神へ至る狂気
降神の間には張りつめた空気がただよっていた。
静まり返った場において、いち早く動きをみせたのはカダフィーだった。女吸血鬼はアルフラから距離を取るように銀の円環から離れ、壁際に位置取る。とうのアルフラは、金属の床に突き立った魔剣を引き抜いて、無造作にジャンヌの髪を掴んだ。そして腰車の要領で投げ飛ばすと、転がりながら立ち上がった神官娘には興味を示さず、一足飛びで扉の前に移動した。
魔剣の切っ先を床に垂らしたまま、アルフラは深く腰を落とした前傾姿勢を取る。
待っているのだ。天界からやって来るであろう追っ手たちを。
なにもアルフラは、神族から逃げるためにレギウス神の御子を人質にしたわけではない。幾柱もの神々に囲まれた状況を嫌い、場所を変えて迎撃しようと考えていた。法の最高神をその手にかけた者を、軍神や闘神はみすみす逃しはしないだろう。
左手を一振りしたアルフラが叫ぶ。
「そこからどいて! はやく!」
円環の上に人がいると、それが障害物となって追っ手たちが転送されて来ないのではないかと思ったのだ。アルフラの意図を悟ったシグナムとフレインは慌てて円環から跳び出る。しかし、信仰する神を弑された神官娘はそこから一歩も退かず、怒髪天を衝く憤怒の形相でアルフラを睨めつけていた。
「ジャンヌ、だめ! だめだよ!」
アルフラが邪魔者の排除を考えるより先に、ルゥがジャンヌを小脇に抱えてその場から駆け出した。
臨戦態勢で神族を待ち構えるアルフラを、一同は息を詰めて見守る。ジャンヌだけが押さえつけるルゥを引き剥がそうともがいていた。
ふいに、緊迫した場にはそぐわない歌うような刃鳴りが魔剣から響く。
(あたしたちは二人で一人。あたしたちは二人で一人)
顔は円環に向けたまま、アルフラはちらりと魔剣に目をくれた。
「……なにを言ってるの? あなたは人じゃなくて剣でしょ」
つれないその言葉に、ややしょんぼりとした気配をかもして刃鳴りは消え入る。アルフラはそのまま天界からの追っ手を待つが、円環にはなんの変化もみられない。時だけが無為に過ぎてゆく。
「な、なぁ、アルフラちゃん。神族なんて四千年も天界に引きこもってた奴らだよ。そうそう地上には降りてこないんじゃないか?」
おそるおそる、といった様子のシグナムが言った。だが、これにはジャンヌが強い語調で反論する。
「レギウス様を殺めた者を、神々がお見逃しになるはずありませんわ! いえ!! このわたしが許しません!!」
叫びながらもジャンヌは、腰に取りついたルゥを引き剥がそうと手足を暴れさせる。しかし月長石の魔力を受けた狼少女は、膂力において神官娘をはるかに上回っていた。アルフラはそんな二人には気を払わず、じっと円環に視線をそそいでいたが、やがて頭をかすかに傾げさせる。
「……」
どうやら本当に天界からの追っ手は来ないらしいと感じ、その注意が罵り声を上げるジャンヌに向けられた。
足音をたてない猫のような歩みでアルフラは神官娘の前に立つ。
猛るジャンヌを引きずるようにして、ルゥが後ずさった。
「……ねぇ」
ジャンヌに対してはレギウス神の御子を逃がされた怒りもあるが、それを押しのける疑問がアルフラの中に芽生えていた。好奇心と言い換えてもよいだろう。それがある種の親近感に端を発するものだとは自覚せぬままに、尋ねる。
「ジャンヌはどうして、神さまのことになるとそんなにむきになるの?」
「は……?」
予想外の問いに、荒ぶる神官娘の動きが止まる。
「神族なんて、ぜんぜんたいしたことないのに……なんで?」
白蓮のほうがずっとすごい。ジャンヌに尋ねながらも、アルフラはそんなことを考えていた。
「不敬なその口を慎みなさい!! 神々はこの世の摂理そのものです! 万物の支配者たる絶対的な存在なのです!!」
血走った目を見開いて喚くジャンヌに、アルフラの疑問は深まる。
「ぜったいなんかじゃ、ないよ? だってもう、死んじゃったじゃない。あたしのほうが“ぜったい”強いよ。――そうでしょ?」
「そ、それは……」
神官娘は思わず口ごもってしまう。絶対だと盲信していた神々の王が目の前で殺されてしまったのだ。それはもはや絶対ではなく、おのれの矛盾を真っ向から指摘されて言葉もない。――ジャンヌの信仰が初めて揺らいだ瞬間であった。その揺らぎへつけこむように、アルフラは神官娘の瞳をのぞきこむ。
「ね、神さまなんて、たいしたことなかったでしょ?」
「そんなことは、ありません……そもそも騙し討ちのような手段でレギウス様を害しておきながら……」
言葉尻をすぼませながら目をそらしたジャンヌへ、アルフラの左手が伸ばされる。
神官娘の背後で、ルゥがびくりと体をすくませた。
「ア、アルフラ……?」
緊張の気配を発する狼少女をよそに、アルフラはジャンヌの腕を取った。そして素肌をさらしたみずからの胸元に手をおし当てる。
「わかる? あたしの中に、ジャンヌの大好きな神さまがいるの」
「――!?」
このときジャンヌは、自分の手がアルフラの体に沈みこむかのような錯覚に捕らわれた。つかの間、目の前が暗くなり、瞬時に情景が切り替わる。視覚とは異なる感覚で、神官娘はそれを知覚した。
――広大無辺な寒々とした心象世界。
そこに足場はなく、眼下には見通すことのできない深淵。
ジャンヌはすぐ足元に、強大な力のうねりを見るともなしに感じることができた。
それは法だった。
レギウス神の魂魄。その神性。魔剣に喰らわれ、アルフラに取り込まれた神王の魂が、すぐそばに在った。――それと気づき、神官娘は感動におののく。
この空間にはそういった魂魄が見渡す限りに存在していた。さながら、魂の牢獄とも呼べる場所である。
法のすぐ下には、武神のものとわかる巨大な魂魄も在った。
ゆっくりと、ジャンヌの意識は深淵の底へ沈みこんでゆく。
アルフラに血を啜られた者たちが、無数に囚われていた。
武神の次に大きな魂魄は、侯爵位の魔族、氷膨のものであろうか。
凱延や咬焼、そしてジャンヌには知るよしもないが、ギルドの虜囚であった星蘭の魂魄。
魂には浮力があるらしく、それらはより強大なものほど上辺にあるようだった。
散在するあわれな魂魄を尻目に、ジャンヌはゆらゆらと降下する。
爵位の魔族たちを通りすぎると、穢れた不死者の魂、ホスローのそれが浮遊していた。
さらには死霊の森の主、松子。魔導士サダム。アイシャ。名も知れぬ魔族の雑兵たち。魔術士ギルドの有象無象。
ひしめきあうアルフラの犠牲者は、おびただしい数にのぼった。
やがて、終わりのない奈落の果てに、ほのかな輝きが見えてきた。
薄明かるい儚げな光が、弱々しく瞬いている。自分はその光に誘引されて、心象世界の奥底に導かれたのだとジャンヌは感じた。
手をさし伸ばすと、ちいさなちいさな魂魄は、震えながら胸元へと寄り添ってくる。
――ジャンヌさま、ジャンヌさま……
そんな声が聞こえた。
忘れようはずもない。カミルの声だ。
あぁ、とため息をもらして、ジャンヌはあたたかなその光を抱き寄せた。
「こんなところに……いたの、ですね」
カミルを喪い、心に開いた間隙が、じんわりと満たされる。
どうしようもない喪失の痛みが、ふたたびカミルと触れあえたことにより、つぶさに癒される。
そして同時に、なにかが狂ってしまった。
「ジャンヌ……?」
心配そうなルゥの呼びかけで、神官娘は我に返った。
アルフラの手を抱き締めたまま放心していたようだ。
泣き濡れた頬が冷たい。
そんなジャンヌを、鳶色の瞳がじっとのぞきこんでいた。
視線に射竦められた神官娘は、魅入られたように目が離せない。
「わかったでしょ? 神さまなんて信じてても、ちっともいいことなんてないんだから」
殺伐とした心象世界にいざなわれたジャンヌには、アルフラとの交感性が生じていた。視線を通じて重篤な想念が伝播する。
幼少のころから刷り込まれた強固な信仰が、その想いに犯される。
心に根差した盲信は、盲愛という名のより深い狂気に浸食される。
アルフラは感情の読めない不思議な表情で笑っていた。聖職者を堕落させる悪魔のように。
道に迷った神官娘の胸中に、偽りの真理が降りた。
――法と武を内包せし目の前の少女こそが、神であった。
身の内に神を宿した者を、ほかになんと形容しえるのかジャンヌは知らない。
神官娘の精神は急速に自壊し、その信仰は完全に消え去る。そしてあらたな教義が構築された。
あらゆる生命はアルフラに――女神アルフレディアの御許に還り、安息の内に包まれるのだ。
カミルの死もまた必然といえた。
彼はただ、あるべき場所に戻っただけなのである。
そう定義づけることにより、喪失の痛みは歓喜へと昇華された。
欺瞞という毒のなんと甘やかなことか。
狂った神官娘は、すっかりその妄想に取り憑かれ、おのれの中で真実としてしまった。
「ねえ、まえにロマリアの砦で約束したよね。いっしょに魔族をやっつけようって」
耳許でささやく声は、ジャンヌにとって天啓であり、神託であった。
「あなただって言ってたでしょ。魔族は一人のこらず殺さなきゃ駄目だって」
「ええ、その通りですわ」
「そうだよね。あいつらは、あたしの白蓮をとろうとするの。そんなのぜったいにゆるせない」
「はい。魔族は、赦されざる存在です」
敬虔な神官娘は、神の言葉を全肯定する。それが心地のよいアルフラは、手にした神鎖をジャンヌに押しつけた。レギウス神の御子を拘束するために武神の宝具から切り離したものだ。
「これ、あげる。あたしは戦禍をやっつけて、白蓮をとりもどすの。ジャンヌもついて来ていいよ」
女神から下賜された御物を、神官娘はうやうやしく受け取った。
「すべては我が神の御言葉のままに」
真実の神が降臨したのだと、ジャンヌは悟った。
それは魔族に怯えて天界に閉じ籠っていた非力な神ではない。
カミルの死を些事だなどと言いきった非情の神でもない。
まばゆいばかりの力にあふれた、魔族を滅ぼす唯一無二の神であった。
「ジャンヌ……?」
ルゥが神官服の裾をくいくいとひっぱる。ジャンヌの様子があまりにおかしく、不安になってしまったのだ。
「ねえ、ジャンヌ。ジャンヌってば」
しかし狂信の度合いを深めた神官娘に、その声はとどかなかった。
片膝をついたジャンヌは、両手を組んで祈りの言葉を口にする。
法と武を喰らった偽神は、恍惚とした表情のジャンヌを見て、すこし訝しげな顔をしていた。
常人にはうかがい知れぬ、意思の疎通を交わした狂人二人を、シグナムとフレインは遠巻きに見やっていた。
「行き着くところまで、来てしまった感じですね」
「ああ、アルフラちゃんの怪我が治ったのはうれしいけどさ……このあとどうするよ?」
苦笑で応えたフレインの顔には、諦観の念が色濃く浮かんでいた。
「どうするもなにも、事ここに至っては、誰もアルフラさんを止められませんよ」
これにはシグナムも肩をすくめて同意を示す。
「なんか、いろいろ考えるのが面倒になってきた。――よりによってレギウス神を殺っちまうなんてな」
「魔族だけではなく、レギウス神族やその信者まで敵に回してしまいましたね。もっともアルフラさんは、そんなことなどまったく気になさらないでしょうし、おそれる必要もないとは思いますが」
無言でうなずいたシグナムは深く呼吸し、大きなため息をおとした。
ほんとうにもう、どうにもならないところにまで来てしまったのだと痛感してしまったのだ。
「なあ、白蓮って人を取り戻せたら、アルフラちゃんは元に戻るのかな?」
「どうでしょうか……ですがそこにしか希望はないかと……」
「魔族の皇帝にさらわれたって話だけど、いまのアルフラちゃんなら勝てると思うか?」
「話にしか聞いたことのない人物ですし、私には見当もつきません」
「じゃあ、あの雷鴉って魔王ならどうだ?」
「……頂の見えぬ巨山を見比べて、どちらがより高いかなど人間には分かるはずもありません」
ふたたびシグナムの口から、重苦しい吐息がこぼれ落ちた。
「神にでも祈りたい気分だね。――でもそいつはアルフラちゃんに殺されちまったしな」
「私たちもジャンヌさんのように、アルフラさんに祈ってみますか?」
「……この状況で、よくそんな冗談が言えるな」
シグナムはすこし驚いた顔でフレインを見てしまう。
「お前、なんていうか……ちょっと変わったか?」
「変わった?」
「ああ、なんか妙に落ち着いてるし、変に胆が据わってきたような……」
「――どうでしょう。最近ほんとうにいろいろなことがありましたからね。なにかがふっ切れたような気もします」
ただ、シグナムにはそれがあまり良い変化には思えなかった。
いまのフレインには、どこか底暗いものが感じられるのだ。
「アルフラちゃんは、皇城ってとこに行くつもりなんだろうけどさ……やっぱりお前もついてくのか?」
フレインはひとつ頷き、手にした木箱をかかげてみせる。
「アルフラさんは地図を読むのが苦手ですからね。道案内が必要でしょう」
「皇城には魔王が何人も詰めてるんだろ? アルフラちゃんはともかく、お前はたぶん生きて帰れないぞ」
「……でしょうね」
乾いた響きの声音は、かろうじてシグナムが聞き取れる程度のちいさなものだった。
「結局のところ……頭で損得勘定をするよりは、自分のやりたいようにしたほうが後々後悔は少ないのだと、最近になってようやく気づいたのですよ、私は」
「たしかにね。……しかし、ジャンヌのやつは完全にイカれちまったけど、お前もそうとう重症だな。ま、それも今さらか」
ひやかすような顔つきで、シグナムはフレインの背をたたく。
「とりあえず、アルフラちゃんにあんたの導衣を貸してやりなよ。さすがにあの格好で外に出るわけにはいかないだろ」
シグナムの指さした先を見て、フレインはそれを直視しないよう顔をうつむかせた。
少年のようにぺったりとしたアルフラの尻が、視界に入ってしまったのだ。