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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
160/251

竜神スフェル・トルグス(後)

 


委細承知(いさいしょうち)。地母神の巫女、アカーシャの(すえ)よ。我が魂魄を勇者殿へ」


「わかりました。すぐに」


 羽ばたくことなく、竜の英霊は宙空に静止していた。長い首をもたげて、悠然とアベルを見下ろす。物質を透過する光がその輝きを増して、半死半生のアベルを強く照した。

 フィオナは神降ろしの文言(もんごん)声高(こわだか)に詠じあげる。

 以前に一度、竜神の魂魄をアベルに降ろした経験もあるので、それほど難しいことではない。彼女が(になう)うのは、あくまで補助的な役割だ。

 竜の英霊は場に充ちた霊気を取り込み、巨大な体躯を震わせた。

 舞い散る粉雪のように、金色(こんじき)の光が繽紛(ひんぷん)とアベルへ降り注いだ。

 膨大な力の顕現(けんげん)に怯むことなく、祝詞をあげるフィオナの声音も高まる。

 黄金色の光に包まれたアベルの表情が、穏やかに和らいできた。その瞳にも生気と活力とが戻りつつあった。竜神の魂魄が彼を癒しているのだと、フィオナは悟る。

 煌めく燐粉が絶え間なく舞い降り、アベルの内へと滲んでいった。いまや彼の体は、まばゆいばかりの神気に包まれていた。

 不意に、アベルが身悶えるように背を反らす。


「くッ――! あぁ……」


 苦しげなうめき声をもらしたアベル見て、フィオナの動きがとまった。


「竜神様! これ以上は!」


 巨大な力の流入に、アベルの体が悲鳴をあげているのだ。

 三千年もの時を()た英霊の魂魄。その人智を越えた力を宿すには、人の体はあまりに脆弱すぎる。

 だが、降り注ぐ燐粉は、その濃度を増しこそすれ、一向に収まる気配がない。


「無理です! このままじゃアベルが――」


此方(こなた)には、限界まで我の力を受けてもらう」


「でもそれでは――」


「これには、勇者殿も了承済みだ」


「え……?」


 さきほどアベルは、自分も竜神の声を聞いたのだと言っていた。

 フィオナに下された神託とアベルの受けたそれは、全く別の内容だったのだ。


「我の(ほこら)に、招かれざる客が押し掛けて来ている。(いかずち)を操る魔王だ」


「魔王!?」


 あえぐように息をついたフィオナが思い浮かべたのは、かつて荒野で出遭ったおそるべき魔族の姿だった。


「あれは、やっぱり……」


「中央の盟主と呼ばれる、一際(ひい)でた血筋の魔族。我といえど勝機の見えぬ相手だ」


 その間にも、無尽とも思える竜神の魂魄がアベルの身に流入しつづけていた。彼と竜神とを見比べて不安そうにするフィオナへ、アベルは大丈夫だというようにうなずいて見せる。しかし、その顔は非常に苦しげだ。


「あまり時間はない。すでに我の棲まわる皇竜山一帯は、戦場となっている。我を守るために古竜(けんぞく)たちが戦ってくれてはおるが、あまり長くはもたぬであろう。――現状、祠の周囲では、天雷が雨のように降り注いでいるのだ」


 かつてグラシェールにも程近い荒野で、あまりにも容易にアベルたちを退(しりぞ)けた月下の魔王。おそらくその力の片鱗すら見せてはいないのだと、フィオナも予想はしていた。しかし、そこまでの存在だとは思いもよらなかった。――いったい、雷が雨のように降り注ぐとは、どのような光景なのか、うまく想像が出来ない。


「あの男は……そんなに強いのですか?」


「――強い。かつて我は、盟友であったアース族の姫君と共に、西方魔族の王たちと牙を交えた。しかし、あれほどの魔王とはいまだ(まみ)えたことがない」


「アース族の、姫君……?」


其方(そなた)らが、古代人種と呼ぶ者だ。彼女は我の友であり、主であった」


 太古に滅した主を(しの)ぶかのように、竜神の体躯が淡く明減(めいめつ)した。


「我はアース族の姫君と共に、二人の魔王を討ち取ったが……此度(こたび)はどうにも分が悪い。()の魔王と対峙したときが、我の滅するときとなろう」


「そんな……」


(ゆえ)に。我が三千年の(なが)きに渡り蓄え続けた力を、可能な限り、勇者殿へと移したい。みすみすこの力を魔王などに渡せば、ロマリアは更なる(わざわい)に呑まれるであろうからな」


 すでに力の大半をアベルに与えた竜の英霊は、身にまとった光を弱め、その存在がひとまわりも(しぼ)んで見えた。それでも魂魄を宿した燐粉ははらはらと舞い落ち、竜神はさらに輝きを失ってゆく。

 人の身にはあまる力の流入に耐え兼ねたのか、アベルは意識を無くしたように目を閉ざしていた。


「アベル……」


 泣いてしまいそうな声でフィオナは呼びかけるが、その場から一歩も動けなかった。

 いまやアベルからは、物理的な圧力を感じるほどに、濃密な魔力の高まりが(はっ)せられていた。

 それは明らかに()ぎた力だった。人間の限界を越えている。

 よほど堪えるのか、アベルは目を閉じたまま、顔中に脂汗を浮かせていた。その様子に、竜の英霊から感嘆の声があがった。


「流石は我の見込みし勇者殿だ。我でさえもて余す力によく耐えている。その資質は、アース族の姫君にも劣るものではない。不世出の傑物と(ひょう)せよう」


 竜神の体躯からはさらに輝きが衰え、本来の姿――蒼い光沢を有した竜鱗が目視可能なほどに、その光度が失われていた。


「これ以上は、勇者殿の器を壊し兼ねぬか。――そろそろ我も限界だ」


 両翼の皮膜を大きく広げた竜の英霊が、音も無く地に舞い降りた。

 フィオナは思わず一歩後ずさる。

 同じ高さに並び立つと、改めて竜神の偉容に圧倒的されてしまっていた。頭ひとつをとってみても、人の胴体よりもなお巨大だ。

 そして、フィオナはアベルへと目をやり、更に一歩身を引いた。

 いつの間にかみずからの足ですっくと立ち上がったアベルは、金色の光輝をまとっていた。総身から神気を立ち昇らせた彼は、まるで竜の英霊が乗り移ったかのようだった。

 姿形はそのままに、フィオナのよく知る幼なじみの少年は、まったく見知らぬ何者かになっていた。

 限りなく恐怖に近い畏怖を覚え、フィオナは泣き笑うようないびつな表情で、せわしなくまばたきを繰り返す。

 常人からはあまりにかけ離れた存在感。

 力の隔絶が、そのまま自分とアベルとの距離に思えてならない。もう二度と想いは届かないのではないかと感じてしまう。


「ア……アベル……?」


「ありがとう、フィオナ。おかげで助かった」


 アベルの変わらぬ優しげな笑顔と声に、フィオナはほっと安堵の息をもらした。


「あの……体の方は……?」


「うそみたいに平気だよ。すごく力が(みなぎ)ってる。――すごいね。いまなら何でも出来そうだ」


「真実、今の其方ならば、出来ぬことの方がすくないはずだ。人類未踏の領域である“魔王殺し”すらも視野に入ろう」


「魔王、殺し……」


 みずから口にした言葉の響きに、ぞくりと身震いしたフィオナは、なにがしかの違和感を覚え、ふと辺りを見回す。そして気づいた。つい先程まで霊気に満ちていた森が、色褪せたように力を失っていることに。

 竜の英霊は、みずからの魂魄だけではなく、霊場ともいえる場の力までをもアベルに与えたのだ。


「その力をもって、全ての元凶である魔皇を討つのだ。皇城と呼ばれる魔皇の本拠へ向かうとよかろう」


「皇城、ですか?」


「いかにも。――この地から東へ向かい、魔族の領域に分け入り、そして北上すれば黒エルフの治める大森林へとたどり着く。さらに黒エルフの森を北東へ抜ければ、皇城は目と鼻の先だ」


「ですがそれではロマリアが――」


 言いかけたアベルを、うなるような竜神の声がさえぎる。


「勇者殿、たとえどれほどの力を得ようと、なにもかもを一人で成すことは、到底不可能と言えよう。最も重要なのは、頂点に立つ者を討ち果たし、魔族の軍勢を瓦解させることだ。守りに回れば地力の違いで、人間の王国など瞬時に()り潰されよう」


 これには反論の言葉もなく、アベルはきつく唇を噛み締めた。


「我は未来視によって知りえたことがいくつかある。心して聞くがよい。――此方は、それほど遠くはない未来に、魔族の皇帝と相対(あいたい)すこととなる。皇城北部に広がる平原で、幾万もの軍勢を従えた魔皇と対峙する此方の姿が見えたのだ」


「僕が、魔皇と……?」


 竜神の言葉に目を見張ったアベルへ、重々しい声が答える。


「残念ながら、戦いの結末は定かでない。今代の魔皇はおそろしく強大ゆえ、我が未来視の及ぶところではない。だが――其方ならば魔皇でさえも見事討ち取ってくれるものと、我は信じる。皇城への行程には、多くの苦難と戦いとが待ち受けている。それらが其方の勇者としての資質を開花させるだろう」


 真摯な面持ちで耳を傾けるアベルとはうらはらに、フィオナは今にも倒れてしまいそうなほどに顔色を青ざめさせていた。

 アベルたちはすでに、荒野における魔王との邂逅により、メイガスとダルカン、二人の仲間を失っているのだ。アベル自身も瀕死の傷を負ってから、まだ一月足らずである。――にもかかわらず、竜神の予言が確かならば、アベルは魔王よりもさらに強大な相手と戦うことになるのだ。今度こそ本当に、彼は死んでしまうかもしれない。そういった思いが、気の強い巫女姫に、耐え難い恐怖をもたらした。

 以前はフィオナも、アベルとともに魔族の皇帝を倒し、このロマリアに安寧を取り戻すのだ、という気概に満ちていた。しかし、実際に魔王という存在の、理不尽極まりない力を目にして、彼女の心は一瞬で挫けてしまっていた。

 そんなフィオナの苦悩を(おもんばか)ったのか、竜の英霊がゆっくりと頭をもたげる。


「案ずることはない、アカーシャの末よ。其方は、聖女カレン・ディーナの血に繋がりし者だ。尽力叶えば、勇者殿にとって勝利をもたらす者となれよう」


 竜神は(こうべ)を返し、アベルへと語りかける。


「魔族の領域では、幾多の敵が此方の行く手を阻みはするが、都市部を迂回して辺境沿いを進めば、必要以上の戦いは避けられるはずだ。そして黒エルフの森に入り、皇城への旅路が終わりに近づく頃、其方は一人の少女と出逢う。それが大きな転機となるだろう」


「それは……どういった少女なのですか?」


「強い想いと力を持った少女だ。その娘もまた、魔族に敵する者であり――ある意味、勇者殿の運命とも呼べる少女だ」


「――運命!?」


 悲鳴のような声を上げたのは、フィオナだった。彼女は話を聞きながら、なぜだか不意に、カモロアで寸刻(すんこく)目を見交わした、朱の少女を連想していた。

 不安と畏れ、そういった表情の中に、運命という言葉を耳にした瞬間、隠しようのない嫉妬の感情があらわとなる。


「アカーシャの末よ、心配することはない。其方もまた、間違いなく勇者殿の運命だ」


「あ……」


 いたわりの感情すらうかがえる言葉をかけられ、フィオナは恥じ入るように顔を赤らめた。以前、ダルカンにも指摘された、嫉妬むき出しのみっともない女の貌をしているのだと自覚したようだ。


「も、申し訳ありません……」 


「よい。我は女心を解する竜ゆえ」


 フィオナは、眼前に在るのが女神だということに心づいた。竜神スフェル・トルグスは、雌竜(しりゅう)であったと古い書物に記されている。


「さて……そろそろ時間のようだ」


 実体を有さぬ竜神の(からだ)が、その輪郭をおぼろげとさせ始めていた。

 神降ろしに必要な森の霊気が失われたため、この場に留まることが困難となったのだ。


「祠のまわりでの戦いも、あらかた終わったようだ。眷族たちの気配が無くなっておる。――中央の盟主めには、せめて一牙なりとも報いてやらねばならん」


「竜神さま……」


「我が滅するは、ダレスの首を噛み千切ったのちと決めていたのだが……アース族の姫君を討ち滅ぼした、武神めのな」


 竜神の魂魄を、あらかた身の内に取り込んだアベルは、その無念が痛感出来た。

 薄れゆく竜の英霊に、アベルは誓う。


「魔皇を倒したあと、もし可能なら、僕が武神へ挑みます」


「……其方に頼むは筋違いかとも思ったが、是非に願う」


 竜神が首を巡らし、アベルに頭部を押しつけるような仕草をした。親愛を表す竜の習性だ。


「最後に――神託ではなく、助言を残そう」


 ほとんど目視出来ぬほどに存在を希薄化させた竜神が、大きく(あぎと)を開いた。


「真の勇者は、一人立つとき最も強し」


 夜の森に溶け消えるよう、竜の英霊は形を無くした。


(ゆめ)、忘ることなかれ。真の勇者は、一人立つとき最も強し」



 声だけがかすかに残り、そして、竜神の気配は完全に消え去った。

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