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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
186/251

友達だけどおいしそう



 一夜明けて、アイシャの部屋で彼女の帰りを待っていたフレインは、卓に突っ伏した姿勢で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 起き抜けの頭はしばしみずからの状況が把握できず、軽く頭を振り――慌てて周囲を見回す。


「アイシャ……?」


 寝起きの掠れた声が、虚しく自身の耳に返った。

 やはりアイシャは戻らなかったのだ。強い脱力感を覚え、フレインは腰かけた椅子に深く沈みこむ。

 鎧戸の隙間からはうっすらと陽光が差し込み、すでに頃合いは朝なのだと気づいて立ち上がる。

 戸板を上げて太陽の高さを確認したフレインは、本来ならば王宮へ向かっていなければならない時間となっていることを知った。

 アイシャの行方が分からない現状、自分まで仕事に遅れれば、王宮におけるギルドの業務は回らないだろう。そう考えてフレインは部屋を出た。

 途中、サダムの部屋に顔を出して、遠見による捜索の進展を尋ねようかとも思ったのだが、彼もまだ就寝中である可能性を考慮して、そのまま王宮へ向かうことにした。なにか分かれば伝えに行くとサダムは言っていたのだ。せっつくことなく(しら)せを待ったほうがよいだろう。

 魔術士の塔を出たところで、見覚えのあるうしろ姿を見かけた。ジャンヌだ。彼女はギルドの中庭を横切り、見習い術士が寝泊まりしている寄宿舎の方へと歩いていた。おそらくカミルに会いにゆくのだろう。そう見当をつけたフレインは、気をつかって声をかけるのをひかえた。しかし、背中に視線を感じた神官娘はくるりと振り返り、気まずげな顔で足をとめた。そしてなにか言いたげに口を開きかけるが、結局は無言でそそくさと寄宿舎へと向かう。

 フレインも素知らぬふうをよそおって、そのまま王宮へと急いだ。



 ギルドの門を出掛けに振り向くと、ちょうどジャンヌが寄宿舎の中へ消えてゆくところだった。





 古い板張りの廊下を歩きながら、ジャンヌは悶々と頭を悩ませていた。

 これからカミルの部屋を(おとな)うつもりなのだが、もし彼がルゥのときのように、一人でことにおよんでいたらどう対応するべきか考えているのだ。

 カミルもそう四六時中自慰(じい)ばかりしているわけでもないだろうとは思いつつも、つい廊下の中ほどで立ち止まって耳をすませてしまう。

 とくにあやしげな声も聞こえず、ジャンヌは気配を殺し気味に扉の前に立つ。

 室内からは軽い衣ずれの音がしていた。

 戸を叩こうと右手を持ち上げるも、しかしジャンヌはすこしどきどきしながら、こっそりと扉を開いてみた。

 カミルはちょうど着替えの途中だったようだ。

 部屋着を脱いで灰色のローブを手に持った背中が見える。その体は成長期の少年らしく痩せており、小柄なこともあいまって、腕や腰の細さはどこか少女めいた印象がした。肌の色は白く、ローブに腕を通すさいに浮き出た後背筋はしなやかに伸縮(しんしゅく)し、あやうい未熟さの中にも人体特有の機能美が感じられる。

 つかのま、その光景に見とれていたジャンヌは、着替えを終えたカミルと目が合った。


「え……ジャンヌさま……?」


 目をぱちくりさせて固まってしまったカミルに、ジャンヌも思わず慌ててしまう。


「ち、違うのです! わたしはのぞき見していたわけではなく、あなたが、その……またああいうことをしていたら、扉を叩くのも不躾(ぶしつけ)かと思い……」


「……ああいうこと?」


「ですからその……もしあの最中であれば、見なかったことにして出直そうかと……」


 カミルの顔から、さあっと血の気が引く。ルゥが昨日のことをジャンヌに報告したのだと悟ったらしい。


「はうぁぁ……」


 まるで世界が終わったかのような悲壮な表情で、カミルはぺたりと床にしゃがみこんでしまった。


「あ、いえ、わたしは気にしてません! あなたくらいの子ならば、それが普通なのだということは存じてます。ですからカミルも気になさらないでください」


 カミルは恥ずかしくて死んでしまいそうだった。ジャンヌのことを想いながら自慰をしていたのがバレた挙げ句、その当人からみょうな気のつかわれ方までされてしまったのだ。あまりに情けなくて、目尻いっぱいに涙が浮かぶ。


「な、なにも泣くことはございませんでしょ!? わたしは本当に気にしていませんから。カミルがそれだけわたしのことを想ってくれている、ということなのでしょうし……」


 床に座り込んだままのカミルを立ち上がらせて、ジャンヌは寝台に彼を座らせる。そしてみずからもその隣に腰をおろした。


「ですが、わたしはカミルにそういうことをしてあげられません。やはり正式に婚姻を結んでからでなければ抵抗感もありますから」 


「え……婚姻、ですか?」


 おおきく見開かれたカミルの目から、ぽろりと涙がひとしずく零れ落ちた。その呆然とした顔を見て、ジャンヌは首をかしげる。


「……カミルもそのつもりなのでしょ?」


「ええ!? こ、婚姻て……結婚するってことですよね!?」


 カミルにしてみれば寝耳に水だ。自慰行為をルゥに見られ、それをジャンヌに知られた結果、なぜか結婚の話になっているのだから。話の展開について行きようがない。

 困惑顔のカミルを見て、ジャンヌの表情がにわかに曇る。


「カミル。あなたはわたしのことが好きで、お付き合いしたいのですよね」


「は、はい……」


「わたしの父は、アルストロメリア侯爵なのですよ? 貴族の娘に男女の交際を望むということは、とうぜん婚姻を前提とした話になるのは分かりますわよね」


「あ……僕、そこまで考えてませんでした……」


 まだ十五になったばかりのカミルにとっては、結婚など想像もつかない話だった。こればかりは生まれによる価値観の相違が大きく影響するので、彼を責めるのも酷な話だろう。

 しかしカミルへ向けられた視線は、急速に冷たさを帯びる。


「要するに……あなたはわたしと結婚したくはないと?」


「ち、違います! 僕は本当にジャンヌさまのことが大好きで……でも結婚だなんておそれ多いというか、だいそれた考えだと思って…」


 (つたな)いながらも必死にその想いを伝えようとする見習い術士に、ジャンヌはひとつため息を落とした。


「わたしには父が決めた許婚(いいなずけ)がいます。市井(しせい)の者と違って、気軽に男性とお付き合いすることは出来ません。ですが、あなたが望むのなら、わたしは父を説得することも出来ると思います」


 ジャンヌの父であるアルストロメリア侯爵は、魔族の進攻により没落したエルテフォンヌに見切りをつけている。最近ではカルザス公爵の嫡男を新たな結婚相手にと考えていたらしいのだが、レギウス神からの神託が降りてからはその話も宙に浮いていた。


「現状なら、わたしが強く推せば無理も通るはずですわ」


 カミルはすこしおどおどとした様子で、ジャンヌの顔をうかがい見る。


「あの……ジャンヌさまは、本当に僕なんかでいいんですか? 結婚て一生に関わることなのに……」


「あなたは敬虔なレギウス教徒ですし、ダレス神の教えに対する理解も深い。すこし頼りないところもありますが、性格に嫌なところもございません」


 話すうちに、気の強そうなジャンヌの目許が、優しくなごむ。


「いったいわたしに、なんの不都合が?」


 驚いたように目をまるくしたカミルの顔に、ほんのりと赤味が差した。


「ジャンヌさま……」


「わたしは数日後、中央神殿へ出立します。魔族との戦いが始まればしばらく会えないかもしれませんので、それまでにお返事をいただければ嬉しいのですけど」


 頬を染めたカミルは慌てて居ずまいを正し、寝台の上に正座した。そして深々と頭を下げる。


「僕、がんばります! いっぱい体を鍛えて、もっとたくましくなれるように努力もしますから……よろしくお願いします!!」


 カミルが顔を上げると、大輪の笑みが彼を出迎えた。


「では、この戦いが終わったら、一緒に修練をいたしましょう」



 それが二人の、一風変わった結婚の約束となった。





 将来を誓い合ったジャンヌとカミルではあったが、その後とくに色っぽい話になるでもなく、神官娘は筋肉を付けるために効率のよい訓練法と食事について語っていた。

 カミルはとても優秀な生徒で、ジャンヌの話にいちいち感心して、一言漏らさずそれを紙に記載する。ただ、蘊蓄(うんちく)を垂れるジャンヌ自身が非常に痩せているので、彼女の持つ知識はいささか信憑性に欠けるものだった。それでもカミルは、ジャンヌがなにかを熱心に教えてくれること自体が嬉しいようで、終始笑顔で彼女の話にうなずいていた。


「あ、そういえば……」


 だいぶ日も高くなった頃、ふと思い出したというようにカミルが言った。


「今朝、アルフラさんからジャンヌさまの部屋の場所を聞かれました」


「アルフラがわたしの部屋を?」


「はい。最近のアルフラさんはだいたい遅くまで寝ているんですけど、今日は朝食をお持ちしたときに目を覚まされたんです。その時に聞かれて……」


 アルフラは階段を挟んだ隣の客室にジャンヌがいるとフレインから教えられ、昨夜のうちに訪ねてみたのだが、そのとき部屋は無人だった。それでフレインが部屋の場所を間違って伝えたのではないかと思い、カミルに尋ねてみたのだ。


「ああ、昨夜はすこし外出しておりました」


 そう言ってジャンヌはくすくすと思い出し笑いをする。


「ルゥがちょっとへそを曲げていたので、一緒に市場まで行って屋台などでごちそうしていたのです。そうしたらルゥったら、すごくはしゃいでしまって」


「それで留守にしていらしたのですか。アルフラさん、とても残念そうにしてましたよ。よほどジャンヌさまに会いたかったのでしょうね」


「そうですか。ほんとうは治癒魔法をちゃんと修得出来るまで、アルフラには会わないつもりだったのですけど……のちほど顔を出してみますわ」


「あっ、でしたらアルフラさんの夕食をお持ちするときに一緒に行かれますか?」


 カミルと一緒に、というところにすこし気恥ずかしさを感じたジャンヌは、その申し出にやんわりと断りを入れる。


「食事の邪魔をしてはいけませんし、わたしは夜にでも行ってみますわ」


「そうですね。もしかすると、またアルフラさんの方からジャンヌさまの部屋に行かれるかもしれませんし。……あっ、僕そろそろ師事してる先生のところに行かないと」


 お昼から授業があるんです、と言いつつカミルは立ち上がる。


「申しわけございません。思いのほか長居してしまいました」


「いえ、そんなことないです。僕、ジャンヌさまのお話がいっぱい聞けて楽しかったですから。――それに、あの……」


 もじもじとうつむいてしまったカミルへ、ジャンヌがすっと顔を寄せる。その唇がかすめるように頬を撫でた。


「え……?」


 びっくりまなこで赤面するカミルに、負けず劣らず顔を赤らめたジャンヌがささやく。


「誓いの口づけです。唇にする婚姻のものはまだ先になりますけど……。いまのは……婚約のしるしです」



 火照った顔を隠すようにジャンヌは口許に手を当てる。そしてカミルがなにかを言う前に、するりと扉へ駆け込んだ。





 寄宿舎から出たジャンヌは、どきどきと高鳴る胸を押さえつつ大きく息をついた。いまだ頬は焼けるように熱く、すこし頭がぼうっとしてしまっている。落ち着こうと何度も深呼吸をするが、熱病でも(わずら)ったかのように体の火照りは去らない。だがそれは、心地のよい熱さだった。


「おい、ジャンヌ」


 背後から名を呼ばれて、神官娘はびくりと立ち竦んだ。

 振り返ると、意味ありげな笑みを浮かべたシグナムが立っていた。いましがた出てきたばかりの寄宿舎とジャンヌの顔を見比べて、からかうような調子で言う。


「どうしたんだ、真っ赤な顔して? なにかいいことでもあったのか?」


「べ、べつになにも……ございませんわ」


「いいから話してみろよ。カミルとなにかあったんだろ? 悪いようにはしないからさ」


「ですから、べつになにも……」


 シグナムは腕組みをして、じろじろとジャンヌの顔を見つめる。


「ふうん……まあいい。あたしはこれから修練場に行くんだ。お前も付き合えよ」


「修練場、ですか?」


「ああ、隣の敷地にあるだろ。ギルドの戦士なんかが使ってるやつが」


「ええ、存じてはおりますが……わたし、剣のたぐいは扱えませんよ? ルゥをお連れした方がよいのではないですか?」


「あいつは昼寝してる。あたしはべつに組み手でも構わないよ。すこし体を動かそうぜ」


 その言葉で、ジャンヌの口許が引き結ばれ、真顔となる。


「いくらシグナムさまといえど、無手ではわたしに及ばないかと思いますが?」


 これにはシグナムも楽しげに笑う。


「言ったな? あたしは組み打ちでも今まで負けたことがないんだぜ?」


「よろしいですわ。それではお相手させていただきます。ダレス流奥義の数々、ご覧に入れて差し上げますわ」


「じゃあ、あたしが勝ったらカミルとなにがあったのか、洗いざらい喋ってもらうからな」


「えっ……?」


 うろたえた顔を見せたジャンヌではあったがそれもつかの間、すぐにそんなことはあり得ないと胸を張る。



「レギウス神拳は不敗の拳! わたしに素手で挑んだことを、必ず後悔させてみせますわ」





 すやすやと惰眠をむさぼっていたルゥは、自室の寝台で目を覚ました。

 ジャンヌに買ってもらったお菓子を、昼頃に食べたあたりから記憶があいまいだ。うとうとしかけていたときは、椅子に座っていたように思う。シグナムが寝台に運んでくれたらしい。


「おねえちゃん?」


 室内をきょろきょろ見回すと、卓の上に書き置きが見つかった。ぴらりとそれを取り上げたルゥは、むずかしい顔で文面をにらむ。そして裏返したり逆さにしたりといろいろ創意工夫したあと、文字の読めない狼少女は、誰かにそれを読んでもらうために部屋から出る。


「ジャンヌー」


 とりあえずすぐ隣の扉を開いてみるが、あいにく神官娘は留守のようだった。

 すこししょんぼり顔で階下に降りたルゥは、通りかかった女性の術士に書き置きを押し付けた。


「これ、読んで」


「は? えぇ……?」


 突然のことに、彼女はやや面食らった顔をしていた。そして渡された紙切れとルゥを見比べる。


「ええと……修練場に行くから起きたら来い、と書いてあるわね」


「ありがとっ」


 たたっと元気よく駆け出したルゥの背中に、術士の声がかかる。


「待って! この紙は――?」


「あげる!」


 振り返りもせず叫んだルゥだったが、その足が不意に止まった。そしてすんすんと鼻を鳴らす。

 ギルドの奥。厨房の方から、夕餉(ゆうげ)仕度(したく)をするよい匂いが漂って来ていた。


「わーい」


 修練場のことなど瞬時に忘れ、狼少女は厨房へと走る。

 いきおいよく扉を開けると、釜戸の前に立った中年女性が、またか、といった顔でルゥに尋ねた。


「嬢ちゃん、今日もつまみ食いに来たのかい?」


「うんっ!!」


 期待に瞳を輝かせる狼少女に、しょうがないねぇとため息をつきながらも、厨房のおばちゃんは大きな木椀(もくわん)に具沢山のスープをよそってくれた。


「こりゃもう、つまみ食いって感じの量でもないね……」 


 苦笑気味に言って、ルゥへ食器を手渡す。


「わあぁ、お肉がいっばい入ってるっ。おばちゃん大好き!」


 食べ物をくれる人にはとても愛想のよいルゥだった。

 たっぷりとよそわれたスープをぺろりとたいらげて、狼少女はふと良いことを思いつく。


「ねぇ、アルフラのはどれ?」


「アルフラ?」


「うん、いつもカミルが取りにきてるでしょ」


「ああ、あれだったらいま用意してたところだから、もうすぐできるよ」


 ルゥはうれしげに目をほそめて、にっこりと微笑んだ。


「今日はボクがもってってあげる!」


「おや、カミルのお手伝いかい? ルゥ嬢ちゃんはえらいねぇ」


「ボク、えらい? じゃあおかわりくれる!?」


「え……あんたまだ食べるつもりなのかい」


 にこにことルゥはからの木椀をつき出す。


「もう、ほんとうにしょうがないねぇ……」


 ぐちぐちと文句を言いながらも、ふたたび木椀にスープがよそわれる。


「ほら、これを食べながらちょっと待ってな。ただし、これ以上はだめだからね。ほかの人の分がなくなっちまう」


「はぁい」


 ルゥは考えたのだ。

 最近のアルフラには、以前にも増して近寄り(がた)いものがある。せっかく近くの部屋に越してきたのに、なかなか足を運びづらい。だから食事を持っていくことを切っ掛けに、すこしお話がしたいと思ったのだ。


「できたよ、嬢ちゃん。これを持ってきな」


「ありがと!」


 食器の乗せられた盆を受けとった狼少女は、それをこぼしてしまわぬよう、気をつけながら厨房を出る。

 しずしずと階段をのぼり、部屋の扉を開けると、室内は鎧戸から差し込む光に赤く滲んで見えた。

 高く昇った陽はすでに中天から転げ、赤々と焼け落ちていた。誰彼時(たそがれどき)と呼ばれる頃合いだ。

 地平に没しようとする夕日を背に、寝台に座っていたアルフラが顔を上げた。


「あら……ルゥ」


 食べることが大好きなルゥは、食事を持っていってあげればアルフラもきっとよろこぶはず、そう単純に考えていた。

 そして実際、向けられた笑みはとても嬉しげなものだった。ひさしぶりに見たアルフラの笑顔にルゥも嬉しくなってしまい、満面の笑みでそれに応える。

 しかし……


「わざわざ“食事”を持ってきてくれたんだ」


 そう言ったアルフラは、手にした食器ではなく、ルゥの顔を凝視していた。

 ぞわりと、羽織った薄手の貫頭衣を押し上げて、全身の体毛が逆立つ。

 室内の冷たい空気が首筋を撫で、まとわりつくような寒気にルゥは震える。


「どうしたの、ルゥ? 早く入りなさいよ」


「う、うん……」


 部屋に踏み入ろうとしたルゥだったが、なぜか震えがおさまらず、うまく足が動かない。


「あたし、もうお腹がぺこぺこなの。はやく食事を持ってきて」


 盆の上に乗った料理と、ルゥ自身――――果たしてアルフラは、どちらを食事として認識しているのか……


「あ、あのね、アルフラ。……ボ、ボクたち、ともだちだよね?」


「なにを言ってるの? とうぜんじゃない」


「あ、あはは……そうだよ、ね?」


「ええ、だからはやく、こっちに来なさいよ」


 包帯におおわれた左手が、ひらひらとルゥを手招きした。


「うん。いま……」


 一歩踏み出そうとするが、やはり足は動かない。


「……あれ、なんで……」


 ルゥは足許を見る。頬を伝った冷たい汗が、石畳に点々と染みを作っていた。

 ありったけの力を込めて足を持ち上げる。


「わわっ……!?」


 足を前に出そうとした瞬間、突如床が割れて、深い亀裂が開いたかのような光景を幻視する。

 後ろによろめいたルゥは、ごしごしと目をこすった。そしてふたたび足許を見てみるが、いぜん幻は消えない。


「なに……これぇ……」


 ぱっくりと口を開いた深い奈落。ひとたび足を踏みはずせば、どこまで落ちてゆくのかも知れない無間(むけん)の闇が、眼下に広がっていた。


「ア、アルフラぁ……」


 そちらに目を向けると、それまでアルフラであったものがどろどろと溶け崩れて、不定形の物体に変じてしまった。

 それは真っ黒で、よくわからない恐ろしいなにか。絡め取られればすべてが終わってしまう、不可避の存在。――ルゥの死に対する心象が、具現化したものだった。


「ご、ごめん……ごめんなさい……」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、ぎゅっと目を(つむ)る。


「なに、ルゥ。どうしたの?」


 湿った音をさせながら這いずる黒い穢れが、アルフラの声で言った。


「ボク、へやに入れないの……あしが、うごかないの」


「もぅ! なにばかなこと言ってるの!」


 苛立ちを見せ始めた声とともに、冷たい風が吹きつけられた。

 狼少女を怯えさせた幻は消え去り、変わらず寝台に腰かけたアルフラの姿が視界に戻る。


「早く! こっちへきなさい!!」


「うぅ……」


 ひくっと喉を鳴らして、ルゥはすがるような目をアルフラへ向けた。


「ね、ねぇ……ボクたちほんとうに、ともだちなんだよね? そうだよね?」


「そうよ。だってルゥはあたしにできた、はじめてのともだちなんだから。いちばんのともだちよ」


 ルゥの顔が泣き笑いにゆがむ。あどけなさを描く頬の曲線を、清廉(せいれん)な雫がとめどなく伝い落ちる。


「……うん。ボクもそう。アルフラが、はじめての人間のともだち……」


 動きを戒めていた呪縛は去り、ルゥの足が持ち上がった。


「そうだよね。ボクとアルフラはともだちだもんね……」


 だから、ボクにひどいことなんて、しないよね?

 目で訴える狼少女に、薄笑いが返される。

 アルフラの左手は、なぜか膝に掛けられた毛布の中に隠されていた。その背後に、蠢く闇が叢雲(むらくも)のように湧き立つ。

 より解りやすい死のイメージ。それは漆黒の髑髏(どくろ)として(あらわ)れた。死神(ししん)ディースの象徴だ。


(ひとつ、助言をくれてやるよ。吸血鬼の助言だ)


 不意に甦ったのは、以前にカダフィーからかけられた言葉だった。


(嬢ちゃんの自分勝手な友情に振り回されてたら、あんたはそのうち身を滅ぼすよ。確実にね)


 カダフィーは彼女なりの親切心でその言葉を投げたのだとルゥは理解した。


 戸口の木枠を越えてしまえば、二度とは生きて戻れない。

 持ち上げた足は後ろに引かれる。

 ルゥの見た不可思議な幻覚は、理性の及ばぬ本能の部分が、狼少女を死地から遠ざけようとしていたのだ。


「ご、ごめんねアルフラ!」



 床に食器を置いたルゥは、わんわんと泣き声を上げながらその場を駆け去った。

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