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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
184/251

恋散るアイシャ(後)



 部屋の手配を終えて魔術士の塔から出たフレインは、アルストロメリア侯爵家の馬車から降りてきたジャンヌと鉢合わせた。つん、とそっぽを向いて擦れ違おうとした神官娘をフレインは呼び止める。


「あ、ジャンヌさん」


「……なにか?」


 振り向いたジャンヌの顔を見て、フレインは声をかけたことをすこし後悔してしまう。なぜだか彼女は非常に虫の居所が悪いらしく、露骨に不機嫌な顔をしていたのだ。


「あの、ですね……アルフラさんのことなのですが、今晩から近くの客室に移ってもらうことになりました。ですからなにかと気にかけてあげて下さいませんか。現状、ギルドでは失踪者も相次ぎ――」


「存じておりますわ。心配なさらずとも不埒者をアルフラに近づけたりはいたしません」


「そうですか。ではジャンヌさんご自身も身の回りにはお気をつけ下さい」


「武神の信徒であるわたしが、魔導士ごときに心配されるいわれはありません」


 ジャンヌは普段にも増してつんけんとした受け答えをする。その声はすこしかすれ気味だ。


「ええと……ひとつ、おうかがいしてよろしいですか?」


「なんでしょう?」


「中央神殿に向かわれるのは五日後と聞き及んでいますが……?」


「ええ、そうですわ。四柱守護神の神官戦士団を伴っての出発となる予定です。それがなにか?」


「いえ、ただの確認です。とくに他意はありませんよ」


 くっ、と顎をそらした神官娘は、自身よりも背の高いフレインを見下ろすように睨みつける。そんなジャンヌに若干(および)び腰となりつつ、フレインは尋ねる。


「……あの、なにかあったのですか? ずいぶんとご機嫌がすぐれないようですけど」


 常時のジャンヌのであれば、フレインを相手に長話をするなど、それだけで不機嫌となりえる案件である。――が、このときはよほど腹に据えかねることがあったらしく、神官娘はのべつまくなしに愚痴を垂れはじめた。

 彼女の不興は、前日に行われたとても不毛な会合が原因であった。

 急遽、父から呼び出されてアルストロメリア侯の邸宅に行ってみると、その大広間では各宗派の司祭枢機卿がずらりと勢揃いしていた。なにも聞かされていなかったジャンヌは、驚く間もなく彼ら一人一人と差し向かいで会見させられることとなった。

 枢機卿たちはみな一様に、ジャンヌへ対してある願い事をした。彼女が天界へ昇ったのち、彼らの信仰するレギウスの主要神から是非とも御言葉(みことば)(たまわ)ってきて欲しいと言うのだ。


(もっ)ての(ほか)ですわ! 枢機卿ともあろう方々が、なんという不信心な!! あの方たちには全レギウス教徒の頂点に立っているいるという自覚がないのでしょうか!!」


 フレインからしてみれば、枢機卿たちの願いはしごく当然のように思える。みずからが信仰する神と直接目通(めどお)り叶う者が身近にいるのだ。なにか願い事を伝えてくれと言うでもなく、言葉のひとつも貰って来て欲しいと頼むくらいならば、むしろささやかな望みと言えるだろう。なぜジャンヌが顔を真っ赤にして憤慨(ふんがい)しているのかよくわからない。

 しかし、神官娘の言い分はこうだ。


「信仰というのはただただ捧げるもの。みずから願わずとも、一心に汚れなき祈りを捧げていれば、おのずと神の声は降りて来るものなのです。いと高きところにおわす神々に対してなにかを望むなど、聖職者の風上にもおけません! いまの神殿は腐敗しきっています! かつての清らかな信仰を取り戻すためにも、わたしは神々の偉大さと(とうと)さを、枢機卿たちに時間をかけて説明しました」


「……司祭枢機卿を相手に、説法をしたのですか?」


 魔術士ギルドの者たちは、ときに熱心なレギウス教徒を狂信者と揶揄することがある。しかしジャンヌほどその傾向が顕著な者を、フレインは見たことがない。彼からすれば、司祭職にある者も充分(じゅうぶん)狂信的と言えるほどに信心深いが、それに輪をかけて神族に傾倒する神官娘の話を聞かされれば、彼らもさぞ辟易(へきえき)としたことだろう。


「枢機卿たちのなかには、わたしがレギウス神から選ばれた聖女だなどと佞言(ねいげん)(ろう)して、機嫌を取ろうとする者までいる始末です」


 聖女というのはともかく、レギウス神から選ばれたというのは事実なので、そこは怒るところではないように思える。ある意味、ジャンヌは彼にとってアルフラ以上にわかりにくい思考の持ち主だった。


「ですが、さいごには皆様(とく)の高い聖職者だけあって、わたしの言うことを理解してくださいました。丸一日ほどもかかってしまいましたが。――おかげで喉が痛いです」


 司祭枢機卿たちは、レギウス教徒の中でもとくに保守派、原理主義者と呼ばれる人物が多い。いわばジャンヌのご同類である。彼女ほど尖った思想の持ち主もそうはいないが、内数人は神官娘の熱弁に、本気で感銘を受けた者も存在した。ジャンヌが天界から帰ってきたのちには、実際に彼女は聖女と呼ばれ、その影響力を増していくだろう。フレインからすれば、いまの神官娘はレギウスの高司祭たちを次々とお仲間の狂信者へ変えていく、危険人物にしか見えなかった。彼女だけは天界に行かせてはいけないのではないだろうかと、真剣に考えてしまう。

 また、彼女の父、アルストロメリア侯爵もなかなかの曲者だ。彼は魔族への帰順を画策する、いわば革新派の中心人物である。保守的な他の司祭枢機卿たちとは対立する派閥の長といえる立場だ。

 フレインはアルストロメリア侯が娘であるジャンヌを利用して、対抗派閥の司祭たちを懐柔する心積もりであろうと読んでいた。もしかすると彼は、カダフィーが言っていたように、ゆくゆくはジャンヌを大司祭なり教王なりの地位に就けることも視野に収めているのもしれない。教国有数の貴族であり、武神の司祭枢機卿でもあるアルストロメリア侯爵が後ろ楯となれば、それもあながち不可能ではないように思える。


 フレインは頭上を仰ぎ、厚く垂れ込めた曇天を見やった。レギウス教国を覆う暗雲は、見た目よりも遥かに分厚いのかもしれない。


 万が一、ジャンヌが教王にでもなろうものなら、教国のお先は真っ暗である。彼女にまともな治世が敷けるとは思えない。まず真っ先に、異教徒狩りでも始めそうだ。それどころか、古代に(すた)れた生け贄の儀式を復活させるなどと言い出しかねない。

 アルストロメリア侯爵はたしかにキレ者なのだろうが、すこし親馬鹿なようだ。娘可愛さのあまり、国主に据えてはいけない者をその地位へ押し上げようとしているのではないだろうか。

 

「ジャンヌさん、さいきんカミルとはどうですか?」


「……は? えっ!? なにをいきなり……」


 急な話題の転化に、ジャンヌはあからさますぎる反応をしめす。


「あ、あなたなどに詮索されるいわれはありませんわっ」


 年頃の少女らしい恥じらいを見せるジャンヌに、フレインはすこし表情をゆるめた。


「なにをにやにやしているのですかっ、いやらしい! わたしはもう行きますわ」


 逃げるように小走りで去っていく神官娘を、フレインは微笑ましげに見送る。

 ジャンヌが色恋にでもうつつを抜かして、信仰といったものから距離を取ってくれれば幸いだ。カミルの頑張りしだいでは、教国の未来もきっと明るいものとなるだろう。そんなことを思いつつ、フレインは王宮へと向かった。



 のちのち、聖女と呼ばれるであろう少女を想い、自慰に(ふけ)っていた見習い魔術士には、いささか過ぎた期待と言えそうだ。 




「ジャンヌーーっ!!」


 神官娘が自室の扉を開くなり、その帰りを待ちわびたルゥが飛びついてきた。月齢も満ちて来ているので、勢いがすごい。

 ジャンヌは涙目になって咳き込みながらも、受けとめたルゥの体を寝台に投げ飛ばした。


「鍛えてない者に同じことをしたら怪我をさせてしまいますよ!」


 小言をちょうだいした狼少女は、投げ飛ばされたのをジャンヌが遊んでくれたのだと勘違いして、ふたたびじゃれかかる。


「こらっ、わたしは怒っているのですよ!」


 首に抱きついたルゥの額に、頭をごちんとぶつける。

 それでもきゃっきゃと喜ぶ狼少女に毒気を抜かれたジャンヌは、ルゥを首からぶら下げたまま寝台に腰をおろした。


「わたしはこれから治癒魔法の勉強をするので、ルゥはもうすこし寝ていなさいな」


「ねぇねぇ、そんなことより聞いて聞いて」


 みょうにテンション高めな狼少女は、ジャンヌの腰に両足を絡めてくまの浮いた顔を見上げる。


「もぅ、なんなのですか。手短におねがいしますわ」


「えへへ、あのねあのね、きのうカミルがね、ジャンヌのなまえを呼びながら、きのこさんをこしこししてたんだよ」


「はあ……きのこさんをこしこし、ですか?」


 ひとさし指を唇にあてて、神官娘はななめ上を見上げた。すこし思案して、ため息とともに首を振る。


「ルゥ……びっくりするほど意味がわかりません」


「だからね、カミルがはぁはぁしながら、おまたから()えたきのこさんを……こう、ごしごしーて」


 ルゥは、ジャンヌの膝に腰かけたまま、背をのけ反らせて身ぶり手振りをまじえる。


「すっっごく大きいの。ボクあんなのはじめて見ちゃった」


 狼少女の卑猥な手つきから、あらかたの事情を察したジャンヌは真っ赤になっていた。


「そ、その手をやめなさいっ!」


 いかがわしい動きをするルゥの手をぺちりとはたく。

 熟れた林檎のような顔色のジャンヌを見て、狼少女はとても嬉しそうだ。


「カミル、すごいんだよ」


 このくらい、とルゥはこぶしを握ってジャンヌの目の前に右腕をつきだす。


「え、それは……?」


「ねっ、すっごく大きいでしょ?」


 ルゥはくいくいと握りこぶしを動かしてみせる。


「あの、殿方の腰についてる……その……」


「お化けきのこだよ!」


 神官娘は赤面しつつも、ルゥのこぶしを指先でつつく。


「ふとさもね、ちょうどこのくらいなの」


 ジャンヌの手をとって、ルゥは自分の手首を掴ませる。それをきゅっ、きゅっ、と握りしめた神官娘は、目をまるくして口に手をあてた。


「い、いくらなんでも……すこし話を誇張しすぎなのでは……?」


「うそじゃないもん! ながさもボクのうでくらいあるんだよっ」


 なぜかジャンヌは、みずからの下腹部とルゥの腕をまじまじと見比べた。


「ぜったい無理ですわっ」


 握った腕を、ぺいっと投げ捨ててジャンヌは寝台に倒れ込んでしまった。その顔をのぞき込むようにルゥがのしかかる。


「ねぇ、おこった? おこった?」


「べ、べつに怒ってなどいませんっ」


「えー、なんでぇ? カミルはジャンヌのこと呼びながら、いやらしいことしてたんだよ」


 不満げにまとわりついてくる狼少女から顔をそむけて、ジャンヌはごにょごにょと口を動かす。


「……け、健康な殿方というのは、その……そういったものなのだと聞いたことがございますし……」


「でもジャンヌはいやらしいの嫌いでしょ?」


「ですから……それはカミルが男性として、たぶん正常なのであって……」


「なんでさっ、ボクのときはすごく怒ったくせに!」



 不穏な空気の漂う魔術士の塔において、今日も仲よく痴話喧嘩をくりひろげる二人であった。





 ちょうど同じ頃、ギルドの一室ではとても幸せそうに身悶える、一人の女性がいた。――アイシャである。

 ふだんであれば、まだ寝ている早朝なのだが、彼女はフレインとの食事が楽しみでしかたなく、昨夜から一睡もできないでいたのだ。

 起き出すにはやや早い時刻だが、アイシャはそろそろフレインをもてなす準備を始めることにした。なにかと手間のかかる料理を作るつもりなので、時間はいくらあっても足りない。

 材料は昨日のうちにすべて用意していた。雄牛の腰肉をメインに、馬の肝臓、海獣の睾丸、蜂の幼虫、うなぎを三尾(さんび)。これらは若干、見た目がアレなのだが、自然志向の食材も用意してある。にんにくや黒ごま、生姜(しょうが)にほうれん草、にらを少々、山芋がたくさん。しかし積み上げられた食材の中には、やもりの黒焼きや蝙蝠の皮膜、山羊の角、なにかの目玉、などといったアイシャ自身にもよく調理法がわからない物まであった。


「古今東西、とりあえず精力がつくと言われてるものは何でも揃えてみたわ!」


 仁王立ちしたアイシャは、自信満々に胸をはる。


(すっぽん)もまるごと手に入ったし、フレインくんが来る直前に血を絞って葡萄酒に混ぜないといけないわね」


 見下ろした桶の中では、なかなか立派な体格のすっぽんがじたばたしていた。

 アイシャの計画はとても単純である。

 とにかくフレインに精力をつけて、その気にさせるのだ。

 彼女はみょうな行動力の持ち主ではあるが、自分から手を出せるほどの勇気はない。

 用意した食材の中には、アイシャ自身が栽培した薬草なども混じっていた。

 媚薬(ほれぐすり)と呼ばれるものを作ってみるつもりなのだ。そのための魔導書も、昨夜のうちにギルドの書庫から借りてきた。効果のほどは不明だが、試してみる価値はあるだろう。


 恋する乙女は実におそろしい。

 彼女にはこれが、とても完璧な計画に思えているのだ。


「……ん~、そうね。これも入れたほうがいいかしら」


 小首をかしげつつ、四肢を広げた人間のような形をした植物の根を手に取る。


「はじめてはとっても痛いものだと聞くし」


 マンドラゴラの根っこには強い鎮痛効果がある。ただ、非常に毒性が強いので、少し分量を間違えると、幻覚を見たり瞳孔が開いたり、呼吸が止まることもある。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 魔導士であるアイシャは、そういった危険物の扱いにも慣れたものだ。

 気軽にその劇薬を、並べた食材の中に加える。


「さすがにこれだけ集めると壮観ね」


 精力はつきそうだが、著しく食欲を減退させそうな品々を眺めて、アイシャは満足げにうなずく。

 もしこの光景をフレインが見たなら、彼は確実に今夜の食事会を辞退しただろう。


「……さすがに量が多いかしら。フレインくんは細いし、全部は食べきれないかも……ん~、でも彼も男の子なんだし、へいきかな」


 使う材料も多いので、薬学に使用する大釜で煮込もうと考えるアイシャであった。もしもそれが完成すれば、怪しげな魔女の食卓待ったなしである。


「あっ、そういえば私……フレインくんの食べ物の好みをよく知らないわ」


 とても大切なことに気づいたアイシャであったが、自問自答しつつ自分の都合のいいほうへと考えをまとめてゆく。


「でも食べ物の好き嫌いを聞いたとき、海獣の睾丸やマンドラゴラが苦手なんて言ってるのって、聞いたことないわよね? やっぱりへいきかな」


 しかし、フレインとの最初の夜になるはずなのだから、万全を期したほうがよいだろうという結論に落ち着く。


「この時間なら、まだフレインくんも部屋にいるはずだし……直接聞きにいってみようかしら」


 フレインの部屋を訪れる口実にもなるし、それはとても名案に思えた。


「うんっ、そうしよう」


 そそくさと身なりをととのえて、アイシャは部屋を出る。頭には彼女の明るい髪色によく似合う青珊瑚の髪飾りをつけて。

 しかし、フレインの部屋の前に立ち、何度か扉を叩いても、いっこうに返事がない。

 ふと、フレインが朝な夕なに地下の一室へ足を運んでいることをアイシャは思い出した。もしかすると彼は、アルフラという少女に会いに行ったのではないだろうか。そういえばフレインの想い人を間近で見たことがなかったな、と考えるているうちに――自然と足は、地下への階段がある区画へと向いた。

 階段手前の詰め所を通りかかると、室内では魔導士サリムと数人の術師たちが話し込んでいた。部屋の中央に置かれた卓には、ギルド本部の見取図らしきものが広げられている。彼らは額を寄せ合い、何事かを協議しているようだ。通路の先を見てみると、階段のまわりには人気がない。


「仕事熱心なのもいいけど、肝心の警備がおろそかになってるのはいただけないわね。あとで注意してあげないと」


 そんなことをつぶやきつつ、アイシャは階段を降りて目的の部屋へ向かった。

 すこし肌寒い地下通路を歩き、その扉を叩くと、すぐにかすれたほそい声が返された。


「……だれ?」


「あ、私はアイシャという魔導士なのだけど、すこしいいかしら」


「まどうし……? いいよ、はいって」


 どこか険を含んだ声なのだが、後半部分はなぜか嬉しげな響きが感じられた。

 よくわからないが、自分は歓迎されているらしいと思い、アイシャはにこにこと扉を開いた。

 若干のカビ臭さとともに、甘ったるい没薬の香気が鼻につく。


「あの、フレインくんがここに……」


 言いかけて思わず、絶句する。

 寝台から身を起こした少女は、見える範囲をくまなく包帯でおおわれ、わずかにのぞいた目と口許の地肌は、酷い火傷で無惨にねじくれていた。

 アルフラが大火傷を負っていることはアイシャも知っていたが、まさかこれほどとは思っていなかったのだ。動揺する彼女を、鳶色(とびいろ)の隻眼がまじまじと観察する。


「フレインが、どうしたの?」


 アイシャは、いわば恋敵でもあるこの少女を、じっくり品定めしてやろうというくらいの気で部屋を訪れたのだが……その顔を直視できずに視線は足許をさまよう。

 (おもて)を伏せたアイシャを見つめながら、アルフラは彼女の顔が、火傷を負う前の自分にすこし似ていると感じた。――しかし今はそれよりも、並みの術師など及びもつかない魔力を持つ、アイシャの体に興味を惹かれた。――いや、正確には食欲をそそられた、と表現すべきだろうか。


「あの、ごめんなさい。フレインくんがここに来てないかと思ったのだけど……いないみたいね。ええと……失礼、しました」


 なんとも生臭いアルフラの視線にさらされながら、ぺこりとお辞儀をして扉を閉めようとする。そこへ優しげな猫撫で声がかけられた。


「ねぇ、まって。そこにある杖をとってほしいの」


「え、杖……?」


 閉ざしかけた扉からひょっこり頭だけをのぞかせて、アイシャは薄暗い室内を見回した。

 その杖は、部屋の隅に見つかった。


「おねがい。あたし、それがないと歩けないの……」


 人のよいアイシャは疑うということを知らず、大怪我をした可哀想な少女のために、その部屋へ足を踏み入れてしまう。


 それを見て、火傷の少女は大きく口の()を吊り上げて笑った。


 アイシャは床に転がった杖を拾うため、嗤笑(ししょう)する悪鬼に無防備な背中を見せる。


 背後に人の立つ気配を感じて、アイシャはしゃがんだ姿勢のまま振り返った。


「え……あなた杖がなくても……?」


 見上げたアイシャへもたれかかるようにして、アルフラが覆い被さる。

 手には煌めく刃の銀光。――アイシャは反射的にその体を突き飛ばした。

 よろけるようにアルフラは後ずさる。しかしアイシャが立ち上がる前に、容赦なく喉首へ足刀を叩きこんだ。

 げうッと(うめ)いたアイシャの口から、鮮血が溢れる。

 舌でも噛んだのだろう、その血はアルフラの足にまで垂れかかった。

 おのれの血にむせるアイシャの苦しげな声を聞きながら、アルフラは首へ置いた足に体重をかけて、彼女を石壁に叩きつけた。

 壁で喉を踏みつける形となり、強打した後頭部から、ぐしゃりと鈍い音がした。同時に眼球がぐるりと裏返る。


 アルフラは冷静に、それを見下ろす。


 白目を剥いたアイシャの体が、死にかけの魚のようにぴくぴくと跳ねる。

 美しい金色の髪を飾る青珊瑚がひび割れて、床に落ちた。

 そのまま頸椎を踏み折ろうとして、アイシャの耳と鼻からどろりと血が流れ出たのに気づき足を引く。

 とどめの必要はなさそうだと判断したアルフラは、まだ痙攣している体の上に屈み込んだ。



 暗い地下の一室で、あまりにも唐突に、アイシャの人生はぷっつりと途絶えてしまった。

 そしてアルフラの死体置き場には、あらたな屍が積み上げられることとなる。

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[一言] 恋じゃなくて命やないかーい
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