腐肉斬断(後)
悲痛な叫びに堪えられず、シグナムは為す術もなく身を強張らせる。それは他の者も同じだった。金縛りにでもあったかのごとく、動きと思考を止めてしまう。しかし、アルフラの肩口から溢れる血の鮮やかさに、忘我は去る。
もはや右腕の切除は、中断不可能な段階にまで進んでしまっていた。そうでなくとも、壊死した腕を放置しておくことは出来ない。
やり遂げなければ、死という結果しか残らないのだ。
「アルフラちゃんを押さえてくれ!」
シグナムの鋭い声にうながされて、フレインたちがその言葉に従う。
「いや、いや! やめて――!!」
向けられた恐怖の視線にたじろぎながらも、シグナムはアルフラの肩に刺さった短刀を掴む。
「――やだ! きらないで!! あたしのみぎて……あたしの……」
複数の手により身体を拘束され、アルフラは狂乱の内に泣き叫んだ。
なんとか逃れようと手足をばたつかせるが、瀕死の体では叶うはずもない。
真っ青な顔をしたルゥと、アルフラの視線がふと交わる。
上体を押さえつける狼少女の手が震えた。
「おねがい、ルゥ……はなして……」
ルゥはべそをかきながらも、愕然としていた。自分がいともたやすく、アルフラの自由を奪っている現状に。
以前であれば、たとえ狼少女が獣人化したとしても、こうはいかなかっただろう。
重度の火傷を負い、衰弱しきったアルフラ。必死にもがいてはいるが、まるでおさな子のように力無く、とても弱々しい。
その事実が、ルゥにはとても悲しかった。
「あたしたち、ともだちだよ、ね……? みぎては、いやなの……おねがいだから……」
すがるような瞳を直視出来ず、ルゥは目を逸らす。
「ごめん、ごめんね……アルフラ……」
鳶色の瞳がぎょろぎょろと周囲を見回す――しかし、誰もが悲壮な表情で、顔をそむけた。
「あ、あ、あぁぁ、いやあああ……たすけて……」
口の端が裂けるほどに開かれ、血をしたたらせながら、絶叫が迸しる。
「白蓮! 白蓮! たすけて、白蓮――――――!!」
短刀の刃を進めようとしていたシグナムは、思わず手を止める。
極限の状況下において、アルフラが助けを求めたのは――多くの戦場で肩を並べ、長らく生死を共にした自分ではなく、シグナムにとっては見も知らぬ他者であった。そのことに、たまらない痛みを覚える。
「すまない、アルフラちゃん……」
灼熱の刃がほそった肩を、ぶつりと焼き切った。
右腕の切断から数刻後、アルフラは客室の寝台に寝かされていた。痛みと失血により意識はない。湯を使って体は清められ、すでに新しい包帯が巻かれている。
血を多く失ったことにより、熱は著しく低下していた。本来なら低体温症を招きかねない状況ではあるが、ロマリアの猛暑が幸いしたといえるだろう。夜でも人肌に近いほどの気温であるため、一定以上には体温も下がらない。
シグナムたちは、憔悴の色濃く浮き出た表情で、アルフラを見つめる。
「これからどうするつもりだい?」
アルフラを囲む輪から一人離れ、壁によりかかっていたカダフィーが尋ねた。
「近くに黒死の病に罹った医者の死体が転がってたんだろ? だったら早くこの街から出たほうがいい」
「たしかに、このままカモロアに留まることは出来ませんが……」
フレインは、浅く頼りない呼吸を繰り返すアルフラを見つめたまま、口をつぐむ。不規則な寝息によく聴き入っていないと、それが不意に途絶えてしまうのではないかと、気が気でないのだ。
同じく、神妙な面持ちでアルフラの容態を見ていたシグナムが、掠れた声で言う。
「宿の主人が言うには、二日後――いや、日があけてもう明日だな……明日には南に向かったロマリアの国軍が戻って来るらしい」
「では……」
「今日中にカモロアを出ないと、身動きが取りづらくなる……」
かといって、今のアルフラが馬車での移動に耐えられるのだろうか。その疑問が判断を鈍らせる。
「夜が明けるにはまだ時間がある。いまなら私が安全に、街門をくぐらせてやることも出来るんだよ?」
「さすがに、これからすぐというのは……」
逡巡するフレインを見て、女吸血鬼はあきれたように肩を竦めた。
「迷ってる時間なんてないよ。医者が死体になって転がってるってことは、すでに黒死の病に罹患した者が、そこらじゅうに居るってことだ。下手をすれば、まだ症状が出てないだけで、宿の使用人にもそういった輩が混じってるかもしれない」
カダフィーの視線が寝台へと向けられる。
「このうえ嬢ちゃんが黒死の病をもらっちまおうもんなら、もうどうやっても助からないよ」
重苦しく沈黙する面々を見やり、カダフィーは大きくため息を落とした。
「国軍が到着して門兵の数が増えれば、そのすべてを魔眼で腑抜けにするのは難しい。カモロアを出るなら今日中でないと、一戦交える覚悟が必要になる。しかも、死にかけの嬢ちゃんを守りながらの戦いだ」
選択の余地なんてないんだよ、とカダフィーは締めくくった。
うなだれるように耳を傾けていたシグナムが、不意に立ち上がる。
「出発の用意をしよう。いまアルフラちゃんを動かすのは危険だが……」
このまま宿に留まるのも命にかかわる。どちらがより危険かを考えれば、そうせざるえない。他の疫病の類いに洩れず、黒死の病は体力のない者から順に、死へと誘うのだから。
「暴徒のこともありますし、やはりここに長居は出来ませんね」
フレインも同意し、問うような視線をカダフィーへ向ける。
「嬢ちゃんの容態が不安だってんなら、最低限、快癒の魔法で命だけは繋いでやるよ。ただし、この借りはきっちり返してもらうけどね」
目だけで忍び笑い、女吸血鬼は黒い外套をひるがえす。するすると開かれた鎧戸までさがり、闇にその身を躍らせた。
「西門で待ってるよ。あんたらが来るまでには、衛兵共を手なずけておかないとね」
夜に紛れる黒衣を目で追いつつ、ジャンヌがぽつりとこぼす。
「わたしが快癒をちゃんと扱えれば、不死者などに頼らずともよいのですが……」
自責の言葉にシグナムは軽く首を振る。
「今は言ってもしょうがない。荷物を馬車に運んでくれ」
ジャンヌは物憂げに頷き、ルゥをともなって自室へと向かった。
各自、宿に持ち込んだ私物は少ない。出発の用意はそう時間もかからないだろう。
「不義理はしたくありません。せめて、宿の主人と使用人の方々に、一言挨拶をしておきたいのですが……」
「やめた方がいい。また昼から商工会の寄り合いがあるって話だった。朝も早いはずだ。今から起こすのも迷惑だろ」
「そうですね……」
不寝番の使用人も居るはずだが、夜が明ける前には門を出る必要がある。あまり時間に余裕はないのだ。
フレインは懐から金子袋を出して、数枚の金貨を卓に乗せる。
宿の者たちはアルフラによくしてくれた。それこそ金には換算出来ないほどに。――だから宿代とは別に置かれたその金貨は、せめてもの気持ちだった。
「トスカナ砦は避けて、子爵領に向かう。たぶん四日はかかるはずだ。薬なんかは大丈夫か?」
「それは問題ありませんが……トスカナ砦なら二日ほどで着くはずですし、レギウスへ戻るにしても、そちらを経由した方がよいのでは?」
「トスカナ砦は駄目だ。そのへんは道々話すよ」
シグナムは寝台に横たわるアルフラを抱き起こした。そのまま横抱きにして馬車まで運ぶ。意識を失った人間を移動させるのは、思いのほか重労働なのだが……今ならフレインですら、苦もなく同じことが出来ただろう。右腕を失い、痩せ細ったその体は、幼児ほどの重さもない。
ぞっとする軽さだった。
グラシェール山麓に設営された魔族の本陣、その中央に位置する一際大きな天幕に、魔王たちが集結していた。
神の宮陥落からおよそ半月、いまだ神族に動きはない。配下の軍勢を取りまとめる以外、これといった仕事のない彼らは、いささかの不満込めて、上座の魔皇を注視する。それらの視線を毛ほども気にすることなく、戦禍は手のなかで、円筒形の金属を玩んでいた。
軍議において必要な報告もあらかた終わり、戦禍の口が開かれるのを皆が待つ。
「――灰塚」
名を呼び、戦禍は長卓の上に金属の筒を転がす。
目の前で止まったそれを見て、灰塚は不審げに問う。
「これが、なにか?」
大きさでいえば、灰塚の人差し指ほどの筒。手にすると見た目よりも重量は軽く、表面にはくすんだ光沢がある。
「それはグラシェールの地下区間から出てきたものです」
戦禍は、神の宮の地下深くに存在する、降神の間と呼ばれる施設を探していた。しかし、大量の土砂を取り除くため、多くの兵が借り出されている現状を、魔王たちはあまりよく思っていない。あくまで兵は戦うためのものであり、土木作業に使うものではないというのが彼らの言い分だ。
「先日見つかった竪穴から、地下区画に入れたのはよいのですが……内部は想像以上に広大でしてね。しかも、外殻と同じ材質の隔壁により、要所要所が遮断されている」
そこで戦禍は渋い顔をする。
「これがまた、おそろしく堅固なもので、衝撃にも強い。なにしろ外殻と同じ建材の隔壁が通路を塞いでいるので、力づくで破るとなると、地下構造自体を破壊しかねない」
ひとつ間違えば、大規模な崩落が起きるだろう。
「そういえば……」
灰塚の整った柳眉が、かるく持ち上がる。
「正午くらいでしたか、二度ほど地鳴りが響いてましたけど……」
「ええ、隔壁に穴を空けたはいいが、外殻にも亀裂が入ってしまいました。――その円筒は、隔壁と同じ材質のものです」
灰塚は手のなかの金属を、まじまじと見つめる。
「これを私に……どうしろと?」
「溶かせますか? 私では重要な内部施設を破壊してしまうおそれがある。ならば溶解させるのが無難ではないかと思いましてね」
「はあ、仰せとあらば……」
あまり気乗りのしない様子で、灰塚は曖昧に頷く。めんどうくさいのだ。
円筒の金属を、親指と人差し指とでちょこりと摘む。その指先に魔力が集中する。
途端に赤い輝きが点った。
天幕内に熱気が広がる。
だが、激しく発光する円筒は、それでも形状になんら変わりがない。
「これは……」
当初はとりあえず、といった表情であった灰塚の顔が、真剣なものへと変わる。
輝く円筒の色が、赤を越して黄へと変化した。
とてつもない熱気に、周囲の魔王が微かに身を引く。
「……鉄ならばとっくに蒸発してるはずなのに……」
つぶやきと同時に、灰塚は周囲に障壁を張り巡らせる。満ちた膨大な魔力を、一点に注ぐ。
輝きは黄から白へ。
戦禍は目を眇てその光景に見入る。瞬間――鈍い破裂音とともに、円筒が気化した。溶解することなく、瞬時に蒸発してしまったのだ。
融点と沸点とを同じくする物質。それは地上におけるどのような金属とも、異なる性質を持つものだった。
「灰塚、明日は地下区画に同行して下さい。あなたが居れば、探索もはかどりそうだ」
「……御意に」
立ち込める熱気のなか、灰塚は汗ひとつ浮かべることなく首肯した。
「――戦禍帝」
呼びかけたのは、老いた声。長老である鳳仙に次いで齢を重ねた魔王、一早であった。
「降神の間というものを探しているのは存じております。しかし、語り部の伝承によれば、それはあくまで天界から地上に降りるためだけのもの。そこを押さえたとて、我らにそれほど利はないのでは?」
「そうとも言いきれませんよ。たしかに天界への門は開けませんが、その構造は非常に興味深い。なにしろ遠く離れた他所に、物質を転送する施設なのですからね」
戦禍は考えの読めない薄い表情で、一早を見返す。
「それを可能とするのは、無数の魔導具を組み合わせて作られた、巨大な神の器物らしい」
ただ、その不可思議な代物が、どういった理屈で動いているのかは、語り部たちも伝えてはくれない。
「もし見つけることが出来れば、そこは知識の宝庫となるでしょう」
そんな戦禍の言葉にも、居並ぶ魔王たちは懐疑的だった。彼らが求めているのは、知識ではなく戦い。そして力だ。それらの表情を見てとった戦禍は、わずかに苦笑する。
「なるほど。言いたいことは分かりました。確かに、神族はなんら動きを見せない。ならば多くの魔王をこの地に留め置く理由はありませんね」
その言葉を聞いた灰塚の表情が、ぱあぁっと花やぐ。彼女はいっときも早く皇城へ戻り、愛するお姉さまに会いたかったのだ。同じように、魅月と傾国も嬉しそうに顔をほころばせた。
「グラシェールに集まった軍勢の半数は、皇城に帰します。あなた達は兵を取りまとめる者を選出し――」
言葉の途中で、天幕の外から伝令、という声が響いた。すぐに取り次ぎの兵が姿を見せ、戦禍に駆け寄り耳打ちする。
「……わかりました。その者をここに」
なかに通された男は、トスカナ砦方面へと派遣された斥候であった。彼は一斉に向けられた魔王たちの視線に青ざめ、震えながらひざまずく。
「報告を」
「はッ! 連絡の途絶えていたトスカナ砦について報告いたします。かの砦を占拠していた咬焼殿はクリオファスへの進軍中、ロマリア軍の迎撃に遭い討ち死に。勢いに乗り東進した三万の軍勢により、トスカナ砦は陥落いたしました。なお、砦の防衛戦による被害は甚大。守備軍はほぼ壊滅し、氷膨殿の戦死が確認されております」
「――馬鹿なッ!!」
がたりと、椅子を蹴立てて口無が立ち上がった。
愕然とする巨漢の魔王へ、言葉少なに戦禍は命じる。
「座りなさい」
そして斥候の男へ問う。
「現在トスカナ砦に駐屯するロマリア軍の数は?」
「砦での戦いにより、ロマリア軍自体は二万ほどにまで数を減らしているようです。しかし、ラザエルとエスタニアより送られた援軍が加わり、七万を超える規模へと膨れ上がっております」
その驚くべき軍勢の数を聞いても、戦禍と魔王たちの顔に、これといった変化はない。ただ一人、口無だけが落ち着きなく身じろぎを繰り返していた。
「トスカナ砦に囚われていた捕虜を救出したと聞きましたが?」
「はい。正確には、砦の牢から釈放され、グラシェールへと向かっていた者を保護したという形でした。さきほどの報告も、多くはその者によりもたらされた情報です」
耳を傾けながら、戦禍はかすかに眉を寄せる。
わざわざ捕虜とした兵を、なぜロマリア軍はあっさりと解放したのか、疑問に感じたのだ。もちろんなんらかの意味があるのだろう、しかし……
「今は置いておきましょう。――氷膨とは、たしか侯爵位の者であったと記憶していますが」
「左様です」
「その死の状況は分かりますか?」
「そこまでは……ですが、咬焼殿、氷膨殿両名を討ったのは、一人の剣士だったそうです」
これには場の空気がざわりと揺れた。
魔王たちの表情に驚愕の色が散る。
「それは竜の勇者と呼ばれる者か!?」
口無が推可の声を上げた。
感じた怒気の凄まじさに、斥候の男は身を固くする。
「い、いえ。亜麻色の髪と鳶色の瞳をした、まだ幼い少女であったと聞き及んでおります」
その報告に、戦禍が軽く身を乗り出す。切れ長の目が、すうっと細められた。
「……その少女の名は?」
「申し訳ございません。そこまでは確認できませんでした。――ただ、その少女は十日以上も前に、ここグラシェールを目指し、砦をあとにしたようです。これは人間共の斥候と交戦し、捕縛した者複数からの証言を得ているので間違いないかと」
「――分かりました。報告は以上ですか?」
「はい、これですべてであります」
「よろしい、下がりなさい」
戦禍は魔王たちへと向き直る。その雰囲気がかすかに変わっていた。口許に絶えず浮かぶ薄い笑みが消え、目には他者を圧する意思の力が充ちる。
「そろそろ、人間達に対しても本腰を入れましょう。ですがその前に、一つ。――さきほど報告にあった人間の少女、これはおそらく私の客人です。くれぐれも……」
言葉をつづけようとした戦禍の視線が流れる。そこには退室した斥候と入れ違いに、取り次ぎの兵が姿を見せていた。
「……用件を」
「はっ! 申し訳ありません。高城と名乗る者が謁見を求めております」
「――高城が?」
戦禍だけでなく、灰塚と魅月、そして傾国の眉が上がる。
「……すこし待たせなさい。後ほど時間を取ります」
「あ、それが……火急の事態につき、今すぐお伝えせねばならない話があるのだと、そう申しております」
瞬時黙考した戦禍であったが、すぐに立ち上がり、低く告げる。
「すこし場を外します。楽にして待ちなさい」
そうとだけ言い置いて、戦禍は足早に天幕を出ていった。
あとに残された者たちのなかで、幾人かの魔王は様々な憶測を巡らせる。とくに灰塚などは、火急の事態と聞いて、もしや白蓮の身に何かあったのではないかと危惧しているようだ。泳いだ視線が魅月と合い、まさかお姉さまに限って、と苦笑が返される。それで灰塚も、やや落ち着きを取り戻した。――魔王たちのほとんどがこの場に集結している今、白蓮を害することが出来る者など居るはずがないのだ、と。
ほどなく戦禍は戻って来た。物問いたげな多くの目が、彼を出迎える。
「いささか事情が変わりました。私はこれから皇城へ戻ります」
驚愕を見せる魔王たちを見渡し、戦禍は命じる。
「口無。あなたは手勢を引き連れ、ロマリアを陥としなさい。王都を押さえ、ロマリア全土を掌握するのです」
「おお! かしこまりました」
歓喜の声を上げた口無へ、戦禍はさらに言葉をつづける。
「ただし、女王を始めとした王族はなるべく生け捕りにしなさい。ロマリアは五巫家と呼ばれる五つの氏族により支配されています。これらは女子を家長としているので、男は殺してかまいません」
「……お言葉ですが、その者達を生かしておけば、後の禍根となるのでは?」
「確かに、正論ではありますが……これは個人的な事情でしてね。私はロマリアの王族と、いささかの縁があるのですよ」
「縁……?」
訝しげなその問いに、戦禍は軽く手を払う。
「その辺りはおいおい話すこともあるでしょう。いまは刻が惜しい。――魅月」
名を呼ばれた夢魔の女王は、なぜこの流れで自分が、といった顔をしていた。
「あなたにはトスカナ砦の攻略を――いえ、そこに集った軍勢の殲滅を命じます。七万の兵、その悉くを殺し尽くしなさい」
「……あ、あのぉ……なぜ私なのでしょうか? 出来れば……」
白蓮のことが気になる魅月は、その役を誰かに代わって欲しいようだ。
「あなたの領地の北端は、ロマリアに接している。この役目は正当なものだと思いますが?」
「……はい。仰せのままに」
「砦の軍勢を散らせたあとは、そのまま皇城へ帰還してかまいません。早く戻りたければ、与えられた仕事を手早く済ませなさい」
魅月の口角が、きゅっと吊り上がった。
「では、ちょっと今から行ってきますわぁ」
身軽に席を立った魅月を見て、口無が驚いた顔をする。
「まさかそなたは、単身ロマリアへ赴こうというのか?」
「そうよぉ。南部の盟主さまにおかれましては、なにか不都合でも?」
苦虫でも噛み潰したかのように、口無は眉をひそめる。
「王とは臣下将兵を引き連れ、凱旋するかのごとく威風堂々と進軍するものだ。国を統べる者が身ひとつで――」
「ご高説ありがたいことですけどぉ、私はそういう大仰なのはちょっと。――口無さまほど格式にこだわりはありませんし」
魅月は揶揄するように笑う。
ほうっておけば、そのまま言い争いを始めそうな二人は、
「私は、刻が惜しいと言いましたよ?」
戦禍の冷たい声で肝を冷やした。
魅月と口無は表情を改め、頭を垂れる。
念を押すような戦禍の視線が、魅月を刺す。
「あなたならば、むしろ一人の方がやりやすいでしょう。しかし、たかが人間相手と仕事をおろそかにしないように」
「も、もちろんですわ」
かるく怖じけを見せる魅月から、視線は一早へ移る。
「あとの纏め役を任せます。他の王は、兵の半数を率いて皇城へ返し、そのまま待機。残りの軍勢は一早の指揮下に入るよう手筈を。同時にロマリア南部に伝令を遣り、雷鴉に帰還を促しなさい」
雷鴉と同じく中央の魔王である一早は、深く頷き恭順を示した。
「彼が戻りしだい、一早は雷鴉と役目を代わり、その補佐に……いえ、彼には一度、私の許へ顔を見せるよう伝えて下さい」
「かしこまりてございます」
「そして最後に――」
戦禍は、色味の薄い瞳で魔王たちを睥睨し、語気を強める。
「さきほど報告にあった人間の少女。これを害することはなりません。早急に斥候の数を増やし、その所在を掴みなさい」
「――な!? お待ち下さい。氷膨を殺した者を見過ごせと言うのですか!?」
「異論は認めません。この命令は絶対です。もし違えるようなら、厳罰をもって処します。……最悪、命の保証も出来ない」
威圧的な眼光が、口無を一歩下がらせる。
「その代わりとして、あなたには遺恨を晴らす場を与えたのですよ。続報の途絶えている竜の勇者とやらは、好きにしてかまいません」
「その者には、ロマリアの王族が付き従っているはずですが……?」
「たしか第二王女でしたか……それは好きになさい。都にいる世継ぎの姫さえ無事ならそれでいい。ようは血が絶えなければ問題ありません。――ロマリアは有数の大国です。その広大な地にて、存分に力を奮いなさい」
その後、戦禍は細々とした指示を出し、振り返ることなく場をあとにした。付き従うように天幕を出た魅月は、その足でトスカナ砦へ。――そして口無は軍勢を率い、その日のうちにロマリアの上都、ザナドゥへと進軍を開始した。
ひとつの国の命脈が、尽きた瞬間であった。