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氷の滅慕  作者: SH
六章 悲恋
205/251

氷雪の女神(前)



 運河をくだり、シャミールの街から東に向かうこと三日。この日は陽が没したのちも馬を休めることなく、クリオフィスへの行程を縮めるべく一行は馬車を駆けさせていた。地図によれば、あと四半時(約三十分)ほどもすれば小さな農村につく予定だ。そこまで行けば明日の夜にはクリオフィスにたどり着ける。

 御者台で手綱(たずな)()るシグナムは腰に下げた革袋を手に取り、喉を焼く火酒をぐっとあおる。毛皮の裏打ちされた外套を羽織ってはいるが、風は冷たく外気にさらされた顔の表皮からはすでに感覚が失われていた。

 酒精で体の芯を暖めつつ東の空を仰いだシグナムは、重いため息を()き出した。そして手綱を引いて馬を止める。


「シグナム殿、どうなされました?」


 後続の馬車からフード付きの外套をまとったトマスが問いかけた。


「馬が(ひずめ)でも痛めましたか?」


 馬車を降りて御者台のとなりに立ったトマスに、シグナムは無言で指差してみせる。


「……これは」


 見上げた先では立ち(のぼ)る火の手が夜陰を赤々と照らし出していた。


「なんですの?」


 御者台の後ろにある小窓が開かれ、ジャンヌとルゥが顔を覗かせる。狼少女は顔をしかめてひとつ鼻を鳴らした。


「なんか犬くさい……」


「コボルトあたりに焼き討ちでもくらったかな。たぶんこれから行く予定だった村だと思うが……」 


「ならば迂回したほうがよろしかろう。下手に巻き込まれれば時を浪費することになる」


 トマスの言葉にジャンヌがうんうんとうなずく。神職にたずさわる二人ではあるが、無辜(むこ)の民を亜人種の暴虐から救おうという発想はないようだ。彼女たちにとってロマリア人はしょせん異教徒なのである。

 やや遅れて馬車から降りて来たフレインは、じっと東の空を見上げたまま口を閉ざしていた。

 シグナムとしては襲撃を受けているであろう村に一晩の宿を求めるつもりだったので、行きがけの駄賃代わりにコボルトを撃退してやってもよいと考えていた。コボルトたちは人狼を(おそ)れているので、ルゥがいれば戦闘自体避けられる可能性が高い。しかし今から駆けつけたところで手遅れであることは、遠目に見える火勢からも明らかであった。

 ふとシグナムは後部座席のアルフラに視線を向ける。我関せずと目をつむり、アルフラは顔をうつむかせていた。彼女がおとなしくしているということは、周囲に魔族はいないのだろう。


「……このまま進んでも危険はないみたいだね。とりあえず先を急ごう」


 ルゥがうれしそうに身を乗り出した。


「ボクがコボルトおっぱらってあげようか?」


「ん、ああ……奴らがまだ残ってたらな」


 あくまでシグナムは村に到着したあとの話をしていたのだが――


「まかせてっ!」


 得意満面に胸をはった狼少女はぴょいっと地に降り立つ。その手にはレギウス神より授かった秘宝、月長石が握られていた。

 ルゥの赤眼が星空を見上げる

 降りそそぐ月の光を全身に浴びて、その矮躯(わいく)がざわりと(うごめ)いた。

 急速に筋肉が膨れ上がり、艶めかしい純白の体毛がその身をおおう。


「あっ!? 待って下さいルゥさん! 人狼化するときは服を……」


 フレインの制止もむなしく、まとった貫頭衣(チェニック)は体積を増した肉体の内圧に耐えきれず、音を立てて裂けてしまった。さらに骨の(きし)む異音が響き、両の肘関節が裏返る。腕が前肢(まえあし)に変型し、見事な毛並みの巨狼が白い尾っぽを振りたくっていた。


 ルゥの人狼化を初めて見たトマスは口をあんぐりと開けたまま小刻みに震えている。しかしもっとも驚いたのは馬たちだった。突如としてすぐ間近に天敵である肉食獣が現れたのだ。かん高い(いなな)きを上げた馬は本能に従いその場から全力で駆け出す。


「うあぁああ!?」


 御者台から振り落とされそうになったシグナムの手から火酒の革袋がすべり落ちた。

 急速に遠ざかってゆく馬車から、憤慨(ふんがい)した女戦士の怒声が響く。


「ルゥ! あとでおしおきだからな――――!!」


 良かれと思った行動が予想外の惨事につながってしまい、ルゥはぷるぷると身をふるわせていた。

 耳を垂らして尾をまるめたしょんぼり顔の狼少女は、ほとぼりがさめるまでどこかに隠れていようかと真剣に悩んでしまう。鋭い牙が生え揃った大きな口から、きゅううんと悲しげな鳴き声がもれる。


「人狼の呪縛咆哮で馬を止めればよいのでは? さいわいシグナムさんが落とされた酒袋は口が閉じられていますし、すぐにこれを持ってゆけばそうひどくは怒られないと思いますよ」


 冷静なフレインの意見に、ルゥはそれだ! と気をとりなおした。

 天を仰いだ白い巨狼が喉を()らせる。



 ルオォォォォ――――――――ン!!



 うつくしい遠吠えが、澄み渡った夜の大気を震わせた。

 すぐに馬車を追いかけようと走り出したルゥに、フレインの制止の声が飛ぶ。


「その格好のままではまた馬をおびえさせてしまいます」


「あ……」


 ぴたりと立ち止まり、狼少女は人間の姿に戻る。その肩にフレインがみずからの導衣をかけてやった。


「女の子がみだりに肌をさらしてはいけませんよ」


「はーい」



 ぶかぶかの衣をひるがえして、元気よくうなずいたルゥがててっとかけだす。

 返事だけはよいものの、導衣の前ははだけたままなので大事なところがまる見えだった。





 一行が襲撃を受けた農村についたときには、すでに辺りは静まり返り、人の気配はまったく感じられなかった。

 御者台から降りたシグナムは、村の入口に止めた馬車をのぞきこんで尋ねる。


「あたしはちょっと様子を見に行くけど、どうする?」


「ボクもいくー」


 いち早く名乗りを上げたルゥが神官服の裾をつまむ。


「ジャンヌもいくよね」


 魔剣を抱いたまま眠ったように顔をうつむかせたアルフラをちらりと見やり、ジャンヌはゆっくり首を振る。


「わたしはここで待っていますわ」


「えー」


 ぷくりと頬をふくらませたルゥが神官服の袖を引いたとき、それまで身じろぎもしなかったアルフラが目を開いた。視線は手元の魔剣に落とされている。


「――なに?」


 問いかけるその声に、一同は何事かとアルフラを注視した。

 りぃん、と魔剣の鞘からややくぐもった金属音が響いた。しばしその音に聞き入っていたアルフラがおもむろに立ち上がる。


「アルフラちゃん?」


 いぶかしげな顔をしたシグナムを見るでもなく、アルフラは馬車を降りてすたすたと歩きだす。その()で立ちは膝丈の白い貫頭衣をまとっただけの薄着ではあるが、まったく寒さを感じていないようだ。腰帯(ベルト)がわりの剣帯を身につけてはいるが、魔剣を吊るすことなく手に持ったままアルフラは歩いてゆく。

 シグナムはそれ以上問いかけることはせず、無言であとを追う。その顔になにやらひんやりとしたものが落ちてきた。見上げてみるといつしか星明かりの消えた暗い夜空から、ひらりひらりと白いものが無数に舞い降りてきていた。


「寒いわけだ。まだ秋口だってのに……」


 思わずアルフラの背中をうらみがましい目で見てしまう。まるで時ならぬこの降雪(こうせつ)が、アルフラのせいだとでもいうかのように。

 嘆息(たんそく)するシグナムの横を、神官服をひるがえしてジャンヌが駆け抜けた。そのあとにルゥがつづき、フレインとトマスがシグナムに肩を並べる。

 やがて村の中央に位置する大きな井戸の前までくると、アルフラがすこし迷うように足を止めた。するとふたたび魔剣が音を(かな)で、アルフラは前方左手に顔を向けた。


「こっち?」


 魔剣は肯定するかのように短く金属音を発する。

 歩きだしたアルフラを見ながら、シグナムはとなりを歩くフレインを肘でつついた。


「なあ、もしかしてアルフラちゃんはあの剣としゃべれるのか?」


「どうでしょう。あり得ないと言いたいところですが……アルフラさんですからねえ。魔剣と意思の疎通が可能だとしても、私はそれほど驚きませんよ」


「ボクにもわかるよっ」


 前を歩いていた狼少女がうれしげに振り返る。


「え、わかるのですか? あの魔剣がなにを言ってるのかが?」


 フレインがすこし驚いた顔をしていた。


「うん、なんか近くに仲間がいるんだって」


「ルゥさんにはそんなにはっきりと意味のある言葉に聞こえるのですか?」


 これにはちいさくルゥは首を振る。


「ううん、なんとなく? でもあの子、けっこうおしゃべりだよ」


「おしゃべり……!?」


「そだよ。よく歌ってるし」


 シグナムとトマスは半信半疑といった表情であったが、フレインは感心顔でしきりとうなずいていた。


「そういえば人狼族はみな、優れた巫士(シャーマン)なのだと聞いたことがあります」


「うん! ボクは白狼の戦士だからねっ」


 ルゥは得意気に小鼻をひくつかせる。


「アルフラがあの剣を抜くときね、たまに背のたかい女の子が見えるんだよ」



「……なるほど。レギウス神は古代人種の怨念が魔剣にこめられていると言っていましたね。もしかするとその恨みが晴れて、剣に()いた呪詛(じゅそ)が精霊や神霊の(たぐ)いに変質したのかもしれません」





 降りつづく雪の中を、アルフラは淡々と()を進めてゆく。この村で行われたのは、略奪と殺戮だった。家々を焼く業火からは黒煙が立ち上ぼり、あたりには屍肉の(あぶ)られる強烈な臭気が立ち込めていた。

 見渡す限りに動くものはなく、揺らめく炎に踊る影だけが、ゆらゆらと不気味に(うごめ)いていた。

 ふとアルフラは足を止める。


 声が、聞こえた。


 おかあさん……

 風にまぎれたかすかな声は、アルフラの耳にそう聞こえた気がした。

 その声に誘われて、ふたたび歩きだす。

 やがてひたすらに白い雪景色のなかで、目にも鮮やかな(いろど)りが視界に入った。

 なかば雪に埋もれた少女。その周囲はうすい朱色(しゅいろ)に染まっている。

 血溜まりのなかに雪が溶けだし、その色をうすめたのだろう。

 出血の量から、おそらく少女は死んでいるのだろうと思ったのも(つか)()、しかし予想に反してその肩がわずかに動いた。

 緩慢な動作で、瀕死とおぼしき少女の頭が持ち上がる。

 その顔を見て、アルフラの背後から息を飲む声が複数聞こえた。

 少女の半顔は熟れ()ぜた柘榴(ざくろ)のように潰れていた。

 左の眼球が破裂したのか、とろりとした漿液(しょうえき)が眼窩からこぼれている。

 頭蓋が陥没したためその輪郭は異様で、避けようのない死が少女の身の上にのしかかっていることが見てとれた。

 唯一残った右目にはかろうじて視力が残っているらしく、その焦点はアルフラの顔に結ばれた。


 視線は交錯し、しかしアルフラは無表情で少女を見返すばかり。

 細波(さざなみ)ひとつ立たない湖面のような鳶色(とびいろ)の瞳。そこに感情の揺らぎは一切存在せず、無論、いまのアルフラに憐れみや同情などといったものは微塵も期待できない。

 たとえ周囲でどれだけの命が散り()こうとも、それは舞い散る塵芥(ちりあくた)と大差なく、そういったものに思いを馳せる感性はすでに失われている。


 少女の血に汚れた唇が、痙攣まじりにゆっくりと開かれた。


「……女神、さま……?」


 シグナムたちは、アルフラの肩がかすかに震えるのを見た。同時にジャンヌが大きく目を見開き、いままさにその生を終えようとしている少女に歩み寄った。

 神官娘は、この邂逅(かいこう)に運命を感じたのだ。

 女神と(ほう)ずるアルフラに導かれて出会った少女は、ただの一目で彼女が神であると正しく認識したのである。

 この少女を死なせてはならない。――そんな思いに駆り立てられて、ジャンヌはその呪文を唱えた。


「ああ、我は願う!!」


 少女のかたわらに片膝を付き、祈りの形に両手を組んで(えい)じ上げる。


「万象を内包せし始原(しげん)揺籃(ようらん)、根源の女神アルフレディアよ。御身(おんみ)が忠実なる使徒たらんことを、我は誓約せし者なり」


 一心に祈るジャンヌを中心に大気がつむじを巻き、降りしきる雪が空へと舞い上がった。

 組んだ両手にはあわい光が宿り、死臭に(よど)んだ空気はたちまちに浄化される。

 清涼な風がそよと周囲を()いでいった。


 驚愕をもってその光景を見つめていたフレインは、快癒の呪文を唱えはじめたジャンヌを止めようと手を伸ばしかけた。だがその唇は閉ざされたまま動きを止める。

 快癒の魔法とて万能ではない。おそらくそれは無駄に終わるだろう。顔を潰され、脳にまで損傷を受けているであろう少女はもはや手遅れだ。すでに死神の手は彼女に届いている。ジャンヌのやろうとしていることは(わず)かな延命にしかならないだろう。それはいたずらに死の苦痛を長引かせるだけの行為であり、いま少女に必要なのは、むしろ慈悲の刃であることは誰の目にも明らかであった。――かといって、懸命に少女を救おうとしているジャンヌにそれを告げることは(はばか)られる。可能であれば少女を助けてやりたいという思いはフレインにしても同じだった。

 しかし唐突に、祈りを捧げるジャンヌの声が途切れた。



 それまで無言で立ち尽くしていたアルフラが、神官娘の肩に手をかけたのだ。

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