたたっと欄干に走り寄り、海面をのぞきこんだ。網のなかでは丸々と肥えた黒い魚が激しく暴れている。
「やったあ! すごくおっきいよ! ねぇジャンヌ、見て見て!」
言われるがまま神官娘が船縁に立った瞬間、突如として海面から巨大な影が跳ね上がった。それはぱっくり顎門を開き、三列に並んだ鋭い牙で網ごと魚の半身を食い千切った。流線紡錘型の巨躯に白い腹、背中や鰭は濃い暗灰色。――頬白鮫である。その口の大きさたるや、ルゥの体が丸ごと入ってしまいそうな規格外の代物であった。
「ぅひい!?」
間近で頬白鮫の捕食を目の当たりにした狼少女は、ぺたりと尻餅をついてしまう。
ほんとうに居たのだ。数日前にシグナムが言っていた、ルゥをひと呑みにしてしまうほどの巨大魚が。
いまにも失禁しそうな顔で震える狼少女の傍らでは、ジャンヌが神鎖を構えて仁王立ちしていた。ふたたび鮫が飛び出してきたら、したたかに打ち据えて肉片にしてやろうと意気込んでいる。しかし海面から突き出た三角の背鰭は、船から急速に遠ざかっていく。あとには鮫に咬み切られて半分になってしまった魚だけが、ぷかぷかと波間に漂っていた。
がくがくぶるぶると震える狼少女に老水夫が声をかける。
「そう怯えんでも大丈夫じゃよ。鮫は絶対に人は襲わんからの」
「そうなのですか?」
臨戦態勢を解き、腕にくるくると鎖を巻きながらジャンヌが応じた。
「うむ、このあたりでは人魚が頻繁に見れるでな」
「……?」
鮫が人を襲わないことと人魚になんの関係が? という顔をした神官娘に老水夫が笑いかける。
「人魚はとてもいたずら好きでな。よく鮫を追いかけ回して遊んでおるんじゃ」
「えっ、人魚ってサメよりつよいの!?」
狼少女はびっくり眼である。エンラムで見た劇場の影響で、人魚は可憐で美しいもの、という固定観念が出来上がっていたのだ。さきほど見た、巨大なぎざぎざ顎門の怪物魚より強いとはとても思えない。
「水中で人魚に敵う者などおらんじゃろ。あいつらは水の魔法が達者じゃからな」
そう言って老水夫は日に焼けた顔を笑みにほころばせる。
「儂はさっきの奴よりでかい鮫が空に打ち上げられるのを見たことがあっての。そりゃ唖然としたもんじゃ」
「打ち上げ……それは人魚がやったのですか?」
「うむ。いきなり沖合いに水柱が上がってな。何事かと思うたら馬鹿でかい鮫が空に舞っておったんじゃ。ありゃこの船の帆柱より上がっとったな」
老水夫は喉を鳴らして笑う。
「その鮫が落っこちたときの水飛沫は見物じゃった。あまりの衝撃で鮫は気絶しとったよ。腹を上にしてぷかぷかとな」
目をまんまるにして聞き入る狼少女に老水夫も上機嫌だ。
「それをやった人魚の方も大慌てじゃったな。鮫が死んでしまったと思ったらしく、わんわん泣いておった。人魚にしてみれば、ただ鮫と遊んでいたつもりだったんじゃろう。――まあ、あいつらは加減を知らない子供のようなものなんじゃよ」
ジャンヌがちらりと横目でルゥを見る。人魚と狼少女はとても気が合いそうだ。そして納得したようにひとつうなずく。
「もしかして、鮫は人と人魚を見分けられないのですか?」
「察しがよいの。鮫というのは視力が弱いらしくてな、人を見てもすぐ逃げていく。さっきの鮫も海から飛び出したとき儂らに気づいたんじゃろう。食った魚の半分を残して逃げ出すくらいだから、よほど怯えとったんじゃな」
話を聞いていたルゥが、おおきな瞳をくりくりとさせて釣竿を掴む。
「ボク、人魚釣りたいっ」
「いや、さすがに疑似餌じゃ人魚は釣れんよ。なにかの弾みで針に掛かっても、あいつらなら簡単に糸を切っちまう」
「そうなんだ……」
落胆した様子の狼少女に老水夫が右手を伸べた。その頭をわしゃわしゃと撫で、腰の巾着袋から干した魚の切り身を取り出す。それをルゥの手に持たせてやり、ニッと愛嬌のある笑みを浮かべた。
「そいつを食べながら飽きるまで釣りでもしてるといい。儂はまだ仕事が残っておるからな」
手入れをしていた船具を仕舞い、老水夫は左舷の方へと歩いていく。
「儂はそのへんにおるから、なにかあったら呼んでくれ」
ばいばーい、と手を振った狼少女が、干した魚をぱくりとひと口にした。そしてきょろきょろ辺りを見回す。
「どうしました?」
これには応えず、ルゥは船体後尾に積まれた索具の束へと駆け寄る。そのなかから太めの帆縄を選び、みずからの腰に結びはじめた。
「ルゥ、なにをしているのですか?」
「いいこと思いついたの」
たぶん悪いことなのだろうな、と思いつつジャンヌは首をかしげる。
「これ持ってて」
ルゥが腰に巻いた縄の端を差し出した。
「ボクが人魚を探してくるから、捕まえたら船にひっぱりあげてね」
「……え? それはさすがに――」
無茶なのでは、と言いかけたジャンヌの目の前で、狼少女はぴょいっと海に飛び込んでしまった。
「ええぇ――――!?」
驚きのあまり、思わず手離しそうになった縄を掴み直し、幾重にも手首に巻きつける。
海面を見下ろすと、狼少女がぱちゃぱちゃと水を掻いていた。しかし犬掻きで帆船の速度に追いつけるはずもなく、みるみる引き離されていく。ルゥの顔も徐々に必死なものとなり、忙しなく手を動かすが、じきに命綱はぴーんと張りつめてしまった。
こうなるとすでに、泳ぐのではなく船に引きずられているような状態である。狼少女は波に呑まれて、あっぷあぷと手足をばたつかせるばかり。ルゥの思いついた『いいこと』は、あっという間に大惨事となっていた。
「ルゥ、ルゥ!! 大丈夫ですか!?」
あせった様子で叫ぶジャンヌに、狼少女も何事か言葉を返しているが、
「はや……ひっ……しん……」
波間に浮き沈みしながらなのでよく聞き取れない。どう見ても溺れているのだが、あわてた神官娘は手にした命綱の存在を失念しているようだ。
「な、なんですかルゥ!?」
おろおろと問い返すジャンヌの命綱が強い力で引かれる。
「はやく……ひっぱって! ……しんじゃうー……」
あっ、と声を上げ、ジャンヌは手首に絡めた綱を両手に掴む。
「すぐに助けますから、がんばってください!」
がぼがぼぶくぶくと返事をする狼少女を励ましつつ、ジャンヌは命綱を手繰り寄せる。船体付近まで引き寄せて海面から吊り上げると、腰に巻きつけた縄が腹部を圧迫し、ルゥは激しく咳き込む。そしてけぽけぽと海水を吐き出した。
ようやく甲板上に水揚げされたころには、すでにルゥはぐったりとしてしまっていた。
「うぅ~、しんじゃうかとおもったー」
狼少女の非難がましい目がジャンヌへと向けられる。
「すみません。つぎはすぐに――」
「もう二度とやんないっ!」




