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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
189/251

人でなしの愛



 血液は、人体のあらゆる部位に内在する。

 臓腑はもちろん、心臓を基点とした血管は、頭頂からからつまさきまでを隈無(くまな)く網羅している。そこからすべての血を抜き取ることは、おおよそ不可能だといえよう。

 凱延の遺骸にも、多くの血液が残されていた。かつてアルフラが啜った血は、全体の五割にも満たない。

 その力の大半は、いまだ凱延の体に宿っているのだ。


「とはいえ嬢ちゃんはあの体だ。凱延の血をいくらか飲んだとしても、手に負えないってことにはなりゃしないよ」


 やっかいなことには変わりないけどね、とつぶやきつつ、カダフィーは扉に手をかけた。


「……鍵がおろされてる」


 目で(うなが)された術師が、鍵束を片手に進み出る。

 すぐにかちゃり、と錠前の解かれる音が響いた。


「よし、さがってな」


 カダフィーが言い終えるより先に、内側から扉が開かれる。

 反射的に上体を引いた術師の喉元を、鋭い風切り音とともに短刀の刃先が(かす)めた。

 術師はゆっくりと、首から血を吹きながら仰向けに倒れる。

 狭い通路中に撒き散らされた血潮が、シグナムたちの顔を赤く染めた。

 扉の前に立っていた女吸血鬼は、慌てて後ろへ飛び退()く。

 開かれた扉の向こう。短刀を片手に待ち構えていた悪鬼が、不思議そうに瞳をまたたかせた。視線は、首を押さえて痙攣する術師へ落とされている。


「……だれ?」


 まるで人違いをしてしまった、というように首がかしげられる。

 誰もが気圧されたように動けぬなか、シグナムの上擦った声が発せられた。


「ア、アルフラちゃん……」


 名を呼ばれた悪鬼が顔を上げた。それに合わせ、垂れ下がった包帯が顎の下でゆらゆらとたなびいた。血を吸った口許の包帯がほどけてしまったらしく、焼け(ただ)れた顔のほとんどが外気に晒されている。

 アルフラはシグナムの姿を認めて、嬉しそうにほほえんだ。


「シグナムさん。やっぱり来てくれたんだぁ」


 喉を裂いて絶命させた術師を、誰と間違って殺したかなど忘れてしまったように、アルフラは穏やかに笑う。しかしその目は、腐臭が感じられそうなほどに(よど)んでいた。


「はやく来ないかなって、ずっと待ってたんだから」


 アルフラは静かに狂っていた。

 にこやかな様子ではあるが、その態度を額面通りに受け取った者は一人もいなかった。

 じり、と――笑顔のままアルフラが一歩踏み出す。


「カダフィー!」


 腰を落として身構えたシグナムが鋭く叫ぶ。


「魔眼でアルフラちゃんの動きを止めてくれ!」


「もうやってるッ!!」


 その返事に思わず振り向きかけたシグナムは、赤く煌めく双眸(そうぼう)が視界に入り、慌てて正面へ顔を戻す。

 女吸血鬼が、絞り出すような声でうめいた。


「これは、だめだ……」


 かつて一度、死神の御手(みて)(いだ)かれたことのあるカダフィーは、眼前の脅威がそれと同種であることをまざまざと知覚できた。――理屈ではないのだ。戦う以前にまず近づきたくない。本能が全力でそれを拒否している。


「一旦引いた方がいい。どうせ嬢ちゃんは袋の鼠だ。上にいる戦士や術師を集めて、おっ取り囲んじまうのが一番確実だよ」


 腰の引け、じりじりと後退する人波のなか、ゆいいつジャンヌだけが一人、前へ出る。


「アルフラ! なぜカミルを殺したのですか!? 裁きを下す前にそれだけは聞かせなさい!!」


「……カミル?」


「そうです! あなたの世話をしていたカミルが、なぜ殺されなければならなかったのですか!?」


「血がほしかったから」


 簡潔で予想に(たが)わぬアルフラの答えに、ジャンヌの顔が憤怒にゆがむ。


「それだけ? そんなことのために!? とても臆病で、いつも人目を気にしてにこにこ笑っていたカミルが!? 人から嫌われことがいやで、なんにでも一生懸命で、あんなに優しかったカミルを……そんなことのために殺したのだと、あなたはそう言うのですか!?」


 ジャンヌは、理不尽すぎるカミルの死に、なんらかの理由が欲しかったのかもしれない。だが、激昂するその顔が、とても愉快に感じられたようだ。(いや)しい含み笑いが漏れ聞こえる。

 アルフラは姿形だけではなく、その内面もが醜く歪み果ててしまっていた。


「く、ふふふ……ジャンヌったら、カミル、カミルってそればっかり。そういえばあの子も、ずっとジャンヌのことを呼んでたよ。――かわいい声で、ジャンヌさま、ジャンヌさまー……てね」


 カミルの口まねをして見せたアルフラに、神官娘は怒りのあまり顔色を赤黒くしていた。


「ちょっと薄かったけど、味はよかったなぁ、カミル」


 ちろりと、アルフラは赤い舌をのぞかせる。


「この、人非(ひとでな)し……! あなたは魔族の血を吸って、心まであの(けだもの)どもと同じになってしまったのですわ」


 それはアルフラにとって、最高の賛辞だ。


「……うれしい」


 白蓮と同じ存在になったのだと言われ、その口許にしあわせな笑みがのぼる。

 

「ふふふ、カミルに会わせてあげようか?」


「え……?」


 短刀を握った左手が、胸にあてられる。


「カミルはここにいるの。いまもね、あたしのなかでジャンヌの名前を呼びながら、泣いてるよ」


「クッ――!」


 鉄鎖を振りかざしたジャンヌを、シグナムが腕を伸ばして押しとどめる。


「お前じゃ無理だ!」


 同時にルゥが神官娘の腰に飛びつきその動きを阻んだ。


「だめっ、ジャンヌしんじゃう!」


 この日は月齢十四日。単純な力比べならルゥに分がある。(たけ)る神官娘はずりずりと後ろへ引きずられた。

 アルフラと正面から相対(あいたい)したシグナムは、腰の長剣に手をかける。

  

「なあ、アルフラちゃん。あたしたちは戦友だろ?」


「うん」


「じゃあその短刀を収めてくれ」


 アルフラの左手は、だらりと垂らされていた。

 一見、戦意がないようにも感じられる。だが、そうでないことをシグナムは知っていた。

 手にした得物こそ(こと)なれど、それはかつて木剣で立ち合ったときにアルフラが見せた至殺(しさつ)の型であった。そのときシグナムは初手を受け流されて、真剣であれば確実に致命傷であろう一撃をもらっている。

 しかし当時と違い、いまのアルフラは利き腕を失っている。くわえて右目を失明したことにより、遠近感に狂いが生じているはずだ。精緻(せいち)で繊細な動きを(よう)する受け流しなどできようわけもない。

 普通に考えれば、シグナムが遅れを取る要素は皆無と言えた。

 だが、笑みをもって(たたず)むアルフラを前に、シグナムはこれまでのどの瞬間よりも、死を身近に感じていた。


「なあ、頼むよ。いまのアルフラちゃんが相手じゃ、手加減できない」


 たがいにほんの数歩で手が届く距離だ。まばたきひとつが死線を分ける。


「あたしはアルフラちゃんのことが大好きなんだ。だから……」


 まるで言葉の通じぬ異形の生物に語りかけているような虚しさを覚え始めたとき、やわらかな(いら)えがあった。


「あたしも、シグナムさんのことは大好きだよ」


 瞳のなかにかすかな思慕を見せて、アルフラは一歩踏み出した。

 長剣の柄にかけられたシグナムの手に力が入る。薄皮一枚へだてたところに、渦巻く欲望が感じられた。


「ずっと、たよりになるおねえちゃんみたいに思ってた。――でもね……」


 シグナムへ向けられた信頼の念は、アルフラに残された数少ない人間的な感情の、(さい)たるものであった。けれど確かにあったはずのものが、零れ落ちてゆく。


「たりないの……」


 奥底から膨れ上がった渇望に、薄く引き延ばされた人間性がもろくもひび割れ、()がれ落ちる。

 失われゆく温もりと親愛。その様がシグナムには、はっきりと目に見えるようだった。


「ぜんぜん、たりないの」


 血を啜るたびに、力を増した。


「あたしは、白蓮をとり戻したいの」


 肉を()むたびに、心は病んだ。


「もっと、もっと、もっと、もっと! 力が必要なの!!」


 命を摘むたびに人から外れた。

 なんのためらいもなく無辜(むこ)の命を奪うその手は、愛する人のためにみずからの人間性までをも殺してしまっていた。

 常識、良識、倫理、道徳観。人間が成長する過程で後付けされた、あらゆる理性を取り払った剥き出しの自我。そこにはたったひとつの欲望があった。――愛欲だ。

 己の想いを()げるために、どのような非道も(いと)わないその精神の醜悪さよ。


 もはや、人と呼ぶにはいびつに過ぎた。


 あふれ出した殺意は濃密で、重く、冷たい。それに呼応してシグナムは剣を抜き放つ。


「お願いだッ、アルフラちゃん!! やめてくれ! 殺しちまう」


 悲鳴を上げたシグナムの背後で、カダフィーが呪文の詠唱を開始した。それを皮切りに、アルフラが一足跳びで間合いを詰める。動きは迅速であったが、健常なころと比べれば格段に遅い。シグナムの剣が横に薙がれるほうが遥かに速かった。

 身体能力に限れば、やはりシグナムに負ける要素は見あたらない。しかし、アルフラを殺してしまうかもしれないという恐怖が、わずか一瞬にも満たない(つか)の間、その身体(からだ)(すく)ませてまう。

 短刀がシグナムの右腕を裂く。取り落としそうになった剣を握り直した瞬間、(ひるがえ)った短刀の柄頭(つかがしら)が左の拳を打った。

 シグナムの手から長剣がすべり落ちる。その手は床に転がった得物を追わず、アルフラに伸ばされた。短刀を持つ左腕を押さえ込もうとしたのだ、同時にアルフラも喉を狙って刃を走らす。――その足許で、長く伸びた薄い影が不気味にうごめいた。


影血槍(えいけつそう)――!」


 詠唱を終えたカダフィーの声が響いた。

 シグナムを助けようとしたのではない。単純に、彼女が死ねば次は自分の番だと考えての援護だった。

 アルフラの影から生まれた血槍が、股間から頭頂までを串刺しにするため射出される。


「――ッ!」


 飛び退きざま、アルフラは短刀の(みね)を血槍に引っ掛け、それを抱き寄せる。そして大口を開いて血槍の穂先にかぶりついた。

 ずるりと一息に啜りあげる。


「な……!?」


 言葉を失い絶句する女吸血鬼の目の前で、血槍を呑み(くだ)した悪鬼が「けふっ」と喉を鳴らした。

 カダフィーは手に持ったもう一振りの血槍に視線を落とす。首を裂かれた術師の血から生成(せいせい)したものだ。これまで多くの魔族を葬ってきた得物であるが、この場ではあまり役に立ちそうになかった。アルフラからも興味深々な目が向けられている。

 食事として認識されてしまった得物をカダフィーは投げ捨てた。床に落ちた血槍は輪郭を失い、細長い血溜まりと化した。


 アルフラの意識が外れた隙を突いて、シグナムが床に転がった長剣に飛びつく。間髪の差でそれはアルフラに蹴り飛ばされた。無防備に晒された背中に短刀が振り下ろされる。

 床に身を投げ出して難を逃れたシグナムであったが、立ち上がる前にアルフラの膝が胸に落とされた。


「グッ――!」


 目の前には、冴えざえと輝く白銀の刃。

 動きを封じられたシグナムに短刀を突きつけ、アルフラは荒く肩で息をしていた。やはりまだ、万全の体調ではないのだろう。戦いが長引けば、圧倒的にシグナムが有利だったはずだ。しかし、わずかな躊躇(ちゅうちょ)に起因した劣勢を(くつがえ)せぬまま、勝敗は決した。

 アルフラは視線でカダフィーを牽制しつつ、ゆっくりと短刀を振りかぶる。

 その光景を見上げながら、シグナムの脳裡に様々な過去の記憶が羅列された。走馬灯と呼ばれるものだ。彼女の脳髄は無意識的に現状を忌避し、身を助く方法を膨大な経験(きおく)の中から模索(もさく)した。――しかし、(かわ)きに喘鳴(ぜいめい)する悪鬼から逃れるすべは、なにも見つからなかった。

 膂力(りょりょく)(まさ)るシグナムであればアルフラを押しのけることもたやすい。ただ、それよりも短刀が首を掻き斬るほうが早いことは確実だ。


「アルフラ、ちゃん……」


 理性をかなぐり捨て、その欲望をはばかりもしない獣のような顔に、シグナムは目を奪われる。

 野性の狼がそうであるように、獲物を屠る瞬間の獅子がそうであるように、このときたしかに、アルフラは美しかった。

 他の者ならいざ知らず、戦いを生業(なりわい)としてきたシグナムは、その猛悪(もうあく)な美を否定しない。


「でもさ、そんなふうに、誰も彼も手当たり次第に殺していって……なにが残るんだ? アルフラちゃんは、絶対に後悔するよ」


 それは独り言だった。シグナム自身、なにか答えが返ってくるとは期待していない。だからすこし驚いてしまう。


「いらない……」


「え……?」


「なにも、いらない……」


 アルフラの視線は依然、用心深くカダフィーに向けられたままだ。


「白蓮さえいれば、あたしはなにもいらない!!」


「……そうか」


 アルフラの聖域、閉ざされた小さな世界。その荒涼(こうりょう)とした心の地平に、自分の居場所など最初からなかったのだと、シグナムは悟った。

 もとよりそこには、白蓮以外は誰も立ち入ることが出来なかったのだ。


「アルフラさん、やめてください」


 あきらめたように瞳を閉ざしたシグナムは、フレインの声を聞いた。


「人を(あや)めずとも、力を得る方法があるのです。しかしシグナムさんを殺してしまえば、それは叶わなくなるかもしれない」


 アルフラはフレインの言葉にはなんの興味も示さず、シグナムへとどめを刺す瞬間を虎視眈々と狙っている女吸血鬼をにらんでいた。そうしながら上がった息も徐々に整いつつある。


「もしかすると、生身と変わらないほど精巧な義手を得ることも――」


「――おい! フレイン!」


 咎めるようなシグナムの声が、信憑性を付与したようだ。アルフラの意識がフレインに向く。


「なに? どういうこと?」


「この場にいる全員が、レギウス神からの召喚を受けているのです。おそらく神々は私たちに宝具を授け、魔族への尖兵となることを望まれるでしょう」


 シグナムが何事か口を挟もうとするが、アルフラは胸に押しつけた膝に体重を掛けて言葉を封じる。


「しかし、同じく天界に召喚されているシグナムさんを殺せば、神々の助力は得られないかもしれない。ご存知とは思いますが、鍛冶神ベナルディは義足と義眼の持ち主です。願い出れば失われた腕と眼を取り戻すことができるはずです」


「そのようなことが赦されるはずありませんわ!! アルフラは罪人です! カミルを殺したのですよ!?」


 血気に満ちた鬼の形相で叫んだジャンヌを、ルゥが必死の思いで押さえつける。


「ジャンヌさん。法の守護者である神王レギウスが、その御許(みもと)にアルフラさんを招いているのですよ。ならば裁きはあなたの手ではなく、レギウス神に(ゆだ)ねるべきです」


「――ッ! ですが――」


「敬虔なレギウス教徒であるあなたが、神の意向を(ないがし)ろにするのですか?」


 アルフラは愛する人を手にいれるため、あらゆるものを捨て去り、力を望んだ。支払われた犠牲への対価を求める権利がある。レギウス神からの召喚は、多くの魔族を打ち倒した功績を認められた結果なのだから。だが同時に、犯した罪に対する裁きを受ける義務がある。人の世に生きる以上、それは当然だ。


「わたしは……」


 アルフラへの怒りと、神々への信仰とで板挟みになったジャンヌは、それでも鉄鎖を握った手を下ろさなかった。


「……ジャンヌ」


 カダフィーが小声で耳打ちする。


「すこしだけ、こらえな」


 その言葉に、ジャンヌからの凄まじい敵意が返された。


「なに、べつに見逃せって言ってるわけじゃない。私だってあの娘を殺してやりたいのは同じさ」


 しかしホスローの行方をレギウス神から聞き出すまでは、その機嫌を(そこ)ねるのは上手くない。


「天界から帰ったあとで、()ればいいんだよ。ほんの数日のしんぼうだ。そのときは私も手伝うから、一緒に……ね?」


 アルフラは周囲の反応を見て、フレインの言葉がただのでまかせではないと感じたようだ。


「天界へいけば、また右手で剣が持てるの?」


「おそらくは」


 フレインには知るよしもないことではあるが、すでに天上ではアルフラのために銀の義手と琥珀の義眼が用意されていた。


「魔族とたたかう力をもらえる?」


「そのために私達が呼ばれているのは間違いありません」


 アルフラはシグナムを見下ろして、動きを止めた。

 鳶色の瞳をままたかせ、くるくると考えをまとめる。

 この場で得られる血と、神々の宝具を(はかり)にかけて、短刀をおろす。


「あとでくわしく聞かせて」


 立ち上がったアルフラは、右奥の部屋へと歩いてゆく。


「あたし、まだ凱延にようじがあるから……」



 振り向くことなく告げて、アルフラは扉を閉めた。

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