落とし子
夕刻となり、協議を終えたアルセイドが、ふたたび部屋に訪れた。シグナムたちは明朝にもレギウスへの帰路に着く旨を、彼に伝えた。
「そうですか……それがよろしいでしょう。あまり数は出せませんが、レギウスの国境まで警護の兵をおつけします」
「そりゃありがたいけど、いいのか? いまはあたし達に兵を割いてる余裕はないだろ」
「いえ、斥候の数は足りていますし、クリオフェスを攻められた場合、抗戦は考えていません。もしもの時は、無条件で降伏するということになりました。それが通じるかは分かりませんけどね」
アルセイドの口許に、乾いた笑みが浮かぶ。諦観の念が垣間見える笑みだ。
「トスカナ砦壊滅の報が上都に届けば、陛下も戦いを避ける方向に舵を切られるでしょう。おそらく恭順の意を示して、和平の道を探る流れとなるはずです。――もっとも、すでに戦端を開いてしまった以上、魔族がそれに応じるとも思えませんが……」
「最悪、あんたらもレギウスに逃げ込んじまえばいいんじゃないか」
「そういう訳にはゆきませんよ。私はエルテフォンヌの民に対して、責任がありますからね。黒死の病のこともありますし、貴族としての責務を果たしませんと」
決意を語るアルセイドの顔には、精神的な疲労が滲んでいた。そんな彼に、フレインがかるく黙礼する。
「ご立派な心構えだと思います」
「いえ……褒められるようなことは何もしていません」
己の無力さを嘆くように、彼の声は痛切な響きを帯びる。
「むしろ何も出来ていないのが現状です」
誰もがなんとはなしに口を開くことが憚られ、室内に沈黙が落ちた。
気まずい空気を嫌ったかのように、アルセイドが若干張り気味の声で告げる。
「今夜中に皆さんの馬車へ、水と食料を積み込むよう手配しておきます。こまごまとした仕事がありますので、私はこれで失礼いたします」
慇懃な礼をして、アルセイドは部屋を出て行った。
ため息とともにフレインがひとつつぶやく。
「本当にしっかりなされた方ですね。私より幾つか年下のはずなのですが……」
「そのぶん長生きは出来なそうだけどな。妙な肝の据わりかたをしてやがる」
平時であれば、エルテフォンヌの行く末は安泰だといえるだけの器量を、アルセイドは有しているように思われた。
「幼少の頃から、貴族としての教育を施されてきたのでしょうね」
言いながら、フレインはちらりとジャンヌへ目を向ける。
同様にシグナムも、まじまじとくま浮いた神官娘の顔を眺めていた。
「……なんですの?」
「いや、分からないならいい」
ジャンヌの顔から胸へ、そして細い腰へと視線を移し、シグナムはしみじみとつぶやく。
「……アルセイドも、お前のどこがいいのかねぇ」
いささか失礼な視線を上下させるシグナムに、ルゥが怒ったように言う。
「ジャンヌはかあいいよっ」
なぜかほんのりと頬を赤らめるジャンヌだった。
「……にしても、お前はあいつのどこが不満なんだ?」
「べ、べつに不満というわけでは……。竜神などの信徒にしておくには、もったいない方だと思いますし」
「……ああ、なるほどね。やっぱりお前の基準はそこなのか」
好き嫌い以前に、ジャンヌからしてみれば異教徒であることが駄目なのだ。
「とりあえず、そろそろ食事の時間ですね。薬湯の準備がてら、配膳のお手伝いをしてきます」
緋色の導衣から革袋を取り出し、フレインが戸口から出ていく。
鎧戸から見える街並には、ちらほらと炊煙が目立ち始めていた。
翌朝、旅仕度を整えたシグナムは、うつらうつらとまどろむアルフラを抱きかかえ、荷馬車へと運び込んだ。
屋敷の中庭には、数名の騎士を引き連れたアルセイドの姿があった。
「エレナ様もこの場に来られたかったそうなのですが、公務などで多忙を極め、時間が取れないとのことでした」
そう言ったアルセイドの背後には、クリオフェスの高官らしき者が、かしづくように付き従っている。現状での彼の立場は、王族であるエレナの名代といった形なのだろう。
「それに、先日アルフラさんとお会いした時のことを、大変申し訳なく思われているらしく、とても顔を合わせることが出来ないと」
「いや、あの人に悪気がないのは分かってる。すこしおっとりした所があるみたいだしな」
鷹揚にこたえたシグナムへ、アルセイドは深々と頭を下げた。
「エレナ様は、私の方から丁重に謝意をお伝えするように、とおっしゃられていました。そしてそれを直接伝えられない非礼を、重ねて謝って欲しいとのことです」
「まあ、いまはアルフラちゃんを刺激したくないし、むしろ来ないでくれてよかったよ」
「そう言っていただければ、エレナ様の気も幾分安らぐでしょう」
顔を上げたアルセイドは、さらにすまなげな表情で言葉を継ぐ。
「義母もお見送りに上がりたいと申していたのですが、まだ臥せっている状態でして……くれぐれも宜しく伝えてくれとのことです」
シグナムは、アウラと最後に会ったときの、茫然自失とした様子を思い出して、肩をすくめる。
「まだあんな感じなのか?」
「いえ、それもあるのですが……心労だけではなく、体調の方も芳しくないようで……」
アルセイドを見るシグナムの目に、皮肉げな色合いが混じる。
「あんたも上手いことやったな」
「……え?」
「ついこの間まで、お家の実権を握ってたのは、あんたの母君だったんだろ。それが今じゃあ……」
騎士や文官を従えたアルセイドは、エルテフォンヌの当主として振る舞っているように見えた。
事実、いまの彼は、白竜騎士団という力を背景に、クリオフェスの領主にまで影響力を及ぼしている。
わずか数日前まで、その立場にあったのはアウラのはずだ。彼女が、傷つき倒れたアルフラの姿に衝撃を受け、臥せってしまったことが転機となったのは間違いない。
あの場でのアルセイドの言動を思い出すと、エルテフォンヌの実権を、アウラからみずからの上に移そうという意図があったようにもとれる。
「私は……」
言葉を濁すアルセイドへ、シグナムは口の端で笑ってみせる。
「べつに責めちゃいないよ」
シグナムは心の中で彼に対し、なかなかのやり手だという評価を付け加えた。
向けられた視線に、居心地悪げな様子を見せながらも、アルセイドは取り繕うように告げる。
「北の外門に五十名ほどの騎士を待たせてあります。国境の街、サリエナまではその者たちが危険を排してくれるでしょう。それとは別に、一個小隊を先行させ、哨戒にあたらせています。道中なにかあるようならば、随時、伝令が届くはずです」
「いたれりつくせりだな」
「お心遣い、感謝いたします」
目礼をしたフレインは、さらに数言別れの言葉を交わし、荷馬車へと乗り込んだ。
車内には、アルフラの包帯に染みこませた没薬の臭気が充満していた。フレインが換気のために小窓を開くと、ジャンヌを呼ぶシグナムの声が聞こえた。
「お前もこっちだ」
神官娘の手を引いて、シグナムが荷馬車に乗り込む。
「えー」
ルゥが不満の声を上げた。没薬の臭いが苦手な狼少女は、ジャンヌと一緒にもう一台の馬車に乗りたかったのだろう。
ぐずる狼少女を荷馬車に押し込んだシグナムに、騎士の一人が声をかける。
「よろしければ、サリエナまで御者台をお預かりしましょうか?」
ジャンヌとの別れを惜しむアルセイドを尻目に、シグナムは騎士の申し出を丁重に断る。
そのやり取りを見ていたカダフィーが、御者台へとまわった。
「午前中の陽射しが弱いあいだは、私が御者をやるよ」
「そうしてくれ。正午前にはあたしかフレインが代わる」
御者を勤めるという騎士の申し出を断ったのは、単純な警戒心からだった。見も知らぬ者に、鞁を握らせたくなかったのだ。
アルセイドが付けてくれた警護とはいえ、それらの者は気心の知れぬ、武装した兵士である。彼らが敵対することはまずないと分かっていても、用心は怠らない。
昨日の会話から、アルセイドが真剣に、魔族への降伏を考えていることは察せられた。そして魔族側は、降伏など容易に受け入れはしない、そう予想していることも。
もしアルセイドが、二人の貴族を討ち取ったアルフラの首を手土産に、魔族への帰順を考えたら……?
そういった事態を想定するのは、杞憂であろうとは思う。しかしアルセイドが、アウラからエルテフォンヌの実権をもぎ取った手並みを考えれば、その可能性を完全に否定することも出来ない。彼がアルフラを害して得られる利は、確かに存在するのだから。
人の良いフレインあたりなら、考えすぎだと苦笑するだろう。だが、そういった目端が利けばこそ、シグナムは一介の戦士に止まらず、傭兵団の副長になれたのだと自認している。
(有り得ると予想される不安材料は、全て“有る”と考える)
かつて上司であった傭兵団長の口癖だ。
ジャンヌを荷馬車に乗せたのも、いわば保険のようなものだ。万が一、アルセイドが護衛の騎士たちへ、アルフラの寝首を掻けと命じたとしても、ジャンヌには決して危害を加えないように、と言い含めるだろう。それは個人的な好意からだけではなく、ジャンヌの地位を考慮してのものだ。彼女は、ダレスの司祭枢機卿、アルストロメリア侯爵の愛娘なのだから。彼女を害せば、いろいろな方面に角が立つ。
そういった理由から、ジャンヌをアルフラのそばに置こうと、シグナムは考えたのだ。むろん彼女もアルセイドの人柄を見ている。本気で彼が裏切るとは思っていない。それはただの用心であり、しないよりはした方がいい。そんな程度の事柄だった。
馬車は街路を滑るように駆け、外門へと向かう。
フレインは、シグナムの挙動に不審なものを感じていたが、それに言及することはしない。おそらく何か考えがあるのだろうと納得していた。かわりに、もっと切実な危惧を口にする。
「昨日、夕食のあとにアルセイド様から相談を受けたのですが……」
「相談?」
ひそめられたフレインの声が聞き取りづらかったらしく、シグナムは身を乗り出して耳を寄せる。
「その……堕胎を行う魔術を使えないか、と聞かれまして……」
「堕胎って……」
かなり意表を突かれたらしく、シグナムの瞳は大きく見開かれていた。
「孕んだ子を流すってことか?」
「ええ、かつてはそういった術もあったらしいのですが、レギウス神の理に反するとして、その知識は封じられています」
「いや、なんでアルセイドがそんなもんを必要としてんだ?」
「……アウレリア様が体調を崩されているという話を、さきほど聞かれましたよね?」
「ああ……まさか!?」
妊娠初期の症状に、吐き気をともなう悪阻と呼ばれるものがあるとことを、シグナムも知っていた。
そしてアウラは、トスカナ砦から救出されるまでの数ヶ月間、魔族の捕虜であったのだ。その彼女が妊娠しているとなると、孕んでいる子は……
「おそらくそうではないか、と医師の診断があったそうです」
どう応じてよいのか分からずに、シグナムは口を閉ざす。
「アウレリア様は魔族の捕虜であった時分、とても苛酷な環境下にあったそうです。そのうえ魔族の子を孕んでいると知れば、精神的にも耐えられないだろうとアルセイド様は心配されていました」
「……だろうな」
アウラは砦から救出されたあと、みずからを救ってくれたアルフラにひどく傾倒していた。その崇拝ともいえる強い感情を、不安定な精神の支えとしていた節がある。――そして、アルフラの無惨な姿を見て、張り詰めた糸が切れてしまった。
もしそんな状況で、自分が魔族の子を孕んでいるのだと知れば……
「想像しただけで、うすら寒いもんがあるな」
「はい……ロマリアは地母神信仰がその根にありますので、堕胎はレギウス以上に忌避されています。そういった処置を行える医師もいるはずですが、やはり母胎にかかる負担も大きい。いまのアウレリア様では命に関わると、お抱えの医師も及び腰なのだとか」
「まあ、元伯爵夫人の身に何かあれば、自分の首が飛びかねないだろうしな。――それであんたに話が回ってきたのか」
「ええ、魔術による堕胎が不可能なら、そういった薬を処方することは出来ないか、と尋ねられまして……」
神妙な顔つきで聞いていたシグナムだが、そういった方面にはあまり明るくない。
「薬で堕胎なんて、出来るのか?」
「カダフィーに聞いてみたところ、ギルドの書庫にはそういったものに関する文献も確かにあると。――もちろん服用すれば、様々な臓器に悪影響を及ぼす劇薬だそうです」
「アルセイドはなんて?」
「それでも構わないので、用立ててくれとのことでした。――ただ、レギウスに帰り、薬を調合してロマリアへ送るとなると、最低でも二ヶ月ほどはかかります。出来ればアウレリア様が、ご自身の変調に気づかれる前に、その薬を届けて欲しいとおっしゃられていました」
アルセイドが事前に斥候まで放ち、レギウスへの行程を円滑化しようとしたのは、そういった理由からなのだろう。シグナムはそう納得した。
「なら警護の騎士は信用出来るか……」
ひとりごちたシグナムへ、フレインが驚いた顔をする。
「シグナムさんは騎士達を……アルセイド様を疑っていたのですか」
やや咎めるような口調のフレインに、シグナムはうすく笑んでみせる。
「ちょっぴりな」
「それはさすがに、貴重な兵を割いてくれたアルセイド様に失礼なのでは……」
シグナムは片手を挙げてフレインの言葉を遮る。
「あんたならそう言うと思ったから、黙ってたんだ」
からかうような口ぶりで言ったシグナムの表情が、突如険しくゆがむ。――とてつもなく嫌な可能性に、思い当たってしまったのだ。
「……まさか魔族の子って、咬焼のガキじゃないだろうな」
これにはフレインも顔色を変え、うめくような声をもらした。
「咬焼の……爵位の魔族と人間の、混血……?」
人と魔族が交わり、子をなす確率は限りなく低い。しかしまったくの皆無というわけではなく、少数ながら混血も存在していた。しかしそれが、爵位の魔族となるとフレインにも聞き覚えがない。
「……この話は、他言無用にお願いします。アルセイド様からきつく口止めされているので。シグナムさんならば構わないと思ってお話ししましたが……」
「ああ、さすがにかなりまずい話だってのは分かってる」
シグナムは大きく息を吐いて、天井を仰いだ。
「それにしても――どこもかしこものっぴきならないことになってやがるな……」