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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
159/251

竜神スフェル・トルグス(前)



 ロマリア南部国境地帯。

 竜の勇者アベルと巫女姫フィオナは、沿岸国家とロマリアを隔てる山間の村に滞在していた。

 半月ほど前にカモロアを出立し、馬を()ってこの村に到着したのが、今から二日前のことである。

 しかし、順調に回復しているかに見えたアベルの容態が、ここに来て急変した。

 その予兆は、数日前から出ていたのだ。

 ロマリア人としては比較的色が白いアベルの肌が、徐々に艶をなくし、土気色を帯びてきた。

 最初は気のせいかと思う程度のゆっくりとした変化だったので、本人すらも体調を大きく崩すまで自覚できなかったのだ。

 途中立ち寄った街で、医者に診てもらったりもしたのだが、病み上がりのため体力が落ちているのではないかと言われた。

 不安を覚えながらも沿岸国家への道のりを急いだのだが――アベルの肌が土気色を通り越し、あざ黒くすら見える段となって、フィオナは気づいた。


――肝臓、もしくは腎臓が弱ってるんだわ


 肌の色素沈着は、臓腑の特定部位における機能不全の顕著な特徴だ。

 恐ろしいことに、肝臓や腎臓を(わずら)うと、健康であった者がわずか数日で死を迎えることもある。


――せめてあと三日……


 そう、三日の猶予があれば、フィオナたちは沿岸国家に辿り着けたはずだった。

 山をひとつ越えさえすれば、開けた(あお)い海と、その沿岸に広がる都市国家群が見えてくるはずだったのだ。

 しかし――アベルの容態を(かんが)みるに、


――あまり、猶予はないのかもしれない


 アベルは日に日に衰弱してゆき、今では寝台から身を起こすのにも難儀している。

 とても馬に乗れるような状態ではないので、フィオナは沿岸国家へ向かう馬車を捜すことにした。

 とはいえなにぶんにも山間にぽつりとたたずむ小さな農村のこと、そう頻繁には行商も出入りしておらず、ここで二日の足止めをくっていた。

 そしてようやく、近場の都市国家へと農作物を納品に向かうという男を見つけることができた。

 フィオナはその農夫に大枚を握らせ、積み荷を減らしてアベルを乗せてくれるように交渉した。そして色よい返事をもらい、現在、アベルの待つ旅籠(はたご)への帰路を急いでいるところであった。


――都市国家で腕のいいお医者さまの治療さえ受けられれば……アベルは絶対助かるはず


 フィオナは強くそう信じた。――否。もはやその考えにすがるしかない。

 魔族の進攻からロマリアを救うと予言された竜の勇者なのだ。


――アベルがこんなところで死ぬはずなんてない


 三千年の栄華を誇るロマリアの歴史上、これまでに竜神の神託がはずれたことは、ただの一度もなかった。


――だから、大丈夫。アベルは絶対に助かる


 曲がりくねっただんだん畑の細道を小走りに駆け、フィオナは帰路を急ぐ。

 収穫を間近に控えた果樹が、沈む夕陽に照らされて茜色に染まっていた。

 その色合いが不意に、ひとつきほども前に出逢った少女のことを思い出させた。

 カモロアの街で、ほんの数瞬だけ目を見交(みか)わした少女。だけどその印象は強烈で、いまでもまざまざと顔を思い出せる。

 大きな瞳と線のほそいあご。こづくりだが通った鼻筋。あどけない唇は薔薇(バラ)の花弁のようで、うすく色づいていた。

 顔立ちだけで言えば、可憐な少女と誰もが口を揃えるだろう。しかしその少女は、落ちゆく夕陽の(しゅ)を浴びて、燃えさかる炎を全身にまとっているかのように見えた。

 少女の暗い瞳が脳裏に浮かび――フィオナはぞっと身震いし、足を早める。


――あの目


 とても狂おしく、陰惨な……


――あれは本当に、なんという目なのだろう


 ひたと見据えられると、まるで幽明(ゆうめい)(さかい)(こと)にしたかのような、そんな心持ちとなる目だった。

 とても不吉な、おそろしく不吉な――あの少女の瞳が、こうして時折フィオナの心胆(しんたん)を寒からしめる。

 旅籠が見えてきても足を休めることなく、いきおい扉を開け放つ。

 おどろいた顔をする主人にひと声挨拶を投げて、アベルの待つ部屋へと駆けた。


 愛する少年の姿さえ目にすれば、この寒々とした不安も消し飛ぶだろう。そう考えて、フィオナは部屋へと飛び込んだ。


「アベル、聞いて。馬車が見つかったの! 都市国家に――」


 はずんだ声は、凄まじい悲鳴にかき消された。

 長く尾を引く絶叫。それがみずからの口から出ていることにフィオナが気づいたのは、血まみれのアベルを抱き起こしたあとだった。

 寝台にぐったりと横たわったアベルは、口のまわりを真っ赤に汚していた。かけられた薄手の毛布もまたドス黒い血に染まっている。

 尋常ではない量の吐血。

 室内の空気は、吐き気をもよおすほどの血臭に(よど)んでいた。


「あ、あぁ、あああぁぁぁぁぁ――――!! アベル!! アベルッ!!」


 狂乱し叫ぶフィオナの声になにごとかと、旅籠の主人が顔をのぞかせた。


「アベル!! アベル!! いやああ――――!! 起きて! アベル!!」


 愛する少年に取り(すが)り絶叫するフィオナに、旅籠の主人が駆け寄る。


「そんなに揺すっちゃ駄目だ! いま医者を呼んでくるから!」


「あ……」


 強く腕を掴まれて、フィオナは茫然とうめく。


「医者……お医者さま。お願い、早く……」


「わかった」


 慌ただしく部屋から出ていく主人には目もくれず、フィオナは寝台の下から荷物袋を取り出す。そこから白銀の篭手を掴み、左腕に通した。

 まだアベルの息はある。愛する少年が死んでしまったわけではないのだ。


「ああ!! 我は願うッ!!!!」


 泣き濡れた頬もそのままに、フィオナは快癒の呪文を唱えた。


――必ず、救ってみせる!!


 鬼気迫る勢いで詠唱を終え、癒しの輝きでアベルをつつむ。

 力の抜け出る感覚と同時、目眩に体がおよぐ。魔法の行使による脱力感に耐え、フィオナはアベルの様子をうかがった。

 生気を失った顔に、わずかではあるが血の気が戻ってくる。しかし、呼吸は浅く、非常にゆっくりと胸が上下していて、見る()にそれが止まってしまうのではないかと気が気でない。

 フィオナは水差しと桶を持って調理場へ走った。入口近くに置かれた水瓶(みずがめ)の蓋を開き、(ひしゃく)を手に取る。

 水を汲んで部屋へ戻ると、アベルの口許を汚す血糊を丹念に拭い、少量づつ水を飲ませた。

 しきりと名を呼びながら、かいがいしくアベルの世話を焼いていると、ようやく医者を連れた旅籠の主人が戻ってきた。

 血にまみれた寝台に横たわるアベルを見るなり、村医者は険しい顔つきでその容態を診察しはじめる。だが――


「……手遅れだ」


 あまり時間をかけることなく、彼はそう結論づけた。そしてフィオナと目を合わせないように気をつけながら、すでに医術でどうにか出来る段階を越えているのだと告げた。


「力になれず、申し訳ない……」


「え……?」


 すぐには言われたことが理解できなかったのか、それとも理解したくなかったのか……フィオナはきょとんとしてしまった。そして――カモロアの医師、ケイオンの言葉が蘇る。


(吐血した場合は、もう手の施しようがない)


「あ、あぁ……うそ……うそよ……」


 フィオナの碧眼が限界まで見開かれ、体が(おこり)(わずら)った者のように激しく震えた。

 嘆きを上回る理不尽なまでの怒りに涙を流し、感情的にフィオナは叫ぶ。


「アベルが死ぬはずなんてない!! このやぶ医者! 嘘つき! 出ていけ! 私の前から今すぐ消えなさいッ!!」


 すっかり冷静さを欠いたフィオナに痛ましげな目を向けて、村医者はひとつ頭を下げて部屋を去って行った。彼は慣れていたのだ。――むしろ、罵られることに慣れておらぬ医者などいまい。もしいるとすれば、それはまだまだ医師としてはひよっこなのだと、そう彼は考えていた。

 家族や想い人の死を前にして、冷静でいられる者は少ない。



 だから彼は、フィオナからなんと罵られようと、彼女に対して憐れみ以外の感情を持てなかった。





 夜半を過ぎても、アベルは昏睡したまま目を()まさなかった。意識がない間も、体温が徐々に下がり、彼の体は冷たくなっていった。――刻々と死期は近づいていた。死神ディースの御手が、アベルに届こうとしていたのだ。

 愛する少年の名を呼び、命の抜け出ようとする体をかき(いだ)き、泣き疲れたフィオナは意識を失うように眠っていた。しかしそれは、ただの眠りではない。竜神の啓示がもたらされる巫女の眠りだった。

 明晰夢と呼ばれる特殊な夢のなかで、フィオナは短い神託を受ける。

 見渡す限りなにもない真っさらな空間。意識は鮮明で、金色(こんじき)に輝く竜の神性がフィオナに告げる。


 ――召喚の儀、神降ろし。我が選びし勇者に――


 直後、撃たれたように巫女姫は上体を起こした。


「神降ろし……!」


 言って、はっと息をのむ。

 寝台から見上げるアベルと、目があったのだ。


「アベル!! 気がついたのね! よかった!!」


「う、ん……ごめんね……心配、かけて……」


 顔に死相を浮かせたアベルの第一声は、フィオナを気遣う言葉だった。その視線は定まらず、アベルが視覚障害の症状まで引き起こしていることを、フィオナは知った。

 おそらく、あまり時間は残されていない。


「僕、竜神さまの声を……聞いたんだ……」


「あ……もしかして、アベルにも神託が?」


 竜の勇者は声を出すこともつらいのか、ゆっくりと一度だけうなずいた。


「竜神さまを召喚するわ! 大丈夫!! 私が絶対にアベルを助けてみせる!」


 ある意味、運がよかったのかもしれない。

 召喚の儀は容易に行えるものではない。場所もかなり限定される。通常なら、大きな(やしろ)でなければ不可能だ。どこででも出来るといったものではない。

 しかし、いまフィオナたちが滞在する国境沿いの山村は、おそろしく立地がよかった。不可侵とされる国境地帯が、村の南側に広がっている。開拓民の手が入っていない原生林が存在するのだ。

 長い歳月を経た古木は、強い霊力を持つ。そういった樹木が幾本も群生する地には、太い地脈が生まれる。

 かつて地母神の寵愛を受けた古い森がいまだ残るこの地は、上都の大社にも比肩(ひけん)する最高の“場”だった。


 フィオナはまず、竜神の宝具を荷物にまとめる。そしてアベルの目があることも失念して、巫女装束に着替えはじめた。

 下着の上に襦袢(じゅばん)をまとい、赤い掛襟(かけえり)を重ね止める。ついで白衣(びゃくえ)に袖を通し、前帯を巻いて腰の後ろで()う。その上から緋袴(ひばかま)を着用して、前帯を隠すように後帯を絞める。飾り紐が見えるように形を整えて、腰前で蝶の羽を思わせる形状に帯を結わった。

 フィオナが着替えを終えるころ、扉の外から主人の声が聞こえた。


「どうなさったね?」


 夜中に慌ただしくしていたため、様子を見に来たらしい。

 ちょうどよいとばかりに、フィオナは扉を開いて主人に告げる。


「お願い、この荷物を運んでほしいの!」


 宝具をまとめた荷を指さすが、主人は大口を開けてフィオナを凝視していた。それもそのはず、緋色の袴の巫女装束は、ロマリア王族の正装でもあったのだ。


「あ、あんた……まさか……」


 ロマリアの者であれば知らぬはずもなく、旅籠の主人は気の毒なほど仰天していた。


「時間がないの! 急いで言われた通りにして!」


 生まれながらに命じ慣れた者の声調に打たれ、主人は慌てて武具一式の詰まった荷物に手をかけた。

 フィオナがぐったりとしたアベルを抱き起こすと、彼はかろうじてみずからの足で立ち上がった。

 肩を貸して戸口をくぐり、もう一度主人に声をかける。



「ついて来て。森に入るわ」





 月の光も差さない森を、ランタンを手にした人影が進んでゆく。

 人の分け入らぬ森ではあるが、フィオナが予想していたよりも、ずっと歩きやすかった。

 背の高い古木により日光が遮られるため、下生(したば)えはあまり育っていない。堆積(たいせき)した柔らかな腐葉土だけが、わずかにその歩みを(さまた)げる。夜の森は耳が痛くなるほどに静かだった。


「この辺りなら……」


 一人うなずいたフィオナは、支えていたアベルを立ち枯れた潅木(かんぼく)の根本に座らせる。

 つよく香る樹木の匂いと、静謐な大気につつまれて、清々しくも峻厳(しゅんげん)な雰囲気が場をみたしていた。


「荷物を置いて下さい」


 すっかり気をのまれてしまっていた主人は、言われた通りにしながらおずおずと尋ねる。


「あ、あの……なにをなさるおつもりなのですか……?」


 やや開けた場所に宝具を列べながら、フィオナはこたえた。


「竜神さまをお呼びします。すこしこの場から離れていて下さい。もう宿に戻られても構いませんよ。――ありがとうございました」


「りゅ、竜神さま!? で、では私は、あちらの方で待っていますので」


 数歩後ずさった主人は、くるりと肩を返して駆け去ってゆく。


「アベル、すぐに――」


 言いさして、フィオナは絶句した。

 かるく顎を反らしたアベルの唇から、朱がしたたっていた。目からは光が失われつつあり、いよいよ時間がないのだとフィオナは思い知る。


「もうすこしだけ――もうすこしだけ頑張って!!」


 力無く座り込んだアベルへ声をかけて、フィオナはランタンを掲げて周囲を見回す。目についた葉振りのよい枝を掴んで、それを手折(たお)った。

 (さかき)代わりの枝を一振りして、列べられた宝具の前に立つ。

 ふっ、と息をついたフィオナの顔から表情が抜け、辺りに澄んだ声が響き渡った。

 竜神を讃える祝詞が殷々(いんいん)と吟じられ、周囲の静謐さに荘厳(そうごん)な気配が宿る。


 古木の群生する森は、竜神の斎場と化した。


「神儀、(くだ)られませ」


 夜闇立ち込む原生林に、光が降り注いだ。

 見上げると、影を生まぬ不可思議な発光体が、巨大な羽を広げてそこに在った。


 竜の英霊だ。


 視界に収まらぬほどの体躯(たいく)は木々を透過し、悠然と宙を舞っていた。

 溢れ返る金色の光で、辺りは昼のように明るい。



「ああ、竜神さま! アベルを助けて下さい!!」

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