圧潰の魔王
切迫した空気漂う玉座の間に、ダルシウス将軍の胴間声が響き渡る。
「東大門に騎士団主力を向かわせろ! 他の門の防備は薄くなっても構わん。東の街壁に兵力を集中させるのだ!」
おそらく、人間を取るに足らぬ弱者と侮る魔族であれば、小細工など弄せず正面からの突破を試みるであろう。そう予測しての判断だった。それ以前に、すべての街門を守ろうと兵を分散すれば、あまり長くは持ちこたえられず、魔族の侵入を許すことになるという読みもあった。
「陛下、至急都から落ちられる準備を。どれほどの時間が稼げるか分かりません。お急ぎ下さい」
しかし、エレクトラは深く玉座に掛けたまま、そこから動こうとはしなかった。そしてひどく冷静に、落ち着いた声音で告げる。
「この状況での抗戦に、なんの意味がある。魔族は早馬に劣らぬ速度で駆けるのであろう? 逃げ切れるとは思えぬ。それよりは、私が投降すれば犠牲も少なく済ませられるはずだ」
実にあっさりと覚悟を決めた女王に、ダルシウス将軍は大きく目を見開いた。
「何をおっしゃいます! よりによって投降などと……陛下の身にもしものことがあれば、このロマリアは魔族の支配するところとなってしまうのですぞ! 彼奴らの他種族へ対する統治は、非常に苛烈であると聞き及びます。民は奴隷のように扱われ、多くの命が失われましょう。今はこのように言葉を交わす時すら惜しいのです。どうか早くお逃げになられて下さい!」
文官の一人がダルシウス将軍に追従する。
「将軍のおっしゃる通りです。三千年の歴史を持つこのロマリア、たとえ一時は魔族の支配を受けたとしても、陛下さえご無事であれば、そうそう揺らぐものではありません」
廷臣たちも次々と賛同の声を上げるが、エレクトラの表情はぴくりとも動かなかった。
「合理的に考えよ。皇竜騎士団はトスカナ砦の戦いにおいて、半数近い兵を失っているのだぞ。どう考えても数が足りん。この上都はロマリア最大の都市であり、それに見合った数の街門があるのだ。私が都を落ちたとしても、あっさりと追撃の兵に追いつかれよう。ならば無駄に将兵らの命を散らすことなく――」
「私が出ましょう」
言葉をさえぎられたエレクトラが、強い眼差しをギリアムへ向けた。
「陛下が無事、都を落ちられる時間を、私が稼ぎます」
「……魔王が相手ぞ。どうやって時間を稼ぐというのだ。犬死には許さん」
「魔族の本隊が到着するまでは、幾分有余もあるはずです」
エレクトラは苛立ちを隠そうともせず、みずからの意に従わぬギリアムを睨めつける。
「すでに先遣隊が姿を見せているのだ。有余などあるものか」
「たとえ魔王が相手といえど、この身命を賭して、陛下をお守りしてご覧に入れます」
「なにを馬鹿なことを……女王である私の身を終生守り続けることこそが、近衛の長たるその方の本分であろう。このようなところで死ぬことなど断じて許さん!」
女王の怒声に幾人かの者が、ぶるりと体を竦ませた。だが、ギリアムは気後れする様子もなく、真摯な表情でエレクトラを見返した。
「されど、現状他には策もありますまい。先の戦いで疲弊著しい皇竜騎士団では、魔王の率いる軍勢を相手に、時を稼ぐことなど到底不可能です」
「待たれよ!」
聞き捨てならないとばかりに、ダルシウス将軍が身を乗り出す。
「皇竜騎士団一同、陛下のおんために命を捧げる覚悟は常に出来ており申す。いかなギリアム殿といえど、我が手下の者らを愚弄するような言は慎まれよ」
「なにもそなたらの気概を疑っているわけではない」
顔はエレクトラへ向けたまま、ギリアムは視線だけをダルシウスへと移す。
「人は城、兵は石垣とは言うが、アルゴス城塞をあっさり倒壊させた魔王を相手に、どうやってその足を留め置くと?」
「それはギリアム殿とて同じことであろう! そもそも陛下のお側に貴殿があってこそ、ロマリアの支配は磐石と言えるのだ。勝ち目の見えぬ戦にて、あたら命を散らせませるな」
かつて大陸最強の剣士と称された近衛隊長は、皺の目立ちはじめた口許に笑みを浮かせる。
「この状況にて陛下をお救い出来るは、我が身を置いて他にはないと自負いたします」
「お待ち下さい」
声を上げたのはギリアムの息子、ヨシュアであった。
「近衛を統べる身である父上が、その職務を投げ出し、ここで斃れるのはあまりよろしくないでしょう。私も剣の腕で言えば、三本に一度は父上から勝ちを拾える程度には力をつけています。足止めだけであれば、たとえ魔王が相手だとしても――」
ギリアムが、軽く腕を掲げて言葉を制した。
「ヨシュア……お前はいつから、私が本気で仕合ってやっているのだと勘違いをしていた?」
「な……!?」
「青二才めが。お前ごときの出る幕ではない!」
鋭く言い捨て、ギリアムはエレクトラへと視線を戻し、深く頭を垂れる。
「さすがに私も、魔王と対峙して生き残れるとは思っておりません。生涯御身に付き従うという誓いは、果たせそうにない。不忠とお思いにもなりましょうが――どうかこのギリアムめに、死のお許しを」
「……」
果断の女王として知られるエレクトラが、逼迫したこの状況下で、言葉を忘れたかのように声を返しあぐねていた。
廷臣たちも口を閉ざし、息を詰めて女王を仰ぎ見る。
エレクトラに近しい者たちは、彼女の内心での懊悩を、よく理解していた。だからこそ、ダルシウス将軍やヨシュアは、エレクトラの意を酌んで、死地へ赴こうとするギリアムを止めたのだ。
「陛下」
廷臣たちの最前列、この場で最もエレクトラへ対して発言力を有する者の一人である侍従長が、おもむろに口を開いた。
「先ほど王宮裏手に馬車をまわすよう命じておきました。そろそろ用意も整う頃合いです。僭越ながら、身の回り諸々の品も運び込むよう段取っておりますれば、お早く――」
「貴様ッ――! なにを勝手なことを!」
侍従長は主を諫めるのではなく、年老いた父が娘を案じるかのような表情で告げる。
「ロマリアの為にも命をお繋ぎ下さい。そしてそれが、この場に集った者すべての願いと、思し召し下さい」
意に沿わぬ選択を迫る臣下たちを、エレクトラは憤怒の形相で見回す。しかし、どちらに理があるかは、彼女自身も悟っていた。そしてこれ以上、貴重な時を浪費するわけにはいかないことも。
「陛下、どうかご決断を」
ギリアムへ射殺さんばかりの視線を投げ、エレクトラは大きく息を吐いた。
「よかろう……今日までご苦労であったな、ギリアム。そなたに死を許す」
あまり狼狽えた姿を晒せば、臣下の心までも乱すことになるとエレクトラは考え、肩の力を抜いて表情を穏やかなものへと改めた。
陛を降りて来る女王を見て、ギリアムはすっと膝を落とす。そして腰から剣を抜き放ち、正面に立ったエレクトラへ柄を向けた。
厳かに剣を受け取ったエレクトラは、刀身に唇を触れさせ、刃を寝かせてギリアムの右肩を軽く打つ。ついで左肩を。――儀礼に則った言葉を発することなく、それは無言で行われた。
最後にギリアムへ剣を渡す段となって、ようやくエレクトラの口から、ほそい声がもれでた。
「一度は捧げられた剣を返しはするが、我はそなたの武運を願うものなり」
ギリアムは恭しく剣を押し戴き、エレクトラの視線を避けるかのように面を伏せる。
「心中お察しいたします」
侍従長は口の中で小さくつぶやき、女王に一礼する。そして廷臣たちへ向き直り、彼らを鼓舞するかのように声を張り上げる。
「各々方、もはや一刻の有余もありませんぞ。間もなく魔族の本隊も上都に到達しましょう。これに対処すべく、拙速を持ってあたられよ」
その言葉を皮切りに、波が引くかのごとく、玉座の間からロマリアの重臣たちが去っていった。
やがて、竜玉宮の主とその守護者だけが、閑散とした広間に残された。
「……いらぬ気を遣いおって」
エレクトラは、別れを惜しむ時間を作ってくれた者達に軽く毒づき、ギリアムの肩に手を置く。
「しかし……今はそれが、なによりもありがたい」
立ち上がったギリアムを濡れた瞳で見上げ、老いてなお逞しい胸板に頬を寄せる。
縋りつくように身を預けてきたエレクトラを、筋肉質な腕がしっかりと抱き返した。
「ねぇ、どうか思い直してとお願いしても……やはり駄目なのでしょうね……」
「魔王の足止めなど、私に出来なければ他の誰にも無理でしょう」
「ならばせめて、最後の時くらいは……女王としてではなく一人の女として、あなたと共に――」
「エレクトラ、あなたはこのロマリアに無くてはならない人だ。竜の英霊亡き今、魔族の侵攻に不安な思いをする人々を支えられるのは、女王であるあなたしか居ないのだから」
エレクトラはうらめしげにギリアムをにらみ、背に回した腕をほどいた。
「……ロマリアを支えろとは言うけど……あなたが死んでしまえば、誰が私を支えてくれるというの?」
白魚のような美しい指が、無骨なギリアムの顔を撫でる。
「この細腕でロマリアを支えることなど出来ない。あなたが居なければ、私はきっとなにも出来ない……」
ギリアムの口に笑みが浮かび、ご冗談を、と苦笑気味の声が告げる。
か弱い女を演じて、惚れた男を引き留めようとしたエレクトラであったが、その瞳には生来の気の強さが表れてしまっていたのだ。
「……慣れないことをするものではないわね」
気恥ずかしげに顔を背けたエレクトラの頬は、少女のように淡く赤みを帯びていた。それを誤魔化すかのごとく、ふたたびギリアムの胸に顔をうずめる。
「必ずや、とは言えないが、あなたの許へ戻れるよう死力を尽くすつもりだ」
エレクトラはギリアムの胸で涙をぬぐいながら、ちいさくつぶやいた。
――うそつき……
ギリアムからは、死を覚悟した者の気配しか、感じられなかったのだ。
上都の街門は激しく炎を吹き、黒煙を立ち昇らせていた。
「炙揮伯爵が、良い仕事をしてくれたようですな」
街道の先に立ち塞がる巨大な門が、脆くも焼け落ちるさまを横目に、公爵位の魔族が目を細めた。彼の言葉を受け、口無は歩調を緩やかなものとする。一歩引いて後に続く貴族達を振り返り、鷹揚に告げる。
「後続の者はだいぶ遅れているようだな。ここからはゆるりと進むとするか」
口無は、グラシェールから軍勢を引き連れ、わずか十日足らずでロマリアの首都たるザナドゥへと到達したのだが、一万の本隊を遥か後方に置いて来てしまっていた。
女王エレクトラを捕縛するため、逃げる時間を与えぬようにと、先を急いだ結果である。かろうじて彼の足についてこれたのは、爵位を持つ五人の腹心のみというていたらく。しかも、少々急ぎ過ぎたようで、先行させた部隊に追いついてしまっていた。
よく整備された上都への街道を、口無は悠然と歩み進む。しかし長身の彼は歩幅も広く、付き従う者達は小走りでそのあとを追っていた。
周囲は都市近郊の密集した住宅地であったが、人影はなかった。
上都の街門まで近づくと、王の到着を待っていた二千の軍勢が中程からさっと割れ、道を開ける。
訓練の行き届いたその動きに満足しつつ、口無は街門の残骸を踏み砕き、上都へと足を踏み入れた。
街門脇で膝をついた女性が、主の姿を認め、声を上げた。
「口無様、門を守っていた人間どもは、王宮へと退却いたしました」
先遣隊の指揮を任された爵位の魔族、炙揮伯爵だった。
「ご苦労であったな」
「いえ、口無様のお手を煩わせるまでもなく、都を陥落せしめんと意気込んでいたのですが……思いのほかお早いご到着でしたので、たいした働きも出来ませんでした」
「それはすまぬことをしたな。まあいい、ついて参れ」
「御意」
炙揮は、口無に付き従う貴族達の列に加わり、腕を一振りした。すると整列した二千の軍勢が、一糸乱れることのない動きで行軍を開始する。
口無は敵地にあるとは思えぬほど堂々とした歩みで、王宮への道を進んで行った。背後に従う貴族と兵士らも、周囲を警戒するでもなく正面を見据えて歩を重ねる。
市街は人気もなく静まり、強い日差しに灼かれた石畳が、揺らめく陽炎に歪んで見えた。
あまりに突然だった魔族の襲来に、逃げ遅れた者も多かったのだろう。その姿こそ見えはしないが、人の気配はそこかしこから伝わってくる。そのどれもが、不安と怯えを含んだものであった。
「我はそなたらを虐げるつもりはない。むしろ恩恵をもたらす者である」
まるで凱旋するかのように、統率の取れた兵の先頭に立つ口無は、様子をうかがう住民達へ語りかける。
「新しい、そして真の王がやって来たのだ。今日この日から、そなたらすべてが、我が民となる」
殺戮ではなく統治。それが口無の目的だ。王とは殺す者ではなく、統べる者である。力無き民草を殺すことになど、なんの意味も見出だせない。
「喝采せよ! 万雷の喝采もて我が軍門に下れ。魔王口無の庇護下に入ることを歓喜するのだ」
口無は常々こう考えていた。恭順を示す者に対しては、すべからく庇護を与える度量を持ってこそ、王は支配者たりえるのだと。それは、尊大さゆえの信念ではあったが、無力な者に対する強者の在り方としては、至極まっとうなものと言えるだろう。その一点において、彼は正しく王であった。
やがて、堅く閉ざされていた鎧戸が薄く開かれ、通り沿いの民家から複数の視線が口無へと向けられ始めた。
上都の住民達も、おとぎ話の中でしか聞いたことのない、魔王という存在へ対する好奇心が勝ったようだ。細い路地からも幾人かの者が、おっかなびっくりといった様子で顔をのぞかせる。
臣民へ向ける王の挙動で、口無は彼らへ手を掲げて見せた。
「口無様、王宮の城郭が見えてまいりました。門を焼き払ってきましょうか?」
すこし思案したのち、口無は横に首を振った。
「都の住民達に、我が力を知らしめるよい機会だ」
武威を示せば人々は王に従う。安直ではあるが、力を至上とする魔族にとっては、それが真理だ。ゆえに、最も強い者が頂点に立つ。しかし人間は違う。直截的な力に秀でた者が、王となるわけではない。人と魔族は姿形こそ酷似しているが、ある種の精神性において、決定的な隔たりがあった。
魔族からすれば、異質極まりない人間達の権力構造を、口無が理解出来なかったとしても、それを彼の落ち度とするのは酷な話であろう。
歩調を落とすことなく、口無は郭壁に向かい右腕を伸ばす。そして何も存在しないはずの虚空を、掌で押さえつけるような仕草をした。瞬間――凄まじい轟音と共に、大気が揺れた。まるで、見えない巨人の手に押し潰されたかのように、堅固な城郭が雪崩を打って、楼閣ごと崩れ落ちた。砕けた石材から大量の粉塵が立ち上がり、地に鳴動が走る。
「……ずいぶんと脆弱な壁だな」
さらに口無が腕を横薙ぎに払うと、巻き起こった旋風が土煙を吹き散らした。
大地に埋もれた瓦礫のあちら側には、背後に見える王宮を守るかのように、千を超す騎士らが集結していた。しかし、圧倒的な魔王の力を目の当たりにした彼らは、いずれも腰が引けてしまっている。
騎士たちも、死ぬ覚悟など、とうに出来ていたはずだ。それでも、精神論ではいかんともしがたい力の格差を前に、戦意を保つことは至難であった。
「退け。道をあけよ」
だが、無造作に瓦礫を越えた口無の行く手に、一人の男が進み出る。
すでに老境へと差しかかった上背のある武人。
痩せてはいるが、その体躯は鍛え上げた戦士のものであることは見間違えようもない。
身のこなしには一分の隙も見当たらず、鋭い眼光を宿した瞳が、ひたと口無を見据えて離さない。
「……ほう」
静かに佇立するその男からは、烈たる気迫が感じられた。