閑話――赤眼の女伯爵(序)
本編終了三ヶ月後のお話です
アウレリアは夢を見ていた。不思議な夢であった。
夢の中の彼女は信仰する女神と一体化し、その知覚を共有していた。
心はあふれんばかりの充足感に満たされ、目の前ではいつか見たことのある銀髪の麗人が愛をささやいている。
女神の心を占有する想いはあまりにも強く、自分のことなど忘れられてしまうのではないかと不安になったアウレリアは、声高く呼びかけた。
「アルフラさま、私はお待ちしています。あなたのために子を産み、エルテフォンヌのお城でアルフラさまのご来訪をお待ち申しております」
みずからの声は届いたのか、はたまた想いの波間に呑まれてしまったのか。人の身であるアウレリアには、確かめるすべもなかった。
その赤子は、新緑の芽吹く麗らかな春先に生を受けた。父親と同じく赤銅色の髪と褐色の肌をした女児は、天使と名付けられた。
出産に立ち合い、赤子を産湯に浸けたとりあげ婆は、その瞳と髪色を見て狂喜の声を上げたという。アンヘルの瞳は両親のどちらとも似つかぬ燃えるような紅だったのだ。
ロマリアにおいて、赤髪赤眼は特別な意味合いを持つ。
神話の時代に地母神の娘と呼ばれた聖女、カレン・ディーナは目にも鮮やかな赤毛と赤い瞳の持ち主だったと伝わっている。
ロマリア王国を建国したのは聖女カレン・ディーナの妹たちであり、その子孫は五巫家と呼ばれ、権力の中枢に位置している。しかし代を重ねるごとにその特徴的な瞳と髪色は失われ、現在ではめったに生まれることのない赤髪赤眼の子は大変な吉兆とされていた。しかも女児ともなれば、生まれながらに巫女としての高い地位が約束されている。
これはアンヘルと名付けられた女児にとって、これ以上もない幸運であった。彼女の生い立ちはいささか複雑で、立場的に生まれて間もない時分から、その命を狙われる危険性があったのだ。しかしアンヘルを脅かす最たる要因は政治的理由によるものである。そのため同じく政治的な理由において、聖女と同じ瞳と髪色を持つアンヘルに刺客を向けることを躊躇わせる効果があったのだ。
端的に言うと、アンヘルを亡き者にしようと目論んでいたのは、彼女の義理の兄――エルテフォンヌ伯アルセイドであった。
先頃伯爵位を継承したアルセイドは、魔族との戦いに疲弊した領地を復興するため、かなり強引な手段でその地位についた。対立する第三継承権を有する叔父を、私設騎士団である白竜騎士たちに拘束さたのだ。その叔父は、アルセイドの従兄でもあるみずからの子に継承権をゆずり、これを擁立して伯爵家を我が物にしようと画策していた。その企みを事前に察知したアルセイドは、武力によりこれを摘み取ったのだ。いささか強引な手段ではあるが、そのまま放置しておけば骨肉の争いとなることは明白である。性急さはいなめないものの、彼の行いは英断と評すに価すべきものであった。ただひとつ、手落ちがあったとすれば、叔父の息子であるアルセイドの従兄が、すでに他領の貴族のもとへ身を寄せ、その助力を得ていたことだ。
領内のお家騒動が、貴族同士の紛争にまで発展してしまったのである。
もちろん、前伯爵の嫡子であるアルセイドこそが継承者であるのは事実なのだが、彼の従兄もある種正当な大義を掲げていた。曰――故エルテフォンヌ伯爵の妻、アウレリアはロマリア北部を蹂躙した咬焼との子を産み落とした。魔族に身を許した不義密通の売女であるアウレリアとその子供をアルセイドが匿っている。そう喧伝したのだ。よって彼は伯爵の地位にふさわしくなく、すみやかに爵位を返還せよ、というのが従兄の言い分であった。
大筋においてそれは事実であり、領内において虐殺と略奪を行った咬焼を、エルテフォンヌの臣民は蛇蝎のごとく忌み嫌っていた。
アルセイドは領民に対して、それは根も葉もない言いがかりであり、爵位に欲目を持つ従兄の奸計なのだと説明した。それこそ嘘偽りなのだが、従兄の言を認めてしまえば、暴徒化した民衆がエルテフォンヌ城へ押し寄せかねない。この地に住まうほとんどの者が、咬焼により家族を殺されるなり家を焼かれるなりしてる。真実が知れれば、多くの者が咬焼の子を吊し上げろと声を揃えるだろう。
そういった次第で、伯爵位を継いで早々、アルセイドは絵に描いたような外患内憂に悩まされることとなってしまった。
解決策としては、アウレリアと咬焼の子であるアンヘルを人知れず暗殺し、すべてを無かったことにしてしまうのが確実である。アンヘルが生きている限り、その成長とともに内紛の芽も育ちつづけるに等しいのだから。
――だがそれは、アウレリアが許さない。
彼女にとって、娘のアンヘルは女神に捧げるべき供物であり、なにものにも代えがたい宝なのだ。ふたたび訪れるであろうアルフラの贄とするまでは、惜しみない愛情を注ぎ、育み、成長させることこそが彼女の生き甲斐なのである。
アルセイドとしても、そうなってくれれば禍根も絶たれるので何も異論はない。しかし、前年の年の瀬に魔族側から一方的な停戦が通告されてから早三ヶ月。いまだにアルフラは姿を見せない。おそらく彼女の働きにより人と魔族の戦いは終結したのだろうとアルセイドは予想していた。ならば今さら、たかが魔族と人間の混血児のためだけに、アルフラがエルテフォンヌにまでやって来るのだろうかと疑問に思う。
アウレリアが女神と崇拝するだけあって、アルフラはどこか超然とした恐ろしい雰囲気を纏った少女であった。すでに自分たちのことなど忘れているのではないかとアルセイドは思う。ならばいっそ、みずからの手でアンヘルを始末し、邪魔になるようならアウレリアも、と考えないでもない。しかしそこまですると、アルセイドに付き従う者たちの信を失いかねないという危惧もあった。
ここ最近、周辺国の情勢は非常に不安定だ。何事に置いても慎重を期さねばならないほどに。
アルセイドが伝え聞くところによると、エルテフォンヌの遥か北東。魔族領との国境において、エルフやドワーフを含む亜人種の軍勢が魔族に大敗し、各国は大きくその力を削がれたそうだ。信じがたいことに、内陸であるその地に大津波が押し寄せ、周囲一帯は大湿原に様変わりしてしまったらしい。わずかに生き残った兵士たちは、傾国という魔王の恐ろしさを口々に語ったという。
また、レギウス教国の首都カルザスは大火に見舞われ、一夜にして灰塵に帰したのだと噂されていた。その火勢はあまりに激烈で、夜空が禍々しく赤らむ光景が、遠く離れたエルテフォンヌからでも見ることができた。
ロマリアにしても魔族との戦いで竜神スフェル・トルグスが滅し、事実上、ロマリア王国という国家は消滅している。
ラザエル皇国やエスタニア共和国も同様、諸侯を抑える力を失い、内乱の火種が燻っているような有り様だ。
時世に聡い者ならば、遠からず大きな戦乱が大陸中に吹き荒れることを予期しているだろう。
アルセイドはしかし、これをまたとない好機であると受けとめていた。迫り来る乱世の予感に、これまで感じたことのない野心を己の中に自覚したのだ。
ロマリア女王エレクトラは健在なれど、それに従う諸侯は少ない。上都は魔王口無とアルフラの戦いにより廃墟と化し、ロマリア西部の都市トラスニアへの遷都が予定されていた。女王エレクトラは各地の貴族をトラスニアへと招聘し、王国に対する忠誠を再確認するための式典を計画しているらしい。アルセイドの許にも親書が届いていたが、彼はこれを無視するつもりでいた。
現状、ロマリアという国家に属したとしても、復興目的の重税を課せられるだけで、目に見える恩恵は皆無といって差し障りない。ならば諸侯は、独自に領地の執政を行うほうが賢明だと考えるはずだ。いまの女王に武力でロマリアを再統一する力はなく、魔族との戦いで疲弊した国軍を立て直すには、諸侯の協力が不可欠なのだから。ロマリアの北端に位置するエルテフォンヌは、新都トラスニアからも遠く離れているので、ある程度自由に動いても、武力を背景とした介入を受ける可能性は低いとアルセイドは予想していた。
各地の情勢を頭の中で整理し終える頃には、彼の最終的な目標はエルテフォンヌ領の独立となっていた。近隣諸侯と同盟を結び、軍事的な脅威を取り除いたうえで国家としての独立を宣言する。同時に周辺諸国へ働きかけ、国交を結ぶことができれば、なし崩し的にロマリア女王もエルテフォンヌの独立を認めざるえないだろう。隣接するアルストロメリア侯爵のやり方がよい手本になるはずだ。
国交を結ぶのはレギウス教国、ラザエル皇国、エスタニア共和国、そのどれでも構わない。正式な国家から国として認められることこそが重要なのだ。それはあまり難しいことではないとアルセイドは考える。エルテフォンヌは大陸有数の穀倉地帯であるという強みがある。相次ぐ戦乱により高騰した穀物の値は、あと数年ほど下がる見込みはない。領内の治安を正し、農作物の収穫量を高めさえすれば、自然と手は差しのべられるだろう。――だがそれも、みずからの足元を固めてからだ。まずは伯爵位を狙う従兄への対処が先決といえよう。これにはすでに手を打ってある。上手く話がまとまれば、従兄に力を貸している貴族自身が、従兄の首をアルセイドに送り届けてくれるはずだ。問題は――アウレリアとその子アンヘルの存在であった。二人の扱いには細心の注意が要される。その存在が明るみとなれば、確実にアルセイドの命取りとなる事案なのだ。
「……とりあえずは、人目につかないよう幽閉するしかないか」
しかし、人の口に戸は立てられぬもの。実際、彼の叔父と従兄には、どこからか話が漏れていたのだ。今回は叔父たちがアルセイドを陥れるために虚言を弄したと押し通せるかもしれないが……
「やはり、最悪の事態を想定しておいたほうがよいのでしょうね……」
物憂げにつぶやいた若き伯爵は、うちに秘めた野心を覆い隠すかのように、薄い唇をきつく引き結んだ
明かり取り小窓から月光の差し込む石室で、その赤子は穏やかな寝息をたてていた。傍らにはすべらかな我が子の肌を撫でる母親――アウレリアが寄り添い声をかけていた。
「あぁ、私の天使。もうすぐ……もうすぐですよ」
常軌を逸した慈愛の眼差しで、アウレリアは赤子の耳許へと囁きつづける。
「もうすぐ女神さまが迎えにきてくれます。あなたの穢れた魂を、その悍しい血を清めるために、女神さまがきてくれるのですよ」
アウレリアがふくふくとしたちいさな手を指で摘まむと、アンヘルはふと目を覚まし、きらきらと輝く瞳で母に笑いかけた。
「あぁぁ、なんて愛らしいのかしら。あなたは食べてしまいたいほど可愛いわ。これならアルフラさまも、きっと満足してくださるわあ」
うっとりとした声音に耳朶をくすぐられ、アンヘルはしあわせな笑い声で母にこたえた。
「あなたもうれしいの? そう、待ち遠しいわね、かわいい天使」
次話からは本編に戻ります




