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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
155/251

吸血鬼の夜



 早朝、街道脇に止められた二台の馬車。シグナムは横たわったアルフラに、薬湯を飲ませていた。

 アラド子爵領へと出立(しゅったつ)してより、すでに四日。黒死の病蔓延(はびこ)る、カモロアの街を脱出するのは、拍子抜けするほどに容易だった。

 シグナムたちが馬車を()って街門に到着したときには、カダフィーがすでにすべての用意を整えていたのだ。

 門を守る衛兵ことごとくは、女吸血鬼の魔眼に魅入られ、一様に虚ろ表情を晒していた。彼らはなんら疑問も(いだ)かず門を開き、馬車は止まることなくこれを駆け抜けた。後方では、異変に気づいた衛兵たちが、詰め所からわらわらと飛び出し、同じく門が開いたことに気づいた難民たちと、揉み合いになっていた。

 一行はそれらの混乱に巻き込まれることなく、順調に北西へと馬車を進めた。

 そして現在。アラド子爵領、クリオフィスの街まで、あと半日の距離といったところだ。


「シグナムさん、どうぞ」


 アルフラの包帯を巻き替えたシグナムへ、茶が差し出される。それを受け取り一口すすったシグナムは、あまりの苦さに顔をしかめた。


「これ……」


「龍参胆の薬湯ですよ。出がらしですけどね」


「……むしろ苦味が増してないか……?」


 火酒でも舐めるかのように、シグナムはちびちびと口をつける。アルフラには口移しで飲ませているため、その味にも慣れてはいるのだが、普通の茶だと思って口にしたため意表をつかれたらしい。


「すこし混ぜ物をしてみました。良薬口に苦し、ですね」


 かすかに笑い、フレインはみずからも茶を少量口にふくむ。


「これはたしかに……ですが、シグナムさんはここ数日、だいぶ食が細っています。ちゃんと滋養は摂らないといけませんよ。――残さずにお飲み下さいね」


 頬の削げたシグナムの顔に、苦笑が浮かぶ。唇はかろうじて笑みの形をとってはいるが、その表情は暗い。肌にも艶がなく、著しい憔悴が見受けられる。――それほどまでに、アルフラの容態が(かんば)しくないのだ。


 シグナムが碗を傾け、ひどく苦いそれを喉へ流し込もうとしたとき、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。


「うわぁぁーーん!! お姉ちゃーん!」


 なにごとかと目を向けたシグナムは、


「ブッ――!?」


 貴重な薬湯を盛大に吹き出してしまった。うしろではフレインが激しくむせていた。


「ル、ルゥ!?」


 わんわん泣きながら走ってくる狼少女は、下半身すっぽんぽんだ。内ももには幾筋かの血が赤い糸を引き、それを見たシグナムは、ぎょっと目を剥く。

 ルゥの背後からは、かぼちゃパンツを手にしたジャンヌが追いかけてきていた。


「こらっ、ルゥ! お待ちなさい!」


 シグナムが慌てて馬車から降りると、ルゥはその胸にすごい勢いで飛び込んできた。


「ううぅぅ、お姉ちゃん! おまたからいっぱい血がでてるの!! ボク、しんじゃうの――!?」


 微笑ましいほどに悲壮な顔をする狼少女に、シグナムは思わず笑ってしまう。


「ルゥ、そりゃただの生理だ」


「――え!?」


 狼少女はびっくりまなこで自分の股をのぞき込んだ。よく見えないらしく、ぐいぐいと指で柔肉を押し広げたりなぞしている。


「これが生理なの?」


「ああ、お前も大人の仲間入りだな」


「ボク、まえからおとなだよ? でもよかったぁ」


 ルゥは一安心、といった感じでにっこりとした。


「きょうは新月だし、すごく具合もわるいから、ボクこのまましんじゃうのかと思っちゃった」


「そういや今日は新月だっけ」


「あっ――」


 ――とフレインが手を打つ。


「たしか人狼族の女性は、ほぼ毎回満月の夜に排卵が訪れるという話です」


「へえ、そうなのか」


「ええ、ですから自然と新月の日に“月のもの”が来るのですよ」


 微妙にルゥから視線を逸らして語る博識な魔導士を、シグナムは感心したような目で見ていた。

 神官娘はルゥを抱き寄せ、言い聞かせる口調でその手を引く。


「ほら、私がいろいろ教えて差し上げますから、まずはあちらで体を拭きましょう」


「ああ、ジャンヌさん。人狼族はだいたいその日の内に経血が治まるらしいですよ」


「えっ、そうなのですか?」


「……すごいな」


 ジャンヌとシグナムは目をまるくする。二人から羨望の眼差しを向けられ、ルゥはよくわからないながらも、すこし得意げな顔をしていた。

 とくにシグナムなどはひどく羨ましそうだ。女性が正規兵に採用されない理由はいくつかあるが、やはり毎月訪れるそれが、一番の要因であるからだ。

 定期的に体調を崩す者に兵士など勤まらない。戦いになれば真っ先に命を落とすであろうし、訓練や行軍にもついて来れない。――至極まっとうな理由といえよう。


「あたしも人狼族だったらなぁ……あーでも、普通の狼と違って毎月発情期が来るようなもんなのか?」


「そうですね」


 うなずくフレインを見て、ジャンヌは目をぱちくりさせる。そして思いあたってしまう。


「……はっ!?」


 神官娘は股間を両手で隠して、おおきく飛びのいた。


「ま、まさか……」


「えっ、なに?」


 不思議そうに首をかしげる狼少女から、ジャンヌはすり足で距離を取る。腰は引け、膝もがくがく震えているが、臨戦態勢の動きである。――警戒感がものすごい。


「もしや満月の日には、毎回あのような感じになるのですか……?」


「どのような感じかは知りませんが、あまりずれること無く、満月には排卵が来るらしいですよ。そういった事情もあって、人狼族は男性よりも女性の方が、満月期には気性が荒くなるそうです」


「う、うぅ……」


 ジャンヌの顔はまっさおだ。


「うわぁぁ~~ん」


「ジャンヌ!? 待ってよー!」


 来たときとは逆に、泣きながら走りさるジャンヌをルゥが追いかけて行ってしまった。


「ははっ、相変わらず仲がいいな、あいつら」


 シグナムは目許を優しげにほころばせた。久しぶりに見た彼女のくったくない笑みに、フレインも心をなごませる。



 だが、その笑顔も長くはつづかないであろうことは、重々承知していた。





 正午過ぎ、クリオフィスに到着した一行は、アウラの遣いに案内され、市内へと入ることが出来た。途中、クリオフィス手前の関所で足止めされたものの、エルテフォンヌの女主人、アウラと連絡が取れてからは話が早かった。

 使者として関所とクリオフィスを往復した騎士も、アウラに命じられたらしく平身低頭の様子で、馬車の護衛についていた。そして一行は、街の北側にある大きな邸宅へと招き入れられた。

 奥まった一室にアルフラを運び、大きな寝台に横たえる。シグナムは昏々と眠るアルフラの横にひざまずき、じっとその様子をのぞき込んでいた。


 ほどなく、アウラの娘であるオクタヴィアとその義兄、アルセイドが部屋を訪れた。二人の後ろには医師らしき男とその助手が二名。


「お久しぶりです。アルフラさんが大怪我をなされたと聞き、アラド子爵お抱えの御典医、カルダム殿をお連れしました。義母(はは)は現在どうしても外せない来客があり、後ほどこちらへみえられるとのことです」


 アルセイドはシグナムに一礼し、寝台の脇に控える神官娘へ笑顔を向ける。


「ああ、ジャンヌ姫。ご無事でなによりです」


 歩み寄るアルセイドの後ろから、オクタヴィアが牽制の視線をジャンヌに飛ばす。

 再会の喜びを、抱擁で表すため両手を広げたアルセイドは、


「ぐるるっ――!!」


 ルゥに威嚇されてそれを果たせなかった。

 よくやった、という視線がオクタヴィアから狼少女に向けられる。

 アルセイドをジャンヌに近づけまいとする者同士、なにか通じるものがあったのだろう、ルゥもオクタヴィアを見てにこっと笑った。


「挨拶はいい。早くアルフラちゃんを見てやってくれ」


 余裕のないシグナムの口調に、緩みかけていた室内の空気に緊張が戻る。


「わかりました。ではカルダム殿、お願いします。彼は医術だけではなく、治癒魔法にも精通した、このロマリアでも屈指の――」


 アルセイドの声が不意に途切れた。アルフラに掛けられた敷布を、シグナムが取り去ったのだ。

 目を見開いて絶句するロマリア人たちのなかで、かろうじてカルダムが声を絞り出す。


「酷い火傷を負われているとは聞いていましたが……まさかこれ程とは……」


 険しく眉をよせ、カルダムはアルフラの身体各所へ目を走らせる。


「詳しい容態をお聞かせ願えますか?」


 フレインがひとつ頷き話し始める。


「アルフラさんが火傷を負ったのは、半月ほど前のことです。カモロアにて治療にあたっていたのですが、右腕が壊死したため、これを切断しました」


 アルセイドとオクタヴィアの二人は、話を聞く間も、変わり果てたアルフラを直視出来ず、視線を床へと落としていた。


「四日ほどかけてクリオフィスに着きましたが、道中、固形物は喉を通らず、よく煮込んだ穀物の類いなども、すべて嘔吐しています。ここ数日は声も発することが出来ないらしく――わずかな水と薬湯などで、かろうじて命を繋いできましたが……」


 痩せさらばえたアルフラの(からだ)は、餓死した者の遺体を見ているかのようだった。


「……では、すでに四日ほどもまともな食事をしていないのですな?」


「いえ、正確に把握は出来ていませんが……十日近くではないかと思います」


 アルフラが宿の地下に篭っていたときから、その痕跡があったのだ。後から判ったのだが、室内には大量に吐瀉(としゃ)した跡が残されていた。おそらくアルフラは、体力を戻そうと無理に食事をし、何度も嘔吐を繰り返したのだろう。


「たぶん……ちゃんと食事を摂らないと傷が治らないって、あたしが言ったからだ」


 自責の念に顔を歪め、血を吐くようにシグナムは言った。

 アルフラの呼気を確かめるため、その顔に耳を寄せていたカルダムが、首筋に手を当てる。脈を計り終えると、ついで包帯を解きにかかった。傷の具合を検分し、腹を掌で軽く圧迫する。触診をしながら、カルダムは大きく息をついた。


「……ここまで衰弱が激しいと、もはや手の施しようがない。正直、今現在息があるだけでも奇跡だ」


 ロマリア有数の医師と紹介された男は、深く頭を下げた。


「力になれず、申し訳ありません」


「そんな……!?」


 カルダムに詰め寄ったシグナムは、すがるようにその手を取る。


「あんた腕のいい医者なんだろ……頼むよ、なんとかして……」


「あっ……アルフラさん……」


 フレインの声に、場の視線が寝台へと集まる。

 うっすら目を開いたアルフラが、ぼんやりと天井を見つめていた。その視界から逃れるように、シグナムは壁際に寄る。

 今では喋ることも出来ないほどに衰弱したアルフラであったが、右腕の切除後、ただ一度だけ声を発していた。


 ――あたしの右手をかえして、と。涙ながらにシグナムへ訴えたのだ。以来、アルフラの守護者を自認してきた女戦士は、アルフラと目を合わせることが出来なくなった。そして食事も喉を通らず、頬骨が浮き出るほどに憔悴してしまっている。


 アルフラの瞳孔と虹彩の状態を、カルダムが確認する。

 口を開く者もなく、静まり返った部屋の扉が、慌ただしく開かれた。

 息を切らして駆け込んできたのは、エルテフォンヌ伯爵代行、アウラだった。彼女は結い上げた髪を振り乱し、寝台の前に立つと、


「アルフラ様!?」


 魂消(たまぎ)えるような声で絶叫した。

 アウラは瞳を揺らめかせ、顔色を失う。

 寝台に横たわる惨状に、二の句が続かない。アルフラの右半身は黒く焼け焦げ、左の半身も青紫の痣でおおわれていた。

 眼球を失った右目は暗い(ほら)。右腕も肩口から切断され、失われている。


「あ、あぁぁ……本当にこれは……アルフラ様なのですか……?」


 当然の疑問であろう。アルフラを知る者からすれば、そう思わざるえない。かつての面影が、一切そこにはないのだから。

 アルフラに対するアウラの想いは、信仰にも似ている。そんな彼女ですら、無惨に焼け爛れたその顔が、在りし日の面立ちと結び付かない。

 上体をかしがせ、アウラは床に腰を落とす。その口から、悲痛な呻き声がこぼれた。アルセイドは、座り込んだ義母(はは)に肩を貸して、丁重に抱え起こす。


「義母上……クリオフィスの政務官を待たせているのでしょう? アルフラさんの見舞いはそちらを済ませてから……」


 その言葉も耳に入らぬかのように、アウラは虚ろな眼差しで震えていた。


「……一旦、出直しましょう」


 アルセイドのいたわる声に、アウラは身を竦ませた。


「で、でも……アルフラ様が……」


 小刻みに震える手が、寝台へと伸ばされる。凄惨な様相と化した、信仰の対象へと。


「アルフラ、様……?」


 アルフラの瞳が、アウラへと向けられた。しかし焦点は結ばれず、視線はどこへともなく通り過ぎる。

 アウラの指先が、はだけられた胸元に届いた。水分を失い、酷くかさついた肌。病床で死を待つ老人のごとく、アルフラの体は萎びていた。――触れたアウラの手が、力無くなく垂れ下がった。絶望により、顔から表情が抜け落ちる。その口が、アルフラ様、アルフラ様、と譫言(うわごと)のように繰り返す。


「トスカナ砦の陥落以降、義母上はエルテフォンヌのため、精力的に働いて来ました。無理が祟っていけません。ここらで体を休めて下さい」


 アルフラの体を隠すように、アルセイドは義母を抱きしめた。アウラは感情の失せた目で、ぼんやりとアルセイドを見上げる。


「……義母上は、すこし疲れているのですよ」


「え、ええ……そうかも、しれません……」


「あとの政務は、私が引き継ぎます」


 アルセイドは一行に(いとま)を告げ、ぐったりとしたアウラに付き添い、退室していった。





「医術や治癒魔法にも限界があります。こうまで衰弱しきっていては……あとはただ、この少女が最後の刻を心安らかに迎えられるよう祈るしかありません」


 そう締めくくり、医師カルダムは部屋をあとにした。それと入れ違いに、ロマリアの王族にして竜神の巫女でもある、エレナ・ロマリノフが訪れた。彼女はあらかじめ状況を聞き及んでいたようで、取り乱すでもなく寝台の前に立った。

 これまでの経緯をフレインに尋ねたエレナは、深く嘆息してアルフラの髪を撫でる。包帯は巻き直されているため、火傷の痕は隠されていた。そうでなければ、エレナもそれほど冷静ではいられなかっただろう。


「最後にお会いしたときは、あれほど愛らしく微笑んでいたのに……やはり、あのときもっとアルフラさんを引き止めていれば、こんなことには……」


 エレナの手が、アルフラの頬に添えられる。


「治癒の魔法を試してみてもよいでしょうか?」


「是非、お願いします」


「あまり期待はなされないで――」


「なんでもいい。やってみてくれ」


 シグナムに急かされて、エレナは呪文の詠唱を始めた。やがてその手は暖かな輝きを帯びる。


「――竜の息吹」


 言葉とともに、アルフラの体へ光が染み入る。閉じられていた瞼が、ゆっくりと開かれた。が――目に映る限り、治癒による劇的な効果は認められない。


 エレナが手を引くと、胸元でちゃらりと金属音がした。アルフラの目が、その音に誘われる。


「あ……これ、ですか?」


 首に掛けられたペンダントを握り、エレナはすこし気まずそうにする。


「あの……ヨシュア様が上都へ戻られる際に、頂いたものです。私が以前にねだったのを、覚えていてくれたらしくて……」


 みずからの手元に注がれる食い入るような視線に、エレナはどうしてよいかの分からず、ペンダントをアルフラの目の前にかざして見せる。


「ヨシュア様からの初めての贈り物なのです。これまで気の利いたことなど一度もしてくれなかったのに……ある意味、アルフラさんのおかげかもしれませんね」


 アルフラは覚えていた。以前、このクリオフィスでエレナと会ったとき、白蓮の髪を見た彼女が、物欲しげな目でヨシュアを見ていたことを。

 おそらく、エレナが愛おしそうに撫ですさるそのペンダントの中には、愛する男の髪でも入れられているのだろう。


「……ッ……」


 アルフラの白く濁った瞳が見開かれる。その口許がかすかにわなないた。


 ――不躾な、女……


 エレナにも悪気は無かったのだ。しかし、ヨシュアから贈られたペンダントは、アルフラが失ってしまったそれと、非常によく似た品だった。

 エレナのたわいない話が、今のアルフラにとっては単なる惚気(のろけ)に聞こえたとしても、それは仕方のないことだろう。なにもかも失ったアルフラに対し、エレナは惚れた男の話を、嬉しげに語って聞かせたのだから。――あまつさえ、頬を染めて恥じらいを見せながら。


「え……アルフラさん?」


 残された左の目に宿った感情は、嫉妬であろうか。それとも蔑みか。


「う、あぁ……ぅぅ……っ……」


 アルフラの喉から、癇癪を起こした子供のような呻き声がもれた。渇ききった瞳から、涙がしたたる。


「エレナ様、ご退出を」


 フレインの硬い声に、エレナは肩を震わせる。


「あ、あの……なにか私……」


「出てってくれ!」


 シグナムの強い口調と、扉を開いて退室を(うなが)すフレインを見て、


「あっ、すみません! 私ったら……」


 ようやくエレナは、おのれの不作法に気づいたようだ。


「いいから出てってくれ! 早くッ!」


 その声に押されて、エレナは謝罪の言葉を口にしながら部屋を去った。



 フレインは扉を閉める瞬間、死の床からエレナを呪うアルフラの声を聞いたような気がした。





 夜の帳が降りきった頃合い。月明かりのない暗い室内に()し入る気配があった。


 その夜、シグナムは客室の続きの間に待機し、一刻置きにアルフラの容態を確認しにいっていた。割り当てられた自室に戻っていたフレインが現れたのは、夜半も過ぎた時分だった。


「……よろしいのですか?」


 陰鬱に問うたフレインへ、やはり暗い声音でシグナムは告げる。


「しょうがないだろ、もう……魔法も駄目、お偉い医者にも(さじ)を投げられた」


 痩せて疲弊の色濃いシグナムの顔に、苦悩の皺が刻まれる。


「……体が弱れば気も弱ります。投げやりになっているのでは?」


「――投げやりにもなるさ!」


 カッとしたようにシグナムは語気を荒げた。


「このままじゃ……本当にアルフラちゃんが死んじまうんだからな!!」


 フレインは目を逸らし、アルフラの眠る客室の扉を見つめる。


「そういうお前はどうなんだよ。あんたも気づいたからここに来たんだろ」


「……ええ。ですが……シグナムさんの言う通りです。このままではアルフラさんは……」


 ならばいっそ……とフレインは、沈痛な面持ちでうなだれた。

 シグナムはそれに低く応じる。


「このまま死なせちまうよりは……」



 二人の視線は、気配の一つ増えた客室の扉へと向けられていた。





 カダフィーは、胸いっぱいに夜気を吸い込み、瞳をまたたかせた。闇の中に赤い双眸(そうぼう)が浮かび上がる。

 感じられたのは馴染み深い、とても心地好い死の臭気。それは寝台の周りを濃く取り巻いている。

 女吸血鬼は気配を隠すこともなく、枕元に立つ。

 包帯から僅かにのぞく少女の顔には、見間違いようのない死相が張り付いていた。最早あと数日とはもたないであろう。

 少女の過保護な守護者たちも、それを悟り、邪魔だてするつもりはないようだ。


「おや、お目覚めかい?」


 上機嫌に笑った女吸血鬼は、ふと眉をひそめる。彼女に向けられた少女の瞳は、いま起きたという風でもない。


「……もしかして、待ってたのかい。私を」


 まばたきすることなく凝視する少女から、一切の感情は読み取れない。


「ふん……まぁ、だったら話は早いね」


 ばさりと外套をひるがえし、女吸血鬼は嬉しげに問う。


「このまま最期を迎えるか、それとも死を乗り越えるか――選ぶといい」


 口にはしないが、たとえアルフラの血を啜ったとしても、彼女が吸血鬼化する可能性は、五割以下だとカダフィーは考えていた。今ではほとんど力を失っているとはいえ、爵位の魔族の血を飲んで平気な顔をしている少女だ。そう容易には吸血鬼(げぼく)に出来ないだろう。――だが、それを教えてやる必要もない。


「さあ、どうするんだい? 白蓮といったっけ? このまま死んじまったら、その女とも二度と会えないんだ。迷うことはないだろう」


 女吸血鬼は、ひび割れた少女の唇が、かすかに動いていることに気がついた。


「ああ、失礼。そういやあんた、もう声が出ないくらい弱ってるんだったねぇ」


 嗜虐的に笑い、女吸血鬼は鷹揚に頷く。


「じゃあ、私の口づけで新たな生を得たいのなら、ゆっくり二度、まばたきをしな」


 答は解っていると言わんばかりに、女吸血鬼はもう一つの選択肢をはぶく。そして予想通り、少女は一度、二度、とまばたきをした。


「ふふ……いい子だね」


 女吸血鬼は、みずからの口許が喜悦に歪むのを感じた。


「なあに、安心おし。全然痛いことはないよ。だいたいの奴は、気をやっちまうほどよがるからね」


 大きく口を開き、太く長い牙が剥き出しとなる。


「すぐに気持ち良くイかせてあげるよ。――ふふ、間違って天国に逝っちまわないようにね」


 細った肩を押さえつけ、喉首に牙を寄せる。


「ゆっくり愉しみ――――ッ!?」


 喉に牙を埋めようとした直前、女吸血鬼は慌てて身を起こす。


「――この、小娘……」


 魔眼が赤く煌めいた。妖魅の魔力が瞳に溢れる。


「あんた、今……私を――噛もうとしたね!?」


 笑っていた。

 アルフラは妖魅を見返し、歯を剥いて笑っていた。


「な、なんて娘だい……」


 女吸血鬼は怖気(おぞけ)にぶるりと身を震わせた。もしあのまま血を啜ろうとすれば、吸い殺されたのは自分の方だったのではないか。そう思わせる異様な精気が、アルフラの瞳には宿っていた。


「あ、ああ……そういえば凱延の野郎も言ってたね。――あんた、本物のバケモノだよ」


 アルフラの目が、早く血をよこせと叫んでいた。


「……そんなに、私の血が欲しいのかい?」


 その言葉を肯定するかのごとく、瞳はじゅくりと渇望に濡れる。飢餓が渦巻く。

 おそらく、それは一時的なものなのだろう。尽きる間際の蝋燭が、瞬間激しく燃え上がるように、アルフラは気力だけで体をもたせているのだ。

 燃え尽きるのをただ待つだけで、なんの苦もなくカダフィーは血を啜れるだろう。しかし――


「……ふ、ふふふ――はははははは」


 ――女吸血鬼は笑いながら、みずからの腕を爪で切り裂いた。

 そうさせたのは、優越感と共感であろうか。

 見世物小屋にでも身売りすれば、金が稼げるほどに焼け潰れた顔。それが小気味良かったのだ。そこには女としての優越感があった。――そして共感。


「ははッ、わかる。わかるよ! あんたが本当に欲しいのは、白蓮て女なんだろ!!」


 カダフィーを見返すのは、情愛に()み狂った者の目だ。

 愛する者のために、身を切ってでも事を成そうとする心の在り方。その想いに共感を覚えた。


「いいさ、ほんの少し――そう、ほんの少しだけ、分けてあげるよ」


 白煙を噴く腕を押さえて、カダフィーは呪文を唱える。

 傷口の再生を止めて手を離すと、百二十年の時を経た古い血が、零れ出た。


「さあ、お飲みよ。そして私の下僕とおなり」



 腕を伝い、指先からしたたった血が、アルフラの唇を朱く(けが)した。





 トスカナ砦駐留軍全滅、との(しらせ)が届いたのは、翌朝のことであった。

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