強く儚いもの
ルゥがギルドの客間に戻ったのは、明け方過ぎのことであった。
朝食をすませたシグナムが、アルフラの部屋へ行こうと立ち上がったところに、ちょうど狼少女は帰宅してきた。
「お帰り、ルゥ」
「……うん」
ルゥはぶすくれた顔でうなずき、そのまま寝台に寝ころがる。
昨日は楽しめたか、とつづけようとしていたシグナムは、狼少女の様子に一旦口を閉ざした。そしてルゥの隣に腰かけて、その髪を梳くように撫でてやる。
「ジャンヌと喧嘩でもしたのか?」
むすっと黙り込んだルゥは、無言のままシグナムの太ももに頭を乗せた。
「一緒に西方に行こうってしつこくして、ジャンヌを怒らせちまったんだろ?」
「……ボク、しつこくなんてしてない」
ふてくされたように言いつつ、ルゥはよく発達した大腿筋の上で頭の位置をなおしていた。寝やすい体勢を模索しているらしい。
「いや、あたしはこれからアルフラちゃんの所に行くから。寝るなら普通に枕を使ってくれ」
甘えてくる狼少女にはすこし悪いかなと思いながらも、シグナムは枕を掴んでルゥに抱かせる。
「……ジャンヌったらすっごくわからず屋なんだよ。ぜんぜん話をきいてくれないのっ」
「まぁ、あいつが人の話を聞かないのはいつものことだけどな」
狼少女はかなりおかんむりのようだ。堰を切ったようにジャンヌへの不満を並べ立てはじめる。
「へんなお祈りさせられるし、神さまの話ばっかりするし、カミルと楽しそうに踊ってたし……もうジャンヌとは一生口きいてあげないんだからっ!」
シグナムは苦笑しつつ、宥めるようにルゥの額をぽんぽんとたたく。
「……それで? ジャンヌは今どうしてるんだ」
「となりの部屋で本よんでる」
「じぁあ、あとでちゃんと仲なおりしとけよ」
「……やだ、しばらくジャンヌとは口きかない」
つい先程は一生と言っていたのが、いつの間にかしばらくに変わっている。
この分なら、ほうっておいても数日後には仲なおりしていそうだ。
「まあ、とりあえずあたしはアルフラちゃんのとこに行ってくるよ。ルゥも昼寝が終わったら裏庭に来な」
「……うん」
ルゥは枕を抱いたまま、寝台の端へ転がっていった。しょうがない奴だといった顔でそれを一瞥し、シグナムは部屋から出る。そして隣室の扉を叩きもせずに押し開けた。
「なにかご用でしょうか?」
卓の前に座って魔道書を読み耽っていたジャンヌが顔を上げた。不機嫌この上なかった狼少女とは違い、とくに普段と変わったところは見られない。おそらく彼女的には、ルゥと喧嘩をしたという認識はないのだろう。
「ルゥが愚痴ってたぞ。ジャンヌが説法まがいのことばかり言って、自分の話を聞いてくれないってさ」
「はぁ……わたしはルゥが罰当たりなことばかり口にするので、すこし窘めてあげただけなのですが」
「まあ、お前からしてみりゃそうなんだろうな」
そこに信仰が絡むと、ジャンヌとはどうやっても話が噛み合わないことを、シグナムも重々承知していた。なのでそれ以上は掘り下げることなく、無難に告げる。
「ルゥはへそを曲げてふて寝してるから、あとでちょっと優しくしてやれ。そしたらすぐに機嫌も直るだろうからさ」
「ええ、わかりました。きりのよい所まで読み終えたら様子を見に行ってみますわ」
そう言って、神官娘は魔道書に視線を落とした。
ジャンヌの読んでいる本が、治癒魔法に関する書物らしいと気づき、シグナムはすこし嫌そうな顔をする。
「……もしかして、まだ快癒の魔法を諦めてなかったのか」
「はい、やはり神官たる者、治癒のひとつも出来ないことには話になりませんから」
武神の信徒らしからぬその発言に、シグナムはかるくため息を落とした。
「快癒でもアルフラちゃんを治せないのは、もう分かってるだろ」
「……ですが繰返し快癒をかけ続ければ、今より火傷の痕も目立たなくなるはずです」
「そうだな……」
基本的に、ジャンヌは心根の優しい娘なのだ。そうでなければルゥはとっくに彼女と友達を辞めているだろうし、カミルもジャンヌに惚れることはなかったはずだ。彼女は弱っている者は助け、持たぬ者には分け与えようとする。法を司るレギウス神の教えが身についているのだろう。しかし、そこに信仰が関係してくると、途端に融通の利かないはた迷惑な存在となってしまう。
「あたしはこれからアルフラちゃんのとこに行くけど、お前も来るか?」
「……いえ、遠慮しておきます。今のわたしでは何の役にも立てませんから」
「わかった。じゃあな」
治癒魔法の習得に勤しむ神官娘を部屋に残し、シグナムはギルドの地下へと向かった。
夕刻に差しかかり、やや肌寒さの感じられはじめた頃合い。仕事を早めに片付けたフレインが、ギルドの裏庭へとやってきた。そこでは一心不乱に杖を振るアルフラと、それを見守るシグナムとルゥの姿があった。
フレインの来訪には気づいているのだろうが、アルフラはわき目をふらず打ち込みに余念がない。
シグナムはフレインと目を見交わして、おもむろに口を開いた。
「アルフラちゃん。すこし手を休めて聞いてくれ。大切な話があるんだ」
声をかけられ動きを止めたアルフラが、ゆっくりとシグナムへ向き直る。
包帯に覆われたその顔から、表情は読み取れない。
鳶色の瞳に正面から見据えられて、シグナムはしばし口ごもる。
「その……ざっくり説明すると、ホスローを殺したことがカダフィーにバレそうなんだ。だからあたし達は近い内にギルドを離れなくちゃならない」
シグナムはアルフラの反応を窺いつつ、話をつづける。
「まだ出発は十日ほど後になるけど、フレインが大陸西部に向かう準備をしてくれてる。どこか西方の小さな村にでも落ち着いて、そこでゆっくり怪我の治療をしよう」
アルフラはちらりとだけフレインに目をやり、すぐにシグナムへ視線を戻した。
「あたし、怪我はもうへいき。それより、はやく木剣が持ちたい」
「ああ、それは分かってる。でもまだ体調は万全じゃないだろ? それよりも今は、ギルドを離れたあとどうするかって話だ。ホスローのことがカダフィーに知れたら、このレギウスには居られなくなるのは分かるよな?」
無言のままじっとシグナムを見つめるアルフラからは、やはり何を考えているのか読み取ることは困難だった。すこし困ったようなシグナムの視線を受けて、フレインが話を引き継ぐ。
「ホスロー様の件が明るみとなれば、ギルドに属するすべての者がアルフラさんの敵となります。ギルドの支部は国外にも多数存在しますので――」
「あたしは西方になんて行かない」
冷ややかにフレインの言葉をさえぎり、アルフラは険悪な眼差しを彼に向ける。
「ここにいられないなら、ロマリアへ行く」
「アルフラちゃん、ロマリアは駄目だ。あそこはもう口無って魔王に落とされちまってる。ギルドの手から逃れようと思ったら、西に行くしかないんだ。それにいまのアルフラちゃんじゃ、魔族の雑兵にだって勝てないのは自分でも分かってるはずだ」
ぐっと喉を鳴らし、アルフラはくやしげに唇を噛み締めた。
「ちゃんと剣をにぎれるようになったら、魔族になんて負けない」
ひどく頑なアルフラの様子に、フレインはその怒りを招くことを覚悟で告げる。
「すべての魔族は強固な障壁を有しています。白蓮様の細剣が失われたいま、アルフラさんに――」
「うるさいッ!!」
癇癪を起こした子供ように叫び、アルフラはフレインに向かって手にした杖を振り上げる。
「――アルフラちゃん!」
フレインの前に立ちはだかったシグナムが、アルフラの腕を掴んでその体を抱き止めた。
「いくらなんでもそりゃないだろ! フレインはアルフラちゃんのことを思って言ってんだぞ!!」
それでもアルフラは、怒気のこもった目でフレインを睨み付けていた。
「アルフラちゃんがつらいのは分かるけどさ、あたしやフレインだって好きでこんなこと言ってる訳じゃないんだ! それに、いまアルフラちゃんが生きていられるのも、フレインのおかげなんだよ!」
その口調の激しさに、腰の引けたフレインが慌ててシグナムを宥めようとする。
「あ、あの、シグナムさん、私は構いませんから。落ち着いて下さい」
「あたしは冷静だ! いい機会だからここではっきりさせとこう。いいかい、アルフラちゃんはね、雷鴉に殺されかけたあと、何度も何度も死にかけてたんだよ。たぶんあたしだけじゃアルフラちゃんは助からなかった。医術や薬学の知識があるフレインがいたから、なんとか命を取りとめたんだ」
アルフラはシグナムの腕を振りほどこうともがき、しかしそれが出来ず、ただ体を震わせながらうつむいていた。
「本来ならね、フレインにはいくら感謝してもし足りないくらいなんだ。せめて礼の一言でもかけてやりなよ!」
しかし、話を向けられたフレイン自身が、シグナムの腕に手をかける。
「お願いです。もうやめて下さい」
掠れた声で言った彼は、その優しげな顔をひどく青ざめさせていた。
「私は本当に、何を望んでいる訳でもないのです。ただアルフラさんを死なせたくなくて、やったことなのですから。いまこうしてアルフラさんが生きているだけで――」
「お前は黙ってろ! 物事には筋ってもんがあるんだよ。それをきっちりアルフラちゃんに分からせてやんないと駄目だ」
シグナムがアルフラの顔をのぞき込むと、鳶色の隻眼がその黒瞳を見返した。
決して折れることのない意志の強さを秘めた目に、シグナムは思わず舌打ちする。
「どこまで頑固なんだよ! いったいいつからアルフラちゃんは、礼のひとつも言えない奴になっちまったんだ!?」
「……西には行かない。そんなことより、早く木剣をちょうだい」
「――ッ!」
「シグナムさん!!」
拳を固めたシグナムの腕にフレインがすがりつく。
「駄目です。アルフラさんはただでさえ――」
「そんなことは分かってる!! ――おい、ルゥ!」
それまでびくびくと成り行きを見守っていた狼少女は、突然名を呼ばれてぎくりと身を引いた。
「あたしの部屋に木剣が二本ある。それを持って来てくれ」
「う、うん」
だっと駆け出したルゥには目もくれず、シグナムは宣言する。
「いまのアルフラちゃんじゃ、魔族どころかそこらの兵士にすら勝てない。それをあたしが教えてやる」
夕闇の迫る薄明るい裏庭で、アルフラとシグナムは対峙した。
たがいの左手には木剣が一振り。それを遠巻きにするフレインとルゥは、無言で二人を見やっていた。
「右手は一切使わない。いつでもかかって来なよ」
言ったシグナムは構えを取るでもなく、自然体でただ立っていた。
対するアルフラは軽い前傾姿勢のまま、剣先を斜に下ろしている。
「もしあたしにかすりでもすれば、もう何も言わない。アルフラちゃんの好きにしていい。でもそれが出来なければ、あたしと一緒に西方へ行ってもらう。――いいね?」
応えることなく、アルフラはシグナムの左手側へと摺り足で移動を始めた。ときおり木剣の重みを確かめるかのように、その手が小刻みに振られる。
かつて、ロマリアへ発つ前に立ち合ったとき、二人はほぼ互角の勝負を繰り広げた。だが、いまのアルフラに勝機が皆無であることは、誰の目にも明らかだ。ただ一人、それを認められないアルフラを除いては。
ぎりりと、血が滲むほどにアルフラは木剣を握り締める。そうしないと打ち合った最初の一合で、得物を取り落としてしまうことくらいは理解していた。利き腕を失ったアルフラは、健常であったときほど精緻な捌きが出来ない。シグナムの木剣を受け流すことは不可能だ。そして右目を失ったため、常に相手の左手へと動き、死角に入られないよう心掛けねばならない。また、火傷により関節の稼動域が狭まっているので、最大の武器ともいえる瞬発力までもが衰えてしまっていた。必然、体の柔軟性まで失われているので、シグナムの初撃を避けることも困難だ。
受けも、避けも出来ないのであれば、あとは先手を取るしか勝ち目はない。だが、それに必要とされる俊敏さをも、いまのアルフラは有していない。
完全な手詰まりである。
攻めあぐねるアルフラを見かねたシグナムが、すっと木剣を持ち上げた。
「来ないのなら、こっちから行くよ」
一歩踏み込もうとしたその機先を制し、アルフラが前へ出た。
手負いではあるが、戦いに関する勘だけはいささかの翳りもない。
しかし、体機能がそれに追いつけなかった。
急激な動作に耐えきれず、膝が軋みを上げる。
激痛を堪えて放たれた渾身の突き込みは、木剣の一振りであっさりといなされた。
さらに踏み込んで切り返しの逆胴を狙うが、これも木剣に弾かれる。
その挙動に往時の鋭さは欠片も見られず、以前のアルフラを知る者からすれば、緩慢とすら評せる動きであった。
シグナムは小手先であしらいつつも、呼吸ひとつ乱していない。
「どうだい? 手加減されるってのは頭にくるもんだろ」
「――――っ!!」
包帯の奥からシグナムを睨み据え、アルフラは袈裟懸けに木剣を振り下ろす。
それを下から掬い上げるようにして、シグナムはアルフラの手から木剣を刈り取った。
勢いを殺せずにアルフラは前のめりに倒れ、数瞬の間をおいて木剣が目の前に転がった。
「わかったろ、アルフラちゃん。いまのその体じゃ、戦いにすらならないってことが」
地に伏したアルフラを見下ろし、シグナムは言い聞かせるように告げた。
「な、アルフラちゃん。あたしと一緒に西方へ行こう。しばらくは戦いのことなんか忘れて、ゆっくり静養しようよ」
立ち上がろうとするアルフラだったが、左手だけではなかなか上体を起こせずにいた。血を滲ませた細い指が、ざりざりと土を掻く。
「……いかない。あたしは魔族と戦って……」
ぐっと息を呑んだシグナムの顔が、痛みでもこらえるかのように歪んだ。
「――無理だ……無理なんだよ。あの雷鴉って奴と戦ったアルフラちゃんなら分かるだろ。どうやっても勝てる相手じゃない。魔王って奴らは、国を一つあっさりと落としちまうような化け物なんだよ。だから――」
「やだ。あたしは、白蓮を、むかえにゆくの」
シグナムと視線を絡めて、アルフラはなんら迷いもなく言いきった。
見上げた鳶色の瞳に、狂おしい恋慕の炎が灯る。
「きっと白蓮は、あたしが来るのを待っててくれてる。だから早く戦禍をやっつけて、助けにゆかないと……白蓮が待ちくたびれちゃう……」
「アルフラちゃん!」
シグナムの声も聞こえないかのように、その口からは切々と呪詛めいた言葉が零れだす。
「……魔族をころして、ころして、ころして――みんなころして……白蓮を……」
どこまでも折れることのないアルフラに、シグナムは泣き出してしまいそうな声で訴える。
「なんで……あれを見て戦おうなんて思えるんだよ」
ロマリアでアルフラを灼いた雷光と、それを行った魔王雷鴉の威容を思い出して、シグナムはぶるりと身を震わせた。
「お願いだ、アルフラちゃん」
その耳に、いつまでもこびりつく声があった。
「あたしはもう、あんな思いをするのは嫌だよ……」
これまで幾多の断末魔を聞いてきた。
命果つる兵士が上げる、耳を覆わんばかりの悲鳴を。
シグナム自身の剣によってそれがなされたのも、おびただしい数となるだろう。
しかし――
――あれほど……
アルフラの右腕を切断したとき耳にした、悲痛な絶叫。
苦悶と絶望とに満ちた、事切れるようなかん高い悲鳴。
――あれほどおそろしい叫びを聞いたことはない
だがそれよりも尚、悪いのは……
「あたしは怖いよ、アルフラちゃん。――あたしは、死ぬのが怖い。アルフラちゃんが死んじまうのが、怖いよ……」
シグナムの視線の先では、地に爪を立て、ようやく体を起こしたアルフラが、暗い眼差しで彼女を見返していた。
「……そんなことより……あたしは白蓮と会えないことのほうが、ずっとつらい……」
それほどまでに想いは深いのかと、シグナムは目の前が暗くなるような心持ちでその言葉を聞いていた。
利き腕を切断されたことより、右目を失明したことよりも――遂げられない想いの方が、よりアルフラを苛んでいるのだ
「アルフラちゃんは、生まれ育った村を滅ぼされて、白蓮て人に拾われたんだろ?」
「……うん。白蓮があたしを助けてくれたの。……女神さまみたいに、きれいな人なの……」
「でもさ、人間と魔族は寿命も違うし、価値観だってかけ離れてる。普通はさ、おたがい相容れない存在なんだよ」
「白蓮とあたしは違う。白蓮だけはとくべつなんだから……」
「それでも、アルフラちゃんは魔王に勝てなかっただろ。また戦えば、次は右腕だけじゃすまない。今度こそ本当に死んじまうよ。――なあ、頼むから白蓮て人のことは、忘れてくれ。いっときの夢か幻みたいなもんだったと思ってさ」
みずからの声が、アルフラの心には届いていないのだと察しながらも、シグナムは虚しく言葉を紡ぐことを止められなかった。
「あたしがずっと傍にいるから。白蓮て人の代わりにはなれないだろうけど、ずっとアルフラちゃんの傍から離れない。あたしが一生面倒みてやる」
夕映えに朱く照らされたアルフラを見下ろして、シグナムは無理に笑んでみせた。
「だから――」
その手が、アルフラへと差し伸べられる。
「あたしと一緒に、行こう」
いま、アルフラの眼前には、異なる二つの道が拓かれていた。
ひとつは、血の泥濘にまみれた苦難の道。その先には白蓮の姿が見える。だがおそらくは、辿り着く前に路傍に沈むであろう死地へと通じる道。
いまひとつは、約束された安寧の道。行き着く先にはおだやかな日常が見える。望んだ幸せではないが、友人たちに囲まれた静穏へと通じる道。
アルフラはみずからが岐路に立っていることを自覚せぬまま、シグナムの大きな手と、目の前に転がる木剣とを見比べた。
以前であれば片手でシグナムの手を掴み、もう片方の手で木剣を掴むことも出来ただろう。
しかし、右腕を失ったいまのアルフラにそれは叶わない。
刹那の迷いも見せることなく、アルフラは木剣を掴んだ。
「アルフラちゃん……」
笑みを浮かべたまま、シグナムの表情は凍りついた。
アルフラは木剣で身を支えて、よろめきながら立ち上がる。
そして言葉を失うシグナムたちを置き去りに、一人、自室へと帰った。
その夜、暗い地下室に、扉の叩かれる音が響いた。
戸口に姿を現したフレインへ、ひび割れた声が告げる。
「明かりを近づけないで」
フレインは室内に踏み入れかけた足を引く。
「……シグナムさん、気の毒なほど落ち込んでましたよ」
返事は還らず、薄闇の奥からは、身じろぐ気配さえ感じられない。
フレインはじっと立ち尽くし、暗い室内に目を凝らす。おぼろに見えるアルフラは、顔をうつむけたまま微動だにしない。
いたたまれない無言の時間がつづくこと如何ほどか――――ふいに、アルフラが口を開いた。
「こっちへ、きて」
床にカンテラを置いたフレインは、安堵しつつ歩み寄った。開口一番、部屋から追い出されることも予想していたのだ。しかし寝台に座ったアルフラは、やはり視線を床に落としたまま動かない。
「アルフラさん?」
「……おねがいがあるの」
その言葉を聞いて、フレインが感じたのは喜びだった。
むろんアルフラが、単に彼を利用したいだけなことは百も承知だ。そうとは理解していても、嬉しさが先にたってしまう。
やはり自分はかなりの重症なのだと、そうフレインは自覚した。おそらく単純な好意だけではなく、そこには憐れみや同情といった、あまりよくない感情も混じっているのだろう。
「私に出来ることでしたらなんなりと」
アルフラは顔を上げて、じっとフレインの目を見つめる。
「剣をちょうだい。魔族の障壁でも斬れる、つよい剣」
「アルフラさん……」
やはり変わらない。アルフラはただ白蓮を取り戻すことしか考えていないのだ。
だが、たとえ強力な武器を得たとしても、不具となったその体では扱うことも難しい。こと戦いに関してはフレインよりも遥かに経験を積んだアルフラなら、分からないはずもないというのに。
「おねがい、フレイン」
アルフラのちいさな手が、フレインの腕を掴む。
血で固く凝結した包帯が、肌にかさつく。
「あなたにしか、たのめないの。だから――ッ」
衝動的に、フレインは痩せ細ったその体を抱きしめていた。
アルフラは身動きひとつせず、じっとしている。
そのことがなぜか無性に悲しくて、フレインは耳許にささやく。
「かならず……かならずその願いを叶えます。私が以前、アルフラさんのためならば、この命すら投げ出すと言った言葉に嘘はありません」
やわらかな抱擁のなか、アルフラは平淡な声で返す。
「……うれしい」
おそらくアルフラは、この瞬間、堪えがたい嫌悪に耐えながらその言葉を吐いたのだろう。そう理解して、フレインは自虐的な笑みを浮かべた。そして――滲んだ涙が渇くのを待って腕をほどき、アルフラの体に触れてしまったことを謝罪する。
「……もうしわけ、ありませんでした」