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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
149/251

諸行無常



 泣き疲れて眠りに落ちたアルフラの寝台を囲み、シグナムたちはまんじりともせず無言であった。

 すでに夜も()けきり、じきに東の空がしらみだす頃合いだ。しかし、みずから(とこ)につこうとする者もおらず、ただじっとアルフラを見つめていた。


「そうだ、薬湯を……」


 思い出したように湯呑みを手にしたシグナムは、そのまま動きを止めて思案するようなそぶりを見せた。


「どうしました?」


「いや、またアルフラちゃんを起こしちまうのも気がひけて……」


「いつものように飲ませてあげればいいのでは? 相当体力も衰えているでしょうから、そうそう目を覚まさないと思いますよ」


「そうだな……」


 それでもシグナムは迷っている様子だ。


「……ほかにもなにか?」


「ああ……もし薬湯を飲ませてる最中にアルフラちゃんが目を覚ましたら、嫌がるんじゃないかと思って」


「は……?」


「……ほら、口移しだとさ、白蓮て人以外からそういうことをされるのは、嫌なんじゃないかな」


 あまりらしくない気をまわすシグナムに、フレインはすこし驚いた顔をする。


「シグナムさんでしたら大丈夫でしょう。へんに気を遣う必要はないと思いますよ」


「……そうかな」


「ええ、私は水差しを取り替えて来ますので、解熱剤も一緒に飲ませてあげて下さい」


「わかった」


 部屋を出たフレインは階下へ降り、厨房の入り口にある大瓶(おおがめ)から水を汲んだ。そして自室に寄って、解熱剤とカンタレラの瓶をひとつ懐に仕舞う。

 部屋へと戻ると、アルフラに薬湯を与えるシグナムの隣で、ルゥがちょこりと椅子に座っていた。その視線は包帯の巻かれた右腕に注がれている。目は真っ赤に泣き腫らし、白桃のような頬には涙の跡が染みついていた。どうやら泣き疲れているのはアルフラばかりではないようだ。


「ルゥさんも休まれたほうがよいでしょう」


「うん……」


「シグナムさんも解熱剤を飲ませ終えたら、すこし休んで下さい」


 ここ数日、シグナムは何度か短めの仮眠を()っただけで、ほとんど寝ていない。もっともそれは、フレインも同様ではあるのだが。


「あんたこそ少し寝といたらどうだ」


「いえ、私は書き物がありますので。ケイオン先生にお渡しする洋皮紙をしたためながら、アルフラさんの様子を見ているつもりです」


「……そうか、あたしもちょっと……いまは寝れそうにない。アルフラちゃんのことが気になってさ」


 昨夜ケイオンから、このままでは長く持たないと言われたばかりだ。シグナムとしては、おちおちと眠っている暇などないのだろう。


「おい、ジャンヌ」


 寝台の上で魔導書をめくりかけていた神官娘が、はい、と顔を上げる。


「ルゥをフレインの部屋に連れていってやってくれ。みんなで起きてても仕方ないし、ルゥもお前と一緒のほうが落ち着くだろ」


「はぁ、わかりました」


 お勉強の邪魔をされたジャンヌは、やや不満げに頷いた。


「ついでにジャンヌも寝てきな。最近くまが濃くなってるぞ」


 思わず、両手の指先を目許に当てた神官娘を見て、シグナムはすこしだけ笑った。


「二人ともちっこいから、寝台はひとつで充分だろ」


 ボクちっこくないよ、と小声でささやいたルゥの手をジャンヌが引く。部屋を出ていく神官娘のもう片方の手には、魔導書が抱えられていた。どうやら目許のくまは気になるが、寝るつもりもないらしい。

 年少組二人が居なくなると、室内はやや閑散とする。

 フレインは卓の向きを変えて、アルフラが視界に入るよう位置を整える。そしてケイオンと約束した羊皮紙に取り掛かった。

 そうこうしている内に、開かれた鎧戸からはまばゆい朝陽が差し込み始める。その頃には、アルフラの呼吸も穏やかなものとなっていた。

 カンテラの(あかり)を消したフレインは、目を細めて顔を上げる。するとアルフラの(かたわ)らに座ったシグナムと視線があった。


「どうしました?」


「お前、ひでえ顔してるぞ」


「は……?」


 フレインは、書き物に没頭して顔にインクでも付けてしまったのかと、手の甲で頬を擦ってみた。


「違うよ。今にも倒れそうだって意味だ。前に王宮の執務室で、仕事に殺されそうだって言ってた時よりやつれてる」


「そういうシグナムさんこそ……」


 シグナムの顔にも憔悴の色が濃い。疲労と心労により頬は削げ、陽光に照らされた顔には深い陰影が刻まれている。実際彼女は、フレインよりも寝ていないはずなのだ。


「やはり、すこし仮眠したほうがよいですよ」


「いや、もうそろそろアルフラちゃんを地下へ移動させる用意も出来るはずだろ。だったらあたしが寝てちゃ話にならない。あんた一人じゃアルフラちゃんを担いで、階段を降りるのは無理だしな」


「……すみません。お役に立てなくて……」


 そんなことないよ、とシグナムは、めったに見せない柔らかな笑みを浮かべた。


「あんたはよくやってくれてる。……この前のは失言だった」


 シグナムの言う“この前”が、駐屯地での件を発端とした悶着(もんちゃく)()しているのだと察した。あれ以来、シグナムとはあまり会話もなく、ぎくしゃくとしたものを感じていた。フレインとしてはいくらか時間を置いて、再度の謝罪が必要だろうと感じていたのだ。しかしまさか、情の(こわ)く気も(つよ)いシグナムからの歩み寄りがあるとは、夢にも思っていなかった。


「あのとき言ったことは忘れてくれ」


 緊迫した状況下では、ささいなことが不和の種となることもしばしばだ。今回はささいとも言えない問題ではあったが、窮地にあってはひとつ前提が違うだけで、歯車は逆に回ることもある。

 おそらく、いまのシグナムは精神的にもかなりまいっているのだろう。いつになく柔和なその表情は、彼女の素の部分が顔をのぞかせているように思えた。


「すまなかった。さすがにちょっと言い過ぎた」


「あ、いえ。悪かったのは私の方なのですから、謝らないで下さい。こちらこそ申し訳ありませんでした」


「いや……ありがとな」


 すこし照れたような顔をして、シグナムは視線を落とす。寝台で眠るアルフラは、いつになく規則的な寝息をたてていた。解熱剤がよい仕事をしたようだ。


「あんたは確かにやれることをやってる。アルフラちゃんを助けてくれてる」


「それは……私も好きでやっていることですから」


 だいぶ容態の落ち着いたアルフラを見て、シグナムにもわずかな余裕が生まれたのだろう。やや意地の悪い軽口が飛び出す。


「アルフラちゃんのことが好きだから、だろ」


「……まあ、そうですね」


 そういった話題の苦手なフレインは、居心地悪げに身じろぎする。


「あたしはさ、細剣を握ったまま泣いてるアルフラちゃんを見て、つくづく思ったよ」


 いまも、アルフラの胸に置かれた左手には、細剣が抱かれていた。

 さきほどまでの笑みも消え、シグナムの表情には苦いものが広がる。


「アルフラちゃんが白蓮て人を諦めて、あんたとくっついてくれてたら……」


 失われたものを(いた)む目で、シグナムはアルフラを見る。


「こんなことには、ならなかったのになって」


「……それは、無理でしょう」


 白蓮に対するアルフラの愛情がどれだけ深いかは、フレインとシグナムもよく知るところだ。――それでも、思わずにはいられない。


「あんたとだったらさ、アルフラちゃんも普通に幸せな暮らしが出来たんじゃないかな。すくなくとも、こんな怪我はしないで済んだはずだ」


 もしもそういった未来が手に入るのなら、フレインはすべてを投げ出すことも(いと)わないだけの覚悟はある。実際、アルフラのためにギルドを捨てる算段までしていたのだ。しかし……フレインは熔け崩れた宝物を抱いて眠る少女を見やる。


「……やめましょう。こんな話をアルフラさんに聞かれたら、私が殺されそうです」


「……だな」


 かるく同意されてしまい、フレインは渇いた声で笑う。


「出来ればそこは、否定してほしかったのですが……」


「否定出来る材料が思い浮かばない」


「……同感です」


 報われない奴だな、とシグナムも笑う。しかしフレインは、報われないなりに反撃を(こころ)みる。


「私などより、むしろシグナムさんの方が可能性はあるかと」


「……え? あたしが……?」


 これにはとても驚いた顔をしたシグナムだった。フレインはすこし意外に思う。


「アルフラさんは、男性嫌いですし、シグナムさんのことをかなり特別扱いしているじゃないですか」


「あ、いや……でもあたしは……」


 あたふたと狼狽(うろた)えるシグナムが、フレインには物珍しい。


「私などよりずっとお似合いだと思いますよ」


「えっと、ほら、あたしは女同士のやり方とか……いまいちよく分からないしさ……」



 なにを想像したのか――お互い頬を赤らめ、うつむいてしまう二人であった。





 宿の下男(げなん)が部屋を訪れたのは、朝日が昇った一刻(約三十分)ほどあとのことだった。地下貯蔵庫に簡易寝台を入れた(むね)を伝えた彼は、怪我人を運ぶのを手伝おうかと申しでた。これはやんわりと辞退して、シグナムは敷布に(くる)んだアルフラを、横抱きにする。このとき一瞬アルフラが目を覚ましたが、間近にあるシグナムの顔を確認すると、ふたたびまどろむように瞳を閉じた。


「体が睡眠を欲しているのでしょう。悪い傾向ではありません」


 フレインの言葉に頷き、シグナムは階下へと降りる。そして下男に案内されて厨房へ入った。さらにその奥にある地下へとつづく階段を、フレインに足元を照らされ慎重に降りてゆく。


 地下にはふたつの部屋があり、片方は食料庫、もう片方には酒の類いが貯蔵されている。より広い酒蔵の方に食材を移し、食料庫を空けたのだと下男は説明した。手狭(てぜま)なことをしきりと謝る彼の言葉通り、扉を開くと簡易寝台が部屋の半分を占有するほどに、食料庫は狭かった。

 シグナムは扉のすぐ右手に置かれた寝台に、アルフラを寝かせる。


「たしかに小さい部屋だけど、上よりは涼しいな」


 ややかび臭さは残るものの、室内は綺麗に清掃されていた。この辺りの地下には水脈でも通っているのか、若干湿度が高い。


「この扉……ずいぶん分厚いな」


 いかにも頑丈そうな真新しい扉を、シグナムはかるく拳で叩いた。


(かし)か?」


 その材質を問う声に下男が答える。


「はい。今年の春に入れた物です。魔族の進攻が始まってすぐの頃に、旦那様が知人の職人に頼んでこしらえてもらったのだと聞きました」


「なるほど。万が一の時はここに逃げ込むつもりだったのか」


「ええ、いまはどちらかと言うと暴徒に対する備えの意味合いの方が強いですね。地下への階段はあまり目立たない場所にありますし、ここなら食料にも困りません」


「暴徒くらいならあたしがなんとかしてやる。よくしてくれてる礼だ」


「それは心強い。頼りにさせていただきます」


 下男は、シグナムが身の丈ほどもある巨大な剣を、片手で部屋へ運び入れるところを目撃している。そしてその風貌から、おそらくは傭兵、それも並の腕ではないのだろうと予想していた。


「では、私はこれで下がらせていただきますが、そのお嬢さんが目を覚まされたら知らせて下さい。厨房の者に頼んで、臓腑(ぞうふ)の弱った者でもお()しできる食事を用意しておりますので」


「ああ、ありがとな」


 一礼して下男は階段を上っていった。

 室内には寝台のほかにも、小さな卓と丸椅子が一脚運び入れられていた。下男が用意してくれたのだろう、卓の上には水差しとカンテラがふたつ。床には蓋のされた大きめの(かめ)があった。それが室内に置かれた家具のすべてである。

 シグナムがそれらを確認していると、フレインがアルフラの左腕の包帯を()き始める。


「包帯をかえるのか?」


「いえ……」


 アルフラの二の腕までを露出させたフレインは、カンテラを近づける。するとシグナムから息を呑むような気配が感じられた。


「これは……」


 さらに肩口までの包帯を解き、右腕以外の四肢、そして腹部の肌が外気にさらされる。


「比較的軽度の火傷が治りかけています……」


 右手から遠い箇所。主に左の手足にその傾向が強い。左前腕部は肌の白い部分こそほぼ皆無だが、青黒い痣と赤く爛れた傷とが斑に広がり、まだ人間の皮膚の体裁をなしている。左の膝から下も同様(どうよう)であった。

 右半身の皮膚が黒く引き攣れ、古木(こぼく)の幹のような、とても人の肌とは思えないような手触りとなっていることに比べれば、幾分かはましと言えるだろう。


「これなら、以前と変わらずとはいかないまでも、左手はなんとか動かせるようになると思います」


「昨日包帯をかえたときは、まだ赤黒くて血の滲んでる部分もあったのに……」


「快癒の効果でしょう。カダフィーはごっそりと魔力を消費したと言っていたので、かなりの力を注いだのだと思います」


「それにしても……」


 シグナムは、アルフラの左手を指でなぞり、驚嘆の声をもらす。


「快癒って本当にすごい魔法なんだな……」


「ええ。扱える者は数えられるほどしか存在しないと言われていますからね。レギウスの大司祭ですら、司法笏(しほうじゃく)と呼ばれる呪具を(もち)いなければ使えないそうです」


 しかし、その言葉をシグナムは聞いていないようだった。アルフラに回復の兆しが見えて、よほど嬉しかったのだろう。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。それに気づいたフレインは、すっと視線をそらす。


「さすがにこの部屋に三人も入ると息苦しいですね。私は必要な物を取りにゆきますので、アルフラさんについていてあげて下さい」


「……ああ、頼む」



 こころなし、気恥ずかしげ声がフレインへ返された。





 正午も近くなった頃、アルフラが目を覚ました。

 すこしうとうとしかけていたシグナムではあったが、アルフラの身じろぎするかすかな気配で、一瞬にして意識が覚醒する。若干ぼうっとした様子のアルフラに声をかけることはせず、階段を上がって厨房へでる。そして宿の使用人に、食事を用意してくれるよう告げた。

 レギウスやロマリアでは、通常昼に食事をする習慣はない。一日の食事は基本的に朝夕二回である。だが、下男の言葉通り、アルフラがいつ目覚めてもよいように、あらかじめ食事の用意がなされていたらしい。

 よく煮込まれたシチューが木椀(わん)によそわれるのを見ていると、厨房の入口からフレインが姿を現す。その手には小振りな壷が持たれていた。


「アルフラさんが目を覚まされたのですか?」


「ああ、まだちょっと意識がはっきりしてないみたいだったけどね。――それは?」


 シグナムはフレインの手にする壷を目線で指し示す。


没薬(もつやく)です。さきほどケイオン先生の助手が尋ねて来られましてね。アルフラさんの今後の治療について、いくらかの助言をいただきました」


「あの爺さんじゃなくて助手のほうが来たのか?」


「はい。ケイオン先生は夜を徹して患者の治療をしていたらしく、今はお休みになられているそうです」


「……やっぱりその患者ってのは、黒死の(やまい)だったのか?」


 フレインは表情を曇らせ、首肯(しゅこう)した。


「夜が明けてから、さらに三人が診療所に担ぎ込まれたそうです。それらの人達も、やはり黒死の病だと聞きました」


「そうか……なるべく早くカモロアを離れた方がいいな……」


「ええ、それとこのロマリア特有の風土病で、琥腐(こふ)という病があるそうです」


「琥腐?」


 聞き慣れない病の名に、シグナムの眉がよせられる。


「傷口が壊死(えし)する病気だそうです。健康な者ならまず(かか)ることはないのですが、体力の衰えているアルフラさんは気をつけた方がよいと」


「ああ、それで没薬か」


 没薬はもともと、高地に自生する没薬樹と呼ばれる植物の樹脂である。主に(こう)として()くことにより、鎮痛、鎮静の効果に(ひい)でる。また、消毒や防腐の作用も(ゆう)し、フレインの持つ壷の中味は、それを目的とする精油化された没薬であった。


「助手の方と相談して、アルフラさんの右腕や火傷の酷い部分に塗布(とふ)することにしました」


 二人は話しながら地下へと降り、貯蔵庫の扉を押し開ける。


「アルフラちゃん?」


 寝台に横たわるアルフラは、右腕の包帯をほどこうとしているようだった。しかし、左手の指が思うように動かないらしく、しきりと引っ掻くような仕草をしていた。


「まだ包帯を取っちゃだめだよ。後で薬を塗るから、まずは食事にしよう」


 アルフラは緩慢な動作でシグナムへ顔を向ける。


「ほら、ここ数日まともに食ってないんだから。さすがに腹も減ってるだろ?」


 シチューの木椀がアルフラの鼻先へ近づけられる。


「な? うまそうな匂いだろ。肉もほぐれるほど煮込んであるし、これなら……」


「……ない、の」


「え……?」


 たどたどしくはあるが、昨夜よりはっきりとした声でアルフラはささやく。


「うごか、ない、の……みぎ、てが……うごかない、の……」


「あ……ああ……」


 返事はしたが、それ以上言葉がつづかず、シグナムは顔を引き攣つらせる。とてもではないが今のアルフラに、このさき右手はもう動かないかもしれないとは、告げることが出来なかった。


「アルフラさん……アルフラさんは、とても酷い火傷を負っています。いまは少しでも多くの食事を摂って、よく眠るのが一番です。そして一刻も早く怪我を治しましょう」


 アルフラは、フレインの方へとかすかに顔を傾ける。


「どのくらい、で……なお、るの?」


 いたたまれないような僅かな沈黙のあと、シグナムが答える。


「大丈夫だよ。ちゃんと食べてよく寝てれば、すぐによくなるから」


「……とうか、くらい……?」


 白く濁った目が、じっとシグナムを見つめる。それだけで、シグナムは何も言えなくなってしまう。


「さすがに十日では無理です。いまはゆっくり体を休めることだけを考えましょう」


「いっかげつ、くらい……?」


 すぐに治るのだと信じて疑わないアルフラへ、二人はかける言葉もない。

 フレインは導衣の懐から、小瓶を取り出す。――カンタレラだ。


「あ……」


 アルフラの左目が、かるく見開かれた。

 穏やかにフレインは語りかける。


「食事を、しましょう。そしてこれを飲んで夜まで眠っていた方がいい。夕食後のカンタレラも、ちゃんと用意がありますから」


 そうして、フレインの手元を食い入るように見つめるアルフラへ、シグナムが食事をさせる。すこしずつスプンに掬い、時間をかけてゆっくりと。

 食後にカンタレラと解熱剤を飲んだアルフラは、それだけで疲れてしまったのか、すぐ寝息をたて始めた。

 フレインは、よくアルフラが寝入ったのを確認して、その右腕の包帯をほどく。そして起こしてしまわぬように気をつけながら、没薬を染み込ませた布をあてがい、包帯を巻き直した。



 穏やかに眠るアルフラを見下ろしながら、シグナムとフレインは右腕のことをどう伝えるべきなのか、長く頭を悩ませた。





 夕刻となり、食事の用意を整えたシグナムは、椅子に腰掛けてひとつ息をつく。昼の間には、ルゥとジャンヌも何度かアルフラの様子を見に来ていた。しかしなにぶん、この貯蔵庫は狭い。熱が篭ってしまうため、なるべく部屋には入らないよう言い含めて、シグナムは二人を自室へ帰した。ルゥは没薬の強い香気が苦手ならしく、言われるまでもなく扉の外から心配げにアルフラを見つめていた。

 やがて、カンタレラと解熱剤を手にしたフレインが訪れると、その気配を感じたかのようにアルフラが目を覚ました。ぼんやりとさ迷った視線は、フレインの持つカンタレラに止まる。


「……ちょう、だい……」


「アルフラちゃん、食事が先だ」


 シグナムはアルフラの背を支え、上体を起き上がらせる。そしてスプンでシチューをひと(すく)いし、ひび割れた唇へとよせる。アルフラはなされるがままに、それを口にした。

 食事の間、フレインは厨房へ上がり、竜参胆の薬湯を用意して地下へ戻る。


「本来なら、何種もの薬剤を同時に使用するのは、あまり好ましくないのですが……」


 しかし、そうも言っていられない状況にあるのが現実だ。解熱剤の効果は一時的なものであり、同時に体力の回復も(はか)らなければならない。

 カンタレラを飲み終えたアルフラへ、シグナムはさらに薬湯と解熱剤を服用させる。


「ほう、たい……」


 アルフラはやはり動かない右腕が気になるらしく、手首の包帯をほどこうとしていた。その手をシグナムがかるく押さえる。


「右腕の火傷が一番酷いんだ。包帯をかえるとき以外はほどいちゃだめだよ」


 それでもアルフラは、訴えるような眼差(まなざ)しをシグナムへ向ける。押さえられた手を振りほどこうとするが、その力は悲しいほどにか弱いものだった。


「アルフラちゃん……」


 シグナムはフレインと目を見交わす。しばし顔を伏せて黙考したフレインは、かすれた声音で(こた)える。


「自分の体がどういった状態になっているのか分からないというのも、不安でしょう。私達の目が届かないときに包帯をほどかれては、悪い風が入るきっかけともなりかねませんし……」


 その言葉に、シグナムは無言で頷く。そしてアルフラの左腕を離し、包帯に手をかけた。


「すぐに外すから、ちょっと待っててくれ」


 するすると包帯をほどき、没薬を染み込ませた布を取り払う。

 アルフラは、じっとシグナムの手元に視線を落としていた。しかし、外気に晒された右腕を見ても、表情は変わらない。


「痛みはないかい?」


「……うん。いたくは、ない……」


「そうか」


 安堵したように笑ったシグナムとは対照的に、フレインの顔から色が失せる。

 火傷の場合、痛みがないということは喜ばしいことではない。それはすなわち、真皮や皮下組織内の末梢(まっしょう)神経が壊死していることを意味する。そのため、痛覚どころかあらゆる感覚が失われているのだ。おそらくアルフラの熱傷は、筋肉組織にまで及んでいるのだろう。そうなると手だけではなく、腕全体が回復不能な損傷を受けているのだと推測出来る。


「めが、ぼやけて……よく、みえない……」


 アルフラは目を(すがめ)て、左手で右腕に触れる。瞬間――包帯におおわれた肩がびくりと震えた。


「なに……これ……?」


 がさがさとした硬い肌触りの瘢痕(はんこん)を、アルフラは撫ですさる。ぼやける視界に()れたかのように、左手が顔の包帯を掻く。右目のそれをほどこうとした指が、包帯の隙間から中へと差し入れられた。

 ずるりと、人差し指が第二関節まで眼窩(がんか)に滑り込んだ。


「あ……」


 そしてアルフラは気づいてしまう。


「あ、あ……あぁ…………」


 右の眼球があるべき場所は空洞で――


「め……」


 指を折り曲げると、かりかりと硬い頭蓋が爪先に触れた。


「あたしの、め……ない……?」


 茫然とつぶやき、たしかめるように虚ろな眼窩を掻く。

 息を詰めて見守っていたシグナムは、アルフラの左手を掴んで顔から離させた。


「大丈夫だ、アルフラちゃん。大丈夫だから……」



 その折れてしまいそうに細った体を抱いて、シグナムはなんの根拠もない、無責任な言葉をしか口にすることが出来なかった。

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