迫られる岐路
カダフィーが去った後、あらかた仕事を片付けたフレインは、そそくさと逃げるように執務室を出た。アイシャの熱っぽい目が、どうにも居心地悪かったのだ。なんとはなしに、アルフラが魔族へ向ける視線を連想してしまう。獲物を見る目だ。
このところのアイシャはずっとそんな感じなので、仕事中はフレインも気の休まる暇がない。みょうな緊張感に悩まされる日々であった。
そういったことに疎いフレインでも、アイシャが自分をいたくお気に召しているらしい、ということは察せられた。
女性からの性的な好意に不慣れなフレインは、戸惑いを抱えつつ馬車に乗り込み、ギルド本部へ向かう。
すでに辺りは暗く、夕食の時間もとうにすぎている。かるい空腹を覚えるが、ひとまずそれは置いて、シグナムの部屋へと急いだ。
「失礼します」
扉を叩いて入室すると、寝台に腰かけたシグナムが、木剣の柄に革紐を巻きつけていた。おそらくアルフラ用のものだ。木剣自体はかなり短めである。柄に巻いた革紐は滑り止めとしてだけではなく、握りの部分を太くする意図もあるのだろう。握力の弱っているアルフラのため、すこしでも握りやすくしようと考えてのことだ。
「アルフラさんに頼まれて?」
「ああ、最近しつこいんだ。木剣がほしいってさ。実際に渡すのはもう少し先になるけど、いちおう用意だけね」
「そうですか」
どこか疲れたような顔のフレインを見て、シグナムはかすかに首をかしげた。
「なんかあったのか? やけに景気の悪い面してるな」
「あ、ええ……なにか、というほどのことではないのですけど……」
フレインの顔が不況なのは、おもにアイシャに対する気疲れが原因だった。
「シグナムさんの予想が当たっていたようです」
「あん?」
「ほら、この前のアイシャという導士。なぜかは分からないのですが、どうやら彼女から気に入られているようで……」
「え? そうなのか!?」
我が意を得たりとばかりに手を打ったシグナムは、とても得意気だ。これまで見たことがないような満面の笑顔である。
「ははっ、な? あたしの言った通りだったろ。この手の話には鼻が利くんだよ、このシグナムねぇさんはね!」
「ええ、さすがです」
下手なクロスボウも数打ちゃ当たる。
まぐれ当たりでこれほどはしゃげるシグナムを見て、フレインはそんな彼女をすこし可愛らしく思った。
「で、どうなんだ? もう、その……なんだ、せ、接吻とか……」
「いえ、そういった話をしにきたわけでもないのですが……今後のことについて、いくつか相談をしなければと思いまして」
ややしょんぼりとした様子のシグナムだったが、すぐに気を取り直して話をうながす。
「まあそっちはおいおい聞かせてもらうとして――相談ってのはなんだ?」
フレインは先日サダムと話し合った内容を伝える。レギウスを離れるための準備に関することや、その後の身の振り方についての考えを簡潔に述べてゆく。話を聴く内に、シグナムの表情も真剣なものへと変わっていた。
「まだ細かいことはこれからですが、王都を出る準備はこちらで進めておきます。シグナムさん達はこれまで通り、何事もないかのようにふるまっていて下さい。とくに見張りが付いているわけではありませんが、下手に動くと目立ってしまいますからね」
「……わかった」
「この事はルゥさんにも伝えなければなりませんし、アルフラさんとも話し合う必要があるでしょう」
もちろん、アルフラが容易に納得するとは二人も考えていない。彼女は未だ、白蓮のことを微塵も諦めてはいないのだから。じっくりと説得しなければならないだろう。そしてそれは、非常に難航すると予想された。
「……気が重いな」
「ええ、現状気掛かりなことはいくつかありますが……アルフラさんの承諾を得ることが、何にも増して困難でしょうね」
「どっちにしても今日は無理だ。アルフラちゃんはもう寝ちまってる」
最近のアルフラは、日中に外でへとへとになるまで体を動かし、夕食の後はすぐ寝てしまうという毎日をすごしていた。
「明日は舞踏会の絡みで、陽のある内に時間を取ることが出来ません。明後日の夕刻でよろしいですか?」
「ああ、構わない。ルゥにはあたしの方から話しとくよ」
「ではそちらはお願いします。それと、魔族の動きに関してなのですが……」
フレインは、ロマリアの首都が魔王口無によって落とされたことを説明する。王宮で仕入れたばかりの最新情報である。
「上都陥落後、口無みずからは王宮に留まり、配下の貴族を各地の主要な都市へと進軍させたそうです。女王エレクトラはロマリア西部の都市、トラスニアまで落ち延び、軍の再編を図っています。ロマリアは広い国土を持つ国なので、完全な制圧には時間もかかりますが……最早どうにもならないでしょうね。遅いか早いかの問題だと思われます」
「……だろうな」
「なお、王宮近衛の長、ギリアム・ネスティが口無との戦いにより、討死したという報告がありました」
「ヨシュアの親父さんが……?」
トスカナ砦で交友を深めた髭の副長を思い出し、苦い顔でシグナムは唇を噛んだ。
「ヨシュア様の生死までは伝わっていませんが、すくなくとも命を落とされたという話は聞いていません」
「そうか。……大陸一の剣士でも、やっぱり魔王にはかなわなかったんだな」
シグナムの声は、暗く沈んでいた。
彼女は十年に渡り、傭兵として食を得てきた者だ。
苛酷な戦場を幾度も経験し、剣を頼りに今まで生き抜いて来た。そのことに誇りと自負心を持っている。
しかし、いくら剣の腕を磨いたところで、それがなんの役にも立たない相手が居ることを知ってしまった。
魔族の支配者たちはあまりにも強大だ。
「――くそッ、なんであんな化け物が……」
シグナムはやり場のない怒りに拳を震わせる。どうしてそんな理不尽な者が、この世に存在するのかと。
「……もうひとつ、悪い報せがあります」
シグナムは口を開くことなく、うんざりしたように目だけで問いかける。
「魔皇本人からの密書が王宮に届きました。私も写しを確認したのですが――ここ一月以内に、魔王の率いる一軍がレギウス国内を通過し、ラザエル皇国へ攻め込むそうです。その時期いかんでは、私達が西方に向かうのはかなり困難となります。エスタニア経由で大陸西部へ行くことも可能ですが、そちらにも戦火が広がらないとも限りません」
これにはどうする術もなく、シグナムは大きなため息をこぼした、
「ただ、その密書はおそらく三柱守護神の降臨が伝えられる前に書かれたものではないかと思われます。魔族に神託の内容が伝われば、それを無視してラザエルやエスタニアを攻めるとは思えません。魔皇戦禍がどう判断するかにもよりますが、あまり悲観することもないでしょう」
「状況を見ながらってことか……もう少し早い時期なら、北回りの行程も取れるんだけどな」
「北部国境地帯は秋先から雪が積もりだしますからね。かなり危険な行路ですが、一応そちらの地理も確認しておきます。それともうひとつ、本来ギルド本部や王宮では、遠見の術などを阻害する結界が張られているのですが、その効力が弱まっています」
結界を維持していた大導師ホスローが滅したため、術式に綻びが見え始めたのだとフレインは説明する。
「現在ではアルザイール様が呪紋の管理を引き継いでいますが、結界魔術はそれぞれに――」
「いや、要点だけ話してくれ。あんたは魔法絡みの話題になると、途端にどうでもいい知識を垂れ流し始めるからね」
フレインは少し残念そうにしながらも、小声でわかりましたと呟いた。
「要するに、ギルド内に居ても遠見の術で監視されるおそれがあります。ただ、結界の効力は弱まっているものの、それでも遠見を可能とするのは導士の中でもサダムくらいだそうです」
「でもサダムって奴はあたし達に協力してくれるんだろ?」
「ええ、ですから現状ではそれほど心配する必要はありません。カダフィーも遠見はあまり得意としていませんからね。とはいえ結界がさらに弱まることもあり得ますので、その点だけ留意しておいて下さい」
「ああ、言われなくても不用意に下手な話はしないさ。どこに耳があるかもしれないしね。でもまあ、今まで以上に気をつけることにするよ」
思慮深げに請け合うシグナムへ、フレインは魔族との和平交渉の進捗などをかいつまんで語り始めた。
二人の密談が行われている隣の部屋では、ジャンヌの膝を枕にしたルゥが、穏やかな寝息をたてていた。
舞踏会の前日ということもあり、夕刻までカミルと一緒にステップの練習をしていてた狼少女は、すこしお疲れだった。練習中はジャンヌとよい雰囲気を醸していた見習い魔術士も、日が暮れる前には部屋を去っていた。「婚姻前の娘が、夜分に殿方と同じ部屋ですごすのはいかがなものかと思いますわ」という神官娘の信念によるものである。侯爵家のご令嬢なだけあって、ジャンヌはなかなかに身持ちが堅い。
練習の間はずっと不機嫌そうにしていたルゥも、部屋からカミルが追い出されるときは、ささやかな優越感の目でその退場を見送っていた。
夜は誰にも邪魔をされることなく二人きりである。元気にジャンヌへじゃれかかっている内に、いつしかルゥは彼女の膝でお昼寝をしてしまっていた。
幸せな夢うつつの中でまどろむ狼少女は、扉の開かれる音で目を覚ます。
なぜか頭が重い。
顔には硬い感触。
かるく首を振ってみる。
おでこに乗せられていた何かが持ち上がり、それが魔導書だということがわかった。
ジャンヌがルゥの額に本を置いて、治癒魔法の勉強をしていたようだ。
ルゥに膝の上で寝入られてしまい、身動きの取れなくなったジャンヌが考えた苦肉の策である。いささか雑な扱いではあるが、それでもルゥを起こそうとしないあたり、ジャンヌはなにげに優しい。
くああ、と尖った犬歯をみせてあくびをした狼少女へ、戸口からシグナムが呼びかける。
「ルゥ、ちょっといいか」
伸びをしながらルゥが立ち上がると、手招きをしたシグナムが、ついてこい、といった仕草で背を向けた。
どうやら隣りの部屋に用があるらしいと察したルゥは、お手々をジャンヌへふりふりする。
「またあとでねー」
ジャンヌは膝に垂れたルゥのよだれを拭いていた。その顔はやや引きつり気味だった。
隣室に移動した狼少女は、ちょこりと寝台に腰かける。椅子を引いたシグナムが、ルゥの前に座った。
なんでしょう? と小首をかしげる狼少女へ、シグナムはゆっくりと話し始める。
「この前、フレインと話してたとき、アルフラちゃんを連れて西方に行くかもしれないってのは聞いてたよな」
「……うん」
正直なところすっかり忘れていたルゥだったが、いま思い出したのでとりあえず頷いておいた。このところ舞踏の練習やジャンヌとカミルのことで、ルゥもいそがしかったのだ。
「出発はだいたい半月後くらいになるはずだ。ルゥ、お前はどうする?」
「え……」
「ジャンヌについて中央神殿に行くか、あたしやアルフラちゃんと西方へ行くか――決めなきゃならない」
ちいさく口を開いたまま、ルゥは固まってしまった。
「中央神殿へ向かった場合は、そのままジャンヌやカダフィーと一緒に魔族と戦うことになる。あたし達と来るなら、どこかの長閑な田舎にでも引っ込んで、そこで暮らすことになる。どっちにしてもしばらくは人狼の一族のところに帰れない」
「うぅ……」
悲しげにうなった狼少女は、どうすればよいのか分からない、といった風に首を振る。
「アルフラちゃんがホスローの爺さんを殺したのがバレれば、カダフィーは敵にまわる。あいつが相手だと、あたしでも危ない。いまのアルフラちゃんじゃ逃げるしかないのは、分かるよな?」
「……うん」
ルゥにとっては、アルフラもジャンヌも大切な友達だ。どちらかなど選べるはずもない。
「まだいくらか時間はある。いますぐ決める必要はない。ゆっくり考えていいんだ」
ルゥは無言でシグナムを見つめていた。いまにも泣き出してしまいそうな顔だ。
シグナムはそれ以上なにも言わず、じっとルゥの返事を待っていた。
沈黙を苦に感じ、シグナムが口を開きかけたとき、ぽつりと頼りなげな声が響いた。
「アルフラはね、ボクの……はじめて出来た人間の友達なの……」
「ああ、アルフラちゃんも言ってた。小さい頃から歳の近い子供がまわりに居なくて、ルゥが初めての友達なんだってな」
「うん、そうなの」
ルゥがアルフラからそういった話を聞いたのは、二人が出会って間もない時のことだ。
旅を始めたばかりの頃は楽しかった。
アルフラはとても明るく活発で、ことあるごとにルゥへちょっかいをかけてきた。きっと、同じ年頃の子供が物珍しかったのだろう。
ルゥに自分のことを、お姉ちゃんと呼ばせようとした。
穴を掘って遊んでいたルゥを、からかったりもした。
昼寝をしていると、棒を投げて取ってこさせようとした。
そう、棒を投げて取って来るという画期的な遊びを教えてくれたのは、アルフラだったのだ。
二人はよく遊んだ。
仲よく喧嘩もした。
気のおけない友達だった。
しかし、いつの頃からか、アルフラは変わってしまった。
もともと魔族と戦うアルフラは、とても恐ろしかった。
血に餓えた悪鬼のようだった。
とはいえそれも、あくまで敵を前にしたときに限ったことだ。――しかし、ある日を境に、戦場に立ったときの恐ろしい悪鬼の姿が、アルフラの日常となっていた。それはおそらく、トスカナ砦で白蓮との再会を果たした後からだ。
アルフラは、白蓮を取り戻すための力を欲した。
すべての無駄を排して、力のみを追及した。
友人など不用だと、そう断じたのだ。
それでも――そこまで思い詰めても、アルフラは魔王に敗れた。
「アルフラは……どうなっちゃうの?」
その問いに答える言葉を、シグナムは持たない。
「けが、ちゃんとなおる? 元気なアルフラに、もどる?」
それはおそらく無理なのだろうと、シグナムは知っていた。しかし、小刻みに声を震わすルゥに、そうは言えなかった。
「いっしょについていったら、アルフラはあそんでくれる?」
ぽろりと涙が滴った。シグナムはやさしくルゥの頭を撫でる。
見開かれた瞳から、大粒の雫がとめどなくこぼれ落ちた。
「ボク、たのんでみる。いっしょに来てくれるようジャンヌにたのんでみる」
結局のところ、狼少女は傷つき倒れた友人を見捨てられなかったのだ。
「ジャンヌはカダフィーと一緒に魔族と戦うことになるはずだ。なるべくなら、あたし達が西方に行くことは、教えないほうがいい。でも……ルゥがそうしたいのなら構わないよ」
ジャンヌもホスロー殺しが誰の手によりなされたのかは知っている。彼女の口が固いのは、すでに実証済みだ。
「じゃあボクいってくる。ジャンヌについて来てってたのんでみるね」
「いや、それは舞踏会が終わったあとにしたほうがいい」
「……なんで?」
「なんでもだ」
ルゥがジャンヌを説得することは出来ないだろう。狂信的な信仰心を持つ彼女を止められる者など、いるはずもない。ルゥも容易には引き下がらないだろうから、二人はおそらく口論となる。それは後々まで尾を引く亀裂となるかもしれない。
「あんまり愉快な話にはならないはずだからさ、せめてジャンヌと舞踏会を楽しんでからにしな。踊るときにぎくしゃくするのは嫌だろ?」
「……うん」
ルゥは貫頭衣の袖で目元をごしごしとこすり、寝台の上に転がる。そして薄手の毛布を抱きしめるようにして、まるくなった。
やがて聞こえだした寝息に耳を傾けながら、ごめんな、とシグナムはつぶやく。彼女にしても、おさない狼少女に酷な選択を迫らねばならなかったことが、すこし堪えていたのだ。