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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
182/251

善悪の彼岸 アルフラの最善



 数日前から降りだした雨は依然やむことなく、レギウス教国に居座った暗雲は今日も空を閉ざす。この地方では珍しい秋の長雨(ながさめ)だった。

 陽光がさえぎられ、昼なお暗いギルド本部の中庭を、ルゥは元気にぶらついていた。

 朝方から降ったり止んだりの空模様なのだが、いまは風雨も小休止状態だ。またいつ降りだすかわからないので、その間にお散歩をしようと思い立ったのである。

 秋霖(しゅうりん)に濡れた芝生を踏みしだき、狼少女は敷地内をぐるっと一周するつもりだった。――が、あいにくとその途中で雨が降りだしてしまった。こまったルゥは、小走りで最寄りの大きな建物に駆け込む。

 軒先に入って、うらめしげに曇天を見上げてふと気づく。いま雨宿りしている三階建ての建造物が、カミルの寝泊まりしている魔術士の宿舎だということに。

 入口の両扉は開いており、ルゥはとことこと宿舎の中へと進む。

 しばらく雨も止みそうにないし、ジャンヌを巡る恋のライバルである見習い術士の様子を見にゆこうと考えたのだ。敵情視察、というわけである。あわよくばちょっと遊んでもらおうとも思っていた。今日はジャンヌも居ないので、狼少女はこのうえもなく暇なのだ。


 宿舎に入るとすぐ右手に扉が見えた。中からは幾人かの気配が伝わってくる。ルゥはその扉の前に立ち、耳をそばだてる。

 魔術士らしき少年たちの話し声が聞こえてきた。


「……カティア様って、あのおっとりした感じの優しそうな?」


「ああ、研究室の戸締りはしてあったらしいから、施設を出たあとになにかあったんじゃないかって……」


「一昨日の晩から行方がわからないの……?」 


「そうらしい。カティア様は俺のお師匠の友達でさ、何度か話をしたこともあったんだけど……」


 ルゥにはよくわからない会話がなされていた。とくに興味もなかったので、おもむろに扉を開く。

 その部屋はおそらく談話室なのだろう。ルゥよりいくらか年上の少年たちが五名、卓を囲んで話し込んでいた。彼らの視線が戸口の狼少女に向く。


「あ……え……?」


 少年たちはみな一様に驚いた顔をして、ぽかんとルゥを見つめる。

 白子のような肌と髪色のルゥが余程物珍(ものめず)しいのだろう。


「この子……」


 中にはルゥを見知っていた者もいたようで、興味津々といった視線を上下させている。よくギルドの敷地内をお散歩している狼少女はとても目立つ存在だった。

 少年たちの一人が、ちいさい子の相手をするような口調で話しかけてくる。


「どうしたの? もしかして迷子?」


「むぅ、ちがうよっ」


 すこしかちんときたルゥであったが、とりあえずは目的地の場所を聞くことが先決だ。


「カミルしらない?」


「カミル? え、君はカミルの知り合いなの?」


「そだよ。カミル、どこ?」


「たぶん自分の部屋にいると思うけど……」


「そう、ありがと」


 一言礼を言って、扉も閉めずに背を向けたルゥだったが、すぐに自分がカミルの部屋を知らないことに気づいて振り返る。


「へやの場所、おしえて」


「ああ、俺が案内してあげるよ」


「いい、おしえてくれたら一人でゆけるから」


 子供扱いには我慢のならない狼少女は、むっと唇をつき出して少年の申し出を断った。彼はすこし残念そうにしつつも、カミルの部屋を教えてくれた。


「階段を上がったら左に行って、一番奥の部屋だよ」


 ふんふんとうなずきなから、ルゥは卓の上に置かれていた焼き菓子に気を取られていた。林檎のパイを切り分けたものだ。


「……欲しいの?」


「うんっ」


 勝ち気そうな目をきらきらとさせて、ルゥは満面の笑みをみせる。

 苦笑した少年たちは、自分たちのおやつであろうそれをひときれ差し出した。

 彼らに林檎のパイを貢がせてご機嫌な狼少女は、香ばしくてさくさくとした食感のお菓子をぱくつきながら、階段の方へと歩いていく。

 背後から、ひそひそと小声でささやき合う少年たちの声がする。


「……あの子、最近よく外で見かけるけど……近くで見るとほんとに可愛いいな」


「真っ白でお人形さんみたいだったね」


 さらに気をよくしたルゥは得意気に鼻を鳴らして階段をのぼる。

 二階の廊下を中程まで来たあたりで、その足がとまった。

 耳をぴくりとさせ、ルゥは腰を落としてつま先立ちになる。そして足音と気配を消して目的の扉へ近づく、

 カミルの部屋からは非常にいかがわしい、はぁはぁと荒い息づかいが聞こえてきていた。その合間に、ジャンヌの名を呼ぶカミルの声が混じる。

 ぴんとくるもののあったルゥは、すかさず扉を開け放つ。

 寝台の上で事にいそしんでいた見習い術士が、ばっと身を起こした。


「――ひああ!? ル、ルゥさん!?」


 慌ててカミルは握っていたモノをズボンに押し込もうとする。しかし特大のそれはなかなか言うことを聞いてくれないようだ。大きすぎて衣服の中に収まらない。

 ルゥもそれの巨大さに驚きすぎて、目と口がまあるくなっていた。カミルのモノは狼少女の手首ほども太かったのだ。長さも腕に近い。彼の愛らしい顔立ちとは、およそ不釣り合いな凶悪さである。

 二人がぼうぜんと見つめあっているうちに、カミルのそれはしなしなと縮んでしまった。さきほどの偉容がうそのようにこじんまりとしてしまっている。

 はっと我に返った狼少女は、にんまりとたちの悪い笑みを浮かべた。


「えへへ、みーちゃったみーちゃったっ」


 このことをジャンヌに言いつけてやろうと考えたのだ。

 とたんにカミルの顔がひきつる。


「あ、あの、ルゥさん……」


 みなまで聞かず、ルゥは背中を向けてダッと駆け出した。


「ああぁぁ!? 待ってください!!」


 もちろんルゥは止まらない。カミルがジャンヌの名を呼びながらいやらしいことをしていたと告げ口すれば、とてもおもしろいことになるだろう。恋敵(こいがたき)を蹴落とす好機だ。



 いまは留守中であるジャンヌの帰宅が、楽しみで仕方のないルゥだった。





 王宮の一角にあるギルドの執務室では、今日も手際よく仕事をかたづけるフレインの姿があった。次々と書類に目を通してはその山を減らしていく彼の手が、ぴたりと止まる。


「……なんですか?」


 隣でみずからの仕事をしていたアイシャからの視線を感じたのだ。

 声をかけられたアイシャは、なぜかもじもじと羽根ペンをいじくりまわしながら、上目づかいにフレインの様子をうかがっていた。そして意を決したように口を開く。


「ええと……あのね、フレインくん」


「フレインくん?」


 これまで普通に名を呼びすてであったアイシャが、急にその呼び方を変えたため、フレインは面食らってしまう。


「アイシャ……あなたは何をたくらんでいるのですか。またカダフィーにいらぬ入れ知恵でもされたのですね?」


「えっ……なぜそれを?」


 腹芸の苦手なアイシャは、思わず白状したも同然の返事をしてしまった。両手をぶんぶんふりまわして、慌ててそれを取り繕う。


「あの、違うの。私はただ……そのう……カダフィーさまから、フレインのことを、あ、愛称で呼んでみるといいんじゃないかと言われて……」


 そうすれば親近感も湧いて、今よりきっと仲良くなれるよ、とカダフィーは言っていたのだ。ほかの者がしない特別な呼び方なら、なおいいとも彼女は言っていた。

 カダフィーは男女の機微について、()いも甘いも噛み分けていると豪語するだけあって、こまごまとした助言をいくつもくれていた。 

 さすがカダフィーさま、奥が深い! と感心したアイシャだったのだが……しかし愛称と言われてもなかなか思いつかず、彼女は数日ほども悩んだあげく、けっきょくは君付けで呼んでみるという無難な行動に出たのだ。


「あの……だめだったかしら」


 せわしなく膝の上で指を組み替えるアイシャに対して、フレインは(いぶか)しげに首をかたむけた。


「好きに呼んでいただいて構いませんよ。あなたの方が年上ですしね」


 女心のわからないフレインは、なぜアイシャが呼び方ひとつにそこまでこだわるのか不思議でならなかった。そのうえ非常に余計な一言まで付け加えてしまっていた。

 年上と言われてアイシャの顔は微妙にひきつっている。


「とりあえず、仕事を終わらせましょう。あなたは明日、ひさしぶりの休暇でしたよね。区切りのよいところまで――」


「あっ、そのことなんだけど……あの、もしよかったら……」


 アイシャはひどく緊張した面持ちで、そわそわと浮き足だったように華奢な肩を揺らす。頬がほんのり上気していて、見ているフレインまで落ち着かない気分になってしまう。


「あ、明日の夜に、その、一緒に食事でもどうかしら」


 それだけ言い切るのにアイシャはとても苦労したらしく、すこし息が上がっていた。


「夜、ですか……」


 フレインは渋い顔をする。おそらくこれもカダフィーの入れ知恵なのだろうが、彼女から宝刀を借り受けた手前、アイシャの申し出を断ることは約定(やくじょう)違反だ。しかしながら現在、ギルドの職員には夜間の外出禁止令が出ている。ここ連日に渡り、関係者の失踪が後を絶たないのだ。もちろん警備も強化され、敷地の内外において厳戒体制が敷かれている。

 だが、高い塀に囲まれ、夜間は固く門を閉ざしているにも関わらず、ギルド内部において行方のわからなくなる者が増え続けている。このことから、犯行を行っている何者かは人間ではなく魔族であろうと推測されていた。かつてサルファやガルナといった大都市において、魔族の斥候が街の住人をさらっていたという事実がある。その時と同じように、ギルドの職員を拉致してなんらかの情報を得ようとしているのではないか。多くの者がそう考えたのだ。

 魔族絡みであれば、本来ならばカダフィーの出番であるのだが、彼女は先日、ダーナの中央神殿へと出立している。そちらでも魔族の斥候が複数確認されたためである。

 まるで女吸血鬼の不在を狙ったかのように始まった失踪事件は、いまだ解決の糸口を掴めていない。

 カダフィーがどこへ向かったのかは伏せたうえで、彼女がしばらく留守にするとアルフラに告げていたこととの関連までは、フレインも思い至らなかった。


「ねぇ、フレインくん……?」


 しばしの間、黙り込んでしまったフレインを、アイシャが不安げに見つめていた。


「……いまは夜間の外出が禁止されていますし、やはり――」


「それならだいじょうぶ! 外へ食べに出るのではなくて、私の部屋なら平気でしょ? その、あまり自信はないのだけど、私の手料理をごちそうするわっ」


「え……アイシャの?」


 生まれて初めて女性から自室に招待されるという経験に、フレインはいささかあたふたとしてしまう。そんな彼を見て、アイシャは期待に瞳をきらめかせて尋ねる。


「ね、それならいいでしょ?」


「あ、いえ、でも……夜分に女性の部屋に上がり込むのも……」


「フレインくんならかまわないわっ。せっかくの休日だから、手足によりをかけてお料理を用意するつもりよ!」



 さらにもごもごとなにかを言おうとするが、結局はアイシャの勢いに押しきられてしまうフレインだった。





 日の落ちた後も、雨は降り続いていた。外気は冷え込み、肌を刺す寒気が夜に満ちる。

 石造りである魔術士の塔も、その内部は外と変わらぬほどに気温が低い。夜番に立つ歩哨(ほしょう)の者たちにとっては、雨に降られないだけましとはいえ、なかなかに辛い夜であった。

 ギルドの本館である塔の奥まった一角。そこには地下へとつづく階段があり、四人の術師が警備にあたっていた。本来、夜間には二人に減らされる歩哨は、ここ連日に及ぶ失踪事件のため、その数は日中と変わらない数へと増やされていた。

 これまで行方の知れなくなった者は、自分の意思で姿をくらませたのか、それとも何者かにより(かどわ)かされたのかすら正確にはわかっていない。争った形跡や悲鳴を聞いた者もいなかったので、当初は夜逃げの(たぐ)いだと思われていたのだ。しかしすぐに、その考えは改められた。あまりにも唐突に人が消え去るという事態が、日をおかずに頻発したからである。


 何者かが悪意を持ってギルド関係者を拉致しているのだと判断されてからは、警備も増強され、夜間には決して一人で行動しないよう沙汰(さた)された。以降、警備にあたる者からの失踪者は減ったものの、それ以外の一般職員が消えるようになった。

 現状では屋内で被害にあった者はいないとされていたが、ただ痕跡が残されていないだけで施設内部への侵入者もあり得ると想定され、地下への階段を警護する歩哨も増やされている。これは魔族が事件に関わっているのではないかとの疑いがあったためだ。フレインなどは、地下の一室に身を隠しているアルフラの存在が、魔族に嗅ぎ付けられたのではないかとまで深読みしていた。


「俺達はそろそろ夜食にありついてくる。すぐ戻るからよろしくな」


 そう言いおいて、地下への階段を守る術師たちの内二人が、持ち場を離れた。通路の先にある一室が詰所として使われており、そこに食事が用意されているのだ。階段に向かうには必ずその部屋の前を通らなければならないため、食事の最中も扉を開けたままにしておけば見張りもできる。彼らは冷めた料理を口に運びながら、度の低い火酒をちびちびと舐める。冬ともなれば夜の歩哨は極寒の冷え込みに耐えねばならないため、飲酒を禁止されることはない。酒気で体を暖めておかなければ血行が滞って凍傷を招きかねない。やや季節は早いものの、最近の冷え込にみには厳しいものがある。 


「……なあ、思ったんだけどさ……」


 暖炉の近くに陣取って食事をしていた術師が相方へささやく。


「やっぱりおかしくないか? 階段から吹いてくる風が冷たすぎる。これだけ寒けりゃ普通は地下の方が暖かいもんだろ。それなのに……あの階段の辺りは外より寒いときてる」


 このところ、たまに地下から吹き上がる風が妙に冷たく、歩哨に立つ者の間でもそれがたびたび話題となっていた。


「やっぱり地下には何かあるよ。あの噂は本当なんじゃないか?」


「……どの噂だよ」


「ほら、あれだよ。地下にはホスロー様が使役していた死霊たちが溢れてるって話だ」


「馬鹿馬鹿しい。昼間には小さい女の子や見習い術士も出入りしてるんだぞ。そんなものがいるはずないだろ」


 相方から一笑にふされた術師は、すこしむきになったように口調を強める。


「でもお前だってさっきまでは階段の前でぶるぶる震えてたじゃないか」


「……まあ、たしかに寒いからな」


 階下から上がって来る空気の冷たさには、実際ゾッとするものがある。


「俺はホスロー様が使役してた死霊より、カンタレラの実験で死んだ奴らが怨霊化してるって話の方がありそうだと思うぜ」


「じゃあ、あれはどうだ? 大昔の導師がギルドの地下深くに古代神を封印したって伝説があるだろ」


「いや、さすがにそれは眉唾だ」


 魔道を(こころざす)者たちの聖地でもあるギルド本部では、そういった噂に事欠かない。古い伝承なども多く残っており、その内の幾つかには事実も混じっているのではないか、と考える者もいた。

 警備の者ですら地下への立ち入りが禁じられているため、憶測が憶測を呼び、無数の噂話がささやかれているのだ。


「ギルドのどこかに地の底まで続く竪穴があって、そこから地獄の悪鬼が這い出してるって話も聞いたな」


「ああ、迷い出た亡者が人間を喰らって黄泉返ろうとしてるって奴だろ」


 二人は顔を見合わせて、そして同時に吹き出した。


「まるで子供を怖がらせる怪談話のたぐいだな」


 彼らは腹を抱えて実にくだらないと笑う。ある意味それが最も真実に近いのだとは知るよしもないゆえに。

 噂話に興じる術師たちの許へ足音がひとつ、近づいてきた。


「……ん?」


 すぐに同僚の一人が戸口に現れる。


「おい、火酒を一袋くれ。また冷え込んできやがった」


 階段から吹く風が冷たさを増したのだと彼は言う。


「すこし暖炉の前で体を暖めていくか?」


 かちかちと歯を鳴らす男を見かねて気遣いの言葉がかけられたが、彼はゆっくりと首を振った。


「俺だけ火にあたってくわけにはいかんだろ。あとから相棒になにを言われるかわかったもんじゃない」


 渋面(じゅうめん)でぼやいた彼は、ふと通路の奥、階段の方へと顔を向けた。


「どうした?」


「……いや、なにか物音がしたように思えたのだが…………気のせいみたいだ」


「そうか。とりあえず火酒だったよな」


 術師の一人が席を立って樽から革袋に火酒を詰め替える。


「しかし、与太話を信じるわけでもないが……やっぱり地下にはなにかあるんじゃないか?」


「だよな。最初はひんやりした風が吹いてきてるな、くらいの感じだったのに……」


 いまでは火酒で体を暖めなければならないほどに寒々としている。夜の警備にあたる者たちは皆、軽口を叩きつつも、地下へつづく階段を不気味に感じ始めていた。

 やがて革袋を受け取った術師は持ち場へ戻り、それからしばらくして休憩を終えた二人も部屋を後にした。だが彼らが通路へ出てみると、なぜか階段の方は明かりが落とされていた。人の気配が感じられない。


「……おい?」


 警備にあたっているはずの者たちに呼びかける。


「なぜカンテラを消した? 明かりを()けろ」


 返事はなく、術師の声は虚しくこだました。

 通路の先の暗がりから、冷たい風が吹きつけてくる。

 視界の利かない無形の闇は、夜の深さを思わせた。

 真冬のような寒さだというのに、汗が一筋、頬を伝う。


「おい! 聞こえないのか? 明かりを点けろ!!」


 聞こえないはずなどないのだ。

 石壁に反響した声は、自身の耳にも痛いほどに響き渡っている。



 ついさきほど火酒を取りに来た男とその相棒は、忽然(こつぜん)と消え去っていた。





 地下の一室で、アルフラはあらたな犠牲者を屍体の山に積み上げる。血を啜り終えた後なので、男の体はずいぶんと軽くなっていた。床に転がるもう一人にはまだ口をつけていないが、彼もすでに事切れている。そちらの男は最初の術師を()った直後に現れたため、殺さぬよう手加減する余裕がなかったのだ。彼は死んだのちも火酒の袋を握り締めていたので、それも一緒に地下へと運んできていた。

 室内には幾人もの屍が壁際に積まれ、澱んだ空気からはこびりついた血の匂いがほのかに香る。しかし死臭はそれほどでもない。寒冷地帯であるレギウス教国北部では、有機物を腐敗させる微生物の数自体が少ないのだ。とはいえ(しかばね)折り重なるこの部屋の惨状は凄まじいものだった。ギルドが把握している失踪者よりも遥かに多くの術師たちが転がされている。

 通常の感性を持つ者が踏み込めば、嘔吐しかねないほどの嫌悪を催すその部屋で、アルフラは黙々と食事を(むさぼ)る。人はそれを鬼畜の所業だと非難するだろう。


 おのれの欲望のために人を殺し、あまつさえその血を啜っているのだ。確かに唾棄(だき)すべき行いである。しかしそれは、人間の倫理や良識といったものに照らし合わせた場合だ。それらは円滑な社会を形成するために人が作り上げたものであって、真理ではない。

 みずからの糧として他者を補食し、生き抜く。それは個の生物として正しい。生命のあるべき姿と言えよう。

 人の世の善悪を越えたところに、アルフラは立っている。

 そう考えれば、彼女の行動は合理的とすら評せるのかもしれない。

 いまのアルフラには力が必要なのだ。

 超越的な存在である魔族の支配者に挑み、愛する人を取り戻す。

 およそ人の力では成し得ないことを望んでしまった以上、当然のやり方では決して手が届かない。

 夜な夜な人目を(はばか)り獲物を仕留めているのも、事が露見すればそれ以上血を得ることが難しくなるからだ。そこに保身などといった考えはない。短絡的ではあるが、アルフラなりに最も効率の良いと思われる手段を取ったに過ぎなかった。だからこそ、性急に犠牲者を増やしすぎて、ギルド側の警戒を強める結果となってしまっていた。階上の歩哨に手を出したのも、警備が強化されたために手頃な獲物を見つけられなかったからだ。

 それでも――


――たりない……たりない……


 アルフラは大きく口を開き、術師の首筋にかぶりつく。喉肉を食い破り、まだ温かな血潮を胃へと流し込む。

 搾取した命がまた一つ、身体の奥底に沈澱する。


「ぜんぜん、たりない……」


 血濡れた唇は、さらなる力を欲する。

 最終的には、この魔術士の塔を吸い尽くす心積もりで、アルフラは事に(のぞ)んでいた。



 ギルドは人知れず身中の虫を抱え込んでしまったのだ。まだ気づいた者こそいないものの、それは着実に身の内を食い荒らし始めている。真相が明るみとなったときに、手負いの悪鬼がどれだけ回復しているかによっては、すべてが手遅れとなっている可能性もあった。

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