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氷の滅慕  作者: SH
二章 欲望
23/251

進化する白蓮



 魔族の領域中央部、魔王たちの集いし場所、皇城。


 白蓮が皇城に到着してから数日が経過していた。彼女が自室として割り当てられたのは、客室の中でも最上級の部屋だった。

 客室とはいっても、居室へつづく扉を開くと、まずは控えの間があり、さらに続きの間、居室、寝室、応接室、使用人に割り当てられる部屋までもが完備された、複数の部屋から構成された豪華なものだ。

 そして現在、白蓮は日当たりのよいテラスに備えつけられた木卓の前に腰掛け、優雅な手つきでティースプーンを(もてあそ)んでいた。


「それで、ですね。東部の者たちが言うには、私の“禍”の文字が気にいらないらしい」


 退屈そうな白蓮の正面――高城の煎れた紅茶で唇を湿らせた戦禍が、額に片手をあててぼやいた。

 彼は毎日必ず、昼の決まった時間に白蓮の居室を訪れては、優雅なお茶の時間を楽しんで帰る。


 高城は、このお方はいったい何をしに来ているのだろうと、すこし不思議に思っていた。

 多忙なはずの魔皇が、昼間から実のないお喋りを、毎日かかさずしに来るのだ。


「お前の力は認めるが、初代皇帝陛下の一字をその名に(いただ)くとは何事か、と言う訳ですよ。――それどころか、即位したのだから号を変えろとまで言う」


 戦禍は苦笑しながらも饒舌に話す。普段は他愛もない世間話や、ゆったりとした沈黙の時間が繰り広げられるのだが……今日はいつもとは打って変わり、やや愚痴っぽい話が展開されていた。

 諸王をまとめる作業が難航しているらしい。


 白蓮はいささかうんざりとした様子でそれ聞いていた。


「私だってね、意識して名乗っている訳ではないのですよ。生まれた時に付けられた名です。けしからんと言うのなら、親にでも言って欲しい。そうは思いませんか?」


「……あなたは私に、わざわざ愚痴を言いに来たの?」


 なんとも言えない顔の白蓮が、ため息まじりに問い返す。


「ああ、いえいえすいません。そんなつもりは無かったのですが、すっかり仕事の愚痴になってましたね」


 戦禍が天を仰ぎながら、悲しげな顔をした。どこか芝居がかった大仰な仕種が、なかなかに似合う男である。


「皇城にいらしてからの数日、貴女のご機嫌がとても優れないようなのでね。今日は贈り物を用意して来たのですよ」


「……長い前置きだったわね」


「はは、あまりいじめないで下さい。――ウルスラ! 入りなさい」


 戦禍がひとつ手を叩き、扉の方へ呼びかけた。


――アル……いえ、ウルスラ?


 褐色の肌をした少女が扉を開く。

 白蓮の眉がかるく跳ね、興味を()かれた蒼い瞳が向けられる。馴染み深い名前とよく似た響きの名で呼ばれた少女へ。


「失礼いたします」


 テラスへ姿を現したのは、歳の頃でいえばアルフラよりもやや幼い顔つきの少女だった。

 扉の外に誰かが立っているのは、白蓮と高城も気づいていた。戦禍のすることなので、とくに疑問を口にのぼらせるでもなく放っておいたのだ。


「挨拶を」


「はい、あたしは黒エルフの女王の娘、ウルスラ・ル・ケウィンと申します。行儀見習として皇城へやってきました。このたびは白蓮さまの身の回りのお世話をするようにと、魔皇陛下より(たまわ)りましてございます」


 ウルスラと名乗った少女は、なめらかな口上で気品のある礼をして見せた。


「……小間使いなど必要ないわ、高城が居れば事足りている」


 ウルスラへ向けられた白蓮の視線は、すでに興味を失ったかのように戦禍へ戻されていた。

 名前の響きには誘われたが、ウルスラの外見や物腰は、とくに気を惹くものでもなかった。


 確かに美しい娘である。艶やかな黒髪と神秘的な黒い瞳。褐色の肌は絹糸のようになめらかで、目鼻立ちの造形も黒エルフの王女に相応しい気品がうかがえる。


 大方の者ならば、その端正な容姿を褒め讃えたであろう。しかし、白蓮の審美眼を通して見れば、これといった感想のひとつも浮かんでこない。なんせ彼女は、鏡を見ればこの世で最も美しいと誉めそやされる美貌を、いつでも好きなだけ眺めることが出来るのだ。


「だいたい行儀見習とは言っても、ていのいい人質でしょ? あなたの傍にはべらせておけばいいのではないかしら」


 新しく即位した魔皇に対し、黒エルフ族が恭順の意を示すための人質。――そういうことだ。


「本人の前で、そう明け透けと指摘するのもどうかと思いますよ。無理にとは言いませんが、しばらくは使ってやって下さい」


 苦笑しながらも、戦禍は黒エルフの王女を白蓮の方へと押し出す。

 とうのウルスラは、茫然と白蓮の顔に見入っている。最初こそやや緊張の面持ちであったが、今では目がくぎ付けとなっていた。


「……」


 白蓮がかるくため息をつく。ウルスラの反応は、初対面の男性からは決まって受けるものだった。それが己の容貌に原因のあることも心得ている。


 しかし……


――最近は女子供にまで効果で出るようになったわね……


 いったいなんなのだろう。――もう一度ため息が出た。


「では高城、あとの事はよろしく頼む」


「あっ……ちょっと……」


 さっさと出て行こうとする戦禍を、白蓮が呼び止める。


「たまにはそのくらいの歳の子と話すのも、よい息抜きとなるでしょう」


 なにやら変な気を遣っているらしい戦禍が、後は若い者同士で、といったのりで退室していった。


「まったく……」


 戦禍はこう思ったのだ。皇城に来てから、見るからに機嫌の優れない白蓮――あまり感情を表に出さない彼女が、誰の目にも明かなほど気分が沈み込んでいる。これは相当な重傷であろう。その原因は、アルフラという人間の少女と引き離されたせいに違いない、と。


 どうやら同じ年頃の少女をあてがい、白蓮の機嫌をとろうと考えたらしい。


「……」


 白蓮の視線がウルスラの頭頂からつま先までを往復する。


――名前と性別以外、似てる所なんてないわ……


 三度(みたび)ため息がこぼれ出る。

 白蓮の不躾な視線にさらされ、ウルスラは褐色の肌を染め、恥ずかしげにうつむいてしまう。

 その反応はどこかアルフラに通ずるものの、白蓮にとってはあまり好ましいとは感じられなかった。


 口にはのぼらせることなく白蓮はぼやく。



――はぁ、本当に……こんな娘を押し付けて、私にどうしろと言うのよ……





 白蓮の居室で、ウルスラは高城から基本的な仕事の説明を受けていた。

 主の好むお茶の煎れ方、好みの葡萄酒の銘柄、接する際に普段から気をつけておかなければならないこと。――総じて気難しい性質の主人である。


「ウルスラ、お前はいつまで私の小間使いをするよう命じられているの?」


 白蓮はウルスラをことあるごとに名前で呼んでいた。

 主に仕えて五十年ほども経つ高城は、大変珍しいことだと思っていた。


 白蓮は、面と向かって相手の名を呼ぶことをあまりしない。だいたいが、お前かあなたで済ませてしまう。

 戦禍に対しても、ほとんどの場合「あなた」なのだ。


 白蓮はウルスラの名を呼ぶ時、その響きに妙な心地の良さと同時に、暗澹(あんたん)としたものが心に染み入るような、全く逆の感情が呼び起こされていた。


 心地好い不快感。


 背信する二つの感覚が、彼女の一番のお気に入りだったその名と、よく似た響きを持つウルスラの名を、頻繁に白蓮の口へのぼらせていた。


「特にいついつまでお仕えするようにとは、言い(つか)っておりません」


「そう……まったくどういうつもりなのかしらね」


「魔皇さまの考えられることですので、あたしのような者がいくら愚考を重ねようと、及びもつきません」


「……」


 おうよその見当がついている白蓮は黙りこみ、ウルスラの顔に目をやった。そしてまたため息。――――やはり……まったく違うのだ。


「でも、白蓮さまのような高貴な方のお世話をさせて頂くことは、大変光栄に思っています」


 一瞬、白蓮と目が合ってしまったウルスラは、なにか眩しいものでも目にしたかのように、慌てて視線を逸らす。


「ウルスラ……私のことは好きに呼んで構わないわ。それと、あまりかしこまった物言いもしなくていいのよ。普通に喋りなさい」


 どこかしら、既視感を覚える会話がなされていた。


「いえ、そんなっ! あたしは行儀見習で参ってますので、言葉使いはきちんとしないと」


 白蓮の口が開きかけ、その美貌が何かを思い出したかのように、一瞬――ほんの一瞬だけ悲しげに歪んだ。しかしそれは、決して目の前の少女に向けられたものではなかった。


 つぎにその薄い唇が開かれたとき、内心の想いとは全く別の言葉が紡がれた。


「そう……そうね。あなたの好きにするといいわ」


 ウルスラに、その想いを汲み取ることは出来なかった。悲しげにうつむいた白蓮を見て、自分が何かとんでもない失態を犯したのだと感じる。


「あ、あの……申し訳ありません! 白蓮さま、あたし……」


 失態を重ねてしまったことに、ウルスラは気づけない。

 白蓮“さま”と呼ばれ、物憂(ものう)げに顔を上げた彼女は、感情のこもらぬ冷たい声で命じた。



「今日はもういいわ。高城、ウルスラ、下がりなさい」





 魔王灰塚は、皇城の一角をお供の者も連れず、不機嫌な様子で歩いていた。

 この辺りは、魔王たちに割り当てられる最上級の客室が(つら)なる区画だ。

 魔王同士、不仲な者も多いので、あまり近い部屋が割り当てられることはない。

 しかし、この近くにかつて灰塚が目にした、古城の女主人の居室があることは知っていた。


 いずれは東部か南部の盟主が(たまわ)るのであろうと予想していた、皇城で二番目に豪華な客室だ。

 問題なのは、灰塚の部屋よりも広いということだ。


――いくら想い人とはいえ、爵位すら持たない下賎(げせん)の女に、魔王である私よりも良い部屋を使わせるなんてっ!


 魔族の価値観と照らし合わせれば、もっともな感想と言えた。

 かつて一度だけ目にした白蓮の顔を思い浮かべ、灰塚の端正な眉がぴくりと震える。


 容姿的には成熟した女性であるのだが、気性にやや子供ぽさの残る彼女は、肩をいからせて足早に歩く。

 そして目的地の前で、洗礼された物腰の老紳士に声をかけられた。


「これはこれは、魔王灰塚様とお見受けいたします。我が主になにかご用でしょうか?」


「そうよっ、通しなさい」


「失礼ですが、先にご用件をお聞かせ願えますか? 私は主である白蓮より、身の回りの世話を仰せつかっております、高城と申す者です」


 深々とこうべを垂れる高城に、なおも高圧的に灰塚は告げる。


「とくに用などないわ。魔王である私に拝謁(はいえつ)する栄誉を与えてやろうと思っただけよ」


 早くそこを退()かないと押し通るわよっ、といった物騒な魔力が放出されていた。


「おお、灰塚様のように美しく力に(ひい)でた魔王との謁見ともなれば、我が主も大変喜ばれましょう。主はただいま気分が優れず伏せっておりますが、急ぎ体調のほどを伺って参ります。どうか少々お待ち下さいませ」


 耳に心地好いバリトンで絹のごとき麗句を並べられ、すこし機嫌の良くなった灰塚は、急ぎ取り次ぐように命じた。


 扉の中へと消えた高城は、すぐに戻ってきた。


「今日は体調もよろしいようなので、是非に謁見したいとのことです」


「そう、案内しなさい」


 さらに気をよくした灰塚が、高城に手を差し出す。


「こちらへ」


 おしいただくように手を取った高城は、優雅な足取りで部屋へと案内する。


「ようこそお越しいただきました。白蓮と申します」


 続きの間を通り、居室への扉を開けたところに白蓮のほそい声が響いた。


「灰塚よ」


 実際のところ初対面ではなく、お互いそれを承知しているのだが、両者ともそんなことはおくびにも出さず名乗りあった。


――だいぶ、感じが変わった……?


 灰塚は数年前に初めて白蓮を見た時と同じように、その美貌に目を奪われながらも、あまりの変貌ぶりに驚愕していた。


 もとから美しい女ではあった。

 絶世と言っても過言ではないほどに。――だが、それは氷像のように無機質な造形の美であり、とても硬く冷ややかな印象だった。

 それが今では、すこしやつれた輪郭には物憂げな陰が落ち、手の平の温もりで溶け去ってしまう粉雪のような儚さが漂っている。

 そこには、灰塚に厭世感(えんせいかん)すら覚えさせる妙な艶やかさがあった。


「灰塚様?」


 ぐらりと視界が揺れたような気がした。みずからの足が一歩引かれていることに気づき、実際に自分がよろめいたのだと、灰塚はその時になって理解した。


「な、なんでもないわっ」


――これは一体……何なのだろう……?


 ここ数年、戦禍と白蓮を思い浮かべるたびに、胸の中に湧き起こった黒いもやもやが、劇的にその色合いを変えてしまったような気がした。


「そうですか? では、席におかけ下さい」


 高城は灰塚のために椅子を引きながら、さすがの白蓮も魔王相手ならば社交的な口調で話すことが出来るのだな、と胸を撫で下ろしていた。

 彼はかなり真剣に、白蓮がいつも戦禍にするいささか不躾(ぶしつけ)な態度をとり、灰塚を怒らせてしまうのではないかと冷や冷やしていたのだ。


 さすがにすこし失礼な話である。


 普段は傲岸な態度の目立つ白蓮ではあるが、もともとは良い家柄のお嬢さんなのだ。


「では、お茶と茶請けをご用意して参ります」


 普段より一段とにこやかに告げた高城に、やや不思議そうな目を向けながら、白蓮は灰塚に問いかける。


「ところで、本日はどのようなご用でいらしたのでしょう?」


「……」


「……? まだ気分が優れないのでは?」


 覗きこむように白蓮が微笑みかける。

 至近で目が合ってしまった灰塚は――そういうあなたこそ、今にも消えてしまいそうなほど儚げな顔をしている――と思ったが、上手く口が動かなかった。


 (いぶか)しげにこちらを伺う白蓮に対し、灰塚は無言である自分が白蓮を怖がらせてしまうのではないか、と焦燥感をつのらせる。

 謁見の際、無言の魔王がどれほど臣下の者に対し、圧迫感を与えるのかを彼女はよく知っていたからだ。

 とりあえず何か喋らなければと思い、ノープランで口を開く。


「き、気にしなくていいわ! べ、別に機嫌が悪いわけじゃないんだからねっ」


 そしてなぜか、白蓮に向かって左手を差し出す。


「??」


 不思議そうにしながらも、白蓮は目の前の手を親指と人差し指とで摘んでみる。

 白蓮は社交辞令が必要な場では、アルフラを見習ってみようと考えていた。

 アルフラは彼女が知る限り、もっとも人に好かれる性根の持ち主ではないかと思っていたのだ。

 もし自分がアルフラのような性格だったなら、幼少の頃、あの母にすら愛されたのではないか? そういった劣等感にも近い思いがあった。


 だから、摘んでみた。

 以前にアルフラと手を繋ごうとしたとき、なぜか差し出した手を摘ままれたことがあったのだ。


「??」


 灰塚も、白蓮とよくよく似通った表情で、摘まれた左手を見た。実際、自分がなぜ左手を出したのか、彼女にもよく分からない。が――今はそんなことより、胸を突き上げる鼓動の音が、とても煩わしく感じられた。


「……?」


「……?」


 過去にアルフラが取った行動をなぞり、意外と高い学習能力を見せた白蓮だったが、今回はすこし失敗気味だった。


 二人の視線が交錯する摘まれた左手。

 両者ともその扱いに困っていた。


 時間が止まってしまったかのような室内。――機先を制したのは灰塚だった。


 微妙な空気の中、微妙な魔王の貫禄を見せつける。


「ほほほっ、なかなか面白いことをするわねっ」


 立ち上がり、右手の甲を口許に添えて、めったにやらない上品な笑い声を出してみた。

 しかし、左手は摘まれたままなので、とても微妙だ。


「……」


 ティーセットを乗せたトレイを持ち、部屋へ戻ろうとしていた高城も、かなり微妙なその空間に入るに入れない。


――奥様、早くその左手を解放してあげて下さいっ


 高城は、扉の影から必死に白蓮へ念を送った。


「……」


 届かなかった。


「まだわからないの? 私の手に口づけをすることを許すと言ってるのよ」


 その場の思いつきで、灰塚は微妙な空気をやり過ごそうとした。だが、臣下や血族の者が親愛を表す口づけは、通常右手に行われるものである。

 やはり意味不明な言動になっていた。


「……」


 灰塚は摘んでいる指をかるく振り払い、白蓮の口許へ手を差し出す。

 若干、灰塚を見る白蓮の目が、投げやりな感じになってきた。

 なかなかに受ける者の心をえぐる白蓮の視線であったが、さらりと流した灰塚も、かなりの強者(つわもの)といえるだろう。


「……」


 灰塚はぐいぐいと手の甲を押し付ける。

 すこし嫌そうな顔をした白蓮だったが、無言のままかるく唇を触れさせた。


「――――ッ!?」


 灰塚の背筋に、ぞくりとしたものが走った。

 それは触れた唇の冷たさだけではなく、なにか自分の性癖のイケナイ部分を刺激されたものだった。


 嫌がる儚げな麗人を、魔王の権力で無理矢理言うことを聞かせるという歪んだ嗜虐心。

 この場合、相手か嫌がれば嫌がるほど、美しくければ美しいほど灰塚のカタルシスは高まる。

 そして、美しさにおいて白蓮以上の相手など、まず存在しないだろう。


「ほ、ほら、もっとちゃんとキスしなさいっ!」


 アブない感じに頬を上気させた灰塚が、手の甲を強く白蓮の唇に押し当てた。


「んっ……!」


 さらに嫌そうな上目遣いで白蓮が見上げる。

 下腹部にまで及ぶ、痺れるような感覚に高ぶる灰塚。


――なんでこんなに愉しいのっ!?


 さすがに自分でもアブないナニかを感じたが、もう止まらない止められない。


――ま、まずいわっ、ナニかに目覚めちゃいそうっ!


 白蓮の舌先が、ちろりと手の甲を這った。


「――ッ――――!?」


 名状しがたい感触に慌てて手を引く。

 手の甲と白蓮の舌先を繋ぐつやつやとした銀色の糸を目にした瞬間、灰塚は自分が何をしているのか完全に分からなくなった。


「ふあ、ぁぁ…………??」


 無意識の内に、上擦った変な声が唇からもれてしまう。


 白蓮はなぜか、乱暴された後の少女を連想させる、扇情的な表情を浮かべていた。

 その潤んだ瞳と灰塚の目が、出逢ってしまう。


 自分の中のどこか遠い所で、何かが射抜かれたような音を聞いた。


――な、ななな、なに? …………ズキュー―――ンて何の音なの!?


 崩れ落ちそうになる心と身体を魔王の矜持(きょうじ)でなんとか支え、声高らかに言い放つ。


「ふんっ、今日の所はこれくらいで勘弁してあげるわ! 次はちゃんと用意して待ってなさいよねっ!!」


 颯爽とした足音を響かせ、部屋から出て行く魔王灰塚。



 彼女はすでに、心も身体も頭の中身もぐちゃぐちゃだった。





 高城は今にもハンカチーフを噛み締めそうなほど、はらはらとした様子で成り行きを見守っていた。

 部屋を出て行った灰塚を見送ろうか迷いながらも、白蓮へ声をかける。


「奥様……」


「なに? とりあえずお茶を入れてちょうだい」


 白蓮は普段と変わらぬ口調でお茶を所望(しょもう)し、給仕のナプキンで軽く唇を拭っていた。


 高城は扉と白蓮を見比べながらも、手際よくお茶の用意をする。


「あら、少し冷めてしまっているわね」


 長いこと高城と一緒に立ち尽くしていたティーポットのお湯は、猫舌気味の白蓮にとっても、やや温いと感じる温度になっていた。


「ウルスラ、いつまでそんな所でこそこそしてるつもり? 早く湯を沸かし直しなさい」


「あ……ああ、はいっ! ただいまっ」


 奥の寝室で寝具の用意をしていたウルスラが、真っ赤な顔で飛び出してゆく。

 のぞき見るつもりはなかったのだが“たまたま”扉の隙間から、妙に淫靡(いんび)な一連の光景を目撃してしまったのだ。


「まったく、行儀の悪い子ね」


「あ、あの……奥様?」


 普段とあまりにも変わらぬ冷静な白蓮に、さすがの高城も何をどう聞いてよいのか分からなくなっていた。

 そして、そのものズバリな質問を逆に返される。


「ところであの娘、いったい何をしに来たの?」


 明かに自分より年上であろう灰塚を「あの娘」と呼ぶ白蓮に、高城は内心で苦笑してしまう。


「さあ……魔王の考えることですから、私ごときの愚考が及ぶところではございません」



 普段から謙虚な姿勢を崩さぬ高城であったが、この時ばかりは本音以外の何物でもなかった。

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待って待って待って待って すっっっっっごい予想外すぎてびっくりしすぎてんだけどナニコレ
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