表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の滅慕  作者: SH
六章 悲恋
200/251

夜に果てる



 二台の馬車が冷ややかな夜気を裂いて疾駆する。

 先行する馬車の御者台では、武神の神官長トマスが手綱(たづな)()り、その背にジャンヌが怒声を投げかけていた。


「つぎの分かれ道もまっすぐゆきなさい! さきほどのように左へ曲がろうとしたら承知しませんよ!!」


「で、ですがアルストロメリアへ行くにはどこかで道を折れねば――」


「わたしの言うことが聞けないというのですか! これはアルフラ様のご意志なのですよ!!」


 一路、ロマリアへと向かう街道上。本来ならば、西方へ(のが)れるためにフレインが用意した馬車を()り、アルフラたちは真逆の東へと進路を取っていた。

 すでに夜の(とばり)が降り、空には煌々(こうこう)と青白い月が登っている。


「おい! そろそろ馬車をとめて夜営の準備をしよう。追っ手がかかってる気配もなさそうだしな」


 武神の信徒に守られつつ中央神殿をあとにした一行は、その護衛たちを振り切り馬車を走らせたのだが、トマスだけは御者役として同乗していたため、ここまで連れてきてしまっていた。


「いい加減、馬も休ませてやらないといけないし、夜道を走らせると(ひずめ)を痛めちまう」


「そうですわね。トマス、シグナムさまの言葉は聞こえましたか?」


「はい、設営でございますね」


 トマスは手綱を引いて歩速をゆるめる。

 馬は夜行性ではないが、ある程度夜目(よめ)も利く。しかし視力が弱いため、夜間の酷使は禁物だ。その(ひずめ)蹄鉄(ていてつ)に守られているとはいえ、不用意に石ころを踏んだり、石畳の窪みに足を取られれば、予期せぬ負傷につながりかねない。

 しばし常歩(なみあし)で馬を走らせると、左右の木立がまばらとなりはじめる。かろうじて野営が可能だと判断したトマスは、そこで馬車を止めた。後続の馬車もそれに(なら)い、御者台からシグナムが降りてくる。

 

「トマス、(かい)()の用意をしてくれ」


 話を振られた神官長はやや不満げにシグナムを見返すも、ジャンヌに目顔で促されてしぶしぶと馬の餌を取りにゆく。それを横目に、シグナムは半日ほども走りづめであった馬をねぎらい、その背を撫でながら語りかけた。


「すこしだけ待ってろよ。すぐにうまいもんを食わせてやるからな」


 うれしげに(いなな)いた馬から首曳(くびひき)(馬車と馬をつなぐ馬具)を外し、シグナムは手近な灌木に手綱(たずな)を結わえつけた。そして馬車から降りてきたルゥへ声をかける。


「あたしは飯の用意をするから薪を集めてきてくれ」


「はあいっ」


 馬車の中で退屈な思いをしていたのだろう、ルゥは跳ねるような勢いで暗い森の中へと駆けていく。飼い葉桶をかかえて戻ったトマスが、眉をひそめてその背を見送っていた。


「あのように年端もゆかない娘を一人で森に入らせるのは危険なのでは? この辺りには狼なども出るはずです。私もあの少女に同行しましょう」


 それを聞いたジャンヌがくすりと笑みをもらす。


「心配ありませんわ。普通の狼は、ルゥの気配を感じただけで逃げ出すらしいですから」


「は……?」


 首をかしげるトマスにシグナムがこたえる。


「ルゥは人狼族なんだよ。夜の森なんて庭みたいなもんさ。薪を取りに行かせると、たまに鹿や猪を担いで戻ってくる」


 その代わり、肝心の薪木を忘れてきてしまうこともしばしばなのではあるが。


「なるほど。道理で髪や瞳の色が…………それにしても、今日はやけに冷え込みますな」


 ぶるりと身を震わせたトマスの吐く息は白い。秋口であるにもかかわらず、異常ともいえる寒気が周囲一帯に居座っていた。

 すでに甲冑を脱ぎ、革鎧を身につけたシグナムも、厚手の外套を羽織っている。



 三人は無言で顔を見合わせ、その視線は自然と、アルフラが乗っている馬車へと向けられた。





 食事の支度も整い、焚き火を囲んだ一行は、(つつ)ましやかな夕餉(ゆうげ)()っていた。予想外の逃避行となったため、持ち合わせの食料が干し肉と根菜くらいしかなく、それらをごった煮にしたものが本日の夕食である。

 一人、アルフラだけは何も口にすることなく、焚き火からすこし離れた立ち木を背にして座り込んでいた。手には抜き身の魔剣が握られ、ときおり何事かを語りかけているようだ。それに応えるかのように金色(こんじき)の刀身からは透き通った金属音が発せられる。トマスなどはさも気味悪げにちらちらとそちらをうかがい見ていた。


「――トマス。アルフラ様は、御神刀を通して世界と対話なされているのです。邪魔をしてはいけませんよ」


「そ、そうなのでございますか?」


「そうなのです」


 おのれの妄想と思い込みをなんの迷いもなく断言するジャンヌに、シグナムとフレインは閉口(へいこう)する。ルゥは待ちわびた食事の時間だというのに、気もそぞろな様子でアルフラへと視線を向けていた。

 トマスも、ジャンヌが言うところの女神云々(うんぬん)という話を真に受けた訳ではない。しかし、アルフラがなにやらただならぬ存在であるということは理解していた。ダレス神弑逆(しいぎゃく)の真偽は確かめようもなく、なるべくならば、あまりかかわり合いにはなりたくないという思いが強い。――だが、そうは言ってもおられぬ事情があった。


「……ジャンヌお嬢様。今後の行程についてお話ししたいのですが」


「アルストロメリアにはゆきませんよ」


「しかし私は、皆様を城へお連れするようにと、枢機卿猊下(げいか)から言いつかっておるのです」


「――なあ」


 それまで干し肉と根菜のスープを啜っていたシグナムが口を挟む。


「あたしたちを(かくま)ってくれるってのはありがたい話だけどさ、そんなことしたら教国軍がアルストロメリアに攻め込みかねないぞ」


 しかしこれに異を唱えたのはフレインだった。


「その可能性は薄いと思いますよ。穀物の収穫が始まるこの時期に、レギウス有数の穀倉地帯であるアルストロメリアが戦火に晒されれば、教国はこの冬を乗り切れないでしょう」


 それ以前に、これから冬を迎えるレギウス教国は、じきに街道が雪に閉ざされ、容易に軍を動かすことができなくなる。


「教国はオークの侵攻によりサルファの穀物庫が略奪されたのち、ロマリアからの食料支援に頼っていましたが、そのロマリアも現在では魔王口無の支配下です。このうえアルストロメリアからの供給が止まれば、食料難により暴動が多発して教国は自滅しますよ」


 食料の備蓄が充分ではない以上、地政学的にもアルストロメリアに国軍が進攻することは不可能に近い。


「アルストロメリア侯爵は、その辺りも踏まえて私たちに肩入れしてくれたのでしょうね」


「枢機卿猊下は深謀遠慮(しんぼうえんりょ)のお人です。どうぞご安心なされてアルストロメリアまでご同行――」


「ですから、アルストロメリアにはゆきません。どうしてもと言うのであれば、トマス、お前一人でお行きなさい」


 犬でも追い払うかのように手を振って見せたジャンヌに、トマスは情けない顔をする。彼はよくよく理解しているのだ。ジャンヌは一度言い出すと、決してみずからの意思を曲げない性質(たち)だということを。

 

「ジャンヌお嬢様、どうかお父上のお気持ちも()んであげてください。猊下は枢機卿という立場よりも父親としての……」


 なおも説得を(こころ)みるトマスを黙殺して、ジャンヌは根菜のスープに口をつける。その隣で、さきほどからじっとアルフラを見つめていたルゥが、なにか意を決したかのようにすっくと立ち上がった。


「どうしました、ルゥ?」


 食事の途中で立ち上がった狼少女にジャンヌが声をかけるが、ルゥはそのまますたすたとアルフラの(もと)へと歩く。

 ほのかな燐光を放つ魔剣が気になるのか、アルフラの前に立った狼少女はなかなか口を開けないでいた。それでも、口の()を舌先で湿らせて、やや硬い声音(こわね)で話しかける。


「あ、あのね、アルフラ……」


 名を呼ばれたアルフラが顔を上げる。とくに表情はなく、なんの感情もこもっていない硝子玉のような瞳に見つめられて、ルゥはたじろいだように一歩後ずさった。


 あきらかな無関心。


 そこに害意は見あたらないが、とりたて好意も含まれていない。ルゥはほっとしたような、かなしいような、複雑なおもいをしてしまう。

 魔術士ギルドの塔でカミルが殺された日、ルゥはアルフラから殺意と食欲に濁った視線を向けられた。それからまだ数日ほどしか()っていない。しかしそれでも、アルフラはルゥのことを一番の友達だと言っていた。――なのにどうだろう。いまルゥを見つめるアルフラの目は、友人に向ける(たぐ)いのものではない。


「……なに?」


 めずらしく物怖(ものお)じした様子のルゥに、アルフラがみじかく問いかけた。

 ルゥは落ち着きなくまばたきを繰り返して、ぐびりと固い唾を嚥下(えんか)する。その緊張が伝わったのか、シグナムたちも口を閉ざしたまま、二人のやり取りをうかがい見ていた。


「え、えっと……や、やけど、なおって……よかったね」


「うん」


 つっかえつっかえやっとの思いで絞り出した言葉に、アルフラはひとつうなずいただけで、目線を手元の魔剣に戻した。

 ルゥは、アルフラの怪我が治ったいまなら、以前のように仲良く接することができるのではないかと期待していたのだ。しかし、無関心というこれ以上はない拒絶を()の当たりにして、つづく言葉が思い浮かばない。

 言いたいこと、伝えたいことはいくらでもあるはずなのに、語彙(ごい)(とぼ)しい狼少女にはどうすることもできず、ただ立ち尽くすばかり。

 思い通りにならない現状と、みずからの不甲斐なさ、それに素っ気ない態度を取るアルフラへの不満とがないまぜとなり、狼少女はじわりと瞳をうるませる。

 ――ひくっ、としゃくり上げるように喉を鳴らしたルゥへ、アルフラがふたたび顔を上げる。そのうっとうしげに寄せられた眉根を見て、シグナムが二人の間に割って入った。


「ルゥ。アルフラちゃんはいそがしいみたいだし、邪魔しちゃだめだろ。あたしの分の肉をわけてやるからさ、こっちで一緒に飯を食おうぜ」


 ぐすぐすと鼻を鳴らすルゥの肩を抱いて焚き火の前に座らせると、ジャンヌが木椀によそったスープを差し出す。


「大盛りですわ。まだまだおかわりもありますので、たんとお食べなさい」


 木椀を受け取ったルゥはジャンヌの隣に移動して、肩を寄せて持たれかかった。

 それでは食べにくかろうにと苦笑したジャンヌであったが、とくになにも言うことなく、ルゥを甘えさせてやることにする。


「美味しいですか?」


「うん」


 ぐりぐりとジャンヌに肩を押しつけながらも、ルゥはスープに浮かんだおおきな具をほおばる。


「おかわり、いりますか?」


「食べる」


 じゃっかん()ねつつも食欲旺盛な狼少女を見て、シグナムはジャンヌに任せておけばすぐ機嫌もなおるだろうと思ったようだ。


「あとで簡易天幕をいくつか組むから、今日はお前たち二人でその内のひとつを使え」


「わかりました」


 満月の夜でもないので、ルゥから襲われることもないだろうと思い、ジャンヌはなにげなくうなずく。



 神官娘は失念していたのだ。ルゥがレギウス神から月長石(げっちょうせき)という月の魔力を宿した秘石を授かっていたことを。





 夜も深まり、高天(こうてん)の月が東の空へ傾きはじめた頃合い。

 フレインは一人、薄明かるい天幕の中で一冊の魔導書を紐解いていた。神殿から焚書(ふんしょ)指定されたいわくつきの書物、死霊秘技。いま手元にあるのは写本のひとつであるが、原本が記されたのと同時期に(したた)められた稀少な品である。長い歳月を()たこの魔導書はそれ自体が魔力を帯び、手にするだけで儀式的な効果を持ち、魔法を行使するさいの補助となる。

 カンテラが淡く照らす文字列を目で追い、フレインは過去の導師たちが書に秘した知識を、無心でおのれの内に刻みつける。

 必要な文面をあらかた読み終えたフレインは、魔導書の脇に置かれた宝珠に手をかざした。火水晶と呼ばれる、その名の示す通り炎を内包した強力な魔導具である。宝珠に蓄えられた魔力は膨大で、一介の魔導士である彼が(もち)いても、伝説的な大導師が行使したとされる魔法を扱うことが可能となるのではないか。そうフレインは予想していた。もちろん技術的な問題でつまづくことはあるだろうが、それはこれから経験を積んで(おぎな)えばよい話だ。足りない知識を埋めるための魔導書も、すでに手中(しゅちゅう)にある。そして――


 フレインは導衣の懐から、厳重に封印を(ほどこ)された聖布(せいふ)を取り出した。幾重(いくえ)にもなされた封印の上からでも、かすかに感じられる瘴気(しょうき)が天幕内を汚染する。


 いま、フレインの手もとに集められた魔導具は非常に強力なものばかりだ。修練さえ(おこた)らなければ、既存の魔術はあらかた扱えるようになるだろう。――だが、フレインにはあまり時間がない。すでにロマリアは魔王口無が支配するところとなっている。遠からず一行は多くの魔族と対峙することとなるはずだ。そしていずれは魔王その人とも。


 おそらく、アルフラは口無を倒すだろう。


 しかし、フレインを含めたほかの者たちも、最低限、おのれの身はおのれで守らなければならない。彼は、早急に力を手にする必要があった。魔王の周辺には、その配下である爵位の魔族が複数存在するはずなのだから。――そしてさらにその先、魔王たちの巣窟である皇城が最終的な戦いの場になるであろうことを考えれば、どうしても保険として修得しておきたい秘術がある。


 ふっ、と浅く息を吐き、フレインは火水晶にかざした手に意識を集中する。水晶の中で燃える炎が()らめき立ち、掌にじんわりと熱が染み込む。――流入する魔力が熱さとして感じられたのだ。

 驚くほど高質な力の奔流が身の内を駆け巡り、堪えがたい高揚感に魔力の制御が困難となる。一旦、火水晶から手を引き、呼吸を整えようとしたとき――不意になんの前触れもなく、天幕の布戸が(めく)られる音がした。


 反射的に封印の聖布を懐に隠し、魔導書に手を伸ばす。そこでフレインは、ぴくりとも動けなくなってしまった。天幕の入り口から顔を(のぞ)かせた女吸血鬼と、目が合ってしまったのだ。


「どうしたんだい? そんなに驚いた顔をして」


 妖魅の魔眼を(またた)かせてカダフィーは笑う。


「せっかく迎えにきてあげたんだ。もっと嬉しそうにしなよ。ん?」


 上機嫌な様子のカダフィーとは対照的に、フレインはどっと冷や汗を噴き、顔を引き攣らせる。


「ああ、しゃべっていいよ。でも他の奴らに気づかれたら厄介だから、小声でね」


 魔眼によってもたらされた呪縛が緩み、フレインはかろうじて口許だけが動かせるようになった。震える声でカダフィーに問いかける。


「な、なぜ……?」


「なぜって? さっきも言ったろ。フレイン坊やを迎えに来たのさ。このままあの嬢ちゃんについて行けば、あんたは破滅に向かって真っ逆さまだ。そんなの見過ごせる訳ないだろ。――ま、親心ってやつかねえ」


 冗談めかして笑ったカダフィーではあるが、その痕跡(こんせき)(あら)れたのは吊り上がった口角(こうかく)にだけ。目には真摯の色が宿っている。


「あなたは……王都に、戻ると……」


「ああ、戻るよ。フレイン坊やを連れてね」


 しゃべる以外に身動きの取れないフレインは、どうにかこの状況を脱する手立てはないかと忙しく頭を働かせる。つい数時(すうとき)前、アルストロメリア侯爵がカダフィーの魔眼を自力で打ち破る場面を見ていたものの、凡人である彼に真似(まね)など出来ようはずもなく――なんとか助けを呼ぶ手段はないかと考える。そこで、今日は夜通し不寝番(ふしんばん)をするつもりだ、と話していたシグナムの安否が気になった。


「……シグナムさんは、どうしました……?」


「べつにどうもしちゃいないよ。焚き火の前で見張りをしてるみたいだったね。――でも、私たちには隠形の術って便利なもんがあるだろ。百二十年もかけて習熟した技だからね。手練(てだ)れ傭兵にだってそうそう気取(けど)られはしないさ」


 実際に、導士であるフレインですらカダフィーが天幕に近づいていたことに気づかなかったのだ。彼女が隠形を()くまでは助けも期待できないだろう。それでもフレインは、わずかなりとも時間を稼ごうと口を開く。


「王都に戻ったあとは、どうするつもりですか?」


「もちろん嬢ちゃんを殺すための算段を立てるのさ。レギウス神は殺られちまったけど、まだ御子が残ってるだろ? あの娘の首を手土産にすれば、界央の瞳でホスローの行方を探して貰えるはずだからね」


「たとえあなたであっても、いまのアルフラさんに勝てるとは思いません。無駄死にするだけですよ」


「おや、私の心配をしてくれるのかい? うれしいねえ」


 含みのない素の笑顔を見せたカダフィーは、でもね、と低く(ささや)いた。


「やり方なんて、いっくらでもあるもんさ。なにも正面からぶつかるだけが戦いじゃない。毒を盛ってもいいし、凱延用に研究していた封印術で罠を仕掛けることだって出来る。――場合によっては、こういったモノだって使えるしね」


 そう言って女吸血鬼は外套の前を開く。彼女の腰帯には、その右側に死神(ししん)王笏(おうじゃく)。左にはホスローが所有していた宝具、ガイル・ディアーの宝刀が挿されていた。


「それに私は吸血鬼だからね。際限なく増やせる下僕を、際限なく送り続けることだって可能なんだよ?」


 ある意味カダフィーは、いまのアルフラにとって魔族などよりよほど厄介な相手なのかもしれない。彼女は不死者でありながらも、人間特有の狡知(こうち)(そな)えている。


「絶対に負けない戦い方ってのもね、あるもんなのさ」


 機嫌よく(うそぶ)く女吸血鬼の視線が、天幕の床に降りる。その顔がかるくしかめられた。


「この魔導書……ギルドの書庫から持ち出したものかい? ずいぶんとえげつない魔力を帯びてるみたいだけど」


 古めかしい書を手に取ったカダフィーが驚愕の声をあげた。


「これは、死霊秘技!? まさか観覧禁止区域から……」


 言いかけて、はっと息を呑む。開かれた(ページ)に目を走らせたカダフィーは、鼻先が触れ合うほどの至近からフレインの瞳をのぞき込む。


「あんた、まさか……アイシャのことを……」


 フレインはカダフィーが何を言わんとしているか、正確に理解できたものの、それはいささか勘違いといえた。彼の目的は若干異なるところにあった。


 無言で表情を強張(こわば)らせるフレインを凝視していた女吸血鬼は、ふと、あることに気づく。

 魔導書や宝珠の発する魔力によりあまり判然(はんぜん)とはしないが、よくよく馴染みのある瘴気が、天幕内の空気に混じっているのだ。その源はフレイン自身から感じられた。


「胸元に、なにを忍ばせてる?」


 色を失い顔面蒼白となったフレインに命じる。


「それを出してごらん」


 カダフィーの声は(あらが)いがたい強制力を(ともな)いフレインの鼓膜を揺らした。

 おのれの意思とは無関係に右腕が動き、封印の聖布が取り出される。――瞬間、女吸血鬼の瞳が燃え上がるかのような赤光を発した。

 ひったくるようにして奪い取った聖布を、カダフィーは乱暴に解き広げる。


「……なんで」


 あらわれたのは、ぼろぼろに裂けた黒い布切れ。


「なんであんたが、これを……」


 ホスローの形見であるそれを握り締めて、カダフィーは震えていた。


「なんであんたが怨鎖(えんさ)の衣を持ってるんだ!?」


 本来それはホスローの力の源であり、彼が健在であれば決して手離さないはずのものであった。


「答えなフレイン!! なぜあんたがこれを持っているのかを!?」


 激しく問い詰めながらも、カダフィーは真実に辿り着いていた。

 フレインの表情に色濃く浮かんだ罪悪感が、ホスローの現状を克明に物語っていたのだ。


「遺品として、私が持っていました」


 すでに妖魅の魔眼に(こう)することを諦めてしまったフレインは、かすれた声でありのままを語った。


「ホスロー様は、すでにこの世にはおられません」


「……そんな……」


 カダフィーは茫然とつぶやき、愛する男の形見をかき(いだ)いた。体の震えが止まり、見開かれた瞳からはとめどなく涙がしたたり落ちる。――哀惜(あいせき)(むせ)ぶのもつかの間、つぎに訪れたのは激情だった。


「なんで……!?」


 女吸血鬼の右手が伸ばされ、フレインの首に指が絡みつく。その細腕はすさまじい力を発揮し、彼の喉を締め上げた。


「ホスローがどれだけあんたの事を目にかけてたと思ってるんだ!? 孤児だったあんたが!! 一端(いっぱし)の魔導士になれたのは誰のおかげだ!?」


 涙ながらにおのれの首を締めるカダフィーを見て、フレインの心中には彼女に殺されるのであれば、それも仕方のないことだという諦観(ていかん)の念が去来(きょらい)する。恩師を(たばか)りその死に一役買ったときから、心の底には後悔が沈んでいた。


「この、裏切り者!! ホスローは寡黙な男だったから口には出さなかったけどね、あんたのことを実の息子のように思ってたんだ! あんたを自分の後継者にしたいとまで言ってたんだよ!!」


「ホスロー様が、私を……?」


 驚きに目を見張ったフレインのなかで、堪えがたいまでに罪悪感が膨らんでいく。


「そうさ!! 私だってあんたのことが……。それなのに、お前は、ホスローを……ッ!?」


 唐突に、絶息(ぜっそく)するかのような呼気を漏らしてカダフィーの体が(かし)ぐ。見れば天幕の壁を貫いた燐光放つ魔剣の刃が、彼女の脇腹に潜り込んでいた。

 グッと(うめ)いて女吸血鬼は後ろに飛び退()く。傷は浅く、魔剣に魂を喰らわれるには至っていない。

 刃が引かれ、その刃先が戻された直後、(しゃ)に剣閃が走り、裂けた壁布(へきふ)の隙間からアルフラが顔をのぞかせた。(あざけ)りに歪んだその唇が、しずかに開かれる。


「あいつを殺したのはね、あたしだよ?」


 怒りに体を痙攣させ、カダフィーは声にならない叫びを上げる。

 獣のように唸りながら、その手は左の腰に差された短刀の柄を握っていた。


 そこから先は、一瞬であった。


 憤怒の形相で踊りかかった女吸血鬼の腹に、魔剣が突き立つ。

 降り下ろそうとした短刀は、手の中から力なく(こぼ)れ落ちる。

 腹部を貫いた魔剣の刃はまるで氷のよう。

 そこから急速に熱量が失われゆく。


「く、あぁ……」


 吐息のような静かな断末魔。

 しかし薄れゆく意識を、愛する男を殺した少女への憎悪が引き戻す。

 カッと目を見開いた女吸血鬼は、アルフラの肩を鷲掴み、爪を立てる。

 刀身がより深く、おのが体を刺し貫くことも(いと)わず、一歩踏み出す。

 末期(まつご)の痙攣に全身を震わせながらも牙を剥き、アルフラの首に食らいつく。

 噛み潰された気管から空気が押し出されて、アルフラの喉がひゅっと鳴った。

 ――しかし、


「……へたくそ」


 喉に深く女吸血鬼の牙を受けながらも、アルフラは平坦な声でささやく。


「そこじゃないわ」


 文字通り死力を振り絞り一矢報(いっしむく)いたカダフィーであったが、その牙は、わずかに頸動脈から()れていたのだ。

 アルフラは女吸血鬼の腰に腕を回し、抱き寄せるようにして体を密着させる。そしてにんまりと唇をほころばせて、告げた。


「ここよ」


 ひぃ、と――カダフィーの口が細い悲鳴を奏でる。

 喉首を噛み裂さかれた女吸血鬼の体が、弓を絞るようにぎりぎりとのけぞった。

 太い血管を食い破ったアルフラの口許は、鮮血で朱に(いろど)られ。さらに赤い舌が、喉肉を掻き分けて傷口に差し込まれる。

 食道の内側にまで達した舌先を踊らせて、アルフラは女吸血鬼の血を啜り上げる。

 ひくひくとのたうつ体を逃さぬように抱擁(ほうよう)し、死の口づけは熱烈につづけられる。

 肉を咀嚼(そしゃく)しながら食い進んだアルフラの口が、血脂(ちあぶら)にまみれた硬質なものに触れた。――頸骨だ。骨にこびりついた筋組織を舌でこそげ取り、つややかなその表面に歯を立てる。そのまま一息に噛み砕くと、潮の風味のする髄液が咥内(こうない)に溢れ、ひぃひぃと(あえ)いでいた女吸血鬼は完全に脱力した。

 ぐったりとしなだれかかる体を解放する。アルフラは満足げに舌なめずりをし、虚空を見つめるカダフィーの目をのぞきこんだ。


「あいつのことが、好きだったの?」


 なかば首のちぎれかけた女吸血鬼からは、当然のように何の返答もない。 


「でも、あいつはべつの女のことが好きだったみたいだよ」


 くすくすと陰惨な笑みを口許に貼りつけたまま、やさしく語りかける。


「だってあいつ、死ぬときにヴァレリーって女の名前よんでたもん」


 楽しげなアルフラの声に(こた)える者は、やはり誰もいない。


「あなた、その女のこと、知ってる?」


 それはかつて凱延に殺されたホスローの妻。カダフィーにとっては姉にあたる女の名であった。

 絶命した女吸血鬼の瞳から、ひとすじの涙が零れ、頬を伝い、流れ落ちる。



 こうして、女吸血鬼の想いは、一人の少女の狂った恋慕に食い潰された。





 事の一部始終をその目にしたフレインは、のちに考える。

 ――やり方などいくらでもある。絶対に負けない戦い方もあるのだと言っていたカダフィーが、なぜアルフラを前にして無策にも近接戦を挑んだのであろうかと。

 いくら激昂していたとはいえ、まったく勝ち目がないことは彼女にも分かっていたはずなのに。


 おそらく彼女は、生死を分けるその瞬間に、願ってしまったのだろう。ホスローの形見である短刀で、愛する男の(あだ)を討ちたいと。

 情の深い女なのだ、カダフィーは。そしてその人間性が、彼女の身を滅ぼしてしまった。



 アルフラがそうであるように、彼女もまた愛に狂っていた。しかし不死者であるカダフィーの方が、いまのアルフラよりも、よほど人間的であったということだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ