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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
153/251

腐肉斬断(前)



 数瞬の間、誰もが言葉を発することが出来なかった。反射的に口許を覆い、強烈な臭気から顔を背ける。

 部屋の中には光源もなく、暗がりから耳障りな羽音が響いていた。


「あ……明かり……明かりを……」


 茫然としていたフレインが我に返り、シグナムへランタンを渡す。


 恐ろしい静寂と緊張の中、淡い光が室内を照らしだした。


 まず目についたのは、床にわだかまった蠢く闇。

 ゆっくりとランタンを近づけると――それはぶわんと羽音を発し、一斉に四方へ飛びたった。

 残されたのは、床に広がる黒い汚水。


 臭気の源だ。


 飛び交う蝿を払い、今すぐこの場から逃げ出したいという欲求を殺して、シグナムは部屋へ踏み入る。

 寝台の隅に、アルフラはぐったりと横たわっていた。敷布に(くる)まれたその体の胸部は、かすかに上下している。


「い、生きてる……?」


 意識せずに言葉がもれ、シグナムは恐る恐る手を伸ばす。

 顔に巻かれた包帯は汗で湿っていた。その上からでも分かるほどに体温が高い。

 熱に浮かされ、アルフラは何事かをつぶやいていた。


 愛しい人の名だ。


 愛しい人の名を呼びながら、アルフラは泣いていた。

 白蓮、白蓮と呼ばわりながら、アルフラは苦悶にうち震えていた。

 ただ恋しさからその名を呼んでいるのか、それとも助けを求めているのか。

 シグナムには判別がつかない。

 細い呼び声だけが、腐臭に満ちた空気を揺らす。


 シグナムは、アルフラの体を隠す敷布に手をかける。布の先端は汚水に浸り、黒く染まっていた。

 息を詰めて、敷布を剥がす。

 中からは篭った異臭。

 ぞわりと、足元から頭頂にまで怖気(おぞけ)が走った。


 寝台の(ふち)からだらりと垂らされたアルフラの右腕は、不気味なまでに細い。

 巻かれた包帯は腐汁にまみれ、萎びた指先から体液が滴る。

 ほんの数日前までは、アルフラの右腕だった床の汚水。その悪臭を放つ腐汁の中には、羽虫の幼虫がびっしりとたかり、まるまると肥え太った白い腹をくねらせていた。


「……畜生ッ! なんで……なんでこんなことに……」


 嗚咽のような呻きを上げながら、シグナムはぬるりと糸引く包帯を掴む。そして腐汁に濡れたそれを、アルフラの右腕から剥がす。

 同時に、ぐずぐずにふやけた皮膚が、包帯と共にべろりとめくれた。


「――――ッ」


 せり上がる胃液を堪えきれず、シグナムは激しく咳込む。

 アルフラの右腕から、腐敗し、液状化した脂肪が溶け落ちる。


「……う……あぁ……」


 生理的、本能的に嫌悪と吐き気を催す臭気が、さらに濃く漂う。

 確かにルゥの言う通り、生きた人間の体からしてよい臭いではない。

 脂肪層は完全に腐敗しており、とろとろとアルフラの腕から溶け零れた。悪臭を放つ黄ばんだ流れの下から、黒く変色した筋繊維があらわとなる。

 かさかさにささくれ立った腱が、自重を支えきれず、ぶつりと断裂した。

 手首から先が、腐汁を跳ねさせ床に落ちる。それは赤子の手を思わせるほどに、小さく萎びていた。


 外気に晒された真っ白な骨。

 ほんのわずかにこびり付いた桃色の肉は、消えゆく命の残骸めいていた。


「あ……アルフラ……ちゃん……」


 がたがたと震える膝が、汚水の中に崩れた。腐れ落ちたアルフラの右手が指に触れ、


「う、ああっ……」


 シグナムは床を這って後ずさる。

 戸口では、鼻のよいルゥが臭気にあてられ、げえげえと嘔吐していた。


「しっかりおしよ」


 一人、呼吸を必要としない女吸血鬼だけが、平然とアルフラの状態を検分する。右腕の腐敗は肩口付近にまで進行していた。高熱のため意識は朦朧とし、声をかけても反応がない。


「尋常じゃなく体温が高い。壊死した右腕から毒素がまわってるんだ。たぶんこの腕を見られたくなくて、部屋に篭ってたんだろうね」


「そんな……」


 強い嘔吐感を堪えながら、シグナムは立ち上がる。顔色は蒼白で、息苦しさに上体がふらつく。その目は真っ赤に充血していた。

 腐敗ガスには、人体に有毒な成分が含まれる。軽い中毒症状がでているのだ。


「あ……もうすぐケイオン先生が来られるはずです。万一のことを考えて、先ほど使用人の方に頼んで呼びに――」


「無理だ」


「……え」


 フレインは問うようにシグナムを凝視する。


「無理なんだ。爺さんは来ない。……さっき言ったろ。近くの路地に死体が転がってたって」


「……ま、まさか……」


「あの爺さんなんだよ。黒死の病で死んでたのは」


「そんな……」


 絶句したフレインは、めまいを覚えて顔を覆う。ふらりと泳いだ体が石壁にあたった。


「で、では、べつのお医者様を……あ、いえ……ケイオン先生ほどの名医が倒れられたのなら、当然ほかのお医者様も……」


「今一番危ないのは医者だろうね。下手にそんなもんを呼べば、黒死の病を持ち込まれるだけだよ」


 冷静な物言いをするカダフィーを、シグナムはきつく()めつける。しかし、女吸血鬼は(あわ)れみの目でそれを見返した。


「覚悟したほうがいい」


「な、なんだよ……覚悟って……」


「あんたらだって分かってるだろ? 嬢ちゃんはどう見ても手遅れだよ。たぶん日の出までもたない」


 死の宣告を受けたのがまるで自分であるかのように、シグナムは血走った瞳をぎょろりと剥いた。


「このまま無駄に苦しませるくらいなら、一思いにとどめをさしてやるのが情けってもんだよ」


 カダフィーは床に転がった長剣を目で指し示す。その視線を追ったシグナムは、よろめくように長剣から一歩後ずさった。


「あの……」


 戸口からアルフラの様子をのぞき込んでいたジャンヌが提案する。


「右腕を切断してはいかがでしょうか。腐敗した部分を切除すれば、熱も下がるのでは……」


 カダフィーが呆れたように肩を竦める。


「簡単に言っておくれだねぇ。……それで? 誰がやるってんだい」


「そ、それは……」


「四肢の切断なんてね、ちゃんとした医者にだって難しいもんなんだよ。よっぽど医術に精通していて経験を積んだ奴じゃないと――」


「あたしがやる」


「シグナムさん!?」


 腰の短刀を掴んだシグナムの手を、フレインは慌てて抱きかかえる。


「む、無理です! 壊死した部分の切断は、熟達した医師が行っても、患者を失血死させてしまうことがあるのですよ!」


「……前に、見たことがあるんだ」


「え……?」


「傭兵仲間の壊死した足を、軍医が止血のために焼きながら切断したんだ。そこに立ち会ったことがある」


「そんな……素人が見よう見真似で出来ることではありません!」


 シグナムの表情が苦しげに歪む。言った彼女にしても、やはり自信はないのだ。

 しかし――


「いや、悪くないかもしれない。四肢の切断は通常なら(のこぎり)なんかを使うって話だけど………」


 女吸血鬼が値踏みするように、じっとシグナムを見つめる。


「問題になってくるのは出血量だ。傷の断面が大きければ、医者にだっで縫合することが出来ない。結局は傷口を焼くことになる。でも嬢ちゃんは体つきが細いうえ、ここ数日でさらに痩せてるからね。そのうえ火傷で元から表皮は焦げ付いてる」


 カダフィーはちらりとシグナムの剣帯に目をやる。


「熱した短刀で薄い肉を焼きながら切断すれば、失血は最小限に抑えられるはずだ。――ただ、今の嬢ちゃんがそれに耐えられるだけの体力を持ち合わせてるかは……分からないけどね」


「では……やはりケイオン先生以外のお医者様を探して、処置をお願いした方がよいです。ひとつ間違えば、私達の手でアルフラさんを死なせることになってしまう。ここは万全を期すためにも――」


「そんな時間があると思ってるのかい? だいたい、今この街に居る医者は黒死の病にかかりきりなんだ。すぐに来れるはずがないだろ。さっきも言ったけど、このままだと嬢ちゃんは朝までもたないよ」


 言葉に(きゅう)したフレインは、苦悩もあらわにシグナムの手を離す。


「急いだ方がいい。腐敗が肩から胸にまで及べば、もう手の施しようがなくなるからね」


 シグナムはおどおどと成り行きを見守っていた主人に、有無を言わさぬ口調で命じる。


「火鉢を用意してくれ」


「は、はい、ただいま」


 転げるように階段を上がってゆく主人につづき、フレインも厨房へと駆ける。


「湯を沸かしてきます」


「布も頼む。清潔なやつをあるだけ持って来てくれ」


 言ってシグナムは、火鉢で刃を熱するにしても、短刀が一振(ひとふり)だけでは足りないことに思い当った。肉を焼きながら腕を切断しようとすれば、おそらく骨に届く前に刃から熱が失われてしまう。加えて、刃零(はこぼ)れする可能性も考慮したほうがいい。


「ジャンヌ、すぐ戻るからアルフラちゃんを見ててやってくれ」



 そしてシグナムは、短刀を取りに自室へと向かった。





 狭い地下の通路を、赤々とした熾火(おきび)が照らす。炭のくべられた火鉢には、四振の短刀が挿されていた。

 ぐったりと寝台に横たわるアルフラを前に、カダフィーとシグナムは低く言葉を交わす。


「まず、肩のこのあたりから垂直に刃を入れるといい。靭帯を切断して関節を切り離すんだ。周りの骨に気をつけながらね」


「……分かってる」


「あんたなら短刀で骨でも断てそうだけど、手早く済ませたほうがいい。時間をかければかけるほど、後から敗血症を起こす可能性が高いからね。それに、熱した刃で肉を焼き過ぎると、そこから壊死が広がって再切断、てことも有り得る」


 女吸血鬼の隣では、フレインがアルフラの二の腕を布で拭っていた。黒く変色した皮膚はひび割れ、腐臭を放つ黄色い体液が後から後から滲んでくる。溶け崩れた脂肪だ。

 正視に堪えない有様を晒すアルフラの右腕から、シグナムは視線を逸らす。


「……あんた、手が震えてるよ。本当に大丈夫なのかい」


 ため息交じりに言ったカダフィーを黙殺し、シグナムは火鉢から短刀を抜く。柄にはあらかじめ、濡らした布を巻いていたが、それもすでに乾いている。

 灼熱した刀身の輝きで、さらに室温が上がったように感じられた。伝わる熱気にシグナムの手が汗ばむ。その熱が失われぬうちに、アルフラの肩に刃を当てる。

 かさついた表皮を()き、刃が中程まで沈むと、その傷口から白い蒸気が昇った。途端に人肉の焦げるおぞましい臭気が立ち込める。それは部屋に篭った腐臭と混ざり合い、耐え難い吐き気を催させた。だが、今のシグナムは、そういった生理欲求すら感じない程、極度の緊張に支配されていた。

 立ち昇る蒸気がおさまると、皮膚と刀身の接地面からうっすらと血が滲み始める。

 シグナムは熱のさめた短刀を抜き、火鉢へ手を伸ばす。その間に、フレインは血の溢れ出す傷口に布を当て、わずかなりとも出血を抑えようと試みていた。


 新たな短刀に持ち替え、シグナムはアルフラの顔に目を向ける。幾分その呼吸は荒くなっているが、依然、意識は混濁しているようだ。

 肉を焦がし、血を蒸発させながら、シグナムは刃を進める。切っ先が固いしこりに当たった。骨ではない。上腕靭帯の収束点、関節包(かんせつほう)だ。頬を伝う汗を拭くようフレインに頼み、シグナムはそれを一息に断ち切った。――瞬間、アルフラの目がカッと見開かれる。


「いっ!! ぎぃぃぃぃぃ!!」


 凄まじい悲鳴を上げ、細い身体からだが寝台の上でのたうつ。

 あまりの激痛に意識が覚醒したのだ。


「熱い!! 熱いッ――――!!」


 痛みから逃れようと何度も体が跳ね、その背が限界までのけ反る。弾みで刃が肉を噛み、肩の傷口が広がる。


 必死に押さえつけようとするシグナムと、大きく見開かれたアルフラの目が合った。そして視線は痛みの根源、肩に刺さった短刀へ。


「ああぁぁぁぁぁ! な、なに……なんで……!?」


 濁りを帯びた鳶色の瞳には、怒り、混乱、猜疑、恐怖。さまざまな感情が混在していた。


「すまない、アルフラちゃん! でもこうするしかないんだ!!」


 アルフラは苦痛に喘ぎながらも切れ切れに呻く。


「……みぎ、て。あたしの、みぎてを……きる、の……?」


 凍りついたように表情を強張らせたシグナムを見て、アルフラがふたたび悲鳴を上げる。


「やだ、きらないで! みぎては……」


「アルフラちゃん! もう右腕は駄目なんだ! 壊死した部分を切除しないと――」


「いやああああぁぁぁぁぁぁ――――!! みぎてだけはやめて!」


 アルフラは泣きながら懇願する。


「みぎてをきったら、剣がにぎれなくなっちゃう! 白蓮をとりもどせなくなるの!! おねがいだから、みぎてはきらないで!!」


 思うように動かぬ左手で、アルフラは短刀を抜こうとする。その手を押さえるシグナムを、情愛に(めし)いた目で睨みつける。


「はなして! すぐになおるから……まえもそうだった。あたし、まえにもひどいやけどをしたの」


 聞き苦しい割れた声で、アルフラは訴える。


「ちゃんと、なおるはずなの。すぐに……」


 アルフラは信じているのだ。火傷により壊死した腕が、以前のように完治するのだと。そう信じて、右腕が腐りゆく苦悶と恐怖に耐え、その傷を一人抱えて部屋に閉じこもっていた。もしシグナムたちに気づかれれば、こういった事態になることを、どこかで理解していたのだ。

 しかし、かつて傷を癒してくれたアルフラの女神さまは、ここに居ない。


「……嬢ちゃん」


 女吸血鬼が鬱々とした声音で言う。


「自分の右腕がどういう状態なのか……よく見てみなよ」


 瞳をまたたかせたアルフラの首が、ごろりと右に傾ぐ。その視界に、溶け崩れた右腕が映り込む。

 腐汁を滲ませる上腕。肘から先は、泥土を思わせるぬかるんだ肉叢(ししむら)。液状化した腐肉の所々からは骨が露出し、おおよそ人体としての形状は失われている。


「手……あたしの、手……」


 痙攣するかのように、眼球が(せわ)しなく動く。

 有るべきはずの場所に、なぜか存在しない右手を探しているのだ。そしてそれは、床の隅に見つかった。


「あ、あ、ああぁぁ………いやあぁぁぁぁぁ――――――――!!」



 絶望に満ちた叫びは断末魔にも似て、長く尾をひいて地下に響き渡った。

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