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氷の滅慕  作者: SH
一章 楽園
2/251

雪原の古城



 暖かなまどろみの中で、少女の意識はゆったりと収束していく。


 目を開いた少女は、見慣れぬ天井をしばしの間、ぼうっと眺めていた。

 真っ白で(つや)やかな光沢をたたえた石造りの一室。


 ふと我に返り、少女はふるふると頭を振るわせた。

 顎先で切り揃えられた亜麻色の髪がそよぎ、頬に乱れかかる。片手で後ろへさらりと流し、少女は広い室内をぐるりと見回してみた。

 大きな鳶色の瞳が、きょときょとせわしなく動く。その仕種(しぐさ)は、どこか小動物を彷彿とさせる愛らしい少女だった。


 辺りには、これまで見たこともないような豪華な調度品。暖炉には火が()かれ、室内は心地好く暖かい。


――お城?


 まずそんな疑問が浮かんできた。名もない寒村で育った少女には、無縁の世界だ。


 ぼんやりとした頭で考えてみる。

 現在の状況が、まったく理解出来なかった。

 なぜ自分はこんなところに居るのだろう?

 まるで、話に聞く貴族の邸宅か、領主の居城のようではないか。


 ふかふかな寝台のなか、掛けられていた毛布をはいで上体を起こしてみる。

 手ざわりの良い寝具に、よだれを垂らして寝込けていたことに気づいた。


「わわっ」


 慌ててワンピースの裾で、毛布をごしごしとこする。


 そこで少女はまた気がつく。

 自分の着ているワンピースが、今までふれたこともない、滑らかで上質な生地で仕立てられているのだと。

 とても高価そうな衣服を汚してしまい、少女は慌ててしまう。やがて静かに扉の開く音が聞こえた。


「おや、ようやくお目覚めになられましたか」


 低く、落ち着いた声が響いた。

 戸口では、執事服を着た初老の男性が、水差しの乗ったトレイを片手に微笑(ほほえ)んでいた。


「喉がお渇きでしょう?」


 その声は少女を安心させるかのように柔らかく、ゆっくりとした口調であった。

 部屋の豪華さと広さに萎縮(いしゅく)し、上質な毛布と衣服を汚してしまったことにちじこまっている少女は、思わず黙り込んでしまう。


 老執事は気にした風もなく、にこやかな表情をくずさない。おっかなびっくり見つめる少女の方へ、姿勢正しく歩みよる。

 寝台のかたわらに備えられた木卓へ、水差しが置かれた。

 息をつめる少女を前に、老執事は(きびす)を返して扉へと向かう。


「ただいま奥様をお呼びしてまいります。少しの間、おくつろぎになられてお待ち下さいませ」


 戸口で振り返った老執事は、腰に手を当て、優雅な一礼をして見せた。そしてそのまま部屋から立ち去る。


 少女には、状況がまったく理解出来ていなかった。

 木卓に目をやり、今さらながらに自分はとても喉が渇いていたのだと気づく。

 水差しを手に取りそのままごくごくと、かるくむせたりしながら飲み干した。

 慌てていたので口の端から水を(したた)らせてしまい、腕でごしごしとやる。

 そして、さらにワンピースを汚してしまったことに気づき、大きなため息をこぼす。

 うつむき、顔に垂れかかる髪を手櫛で整えながら、自分のそそっかしさに辟易(へきえき)としてしまった。


 そうこうしている内に、ふたたび扉の開く音がした。

 声をかけるでもなく部屋に入って来た女が、つかつかと寝台へと歩みよる。

 少女の前に立ち、見下ろしてくるその顔は、冷たい彫像のようであった。

 透き通るような白い肌、滝のように流れ落ちる銀色の髪。

 少女の脳裏に、雪の精、雪女といった単語が浮かんでくる。


 端正と言うにも、あまりに美し過ぎるその顔立ちは、まるで女神のようだと少女は思った。


「め……女神さま?」


 思わずもれた質問に、


「……ですか?」


 慌てて付けくわえる。

 少女は自分の顔が、熱く火照るのを感じた。


「それとは真逆の存在よ」


 愉快そうに口許をほころばせる女は、訝しげな少女に頓着せず、さらに言葉をつづけた。


「お前の名は?」


「アルフラ……アルフレディア・ハイレディンです」


「あら、アルフラ。お前には姓があるのね」


 通常、市井(しせい)の者に姓などない。

 女はやや意外そうな口ぶりであったが、たいして興味もないらしく、さらなる質問を投げかける。


「歳はいくつ?」


「十一歳です」


「体の具合は?」


「え? あの……」


 なんの説明もなく矢継(やつ)(ばや)に質問されて、アルフラはすこし困惑してしまう。


「どこか痛むところはない?」


「えっ……と……」


 質問に対して明確な答えを返せないでいるアルフラに、イライラしてきたらしい女が口早につづける。


「お前は酷い状態だったわ。外傷はほぼ塞がってるけど、完治しているかは本人じゃないとわからないでしょ? 私は医者ではないのだからね」


「あ……」


 アルフラは思い出す。

 目の前で両親が殺され、醜悪な怪物が彼女に向かい、槍の穂先を振り下ろす様を。

 怪物は、焚火にまきを投げ込むような気軽さで、串刺しにしたアルフラを燃え盛る炎へと投げ入れた。

 凄まじい激痛と、業火の中でのたうちまわった恐怖が(よみがえ)ってくる。


「あ、ぁあ……あ……」


 うめき声が悲鳴に、絶叫へと変わろうとした瞬間、ほっそりとした白魚のような指が、アルフラの顎に掛けらる。

 そのまま強引に、女の方へと顔を向けさせられた。

 肌に触れた女の指の冷たさに、びくりと身をすくめる。


「痛む所は?」


 のぞき込んでくる蒼い瞳には、(いたわ)りや思いやりといった感情はうかがえない。必要な事柄を観察しようとする意志だけが感じられた。


 目を合わせると引き込まれそうな蠱惑(こわく)の瞳に魅入られて、無意識のうちにアルフラは答える。


「どこも、痛くありません。元気です……」


「そう、ならいいわ。後で軽い食事を持って来させるから、もうしばらく寝ていなさい」


 必要なことだけを告げて、女はくるりと身をひるがえした。

 瞳の呪縛から解放されたアルフラは、あまりに美しいその顔を、ほんの少しでも長く見ていたい一心で呼び止める。


「待って……あの、えっと」


 アルフラは必死につづく言葉を探す。


「名前……そう、名前! なんて呼べば……お呼びすればいいですか?」


 ふり返った女は、相変わらずの無表情だった。しかし、ふたたびアルフラの視線はくぎ付けとなる。その造形の美しさに。


白蓮(びゃくれん)よ。好きに呼びなさい。それに、無理をして丁寧な言葉を使う必要もないわ」


「え? でも……」


「……」


「あたし、高貴なお方にどんな……」


 言いかけたアルフラの言葉を、女の冷たい瞳が黙らせる。


「お前はこの私に、二度も同じ事を言わせようというの?」


 白蓮の言葉には、(めい)じ慣れた者特有の威厳と威圧感があった。

 おそらく彼女の命令に対して「かしこまりました」以外の言葉が返されるのは、稀有(けう)なことなのだろう。


 アルフラが見知る最も地位の高い人物、レギウス教国北部一帯を治める地方領主と比べても、その存在感は次元が違うものに感じられた。


「普段通りに喋りなさい」


「は、はい。わかりました」


 銀髪の麗人は満足げにうなずき、部屋から出てゆく。


 ほうっ、と大きな息をひとつ吐き、白蓮が出て行った扉を呆然と見つめる。


――びっくりするくらい綺麗……あんなに美しい人、はじめて見た


 かなり緊張していたらしく、一息つくと疲労感が押しよせてきた。


――いくつくらいの人なんだろう?


――奥様って呼ばれていたけど、とてもそんな歳には見えなかった


 身近なところで、自分の身内と比べてみる。

 三十二歳であった母と比較してもだいぶ若い。

 おそらく二十代前半から、いっても(なか)ばくらいであろうかと想像する。


 連鎖的に、優しく微笑みかける母の笑顔を――頭を撫でてくれた大きな父の手を思い出した。

 心は鉛のように重く冷たく沈み込み、アルフラは顔をうつむかせる。両親は死んでしまったのだという現実が、急激にのしかかってきた。


 農作業で使う(くわ)を構えて、最後まで家族を守ろうとした父。

 対峙するのは数人のオークと呼ばれる獣のような顔をした怪物たち。

 アルフラの父は群がる怪物に引き倒され、剣や槍で滅多刺しにされた。

 大きく力強かった父が、悲痛な呻き声を上げていた。

 のたうつ体が物言わぬ肉塊へと変わるまでは、ほんの数瞬の出来事であった。


 その間、部屋の隅にうずくまり、アルフラを抱きしめながら「大丈夫、大丈夫だからね!」と半狂乱に泣き(わめ)いていた母。

 しかしあっさりと喉首を掻き斬られて、アルフラの顔を返り血で染めた。


 幼い子供にとって絶対の神であり、守護者のごとき存在である両親の死は、そんな呆気ないものだった。


 世界の終わりだと思った。


 そしてアルフラ自身も……


「……あれ?」


 槍で刺されたはずだった。焼けるような激痛、鋼の穂先が腹部に突き込まれる異様な感覚。

 その時に感じた、吐き気と悪寒まで覚えている。

 刺されたとおぼしき箇所に手を当ててみるが、なんの違和感もない。


 慌てて半身を起こし、ワンピースをまくり上げてみる。

 一瞬、自分が下着を履いていないことが気になったが、今はそれどころではない。

 腹部を確認してみて唖然(あぜん)とする。そこには傷ひとつ、染みひとつ見あたらない。


 どれほどのあいだ眠っていたのかは分からないが、その間に治ったのだろうか?


 そんな馬鹿な! と思う。


――そうだ、それに火のなかに投げこまれて……


 炎に焼かれながら感じた、自らの肉が焦げる嫌な臭いを覚えていた。

 血も吐いたような気がする。

 灼熱の地獄から逃れようと這いずりまわり、家が焼け落ち……


――あたし……なんで生きてるの?


 記憶の糸を、ゆっくりと手繰りよせてみる。


――あっ!!


 そうだ、たしかに見た。

 動けず、力が入らず、痛みすらあいまいとなり、意識も(おぼろ)げになってはいたが……


――見た……あたし、たしかに見た!


――あの人だ! 白蓮さま……あの人があたしを助けてくれたんだ



 降り続く雪の中、炎に照らし出されて、傲然(ごうぜん)と、無慈悲に、冷淡に見下ろす氷の美貌。

 強烈な印象をともなって記憶に焼きついたその光景は、幼いアルフラの“心の原風景”となった。





「……くちゅんっ!」


 ――深夜。アルフラは自分のくしゃみの音で起きてしまった。


「……??」


 一瞬、なぜ自分が目を覚ましたのかわからず、ぼ~っとしてしまう。

 なにか腰の辺りに頼りなさを感じた。

 とてもすーすーする。


――ぱんつ、ほしいな……





 眠りの中にたゆたっていたアルフラは、耳元から聞こえたかすかな物音で目を覚ました。

 なにやら食欲をそそるよい匂いに、意識がはっきりしてくる。


 昨日の執事然としたロマンスグレーの紳士が、真っ白なナプキンを片手に微笑んでいた。

 執事は、これまた真っ白なハンカチを胸元から出して、アルフラの顔にかるく押しあてる。そして、目許をなぞるように涙を(ぬぐ)ってくれた。


――あ、ねてるうちに泣いちゃってたんだ


 羞恥心を覚え、頬が熱くなった。

 さらに口元を丁寧に()いてくれる。


――えーっ! よだれまでっ!?


 あごを伝い、首の辺りまで拭かれる段になると、アルフラは耳まで真っ赤になっていた。


 どれだけの量を垂らしていたのだろう。

 締まりのないみずからの口を呪いながらも、礼を言うのは忘れない。アルフラはお利口な子だ。


「あ、ありがとうございますっ。ごめんなさい」


 どういたしまして、と老執事は笑みを浮かべた。

 彼は部屋の隅に置かれていた白木造りの椅子を、寝台のすぐ(そば)へと移動させる。

 それは青い玉石と白銀の金属で装飾された、非常に豪奢ごうしゃなものだった。

 その時になってやっとアルフラは、扉付近に白蓮が立っていたことに気がついた。


――み、見られたっ。よだれ、見られた!


 くすりと、老執事の笑い声が聞こえたような気がした。

 硬直したままのアルフラを気にするでもなく、白蓮は椅子に腰掛ける。そして一言命じた。


「高城、下がっていいわ」


「はい、それでは失礼いたします」


 かるく頭を下げ、扉を開き、さらに一礼してから老執事は部屋を後にする。


――たかしろさん、てゆうんだ……


 などと思いながらも、視線を感じて動けないでいるアルフラに、白蓮の指示が飛んだ。


「お食べなさい」


「――はいっ」


 瞬時に金縛りが解けたかのように起き上がり、木卓に置かれた皿を見る。

 匂いの正体はスープだった。

 細かく刻んだパンのようなものと、柔らかく煮込んだ肉であろうか? とにかく、消化に気を使ってくれているらしい。


 添えられた銀色のスプンを手に取り、ずっしりとした感覚にびっくりしてしまう。アルフラは今まで木製の食器しか使ったことがなかったのだ。

 白蓮の注視を浴びながらも、おっかなびっくりスプンを口元に運んでみる。

 湯気は立っているもののそれほど熱くもなく、よく煮込まれたスープはとても食べやすかった。

 味は……


「おいしいっ! すごくおいしいです!!」


 なんとかその美味しさと感謝の気持ちを伝えようとしたアルフラであったが、白蓮からはなんの反応も返ってこない。ただじっとアルフラを見ているだけだ。

 かなり近い距離で見つめられているため、先ほどとは違った意味で頬が上気してくる。

 二口、三口とスプンを運んではみるが、やはり落ちつかない。


「あのぉ……白蓮さまも、たべますか?」


「……」


 なんとはなしに、すくったスープを白蓮の口元によせてみた。

 一瞬の間があり、白くほそい指がスプンの中程に()えられた。

 そのままかるく押されて、スプンはアルフラの口元に運ばれる。


「とくに空腹は感じていないわ。これはお前の分よ。きちんと自分でお食べなさい」


「あ……はい」


 口元によせられたスプンをパクりとやって考える。


――白蓮さまは、きっと高貴な人だ。あたしの食べかけのスープをすすめるなんて……


――きっと、とんでもなく失礼な……


――それいぜんに、口をつけたスプンを人にすすめるなんて……


――いやいや、もしかしたら高貴な人は、なにかとくべつな豪華専用料理を……


「あの、あの、白蓮さま……」


「落ち着きのない子ね、黙ってお食べなさい」


「す、すみませんっ」


 言葉の途中でさえぎられて、(しか)られてしまった。

 決してきつい口調(くちょう)ではなく淡々とした物言いだ。しかし白蓮の美しい顔立ちとその表情のなさもあいまって、アルフラにとってはかなり強く叱責(しっせき)されたかのように感じられた。


「それから、私は変に(かしこ)まらず、普通に話してよいと言ったわね?」


「は、はい……」


「名前も好きに呼ぶようにと言ったわ。敬称(けいしょう)を付ける必要はないのよ」


「……はい」


 好きに呼んでいいと言うことは、様付けでも構わないのではないだろうか?

 普通に浮かぶ疑問であろうが、白蓮の(げん)が正しく、自分は間違っているのだとアルフラは自然に思った。おさな子が、親の言いつけになんの疑問も(いだ)かぬように。


 だが、なんと呼べばいいのか分からない。


 白蓮は隣に住んでいたおばさんより大分年下だし、近所のお姉さんより少し年上だと思う。

 かなり高貴な身分のようなので、近所のお姉さん的な感じで呼ぶのもまずい気がする。


――お姉さま? かな


――……なんかちがうとおもう


「白蓮さん? て呼んでいいですか?」


「……そうね、それでいいわ」


「はいっ」


 (あるじ)に褒められた子犬のように、アルフラはにこにことスープに取りかかった。

 簡素な食事を終えると、見計らったかのように扉が叩かれ、高城により食器が回収されていく。

 ふたたび二人きりになった室内で、白蓮がアルフラに命じた。


「寝台から降りてみなさい」


「あ、はい」


 アルフラはひんやりとした床に足をおろしてゆっくりと立ちあがる。

 くらりと上身が揺れて、意識が遠のくのを感じた。

 慌てて寝台に手をつくが、膝がすとんと折れる。そしてそのまま尻もちをついてしまった。

 ぐらんぐらんする意識のなかで数瞬耐えていると、しだいに頭がはっきりとしてくる。


「だ、だいじょぶです」


 すっくと立ち上がる。


「身体に痛みはないと言っていたわね?」


「はい、たぶん貧血だと思います」


 白蓮の視線がアルフラの顔から足元へと移動し、ふたたび顔へと戻される。

 そこに気遣いや好意らしきものが見当たらないことに、アルフラはちょっとしょんぼりした。


 観察するような、医者が患者を()るような、さらに言えば、獣医が家畜に向けるような目だと思った。


「……血が足りていないのかしらね」


「あの……いえ、ずっと寝てて急に起きあがったから……」


「座りなさい」


 白蓮は立ち上がり、自らの右手の人差し指へ、ふぅっと息を吹きかけた。その指先に血の玉が浮き、徐々に大きさを増してゆく。

 アルフラは見た。

 息を吹きかけた瞬間、白蓮の口から氷の結晶のようなキラキラとしたものがこぼれ出たのだ。


 決して見間違いではない。アルフラは穴が空くほど白蓮を見つめていた。魅了されたかのごとく、見とれていたのだから。


――ゆ、ゆきおんな!?


 しかし、恐怖はまったく感じなかった。


「お舐めなさい」


「え? あの……?」


 目の前に、血の浮いた指が差し出される。


「……え? なめ……」


 言いかけて、白蓮の言葉を思い出す。二度も同じことを言わせるのか、と。

 反射的に白蓮の指を口にふくみ、血を舐めとる。血を口から摂取して貧血が治るのか、と言う疑問を感じることもなく。


 どうして良いのか分からず、指をくわえたまま硬直してしまう。

 上目遣いに白蓮の様子をうかがっていると、ちゅぽんっ、と軽快な音をたてて指を引き抜かれてしまった。無意識の内に吸っていたらしい。


「あの、白蓮さん、けが……」


「大丈夫よ」


 アルフラの口から脱出した指には、すでに出血もなく、傷らしきものも見当たらなかった。

 白蓮は気にもせず、蒼い瞳でアルフラをのぞき込む。

 なにか先程までとは違ったものが、その視線からは感じられた。


「白蓮さん……?」


 舌先に、ちりちりとした熱い刺激が走った。間髪を置かず、喉から腹部、胃の辺りにかけて灼熱感が襲う。

 アルフラは酒を飲んだことがなかったが、もしも強い火酒を飲んだ経験があったなら、それとよく似た感覚だと思ったかもしれない。


「白蓮さん、な……に……これ?」


 痛みではない。不快とも思わなかった。むしろ身体中に熱が伝わり、高揚感すら覚える。

 アルフラはみずからを抱きしめて、その熱さにぶるりと震えた。


「あぁ……ぁ……」


「どう? どこか痛む?」


 抑揚(よくよう)のない声音で問いかけられるが、まともに言葉を(つむ)ぐことができない。ただ必死に首を横へ振る。

 かるく眉根をよせた白蓮が、アルフラの首筋に手を伸ばす。


「あっ! ……んんっ……」


 触れられた指先の、あまりの冷たさに吐息がもれた。

 動脈を通過する血液が、白蓮の指先で冷やされてゆくのが分かった。

 それでも、体の火照りはなかなか治まらず、ひんやりと心地好い白蓮の腕を両手でつかむ。

 その冷たさに身体を侵す熱が掌から奪われ、だんだんと落ち着いてくる。


 気がつくとアルフラは、(すが)りつくように白蓮の腰を抱きしめていた。


「ぁ……」


 慌てて寝台に座り直す。


「ごめんなさい、白蓮さん」


「いいわ。それより体の具合はどう?」


「あ、はいっ。もうなんともないです」


「……」


「最初はすごく体が熱くなってびっくりしたけど、白蓮さんがさましてくれたから、もうへいきです」


「……それだけ?」


「え……?」


「体が熱くなっただけなの?」


「はい。あと、ちょっとふわふわしたような感じもしました」


 頬を赤らめ、はにかむように笑うアルフラを見て、白蓮がすっと目を細める。


「……すごいわね」


「あの……白蓮さん。さっきのって、なんだったんですか?」


「お前が知る必要はないことよ」


 若干、硬めの声音で告げられて、アルフラはぎゅっと目をつむる。


「ごめんなさぃ……」


 うつむいたアルフラを見る白蓮の瞳は、注意深くその様子をうかがうようでもあり、何か考えを(めぐ)らせているようでもあった。

 アルフラにとっては、長く感じるいたたまれない時間であったが、すぐに沈黙は破られる。


「そうね。一日様子を見てみましょう。明日にでも話してあげるわ」


「は、はいっ!」


 顔を上げたアルフラの表情が、ぱぁっと輝く。


「今夜はゆっくり休みなさい」


「はいっ。おやすみなさい、白蓮さん」


 それには一言もなく白蓮は退室したが、アルフラは閉じられた扉をにこにこと見つめつづけていた。



 もしアルフラが“人体実験”という概念を知っていたのなら、現在自分の置かれている状況を正しく理解できたかもしれない。

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