死病の街(前)
利き腕の自由を失い、右目を失明したのだとアルフラが自覚してから三日後。
地下室の扉の前で立ち尽くすシグナムへ、フレインの声がかかる。
「シグナムさん? やはり……」
「ん……ああ、アルフラちゃんの包帯をかえようとしたんだけどな。――また追い出された。自分でやるってさ」
手厚い看護により順調に体力を回復させつつあるアルフラであったが、それに伴い身近に人が居ることを厭うようになった。
「人は病気や怪我で弱っているとき、やはり気も弱り、一人でいることに不安を感じるものです。しかし逆に、弱っているからこそ、他者から遠ざかろうとする者もいます。――どうやらアルフラさんは、後者のようですね」
フレインの言葉に、シグナムは気落ちした様子を見せる。
「あたしは……アルフラちゃんに信用されてないのかな……」
「そんなことはありませんよ。これは自己防衛の本能に起因するものです。野生の獣ですら持ち合わせる、至極当然な反応ですからね」
それに、とフレインは声を潜める。
「あれ程の火傷をおっているのです。女性なら誰しも、その傷を人目に触れさせたくはないと思うはずです」
もとの顔立ちや肌が美しかったぶん、それは尚更だろう。
「……そうか。そうだよな……」
沈んだ気分を変えるように、シグナムは黒髪を揺らせ頭を振る。そして扉へ向かい、諭す口調で語りかける。
「フレインが食事を持ってきた。ちゃんと食べないと治るもんも治らない。扉を開くよ」
室内からの返事はない。
一拍の間を置いて、シグナムは分厚い樫の扉を押し開き――瞬時、その表情に驚愕の色を浮かべた。
カンテラの薄明かりに照らされた暗い地下室で、アルフラは石壁を支えに、独力で立ち上がろうとしていた。だが、比較的火傷の浅い左の足を重心にして、壁に身を持たせていた体は、シグナムの方へと向き直ろうとした弾みにぐらりと傾ぐ。
「あっ、アルフラちゃん!」
すんでのところでその痩躯を抱き留めたシグナムは、大きく安堵の吐息をもらす。
「まだ立つのは無理だよ。すこしづつ……」
アルフラの無謀をたしなめようとしたシグナムは、凍りつくように言葉を途切らせた。
顔を覆う包帯の一部が、ゆるくほどけていたのだ。
火傷により皮膚はべろりとめくれ、赤く熟れすぎた果肉のような傷痕が目に痛い。
「みない、で……」
アルフラは身をよじり、顔を背ける。
生々しい肉の色に身を竦ませたシグナムを、細い腕が押し退けようとする。あまりにも弱々しい力ではあったが、克明に感じられる拒絶の意思が、シグナムを後ろへとさがらせた。
体をあずけるようにして、アルフラは扉を閉ざす。
「ま、待ってくれ」
部屋から閉め出されてしまったシグナムは、焦ったように言う。
「食事を――それにやっぱり一人じゃ上手く包帯を巻けなかったんだろ。あたしにやらせてくれ」
扉の内側から、みじかく応えが返される。――自分で出来る、と。
「……アルフラちゃん……でも、食事だけはちゃんとしなきゃだめだ」
しばしの沈黙のあと、そこに置いておいて、と掠れた声は告げた。
シグナムは無言で扉の取っ手を見つめる。無理に押し開けようと思えば、彼女の力でなら造作もないことだ。しかしそれは、アルフラの意思に反する。そのうえ、扉に身を持たせているのであろうアルフラに、怪我をさせてしまうかもしれない。
思考に没し、動きを止めてしまったシグナムの横で、フレインは食器を載せた盆を床に置く。
「おい……」
その声色には、咎めるような響きがこめられていた。
見下ろす強い視線を、フレインは穏やかな顔で受け流す。
「いまは、アルフラさんの思うようにさせてあげましょう」
「いや、そうも言ってられないだろ」
「……おそらくアルフラさんは、自立しようとしているのだと思います」
そこでフレインは、やや声量を落とす。右耳の聴覚を失ったアルフラには聞こえない程度に。
「反抗期に近いものなのではないでしょうか」
「反抗期?」
怪訝そうに眉を寄せたシグナムに、フレインは慌てて言葉を繋ぐ。
「あ、いえ。この言い方には語弊がありますね」
フレインは言葉を選ぶように、一旦間を置いてから口を開いた。
「――以前のアルフラさんは、どこかシグナムさんへ依存しているようなところが見受けられました」
事実、物事の判断などにおいては、往々(おうおう)にしてシグナムが決定権を持つことが多かった。そしてアルフラは、シグナムに甘えるような仕種をよく見せもしていた。
「アルフラさんは年齢の割に幼く見えますし、精神面――情緒の育成においても遅れているように感じられます」
それについてはシグナムにしても、思いあたる節が多々あった。
「たとえば、思春期にある少年少女が他者の言動に対して否定的になったり、距離を取ろうとする行為は、自我を確立するために必要な精神活動でもあります。アルフラさんは現在、そういった状況にあるのではないでしょうか」
「……そりゃあんたの考えすぎじゃないか?」
「もちろん、単純に火傷の痕を見られたくないというのもあるでしょう。しかし、ここ最近――アルフラさんがトスカナ砦で白蓮様と会って以来、そういった傾向が見られるように思います」
話を聞くうちに、シグナムの顔には苦々しいものが広がっていく。
「だからって何もこんな時にまで……」
「幸い、アルフラさんの容態も快方に向かっています。すこしの間、様子を見てみませんか?」
閉ざされた扉を睨みつけるようにして、シグナムは黙り込む。
アルフラの身を案じる気持ちと、その意思を尊重してやりたいという思いがせめぎあっているのだろう。懊悩をあらわす深い皺が、眉間にくっきりと刻まれていた。
「本来、あれほどの火傷を負えば……心の弱い者ならそれだけで絶望し、みずから命を断とうと考えるかもしれません。ですがアルフラさんは、その身の不幸を嘆くどころか、自発的に己の足で立ち上がろうとさえしていました」
「……ああ」
「いまは、現状を乗り越えようとしているアルフラさんを、見守っていてあげましょう」
暗い天井を仰いだシグナムは、一度目をつむり、大きなため息とともに頷いた。
フレインは懐から解熱剤とカンタレラを出し、食器の脇に添える。そして扉に向かい呼び掛ける。
「アルフラさん。食事の量はすこし多めにお持ちしましたが、無理にすべてを食べる必要はありません。胃に負担もかかりますのでね。ですが解熱剤だけは、薬湯と一緒に必ず飲んで下さい」
耳をそばだてると、肯定の意を伝えるアルフラの声が、かすかに聞こえてきた。
「私たちは部屋へ戻りますが、また昼には様子を見に参ります」
そう告げてフレインはしばらく待つが、アルフラからの返事はなかった。
「……行きましょう」
シグナムは未練ありげに後ろを振り返りつつも、フレインと連れ立ち階段を上がる。厨房を抜け、自室へと向かう二人の足は、大通りに面した鎧戸の前で止まった。
開かれた戸口からカモロアの街並を見渡し、
「これは……」
愕然とした声を、シグナムは喉から絞り出した。
まだ午前中ではあるが、すでに気温は上がりきっている。街路の石畳は強い陽射しに焼かれ、視界は陽炎に揺らめいていた。だが、その中でも立ち昇る黒い煙が、はっきりと目視できた。
「明らかに、炊煙ではありませんね」
フレインの声からも緊張が読み取れた。
ゆるやかな風に乗って、焦げ臭い、渇いた空気を感じる。
「暴徒、でしょうか……?」
「だろうな。しかも、かなり近い」
背の高い建物にさえぎられ、火の手こそ見えはしないが、かすかに怒号や悲鳴といった叫び声が聞こえていた。
「火を放った奴らがこっちに流れて来たらまずいな。――すこし様子を見てくる」
足早に歩きだしたシグナムを、フレインが呼び止める。
「待って下さい。帯剣されていった方がよろしいのでは?」
「……あ」
いま気づいた、というように、シグナムは腰に手をやり立ち止まる。もちろん宿の中なので長物の類いは帯びていない。
暴徒が徘徊する街中へ丸腰で飛び出して行くなど、普段のシグナムであれば考えられないような軽率さである。
睡眠不足と疲労。そしてアルフラの身を案ずるあまり、判断力が低下しているようだ。
「一度部屋へ戻りましょう」
自室に移動したシグナムは革鎧を着込み、使い慣れた長剣を腰に吊す。
「お気をつけて。出来れば、なるべく街中での揉め事は避けて下さい」
「わかってる。あまり目立つようなことはしないよ」
装備を整えたシグナムは軽く請け合い、不穏な気配のするカモロアの街へと出て行った。
日の昇りきる前に出かけたシグナムが帰って来たのは、陽も黄昏れ、西の空が茜色に染まった頃合いであった。
「おかえりなさい。ずいぶんと遅かったですね。なにかあったのですか?」
予想外に長い時間を待たされたフレインは、かなりやきもきとしていたようだ。
「すまないね。すぐ戻るつもりだったんだけどさ。いろいろと気にかかることがあって、あちこち歩き回ってた」
「気にかかること?」
「ああ、悪いけど、とりあえず階下で湯を用意して貰ってくれないか」
そう言うとシグナムは、熱気の篭った革鎧を外しにかかる。炎天の街路を歩きづめだったため、全身汗だくだった。
「レギウスじゃそろそろ夏も終わる時期なのに、やっぱりロマリアは暑いね。鎧の下が蒸れてかなわない」
笑いながらシグナムは革鎧を脱ぎ散らす。
「し、少々お待ち下さい。すぐに湯をお持ちします」
シグナムから匂い立つ女の体臭に、フレインの声は上擦り気味だ。そそくさと部屋をあとにする。
鎧戸の前でシグナムが胸元に風を通していると、桶を抱えたフレインが戻って来た。
「どうぞ。湯はすこし温めになってます」
床に桶を置いたフレインは、体を拭くための布をシグナムへ渡す。
「ありがとな。アルフラちゃんの様子はどうだい?」
「変わりありません。相変わらず部屋へは入れてくれませんね。ただ、あらかた空になった食器が扉の前に出してありました」
「そうか……アルフラちゃん、普段は少食なのにな……」
「ええ、無理をしているのではないかとすこし心配ですが、体力を回復するのに食事は必要ですからね。アルフラさんにもそれが分かっているのでしょう」
話を聞きながらも、シグナムは貫頭衣に手を掛けて捲り上げる。人目があることにも頓着せず、服を脱ぎ出したシグナムを見て、フレインは慌てて後ろを向く。
「え、えと……シグナムさんが身仕度を終えるまで、私は部屋を出ていますね」
「いや、待ちなよ」
扉へ一歩踏み出したフレインを、笑い含みにシグナムが呼び止めた。
「部屋から出たら話が出来ないだろ。あたしがなんのために半日も歩き回って来たと思ってるんだ」
「あっ、そうですね……」
フレインもカモロア市街の様子は気にかかっていたのだが、先にアルフラのことを尋ねられ、ついつい失念してしまっていた。
「それで、なにがあったのですか?」
「市街はかなりきな臭いことになってるよ。あの女吸血鬼も言ってたけど、なるべく早くカモロアから離れたほうがいい」
「やはり、暴徒が?」
「ああ、それもある。今朝方燃えてたのは、やっぱり暴動によるものだった。あたしが行ったときには、もう衛兵達が集まって来てて、奴らは逃げちまった後だったけどね」
「そ、そうですか……」
壁を向いたまま話を聞くフレインは、気もそぞろといった顔をしていた。大事な話の最中ではあるが、背後から聞こえる湯を使う水音や、体を拭きながらシグナムが時折もらす、心地好さげな吐息についつい気をとられてしまう。
「襲われたのはそれなりに繁盛してた食亭らしいんだけど、貯蔵されてた穀物袋なんかはあらかた運び出された後だったよ」
「門が封鎖されて物流が滞っていますからね。黒死の病に対する不安も加わり、飢えた人々が略奪に走ったのでしょう」
「ああ、たぶんね。それ以外にもこそ泥みたいな輩がうろついてた。通りに面した民家なんかも、荒らされた形跡があったしな」
「だいぶ治安が悪化してますね」
「この状況じゃそうもなるさ。普通の住民は家に閉じこもってるんだろうね。通りにはほとんど人気がなかったけど……何とも言えないぴりぴりした緊張感があったよ。このままだと――」
「今は局所的な暴動も、いずれは大規模なものに変わる、と?」
「ああ、あたしにはそう感じられた。だから宿の周りを一通り歩いてみて、この辺りの道を覚えてきたんだ。土地勘のない場所ってのは怖いからね。戦うにしても、逃げるにしても」
状況は思ったよりも深刻であるのだと、フレインは今更ながらに気づく。そういった空気に聡いシグナムがこれ程までに警戒しているのだ。比較的に治安がよい北の区画も、すでに安全とは言えないのだろう。
「すこし足を伸ばして西門の方にも行ってみたんだけど、カモロアの住民が大挙してたよ。南の貧民街じゃ黒死の病で倒れた人が結構いるらしくてさ。そこから逃げて来た奴なんかは門の前で野宿をしてるみたいだった」
「やはりまだ、門は封鎖されたままなのですね」
「当然だろ。カモロアはトスカナ砦からも近いからね。これ以上黒死の病が北上したら、砦に詰めてる兵隊達にも被害が出る。そうなったらロマリアはあっさり魔族に占領されちまうよ」
「ですがそれでは、カモロアの住民達は死病の蔓延る檻に入れられたも同然です」
フレインの声は深く沈んでいたが、背を向けているためシグナムからはその表情が見えない。
「まあ、このままじゃ終わらないだろうな。まず何かあるとすれば西門だよ。門に詰めかけた奴らだって、いつまでも野宿なんてしてられないだろうしね。そのうち爆発する」
「……もしも西門の住民が蜂起した場合、衛兵達はそれを抑えることが出来ると思いますか?」
「無理だろうね。あたしがざっと見ただけでも四、五百は下らない数が西門に集まってた。たぶんさらに増えてくよ。門の警護も増強されてたけど、衛兵の手に負える数じゃない」
話しながら体を拭き終えたシグナムは、新しい貫頭衣の袖に腕を通す。
「おい、もうこっち向いていいぞ」
向き直ったフレインの前で、汗と埃を落としたシグナムは、さっぱりとした顔で寝台に腰を下ろした。そしてふと気づく。
「――そういえば、ルゥとジャンヌはどうした」
「ジャンヌさんは私の部屋に篭っていますね。ルゥさんは先ほどまでここにいました。昼間はアルフラさんの様子を見に行ったりと宿の中を歩き回っていたようですが、ジャンヌさんのところへ戻られたようです」
「そうか……アルフラちゃんはどのくらいで動かせそうだ?」
この質問にはフレインも難しい顔をする。
「解熱剤を服用しても微熱が続いていますので、いましばらくは安静にしている必要があるかと」
「……だよな。今朝アルフラちゃんに触れたときも、ちょっと体が熱かった」
「せめてこの酷暑がもうすこし和らいでくれればよいのですが……」
「さっさとカモロアからおさらばしたいとこだけどな。さすがにまだ移動はさせられないか」
「ええ、ようやく回復の兆しが見えてきたのです。ここで無理はさせられません」
フレインは鎧戸から、カモロアの街並へ視線を向ける。西日に照らされた建物は、濃く長い影を落としていた。
「そろそろ夕食の頃合いですね。すこしアルフラさんの様子を見てきます」
「あたしも行くよ。――たぶん部屋には入れてくれないと思うけどね」
シグナムは苦笑しつつ、寝台から立ち上がった。
案の定、地下室の扉を叩いたシグナム達には、抑揚に乏しい声で、食事は扉の前に置いておいて、と言葉が返された。
「昼にも何度か様子を見に来たのですが、やはり部屋には入るなと言われました」
小声でささやいたフレインに、シグナムは無言で頷く。
「アルフラちゃん。包帯はちゃんと巻けたのか? 熱はどうだい?」
尋ねながら扉を薄く開くと、暗い室内から見返す濁った瞳と目が合った。
宝物である白蓮の細剣を抱いて、アルフラは寝台に腰掛けていた。痩躯を包帯に覆われたその容貌は幽鬼然としており、生気といったものがほとんど感じられない。大きな瞳には、やはり拒絶の色が浮いていた。
「だいじょうぶ、だから……」
ほとんど動かない唇から、切れ切れに声が聞こえた。
「すぐに、なおる、から……」
「アルフラちゃん……」
「すぐに、なおして……白蓮を、とりもどしにいくの……」
細くはあるが、アルフラの声音からは、痛切な想念が伝わってくる。その意思の強さに圧倒され、シグナムは二の句が継げない。
「あぁ……白蓮……」
声はどこか、陶然とした響きを帯びる。
「……白蓮……」
頭上を見上げ、心の原風景に語りかけるアルフラを正視出来ず――シグナムは扉を静かに閉ざした。
背後に立つフレインは、シグナムの広い肩が小刻みに震えるさまを見て、気遣うように声をかける。
「今日はシグナムさんもお疲れでしょう。私達も食事に――」
「アルフラちゃんは……」
呻くように言って、シグナムはおのれの顔をわし掴む。
「アルフラちゃんはもう……」
――駄目かもしれない。
その言葉を喉元で飲み込み、シグナムは階段へと歩き出す。
まるきり正気を失ってしまったようなアルフラを見て、シグナムは恐怖にも似た感情にせき立てられていた。
「シグナムさん?」
心配げなフレインの呼びかけも耳に入らない。
部屋に戻ったシグナムは椅子を一脚掴み、地下へと引き返す。
扉の脇に椅子を置いたシグナムは、崩れるように座り込んだ。
「まさか、一晩中ここですごされるおつもりですか?」
狼狽した様子のフレインへ、シグナムは無言で首肯した。
「アルフラさんのことが心配なのは分かります。ですがそれでは、シグナムさんの方が先にまいって……」
言いかけたフレインは、シグナムの顔を見て口を閉ざした。その表情から、何を言っても無駄であろうと悟ったのだ。
「……わかりました。私もお付き合いしますよ。とりあえず、食事をお持ちしましょう」
地下室の前でともに食事を摂ったのち、二人は言葉を交わすこともなく、ただその場に座していた。しかし夜半に至り、フレインは解熱剤の予備を作っておくと告げて、部屋へと戻って行った。それからしばらく、シグナムは椅子に腰掛け、じっと床を見つめていた。
夜も深まり、長くつづいた無音の時間は唐突に破られる。
階上から、地下まで届くほどの激しい破砕音が響いた。