狼の恩返し
燃え盛る砦の中央部。炎にまかれた食糧庫から、小麦や豆の詰まった穀物袋が次々と運び出されていく。
「そろそろ崩れおちそうだな、作業を中断させよ」
リータ十四世の指示で、群がっていた煤まみれのオークたちが食糧庫から離れる。
「王さま、半分くらいは運びだせたです」
「そうか、だがまだまだ足りぬな。やはり人間の街まで足を延ばさねばなるまい」
リータ十四世は、積み上げられた穀物袋を眺めながら呟いた。国に残してきた、飢えにひんする二十万の領民を養うためには全く足りない。
「部隊を急ぎ取りまとめ、隊長たちを招集せよ! 軍議を執り行う」
「王さまが命令する前に、逃げた人間を追っかけてった奴らがけっこういるです」
近くにいたオーク隊長が、おそるおそるリータ十四世に報告した。
「そうか、それは仕方あるまい」
あらかじめ砦を襲撃する際の軍議で、なるべく守備兵を逃がさぬようにと、リータ十四世は追撃の命令を出していた。また、本隊から離れすぎないよう深追いはするな、とも。
「時が惜しい、その者達の帰還は待たず軍議を始める」
伝令を受けた隊長たちが集まり、すぐに軍議が始められた。とは言っても話合いは一切なく、リータ十四世が今後の指示を出すだけの簡潔なものだ。他のオークたちとでは、まともな論議は出来ないからである。
「本来ならばこの砦に陣を敷き、南方の部隊と合流する予定であった。――が、封鎖していた西の街道が破られ、守備兵共に若干の生き残りを出してしまった」
西の街道を封鎖していたオーク隊長が、てへへと笑う。彼には事の重大さがわかっていなかった。
しかし、リータ十四世も臣下たちにそこまでの理解を期待していない。通常のオークは、人間の幼児並の知能しか持たないのだから。――それは生れつきのものであって、臣下たちの落ち度であるとは考えていなかった。
「我々が人間共の戦術を駆使しているのだと知られたのは痛い。奴らに時間をあたえ、対策を講じられれば、今後の戦いは厳しいものとなろう」
ふむふむと頷くオークの隊長たち。どこまで理解しているのか微妙な空気の中、オーガの族長は腹いっぱい食事をした後だったので、うつらうつらとしていた。
「一晩兵を休ませた後、部隊の合流を待たず、明日の昼には西への進軍を開始する」
リータ十四世は、人間の書物から戦術だけでなく、レギウス教国の地理をも学んでいた。彼の目的は砦のさらに西、サルファの街だった。
サルファは王都に隣接する大都市、ガルナの衛星都市である。ガルナと南部の肥沃な農村地帯を結ぶ中継点でもあった。
冬の間は王都やガルナの食糧庫といった役割も果たすため、この時期のサルファには大量の穀物が備蓄されている。
人間はオークに略奪をさせないため、撤退時には砦や村にみずから火を放つ。だが、サルファの食糧庫に関しては、撤退に際し可能な限りの糧食を運び出そうとするであろう。そうリータ十四世は考えていた。
もしサルファの食糧庫を焼けば、王都やガルナの臣民が餓え、長い冬を越すことが出来ず多くの餓死者を出してしまうからだ。
リータ十四世は、細々とした命令を出した後、臣下たちの働きを労い、ゆっくりと体を休ませるように指示した。
オーガの族長に対しては、くれぐれも部族の者たちに勝手な行動は取らせず、ちゃんと遠征軍の後をついてくるようにとだけ命じた。なにしろ彼等はオークよりもさらに頭が悪いのだ。
オーガはその愚かさから、あまり細かな指示が出来ず扱いづらい。しかし、人間との戦いさえ与えておけば、人喰鬼とも呼ばれるオーガたちは兵糧に困らない。低コストで運用出来る便利な兵隊でもあった。
「では、これにて軍議は終了とする。今宵は存分に食い、騒げ。しかし酒はいき過ぎぬようにな」
閉会を宣言したリータ十四世に、臣下たちはこうべを垂れた。彼等は愚かではあったが、皆、王を敬愛し、信頼していた。その言葉に従っていれば、決して間違いはないのだと。
アルフラたちは、手にした松明の明かりを頼りに、暗い森を西へと歩いていく。
すでに追っ手がかかっていることは把握していた。後方に松明の群れが見え隠れしている。
「クッ……徐々に差が縮まってやがるぞ」
団員の声にも焦りがこもる。
今年の冬は雪が少なめだった。しかし、足跡は確実に残ってしまう。
夜間に松明を持っての移動は目立つが、どのみち足跡を辿られれば追跡者を捲くのは不可能だ。
「結構数が多いな、オルカスたちゃなにやってやがんだ」
不安を愚痴で紛らわすかのように、アルフラの後ろを歩いている男が毒づいた。
遠目に見える松明。木々にちらちらと隠れて正確な数はわからないが、百前後はあるように見える。
それだけの追っ手がかかっているにも関わらず、オルカスたちの合流はなく行方もわからない。この先、彼等が追いつきアルフラたちと合流することはないだろう。
おそらくはそういう事なのだ、と団員の誰もが理解していた。
「なぁ……なんか感じないか?」
それまで無言であったシグナムが口を開いた。
「……どうしました?」
先頭を歩いていた団員が、立ち止まることなく振り返る。
「いや……やっぱりなんか嫌な感じがする。ちょっと止まってくれ」
しんと静まりかえった暗い森。後方からはオークたちの耳障りな声が、それほど遠くはない位置から聞こえて来る。
「ねぇさん、ゆっくり立ち話してる暇なんてありやせんよ。追いつかれちまう」
足を止め、辺りの気配をうかがいながらも、団員たちはそわそわと落ち着かない。
「進路を変えて少し北へ進もう。前方にオーク共の松明は見えないが、挟撃される可能性もある」
やや街道から外れ、並走するように森の中を進んでいたのだが、急にシグナムが方向転換を指示した。
「いや、そんなことしたら、それこそ雪狼が……」
しかし危険を察知したシグナムの勘は、遅きに失した。
「あっ……あれ!」
最初に気づいたのはアルフラだった。
釣られて団員たちも前方の闇に目をこらす。
「お、おい……こいつぁ……」
他の者たちの目にも、松明の明かりが届くぎりぎりの辺りで、うごめく影のようなものがはっきりと確認出来た。
なにかが近づいて来ている……
やがてそれが、降り積もった雪に真っ白な体毛が保護色となり同化した、巨大な狼であることがわかった。
「雪狼……」
誰かの絞り出すような声が響いた。
巨大な狼。体高は馬ほどもあり、後ろ足で立ち上がれば、ゆうにシグナムの背よりも高いであろう巨躯。灰色熊すら補食すると言われるのもうなずける威容だった。
巨狼の背後からも、さらに数匹の雪狼が姿を見せた。
「ヒッ……に、逃げ……」
「待て、動くな。刺激するんじゃない」
シグナムが低く命じた。
足音もたてず、悠然と歩みよる巨狼。
今のところ攻撃の意思はないように見えた。下手に逃げ、後ろから襲われる方が怖いのだと団員たちも気づく。
「敵意はなさそうだね。――なでなでしてやれば腹を見せる……って雰囲気でもないけど」
「ねぇさん、この状況でよくそんな冗談言えますね……」
雪狼の口元から、ぞろりと覗いた牙に身をすくませる団員たち。大人の頭すら容易に噛み砕けそうだ。
「おい小娘ッ、警告の遠吠えはどうなったんだよ」
「そ、そんなのあたしに言われても」
ひそめた声で愚痴った団員が、アルフラの脇をこずく。
そして、一瞬で人の命をかじり取ることが出来るであろう雪狼の口が、大きく開かれた。
「ふむ、あまりに匂いが似ているので奥方本人かと思いきや……ご息女であらせられるか?」
雪狼が喋った。
「なっ!? しゃべった――!」
「おいっ! いま……」
「しゃべった……よな!?」
団員たちが混乱の声を上げた。
そんなことには気もかけず、雪狼の視線は目をまるくしているアルフラに向けられていた。
「えっ! あ、あたしっ!?」
「古城の奥方の縁者でありましょう? あの方と同じ匂いがする」
低くうなるような聞き取りづらい声ではあったが、その喉からは確かに意味を持つ言葉が発せられていた。
「……古城の奥方って……もしかして白蓮のこと?」
「いかにも」
「あ、あたし、娘じゃないです」
「ほう、ではもしや、ここ最近奥方がご寵愛めされている人間の娘とは、そなたのことかな?」
「ちょ、ちょっと待ちな。この狼、アルフラちゃんの知り合いなのか?」
シグナムの焦った声音がアルフラへ向けられた。この際、狼が人語を話す、という非現実は脇へ置いておくことにしたらしい。
「い、いぇ、初対面です」
ぺこりと狼に会釈などしながら答えるアルフラも、少々テンパり気味のようだ。
「あっ、でも白蓮の知り合いなら友達……なのかな?」
目の前まで歩みよってきた雪狼を、おっかなびっくりアルフラは見つめる。初対面の狼相手に、友達などと言ってよいものなのか……あまり自信はなさそうだ。しかし巨狼は、妙に人間くさい仕草でうなずいてみせた。
「いかにも。奥方は我ら白狼の民の、大恩ある盟友だ」
「じゃあアルフラちゃん。ちょっとそいつを……そのう、なんだ。なでなでしてみちゃくれないか?」
「……は??」
「ねぇさん、なに馬鹿なこと言ってんだ! もうオーク共が見えるとこまで追ってきてる」
「クソッ、オーガも結構いやがるぜ!」
追撃の部隊がすぐ間近にまで迫っていた。
「ほう、追われているのか? ならば奥方から受けた恩を返すよい機会だ。かの君が寵愛せし人間の娘を助ければ、幾分かは我等が盟約も果たせよう」
巨狼が満足げにうなずくと、周囲からさらに十匹ほどの雪狼が姿を見せた。
「この場は我らに任せるがよい」
雪狼の群がアルフラの脇をすり抜け、オークの部隊へと歩いてゆく。
「ちっ、とっくに囲まれてたのか」
シグナムが苦い顔で呟いた。
「ま、待って! あんないっぱいいるのに無理だよっ!」
アルフラは慌てて雪狼を止めようとする。
見える範囲で三十ほどのオーガと百近いオークが視認出来た。わずか十数匹の雪狼では、相手が多過ぎる。
「アルフラちゃん、せっかく足止めしてくれるって言ってんだ。その間にあたしらは距離を稼がせてもらおう」
「で、でも」
「何を勘違いしておる、人間の戦士よ。誰が足止めなどすると言った」
巨狼が馬鹿にしたような視線をシグナムに向けた。
「はぁ? 助けてくれるんじゃないのかよ?」
「むろん助けようとも。だが、逃げる必要などない」
木々の切れ間から顔を覗かせる虚空の月を見上げ、巨狼は笑う。
「よい月だ。月齢十三日、といったところか……」
周囲に耳障りな異音が響いた。
雪狼たちの身体から、骨が軋み関節の外れる不気味な音が間断なく聞こえてくる。
「獣人族の中でも最強の戦士と呼ばれる我ら白狼の民。――月の満ち行くこの刻に、我らに手傷を負わせられる者などそうはおらん」
口をあんぐりと開いた団員たちが、驚愕のうめきを上げる。
「な……」
「ああっ!?」
息を呑むアルフラの前で、さらに変体を遂げる異音は鳴りつづけた。
やがて二足歩行で立ち上がり、頭部以外は完全な人型と成った雪狼たちが誇らしげに告げる。
「そなたらは腰を下ろし、足を休めながら見物しておるがよかろう。なあに、たいした時間はかからん」
太縄のごとき筋肉で全身を鎧った人狼たちが、次々と月に吠えた。
ルオォォォォ――――――――ン
ルオォォォォ――――――――ン
魂を削ると言われる雪狼の遠吠え。その場に居合わせた全員が、心臓を鷲掴みにされたかのような悪寒を感じて身をすくませる。
魔力を帯びた雪狼の咆哮は、恐怖の精霊を呼び寄せ、聞く者すべてに呪縛を与える。
それはオークやオーガたちも例外ではなかった。
恐怖に鷲掴かまれたオークの群れ。その呪縛に抵抗しようと巨躯を震わせるオーガたち。
疾風のごとき速さで襲いかかる人狼の爪が振るわれるたびに血煙が舞い、引き裂かれた部位が地へ落ちる。間髪置かずその本体も、血と命を迸らせながら崩れ墜ちていった。
この場で行われているのは戦いなどではなく、一方的な狩りだ。
巨狼の言葉通り、全てが終わるまでにさしたる時間はかからなかった。
血臭漂う暗い森の中で、アルフラたちはひと時の休息を得ていた。
砦を襲撃されて以降、戦いずくめ歩きずくめだった団員たちにも疲れが見えている。
雪狼の鋭い嗅覚によれば、他に追撃の部隊はなく、仮にあったとしても百単位の相手なら、彼らがたやすく排除してくれると言う。その言葉に甘え、しばしのあいだ身体を休ませることにしたのだ。
「今から五十年ほど前、先代の族長がまだ若かかりし折、雪原の古城に爵位の魔族が住みついたのです」
ロ・ボゥ・ルガールと名乗った巨狼が淡々と語る。
「それまで古城をねぐらとしていた蛮族達と我々は共存していました。しかしその魔族は、我らに臣下の礼を取れと強制してきたのです」
アルフラとシグナムは静かに耳を傾ける。団員たちはやや遠巻きに雪狼から距離を取っていた。
「獣人族は他者を君主と仰ぐことをしません。我々は戦いました。ですがその魔族は強く、多くの者が死に、縄張りをおわれました」
アルフラは白蓮が言っていた「くだらない男」が、実は意外と強かったのだなぁ、と変な感慨にふけった。まがりなりにも貴族であったということなのだろう。
「しかし、その窮地を救ってくれたのが奥方様でした」
白蓮にでれでれと結婚を迫ったあげく、刃物で一突きにされてしまった情けない子爵。
「奥方様が魔族を倒し、森と山は再び我らの縄張りとなりました。あの方が安堵なされてくれたのです。以来、その大恩に報いることが、白狼の民の掟となりました」
「なるほど、その奥さんの寵愛著しいアルフラちゃんが居たから、あたしらを助けてくれたってわけか」
シグナムが、どことなくいやらしい視線をアルフラに向ける。その目が「寵愛」と語っていた。
さらににやにや顔で、後で詳しく話しなよ、とアルフラをつつく。
「でも、爵位の魔族を倒すだなんて……白蓮ていう人は何者なんだい?」
「すっ――――ごい美人なのっ! 色仕掛けでやっつけちゃったらしいよ」
「……そ、そうなんだ」
身も蓋もない言い方をするアルフラ。まあ事実ではある。
「しかしまだ、その恩に報いられたとは考えておりません。この先も身に危険が及ぶこともありましょう。森を行かれるのであれば、街道へ出るまでは我が一族の者を同行させましょう」
「ああ、そいつはいいね、助かる」
ロ・ボゥの申し出に、シグナムは即答した。
雪狼は森を知り尽くしているうえ、その戦闘力は極めて高い。道案内として、これ以上の者など望めはしないだろう。
「ねぇさん、あんたほんとすげぇよ。しゃべる狼だぜ?」
「しかも人狼だぜ?」
団員たちの呆れ声は黙殺され、話はまとまっていく。
「では、そうですな……ここは我みずからがお供しましょう。後一名……」
雪狼たちを見回すロ・ボゥに対し、他よりも身体が二回りほど小さい雪狼が名乗りをあげた。
「ボクっ、ボクゆきたいっ!!」
耳をぴーんと立てた雪狼が、アルフラたちへと寄って来た。ふさふさの白い尾をものすごい勢いで振りたくっている。アルフラはそのまましっぽが飛んで行ってしまうのではないかと心配になってしまった。
「ふ……む、まあよかろう。この者は我が不肖の娘、ルゥ・ルガールと申します。我らでご同行いたしましょう」
重々しい雰囲気を醸し出すロ・ボゥとは真逆に、きゃわきゃわとした落ち着かなげな様子のルゥ・ルガール。不肖の娘という言葉がどこか不安を誘う。
アルフラとシグナムは思わず顔を見合わせてしまった。
大丈夫なのか? と目顔で尋ねるシグナムに、アルフラも視線で応えた。わかりませんっ、と。




