国崩し
ロマリア中西部に位置する古都ザナドゥ。
女王エレクトラの居たる竜玉宮を中心とした、じつに六十万もの人口を擁する大陸有数の都市である。
長い歴史のなかでも、エレクトラはロマリアを最も繁栄させた女王と称えられ、譜代の廷臣たちも彼女をよく慕い、敬っていた。竜神の祭祀を司る王家の巫女としては、凡百な彼女であったが、施政においては即位直後から、その稀有な才気を遺憾なく発揮した。エレクトラの女王としての最初の功績は、開拓事業の成功である。上都の貧民窟から食いぶちを求める者を募り、ロマリア南西部に広がる荒野を徐々に、しかし堅実に、耕地へと変えていったのだ。
また、国内における治水対策を見直し、多くの河川に堤防を築き、貯水地を設け、水害と干害を同時に治めてみせた。
それらの業績により、臣民からの支持を勝ち得たエレクトラは、次に権益を私する貴族や官吏の駆逐に着手した。ロマリアは三千年の栄華を誇る反面、単一王朝の長期化により多数の既得権益が生じていた。古くから続く貴族や役人の家柄が利権を代々世襲し、不当に富を貪っていたのだ。狡猾に立ち回り、国法に守られた権益者たちを、エレクトラは女王の強権で罷免し、その財産を没収した。
開拓や治水といった事業は、莫大な予算を投じて行われるものだ。しかし、それらが富を生むまでには十年単位の時間を要する。エレクトラは傾きつつあった国庫を、貪欲に金品をため込んでいた者たちの私財でまかなったのだ。そして無駄に財を遊ばせることなく、公共事業を通じてその富を民衆に再配分した。
こうして、かつては貪官汚吏の跋扈するところであったロマリアは、真に有能な者が国政にたずさわることの可能な実利主義の国へと生まれ変わった。
エレクトラは地を拓き、水を治め、民の財産を暖めた。短期間になされた改革はめざましく、臣民はこぞって彼女を賢治良政の名君と称えた。これはロマリアが、専制王制の国であったからこそ出来たことと言えるだろう。いわゆる独裁国家であるため、エレクトラの言は法を凌駕し、その命はあらゆる手続きを踏むことなく、迅速に実行される。また、武官の要であるギリアム・ネスティが、女王へ対する絶対の忠誠を誓っていたことも大きい。軍部を掌握した独裁者の権勢は絶大だ。
暗愚の王が立てば国は荒廃の一途を辿るが、賢明の王を戴けば望外な勢いで国は栄える。それが専制王制の特徴である。
もっとも、そういった政治形態が原因で、隣国レギウスとは長年の確執を抱えもしていた。
レギウス神教国はロマリアとは違い、立憲君主制の国家である。王といえども法に従い国を統治しなければならない。法を司る神王レギウスの信者たちからしてみれば、神の定めた法の上にみずからを置くロマリア王室は、とてつもない破戒者であると言えた。互いに相容れない思想、主義を掲げながらも、両国が現在手を取りあえるのは、ひとえに魔族という共通の敵が存在するからであった。
そしてこの日、女王エレクトラの坐す竜玉宮に、凶報を告げる早馬が駆け込んだ。たちまち王宮内は騒然とし、半刻(約十五分)と経たぬ間に諸官らは広間に招集された。
見事な意匠の施された玉座から、エレクトラは物憂げに集まった廷臣たちを見下ろす。齢四十を越え、若さを失った容貌にはいくらかの翳りも見えはするが、その顔立ちは端正で気品に満ちていた。とくに目許が印象的で、碧い瞳の虹彩は高価な碧玉を彷彿とさせ、時にきつくも見える強い眼差しはとても人目を惹いた。
陛(玉座の階段)の両側には、この場で佩剣を唯一許された二人、近衛隊長ギリアムと副長のヨシュアが、女王の守護神さながらに、美しい立ち姿で周囲を睥睨する。
ロマリアの誇る英雄二人を従えて、エレクトラは眼下で平伏する奏者(取り次ぎの官職)に一言命じる。
「報告を」
伝令兵からの知らせを引き継いだ奏者が、陛へと続く毛足の長い敷物に額を押し付けたまま、口を開いた。
「数日前に東部方面で確認された魔族の軍勢について、詳細な知らせが届きました」
居並ぶ廷臣たちの間に緊張が走った。張り詰めた空気に堪えきれず、奏者の声は震えを帯びる。
「国境を越えた軍勢は、一路この上都をめざし進軍中。広い範囲に部隊を展開しているため、その総数は把握しきれていませんが、本隊だけでも一万を越える大軍と推察されます。街道を封鎖するかのように配された魔族の部隊を合わせれば、おそらく一万五千は下らない陣容かと」
「一万五千!?」
文官の一人が上擦った声をもらした。しかし、発言の許しも得ずに、声をあげたその男を咎める者はいない。誰もがあやうく出かかった呻きを押し殺すため、不作法者の声を気にかける余裕などなかったのだ。
魔族と人間の軍とでは、個々の戦力が大きく違う。交戦時の相対損耗率はおよそ十対一という統計がある。つまり人間は、その十倍の兵力を揃えてようやく、魔族と互角の戦いが出来るのだ。しかも、軍勢を率いる者が爵位の魔族であった場合、その計算も意味をなさない。
「すでにアルゴス、ラスフォードの両砦は陥落。ダルム城塞との連絡も途絶えています」
「馬鹿なッ! 各砦には一個師団―――二万からの兵が防備を固めていたはずだ。いくらなんでも早すぎる!」
将軍の一人が声を荒げ、場は騒然としだす。――しかし、
「控えよ」
エレクトラの一言が、彼らに冷や水を浴びせた。
「一向に話が進まん。発言したくば、最後まで奏者に語らせた上で、すべての情報を吟味してから献策を述べよ」
女王の冷静な物言いに、廷臣たちは浮き足立つみずからを恥じて押し黙った。
奏者は深く叩頭して、報告を続ける。
「未確認の情報ではありますが……今回の侵攻には、魔王みずからが出陣しているという話を聞きました」
「魔王、だと……」
静かに耳を傾けていたエレクトラが、表情を険しくする。
「詳しく話せ」
「アルゴス砦陥落の際、魔族たちはしきりに魔王口無の名を叫び、その軍門に降るよう声を上げていたそうです。砦から命からがら逃れて来た兵士の中には、魔王その人らしき姿を遠目に見た者が幾人かいたようです」
「口無……確か四百年近くを生きる、南部の盟主と呼ばれる魔王であったか?」
「御意に」
玉座の間のいたる所から、驚愕と嘆息とが吐き出された。
「魔王口無とやらの容貌は?」
「筋骨隆々とした見上げんばかりの体躯を持ち、明らかに他の魔族とは一線を画す、異様な存在感を纏った者であったとのことです」
しばし目を閉ざし、黙考したエレクトラがふたたび口を開く。
「アルゴス砦陥落の状況を説明せよ」
「複数の者からの証言を総合したところ、まず砦を取り囲んだ魔族たちは、我が方へ降伏勧告を行ってきたそうです。これに対し、城兵を預かるノトス准将は周辺の砦に援軍を求める使者を発てつつ、時間を稼ぐために返答を遅らせ、魔族の出方をうかがいました。しかし半時もたたぬうちに、砦東側の城壁が突然崩落し――」
「待て! アルゴスの城壁が崩落しただと? それは確かか?」
「はい。私は伝令の兵から間違いなくそう聞きました。轟音と共に城壁が崩れ去り、魔族の軍勢が大挙して攻め入って来たのだと」
エレクトラは噛みしめるように唇を閉ざし、玉座の間はしんと静まり返った。
アルゴス砦はロマリア建国の時分から存在する古い城塞である。上都防衛の要ともいえるその城壁は、長年に渡り増改築が繰り返され、他に類を見ない強靭強固なものと化していた。幾度もの大地震や洪水にも耐え抜いた見上げんばかりの石垣は、切り崩せば、都市が丸々一つ建造可能なほどの石材が使用されている。いかなる天災であろうと小揺るぎもしないアルゴス城壁を、ロマリア人たちは万感の信頼を持って上都の守りと為してきた。
「魔王とは、そこまでの存在か……神話や伝説に語られるその力は、絵空事ではなかったのだな……」
苦々しげに口の中でつぶやき、エレクトラは玉座から立ち上がった。
「――都を引き払う」
あまりに唐突なその言葉に、廷臣たちの誰もが目を見開き、女王の顔を凝視した。
「へ、陛下……?」
「上都の住民に魔族の来襲を告知し、避難を急がせよ。周辺都市にも馬を走らせ、同じく事の次第を知らせて回れ」
「お待ち下さい! そのようなことをなされば、上都はたちまち混乱の坩堝と――」
「魔族が攻め寄せれば同じことだ! 何も知らせずば、なお混乱を窮めよう。上都守備隊にこの旨通達せよ。可能な限り治安を維持しつつ、速やかに住民を西大門へと誘導するのだ。その後、西方のトラスニア、ドーバンなどの大都市へ護送せよ。足腰の弱い者や病人は最悪見捨てねばならぬだろうが、一人でも多くの者を都から逃がせ。――出来るな?」
「はッ! お任せ下さい!」
上都守備隊、皇竜騎士団将軍ダルシウスが力強く頷いた。
しかし、この場にいた文官の多くが女王に異を唱える。
「陛下! どうか考え直されて下さいませ! 三千年の歴史を誇るこの上都を魔族の手に渡すなどあってはなりません」
「そうです! ロマリアの守護神たる竜の英霊も、決して許しはしますまい」
「御再考を!!」
彼らへ鋭い視線を投げ、エレクトラが一喝する。
「黙れッ。――難攻不落のアルゴス砦がいとも容易く落とされた以上、竜玉宮に篭ったところで凌ぎ切れるはずもない。そうだな、ダルシウス?」
「はい、仰せの通りかと。上都の城壁は堅牢なれど、アルゴスのそれとは比ぶべくもなく。また、市街全体を守らねばならぬため、要所要所の防備が薄くなり、数の利が活かせません。まして相手が魔王であるなら、これはもう……戦うという選択は愚考の極みと言えましょう」
「では、そなたなら如何様にすべきと考えるか」
「……上都の守りを預かる身としては、非常に申し上げ難くはありますが、やはり陛下のおっしゃるように、一旦はトラスニア辺りに落ち延び、機を窺うがよろしいかと。魔族は領土に対する野心を持たぬと聞いておりますので、上都を占拠されたとしても、長々と人の領域に留まることはないでしょう。今は略奪による被害を抑えるためにも、早急に住民を退避させるが得策かと存じます」
エレクトラはかるく頷き、廷臣たちを見回す。
「聞いての通りだ。実際に魔族と戦うのはお前たち文官ではない。上都守備隊だ。よって私はダルシウスの言に、より重きを置く」
さらにエレクトラが諸官へ指示を出そうとしたとき、入り口を守る近衛兵が新たな奏者の来訪を告げた。
「――通せ」
声と同時に、血相を変えた奏者が駆け込んで来た。
「申し上げます! 魔族の軍勢が大湿原を越え、この上都に迫っているとのことです! その数およそ一万二千、騎兵なみの進軍速度を維持しつつ西進中! 早ければ明日にも上都に到達する見通しであります!」
玉座の間の空気が、ざわりと揺れた。
「……早すぎる」
エレクトラは努めて表情を変えぬよう苦心して、低くつぶやいた。そして奏者に問う。
「進路上にあった砦や関所の兵士らはどうなった?」
「多くの者が討死、魔族の進攻を受けた砦はあらかた倒壊し、抵抗らしき抵抗も出来ぬまま守備隊は潰走。兵は散々となり、どれだけの者が生き残ったかも定かでありません。現在、街道警備隊を中心に、残存兵の再集結を図っております」
「街道沿いの街や村の被害はどうか」
「一切報告がございません。魔族たちは略奪をせず、非戦闘員への虐殺もまったく行われていないようです」
「……どういうことだ」
誰に問うでもなく、エレクトラは天井を仰いだ。
前回の侵攻では、無辜の民が数多く殺されている。
魔族に立ち向かった者も、投降した者も、逃げる者も分け隔てなく、切令と咬焼の配下はあらゆる者を皆殺しにした。魔族とはそういったものなのだと誰もが考えていたのだ。
だが、今回は違う。
虐殺どころか略奪すら行わない軍勢など、軍規の厳しい人間の軍隊でも稀だ。
魔王に率いられた魔族たちは、おそろしく統制が取れているのだと推察された。
そして、なぜ非戦闘員への殺傷を行わないのかを考えると、おうよそ目的は一つに絞られる。
「魔王口無は、占領後の統治を考えているのか……」
「ですが魔族には、おのれの領域外に領地を持つことを禁じるしきたりがあったはずです」
廷臣の言葉に、エレクトラは首を振る。
「それは四千年以上も前に、災厄の主が定めた法であろう。当代の魔王にどれほどの強制力があるのか――我らには窺い知れぬ」
重苦しい息を吐き、エレクトラは眉根を寄せた。
「しかしそうなると、レギウスかエスタニアにまで落ち延びることを考えねばならぬか……」
「――いえ」
それまで無言であった近衛隊長ギリアムが、口を開いた。
「たとえ魔王がロマリア全土を制圧するつもりだとしても、そう長く人の領域に居座りはしますまい。ある程度の目処が立てば、魔王当人はみずからの領土に帰ると考えるのが自然かと。上都の守りに軍勢の一部を残したとしても、魔王さえ去れば充分に奪還は可能かと存じます。――それよりも今は、一刻も早くこの上都から離れることが肝心でしょう」
「……そうだな」
エレクトラは内務卿の名を呼び、口早に命じる。
「穀物蔵を開き、備蓄した食糧の半分を周辺住民に分け与えよ。残りは荷駄隊(輸送隊)を動員してトラスニアへと運ばせるのだ。その後、宝物庫から武具の類いを優先して持ち出せ」
続いて常備軍を預かる将軍の一人が呼ばれる。
「荷駄隊の警護に一個連隊を随伴させよ。それに先行して、使者を立ててトラスニア侯にその旨伝えよ。私もあらかたの準備を済ませたのち、近衛隊を引き連れトラスニアへ向かう」
「はッ!」
命を受けた者が玉座の間を出ると同時、入れ違いに近衛兵が声をあげた。
「クリオフィスからの急使が参ったそうです。エレナ殿下からの書状を受け取った奏者が、目通りを願っております」
「すこし待たせ――いや、よい。通せ」
すぐに奏者が案内され、侍従の手を介して書状がエレクトラに渡された。
封を解いて内容に目を通すうち、その顔が固く強張り始める。
女王の表情から、それが非常によくない知らせであることが廷臣たちにも理解出来た。
やや置いて、おもむろにエレクトラは告げた。
「トスカナ砦に駐屯していた兵七万が、全滅したそうだ」
静まり返った玉座の間に、さらなる沈黙が降りた。
廷臣たちの幾人かは、悲鳴の形に大きく口を開いたが、声はなかった。
皆が凍りついたように動きを止めた中、エレクトラは乾いた声で続ける。
「ディモス将軍、アラド子爵、共に討死。援軍を率いていたラザエルの第三皇子とエスタニアの将軍も遺骸が発見され、その死が確認されたと認められている」
エレクトラの手が、書状をぐしゃりと握り潰した。
「兵たちの死にかたには不可解な点が多く、南部の魔王、魅月の仕業である可能性が高いらしい」
「魔王……魅月……」
廷臣たちの間から囁かれたその声は、絶望的な響きを帯びていた。
「また、グラシェールに向かった勇者殿たちも、依然その足跡は掴めていないそうだ。彼の地において戦端を開いたと目される、神族と魔族との争いに巻き込まれているのかもしれん」
竜の勇者であるアベルの実父、ギリアムは微動だにせずエレクトラの言葉を聞き流したが、並み居る廷臣たちはそうもいかなかったようだ。
動揺おびただしい玉座の間において、エレクトラは気丈に叱咤の声をあげる。
「遠く離れた地での事だ。今ここで狼狽えても状況は変わらない。――近衛!」
入口を守る兵が呼ばれ、戸口に現れた二人の近衛が膝をつく。
「宮外取次処まで走り、火急の使者、伝令の類いを招き入れよ。いちいち奏者を通していたのでは時が移る」
命じられた近衛兵が、ぎょっと目を剥いた。
日頃から、エレクトラの身辺警護に心血を注いでいる近衛の者が、その命令に頷くことは難しい。
王宮内には一般兵の立ち入りが堅く禁じられている。これは古来からの取り決めであり、未だその禁則が侵されたことはない。女王の権威を高めるため、といった意味合いもあるが、本来は女王、及び王族の身を守るための慣習だ。
おのれの職務に反する命令を受けた近衛兵は、助けを求めるように上官であるギリアムへ視線を投じる。
「陛下の口は二言をなされない。疾くその言を実行するが、近衛の務めだ」
叱責に近い声音に打たれ、近衛兵は一礼して駆け出した。その背を一瞥し、エレクトラは落ち着いた様子で、みずからの考えを述べる。
「現状、トスカナ砦の件は捨て置くとして……まずは近隣諸侯に激を飛ばし、トラスニアに兵を集結させるほかあるまい。魔族の来襲も目前まで迫ってはいるが、各官は心惑わせることなく己の職分を全うせよ」
「はッ!」
さらに細々とした指示が出されるうち、伝令の到来を告げる近衛の声が響いた。
玉座の間へ通された伝令兵は、常時であれば決して立ち入ること罷りならない王宮に足を踏み入れ、ひどく緊張した面持ちで平伏した。
「も、申し上げます。こ、この度は女王陛下のご尊顔を拝する栄誉に――」
「前口上はよい。必要なことだけを話せ」
「し、失礼をしました。わ、私は、皇竜山の大社より遣わされた者です。カーム家のご当主、レイミア様から言伝てをお預りして参りました」
カーム家はロマリアの王族である五巫家の一つであった。
竜神の聖域を守るため、皇竜山の麓に置かれた大社を取り仕切る家系でもある。
「――で、レイミア殿はなんと?」
「はっ、それが……レイミア様は、お言葉をお伝えする前に、必ず人払いを願うようにとおっしゃられておりました」
「構わん、話せ。ここに居並ぶはロマリアの重臣のみ。危急の際なれば、そうそう時間も取れん」
「かしこまりました。それでは、事の経緯からご説明いたします。今から四日前のことなのですが、皇竜山近辺で紫紺の瞳と髪色をした魔族が目撃されました。その者は雷でもって大社の門を破壊し、悠然たる足取りで竜神様の聖域へと入ってゆきました」
「その方らは、聖域を侵さんとする者をむざむさ素通りさせたということか?」
エレクトラの厳しい視線を受け、兵士は床に額を擦り付けた。
「申し訳ありません! その場に居られたレイミア様が、あの男の特徴的な髪色と雷を操る力から、おそらく中央の盟主、魔王雷鴉であろうと仰せられました。そして、決して敵意を見せぬよう命じられたのです」
「……今度は、中央の盟主か」
もはや驚きも麻痺してしまったのだろう。廷臣たちもただただ茫然と兵士の話を聞いていた。
「その日の夜、皇竜山で恐ろしい天変地異が起こりました。厚く雲の立ち込めた曇天が稲光り、山頂に雨霰の如く、轟雷が降り注いだのです。空には天翔ける古竜の姿が幾頭も見られ、それが次々と雷に灼かれ、地へと落ちてゆきました。落雷による地鳴りは、皇竜山麓の大社にまで届き、絶え間なく朝方まで轟音が鳴り続けたのです」
翌日、聖域の様子を確認するために組まれた調査隊にその兵士は選抜された。
皇竜山の山肌は落雷にえぐられ、地形が変わるほどの惨状であった。
道中には古竜の骸が散在し、竜神の祠があるべき場所には、巨大なすり鉢状の穴が広がるばかりだったのだと兵士は語る。
「レイミア様は、ご英霊の気配がまったく感じられないとおっしゃいました。魔王雷鴉との戦いにより滅ぼされたのだろうと……そしてこの事を至急陛下にお伝えせよと私に申し付けられたのです」
廷臣の一人がふらりとよろめき、膝を床に落とした。
それまで、どのような窮地にあろうと凛然たる姿を崩さぬ女王の手前、取り乱して無様を晒さぬよう気を張っていた臣下一同であったが、事ここに至っては、その意気地も完全に挫けてしまった。それほどに、建国以来ロマリアを守護し続けてきた竜神の存在は、万民の心の支えとなっていたのだ。
だが、事の重大さを真に理解していたのは、僅か一握りの者だけだった。
「直ちに皇竜山へ一軍を差し向けよ!」
鋭くエレクトラは命じる。
「皇竜山へ至る各関所を封鎖し、民の往来を制限するのだ。また、聖域周辺にも部隊を配し、誰も立ち入らぬよう図れ。竜の英霊が滅したことは決して知られてはならん。流言飛語を堅く禁じ、これを周知徹底させよ」
ロマリア建国の礎である竜神の消滅は、その祭祀を司るロマリア王族の求心力を、無にせしめる。王権の正当性が失われてしまうのだ。護国の英霊あってこそ、女王はロマリアの支配者たりえる。
もしロマリアから――ひいては王族から竜神の加護が失せたのだと広く知れれば、力のある諸侯や土豪は女王の権威を認めないだろう。すぐさま反旗を翻すこともないが、これまでのような服従は望めない。魔族の侵攻を受け、絶望的な戦いを強いられる今、それは致命的といえた。
「上都に詰めている五巫家の者すべてをここに呼べ。同時に住民の退避も急がせろ。対応が遅れれば取り返しのつかぬことになる」
矢継ぎ早に下される命をさえぎるように、伝令、と叫ぶ近衛兵の声が響いた。
「……またか。もう滅多なことでは驚かんぞ」
苦境にありながらも、意思の力に充ちた瞳を輝かせ、エレクトラは入口を睨みつける。
「申し上げます!」
駆け込んで来た騎士へ、ダルシウス将軍が怒声を浴びせる。
「御前であるぞ! 口を開く前に跪け!!」
竜鱗を模した鎧をがちゃりと鳴らし、騎士は慌てて膝をついた。
「も、申し上げます。東の街道に魔族の軍勢が姿を現しました。数はおよそ二千。魔族の先遣隊と思われます」
これまでの報告より遥かに早い魔族の到来に、多くの者が頭を抱えて呻き声をあげた。
ただの一人、エレクトラだけが――美しい面差しに薄く笑みすら浮かべて、玉座へ身をもたせる。
「いよいよ……進退窮まったようだな」