ココロオドル
上都へ続く道幅の広い街道は、ロマリア王国の心臓へ至る大動脈ともいえる交通の要所であった。平時には多くの旅人や商人がひっきりなしに馬車を駆って往来するため、街道の敷石には深い轍が刻まれている。
狼少女と神官娘を乗せた荷馬車はことことと規則的に揺れ、無言の車内において沈黙の気まずさを遠ざけていた。
ジャンヌの腰にしがみついてぐすぐすと鼻を鳴らすルゥは、神官娘の腹部に顔を押しつけているため表情は見えない。その髪を撫でるジャンヌの手つきは非常に優しげで、さきほどまでは嗚咽をもらしていたルゥも、幾分かはおちついてきたようだ。
泣き疲れたルゥがそのまま眠ってしまうのを待っていたジャンヌであったが、狼少女が彼女の祭服で涙を拭うかのようにぐりぐりと顔を動かすのを見て、思わずからかうような言葉が口から出てしまう。
「ルゥはなにげによく泣きますわね」
「……泣いてない」
むすっとした涙声で返されて、神官娘は頭を撫でる手をとめる。
「神官服のお腹の部分が、ひどく冷たいのはなぜでしょう?」
「……しらない」
ルゥは自身の涙でぐしょぐしょになってしまった祭服に、よりいっそ顔を強くおしつけた。なんとかして証拠隠滅をはかりたい狼少女の顔を、ジャンヌが両手で挟むようにして上げさせる。
「ほら、やっぱり――」
「泣いてないってば! ボクは白狼の戦士なんだからね!」
ぷいっとそっぽを向いてしまったルゥを、ジャンヌは後ろから抱きかかえるようにして耳許でささやいた。
「アルフラさまの言われたことで落ち込んでいるのなら、気にやむ必要はありませんよ」
神官娘の腕のなかで、ルゥがぴくりと身体をこわばらせる。
「本来ならば、人が神を友人だなどと考えるのは僭越極まりないことですが……わたしは知っています」
おとなしく耳をかたむける狼少女は、いったいどれほど言葉の意味を理解しているのか。かわいらしく唇をつきだしたまま、あらぬ方向を見つめていた。
「かつてアルフラさまとルゥが、とても仲睦まじく遊んでいるところを何度も見ています。きっとアルフラさまは、なにかお考えがあってあのようなことを言われたのでしょう」
「……なにかって、なにさ」
つんけんとした声音で問うたルゥに、ジャンヌはおだやかな口調で告げた。
「神の御心を計ることなど、出来ようはずもありませんわ」
なにを言ってるんだ、といった顔をした狼少女は、おもむろにジャンヌの腕をつかんで噛みつこうとした。よけいに機嫌をそこねてしまったらしい。
「ですがアルフラさまは唯一無二、絶対不変の存在。決して心変わりをすることなどないのです。だから案ずることはありません。アルフラさまはいまでもルゥの友人ですよ」
がじがじと手を甘噛みするルゥからやんわりと腕を引き抜き、
「ふつうに痛いですわ!」
ごちんとげんこつ落とす。
したたかに頭をこづかれたルゥが涙目でジャンヌをにらんだ。しかしすぐにその表情は翳り、心細げな声でこう尋ねた。
「なんでジャンヌは前みたいにアルフラと仲よくできてるの?」
「え……? 仲よく、ですか?」
すこし驚いた様子のジャンヌがあわててそれを否定する。
「なんと畏れ多い。わたしはただアルフラさまの御導きに従っているだけですわ」
この答えでは納得できない狼少女は、なんでーなんでーとジャンヌにまとわりついて離れない。ややこまり顔の神官娘は唇に人差し指をあて、しばし黙考した。
「そうですわね……もしルゥにはそのように見えるのでしたら、とりもなおさず日頃の行いと言えるでしょう」
「ひろ子のおねがい?」
「……ひろ子? どんな聞き間違いですか」
素で言葉の意味がわからなかったらしいルゥに、ジャンヌは懇切丁寧に説明する。
「日頃から良い行いを心がければ、みずからにも果報……とてもいいことが訪れる、という意味です」
神官娘はおごそかに両手を組んで瞳を閉じた。
「わたしのように常日頃からアルフラさまの教えに従い、一日の祈りを欠かさないことが何よりも大切なのです。ルゥもこれからは――」
「ねぇ、ひろ子ってだれ?」
「いえ、むしろわたしが聞きたいですわ」
「――――っ!?」
「なぜそこでびっくりした顔をするのですか。というかひろ子ってだれですか」
大好きなジャンヌのおかげで、ルゥはちょっぴり元気になったようだ。
三千年の歴史を有する大陸最古の国、ロマリア王国。その首都たる上都はロマリア成立以前に存在した古代王国の都でもあった。小高い台地に築かれた街は、ロマリアの発展に伴い増築を繰返し、現在では丘陵の裾野を下って平野部にまで街並みを拡げている。
また、都の拡張とともに幾度も街壁を建造したため、上都は街中を三つの郭壁に隔てられた巨大な城塞都市と化していた。
高い石壁の見える位置に止められた二台の馬車を背に、アルフラたちは開け放たれた街門を望む。
「……居やがるな」
重甲冑に身を鎧ったシグナムがぼそりとつぶやいた。緊張に掠れた声に応える者はなく、アルフラ以外はみな一様に身体を竦み上がらせている。
王宮から遠く離れたその場からでも察せられるのだ。異常な存在密度を有する魔王の気配が。
直接胃の腑を絞り上げられるかのごとき不快な圧迫感。冷たい外気に晒されてなお、嫌な汗がとめどなく背筋を伝い降りてゆく。
信仰という麻薬に毒され、恐怖などとは無縁と思えるジャンヌでさえも、小刻みにその肩を震わせていた。すがりつくように祭服の裾を掴んだルゥに意識を向ける余裕もないようだ。
一人、アルフラだけがなんの躊躇も見せず、足を前に出した。
「待っ……」
口を開きはしたが、後の言葉がつづかない。シグナムは強張った表情のまま、ぎりりと歯を噛み締めた。
たとえアルフラに同行して魔王と対峙したところで、何も出来ずにただ殺される未来しか想像がつかない。死を予感した身体は足を踏み出すことすら拒み、シグナムたちは茫然とアルフラの背中を見送ることしかできなかった。
日没を控え、茜色に染まった市街へアルフラの姿が消えてゆく。
上都の大通りは閑散とし、人の気配が完全に失せてしまっていた。住民たちは慌てて逃げ出したらしく、屋台や露店は多種多様な商品が並べられたまま置き去りにされている。そういったことには頓着せず、アルフラはいまだ遠い王宮へと視線を据えて足を進めた。通りの敷石はよく整備されており、行く手を阻む者も居はしない。王宮まではだいぶ距離があるにも関わらず、口無の有する膨大な魔力が大気に質量を与え、一歩踏み出すごとにまとわりつくような抵抗感を肌に覚える。
魔王口無――かつてグラシェールへ向かう行程で会した中央の盟主と比しても、なんら遜色のない力の持ち主である。単純な保有魔力の量だけでいえば、レギウス神にすら匹敵するものが感じられた。
「くっ、ふふふふ……」
形のよい朱色の唇から、忍び笑いが洩れこぼれる。
沸き立つ歓喜が冷気を呼び、アルフラの周囲は白い靄に包まれはじめた。
通りに面した家屋はびっしりと霜に覆われ、凍りついた敷石が膨張圧によりぎしぎしと異音を発する。
強烈な寒気をその身に纏い、アルフラは口無の待つ竜玉宮へと向かう。
宮中の深奥に位置する玉座の間。忙しない足音を響かせて公爵位の魔族、志梟が口無の前に跪ずいた。
「畏れながら申し上げます。市街の庁舎に所用がありまして赴いたところ、街門を守る衛兵から件のレギウス人とおぼしき一行を発見した、との報告を受けました」
「おお、待ちかねたぞ」
膝を打って立ち上がった口無は、豪奢な外套を肩から外し、それを玉座へと投げ捨てる。そして足早に歩きだした。
「……なにをしておる?」
玉座の間を出ようとした口無は、ふと志梟が額ずいた姿勢のままでいることに気づいた。
「そなたもついてまいれ。もし氷膨を殺したという娘が話半分のつまらぬ輩なら、その相手はお前にまかせる」
「いえ……それが……」
寒気でも覚えたのか、志梟は大きく身を震わせた。
「王宮へ戻る際、遠目からその姿を確認したのですが……“あれ”はとても私に相手が務まるような者ではありません」
「ほう! それほどか」
「はい。すくなくとも私には、口無様と同等か、それに近い力の持ち主だと感じられました」
志梟の言葉に、一瞬唇を引き結んだ口無であったが、すぐに闊達な笑みを見せて相好を崩す。
「にわかには信じられん話ではあるが、そなたの見立てが間違っていたことは今までにない。どうやら久方ぶりに戦いといえるものを楽しめそうだ」
ロマリアに入って以来、口無は長らく戦いから遠ざかっていた。
どれだけ強くとも魔王の障壁を砕く手段を人間は持たない。遥か高みから一方的に行う破壊や殺戮を戦いと形容するべくもなく、ここ最近の口無はとみに退屈な日々を過ごしていたのだ。
主の昂揚を見越した志梟は、平伏したまま声をかける。
「……どうか、お気をつけください」
「うむ、心して出迎えるとしよう」
身を翻した口無は、ゆったりとした足取りで玉座の間を後にした。長い通路を抜けて王宮の中庭に出ると、あまりの外気の冷たさにその歩みが止まる。ふと見上げれば、曇天を白く染める無数の雪が舞い降りはじめていた。
「この地域で雪が降るなどといった話は聞いたこともないが……」
吐く息もいつの間にか白く凍え、口無は怪訝な面持ちで歩を速めた。
王宮を出て高い楼閣の建ち並ぶ前庭まで来ると、寒気はよりいっそ強まり、些かただ事ではない状況にあることが知覚された。
なにか天変地異の前触れかと思った口無であったが、あながちそれが間違いではないことを間もなく知ることになる。
下界と竜玉宮を隔てる大門をくぐり、丘の斜面に立った口無は眼下の光景に目を見開いた。
「なんだ、これは……」
見下ろした上都の街並み、その市街地の東半分が、分厚い雲海に呑まれていた。
ロマリアの都は上都と呼称されこそすれ、それほど高所にあるわけではない。その平坦な地形の国土と比して、いくぶん小高い丘の上にあるというのが実情だ。どう考えても雲を見下ろすような標高にないことは確かである。
口無が雲海と見紛うたのは、極低温により液状化した大気がさらに冷やされて氷晶となったものであった。微小な氷の結晶により埋め尽くされた市街、それはまるで幽郷にでも迷いこんでしまったかのような幻想的、かつ恐るべき光景だった。もしも冥府といったものが存在するのであれば、死後にはこのような景色を見ることになるのかもしれない。
「都の住民を待避させておいて正解であったな……」
口無としては己が存分に力を揮えるように、といった配慮であったのだが、それがよい方へ転んだようだ。でなければ眼下の光景には数多の氷像が加わることとなっていただろう。とはいえ六十万からの人口を擁する上都の住民を残らず移動させることは不可能だ。病傷の床にある者や移動を拒んだ者など、すくなくとも数百、下手をすれば数千人単位の犠牲者が出ていることは想像に難くない。
遠目にはあまり判然とせぬが、氷晶の雲はゆらゆらと蠢きながら微速で前進していた。ちょうど人の歩みと同程度の速さで。
見下ろす市街の様子に厳しい視線を向けていた口無は、すっとその目を眇る。
広大な上都を半没させた冷気の濃霧が、王宮にもっとも近い郭壁にまで到達していた。
古い石材を積み上げた長大な壁が余さず凍りつき、その一部が崩壊する。
土砂や土埃が舞うことはなく、こまかな氷片が無数に飛び散った。
視線を巡らせれば凍りついた家屋などもまた倒壊し、原形を留めぬ建造物が多く目につく。気温の低下に伴う急激な常態変化に建材の強度がもたなかったのだろう。それらの家屋のなかには取り残された住民もいたはずだ。戦うことのできぬ弱者に対する虐殺。それは口無にとって唾棄すべき非道であった。
「忌々しい……我が庇護を約束せし都を滅ぼすつもりか」
郭壁の門前にちいさな人影を認め、じっと目を凝らす。
もはや口無に、相手は所詮人間ごとき、などという侮りはない。
油断も皆無であった。
しかし口無も、まさか人間以外の何者かが姿を見せるとは考えてもみなかった。
その少女は、一歩足を踏み出すごとに世界を凍てつかせながら現れた。
大気すら氷晶と変える冷気を従え、ほっそりとした顔立ちが口無を仰ぎ見る。
それはさながら悪意と死の具現。
容貌こそはおさない少女のものではあるが、すでに気配が人ではない。
その瞳と視線を交わらせた瞬間、言い様のない冷たい怖気が口無の背を這い上がった。
これまでに直面したことのない危険。深刻な生命の危機。
口無が彼我の戦力差を計らねばならないような相手は、この世にそう何人といない。
魔王の力を持ってしても勝機の見いだせない超越者。いま相対しているのは、そんな相手だった。
濃密な死を匂い立たせる少女を前に、口無は戦慄し、感動した。その身を悦びと歓喜に打ち震わせる。
それは好戦的な魔族であるがゆえに実感できる破滅的な悦楽。より強い者と戦いたいという渇望をこれ以上もなく満たしてくれる相手だった。
思わず口許が会心の笑みにほころんでしまう。
「これはなんとも……心躍る!」
口無を見つめる瞳に浮かぶのは、やはり喜悦であろうか。少女の顔を見て口無もまた同種の笑みを返す。
「そうか……そなたも我の力に満足しているのだな」
三千年の歴史を誇る古都で、法と武を喰らいし偽神と圧壊の魔王が会敵した。




