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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
148/251

欠けた細剣(後)



「ああ、我は願う」


 澄んだ声が、宿の一室に響き渡る。


「偉大なる法の守護者、神々の王レギウスよ。汝が敬謙なる信徒たることを、我は誓いし者なり」


 助司祭の正装に着替えたジャンヌは、真摯な表情で寝台を見下ろす。その両手に握られるのは、ダレス神の聖印とカミルの護符。


「どうか聞き届けたまえ。光溢れる神威を持ちて、傷つき倒れし者に聖なる癒しを。清廉(せいれん)(たえ)やかなる奇跡の……」


 しかし、胸元で祈るように組み合わせた手に宿った光は、かすかな濁りを帯びたものだった。ジャンヌは細く失意のため息をもらし、快癒の呪文を最後まで唱えきることが出来なかった。


「……申し訳ありません。やはり、わたしには……」


 落胆(らくたん)のあまり、神官娘はぺたりと床に腰をついてしまう。


「……いや、いい。なんとなくこうなるとは思っていた」


 寝台の(かたわ)らに立つシグナムの声は、平坦なものだった。部屋から去った老医師が治療をおこなっていた間、ジャンヌが快癒の呪文を練習していたとルゥから聞いて、その成果を試してみろという話になったのだ。ただ、あまり期待もしていなかったので、失望も薄い。それがジャンヌにも感じられ、いっそ落ち込んでしまう。顔を伏せた神官娘を、ルゥは心配げにのぞき込む。その背後で、戸口からフレインの呼びかける声がした。


「すみません。扉を開けてもらえますか」


 シグナムが扉を開くと、両手いっぱいに白い布を抱えたフレインが入ってくる。


「それは……?」


「寝台の敷布ですよ。宿の主人から譲っていただきました」


 カモロアは現在、北は魔族の脅威にさらされ、南は黒死の病が蔓延している。宿を利用する旅人や行商(ぎょうしょう)もだいぶ少なくなっているだろう。そう察しをつけたフレインは、宿の主人に頼み、破格の値で敷布を買い取ったのだ。


「これを煮沸(しゃふつ)して包帯の代用とすれば、当面は凌げると思います。大きめのものをいただいてきたので、縦に裂けば長さも充分なはずです」


 卓の上にどさりと音をたてて敷布が置かれる。その数は二十枚ほどもあるだろうか。フレインの細腕にはかなりの重労働だったらしく、肩で大きく息を弾ませていた。


「地下の部屋を使わせていただくことも了承をえました。ただ、その部屋は貯蔵庫として使われているので、片付けや寝台を運び込む必要があるそうです」


「すぐには使えないのか?」


「ええ、明日の朝までには用意していただけるそうです」


「……そうか。じゃあ後は薬だな」


「はい。ケイオン先生からいただいた竜参胆(りゅうじんたん)を使ってみましょう。いま厨房をお借りして煮詰めていますので、すぐにお持ちしますね」


 そう言ってフレインは、ふたたび部屋を出て階下へと向かう。その背を見送り、シグナムは神官娘の肩に手を置く。


「いつまでもくよくよするな。出来ないもんはしょうがねえよ。べつにお前を責めたりはしない」


「……はい。もう一度、治癒魔術の勉強をし直しますわ」


 立ち上がった神官娘は、寝台のひとつに腰を下ろして魔導書を開く。

 武神ダレスの信徒は、(おおむ)ね治癒魔術を軽視する傾向にある。しかし、ジャンヌはいま、これまでになく切実に、治癒魔術の必要性を感じているようだ。とても声をかけられる雰囲気ではなく、ルゥは寝台の横に置かれた椅子に座り、アルフラの右手をじっと見つめる。

 シグナムは水差しを傾け、少量を口に含んで狼少女のとなりに膝をつく。そのままアルフラに唇をよせ、荒い息の合間に水を流し込み、亜麻色の髪をひと撫でする。その時、シグナムはアルフラの(まぶた)が、かすかに痙攣していることに気づいた。


「――アルフラちゃん!?」


 上げた声と同時に、部屋の扉が開かれる。


「どうなさいました?」


 湯呑みを手にして戻ってきたフレインは、寝台へと歩みよる。そしてシグナムの視線に気づき、アルフラの覚醒が近いのだと悟る。


「すぐ(そば)で致死魔法が使われかけたんだ。それで目を覚ましかけてんじゃないのかい。その嬢ちゃんは感がいいからね」


 いつの間にか、開け放たれた鎧戸の(へり)に女吸血鬼が腰掛けていた。


「てめぇ!?」


 シグナムは素早い動作で壁に立てかけられた大剣を掴む。


「およしよ。私はべつに、昨日の続きをやるつもりなんてないからさ」


 夜風に(じょう)じて室内へ立ち入った女吸血鬼は、落ち着いた表情で笑っていた。ちらりとその視線を大剣にくれる。


「たしかにそんなモンで斬られちゃあ、私もちょっと大変なことになるけどね……ここでやり合えば、部屋の中だって無茶苦茶になっちまうよ」


 カダフィーの様子から、とりあず敵意はなさそうだと感じ、シグナムは大剣の柄から手を離す。


「まったく。あんたの目には、私が嬢ちゃんの命を取りに来た死に神にでも見えてんのかい?」


 だが、フレインやジャンヌ、ルゥまでもがシグナムと大差ない視線をみずからに向けていることに気づき、女吸血鬼は嘆息する。


「おや……すこし日頃の言動には気をつけた方がよさそうだね」


 自嘲の笑みをこぼしたカダフィーへ、シグナムは依然警戒を解かない。


「なにしに来た? あたし達がここにいるってのは、あんたの下僕が知らせたのか?」


「知らせたもなにも、あんな物騒な魔法を使おうとしたんだ。そりゃ嫌でも気づくさ。もしもディース神殿でジャンヌが快癒を唱えたら、大喜びで死霊が大挙してやって来るだろうね」


 ぐっ、と呻き声がした。失意の傷を広げられたジャンヌが、女吸血鬼を睨みつける。


「そんな顔おしでないよ。さっきの快癒は、この前やったのよりかはましになってた。その調子であと数年も頑張れば、ちゃんとした治癒魔法が使えるかもしれないね」


 その微妙な褒め言葉に、ジャンヌの表情は険しさを増す。


「まさか私をからかいに来たわけではありませんわよね? なんの用なのですか?」


「情報をね、いくつか持ってきてやったのさ。耳よりな話だよ」


 探るような目を見返し、カダフィーは肩をすくめる。


「あまり期待はされてないようだね。これも日頃の行いなのかね。――まあいい。あんた達、早めにこの街を出た方がいいよ。たぶん黒死の病に罹った奴がカモロアに入り込んでる」


「知っています。つい先程、黒死の病を(わずら)ったと思われる者が、診療所に担ぎ込まれたという話を聞きました」


「そうかい。じゃあ話は早いね」


「いえ。いまは動けません」


 常になく深刻なフレインの顔を見て、カダフィーは眉をよせて声を落とす。


「なにかあったのかい?」


「……アルフラさんを()ていただいたお医者様から言われました。このままでは長くもたないと。――いまはアルフラさんを動かすことは出来ません」


「そうは言ってもね、いまこの街では暴動まで起きてるんだ。黒死の病に加えて暴徒にまで気をつけなくちゃならない。カモロアに留まればフレイン坊やだって危ないんだよ」


 表情を変えることなく、フレインは首を横に振る。


「危険は承知の上です。南の区画で商家が襲われたことも知っています。それでもやはり、いまは無理です」


 (かたく)ななフレインの態度を見て、カダフィーは呆れたように息をつく。


「じゃあ、ひとつだけいい話も聞かせてあげるよ。北の駐屯地で兵士が大勢殺されたってのはね、平の衛兵には知らされてないよ」


 しかしカダフィーはフレインを見て、おや、といった表情をする。


「これも知ってたって顔だね」


「大方の予想はしていました」


「そうかい。ならこれはどうだい? 南に向かった駐屯地の兵士達に、伝令が走らされたそうだよ」


「どういうことだ?」


 それまで様子をうかがっていたシグナムが、分かるように話せと目でうながす。


「暴動のせいさ。治安維持のために、領主が国軍の兵士を呼び戻そうとしてるんだよ。そいつらがカモロアに帰って来れば、あんたらは余計身動きが取れなくなる」


「どのくらいでそいつらは戻ってくるんだ?」


「さあね。私が話を聞いた衛兵達も、さすがにそこまでは知らなかった」


「まさか……」


 フレインの疑惑の眼差しに、カダフィーは顔をしかめる。


「いや、さすがに衛兵に手を出しちゃいないよ。ただちょっと知ってることを喋ってもらっただけさ。私の魔眼でね」


 女吸血鬼の黒い瞳が、一瞬血のような赤い光沢を放つ。


「なんにしても、ここに長居はしない方がいい。門の警備が増強される前なら、私の力で街から出してやることもできる。でも、国軍の兵隊が戻って警備の数が増えちまうと、少し厳しい」


 シグナムは、どこか胡散臭げな目でカダフィーを見ていた。


「なんで急に、そんな協力的なんだよ?」


 これには皮肉るような答えが返される。


「前にも言ったけど、私はフレイン坊やに死なれちゃ困るんだよ。あんた達はどうなろうと構わないけどね」


「このカモロアで黒死の病が発生した以上、長く留まるつもりはありません。ですがやはり、数日はアルフラさんの容態を見る必要があります」


 フレインの言葉に、カダフィーは軽く眉をひそめて天井を見上げる。そして数瞬考え、表情を真剣なものへと変えた。


「これは親切で言ってやるんだけどね。悪いことは言わないからさ、嬢ちゃんを私の眷属にしちまおうよ」


「やっぱりまだ諦めてなかったのか」


 ふたたびシグナムは大剣に手を伸ばす。それを横目に、女吸血鬼は両手を掲げて、害意のないことを示して見せた。


「たしかにね。私はその娘にいくつか恨みがあるよ。でも、ただそれだけだったら、このまま嬢ちゃんが惨めに死んでくのを眺めてるさ」


 でもね、とその声音は暗く沈む。


「本当に悲惨なのは、命を取りとめた場合さ。――考えてもごらんよ」


 女吸血鬼は、アルフラの寝台の前に立つ。


「たとえ助かったとしても、この傷じゃ死ぬよりも辛い人生が待ってる。片目は潰れ、右腕もろくに使えない。顔は火傷で二目と見れない有様だ」


 痛みでも感じたかのように、シグナムが低く呻いた。


「その上、醜い瘢痕(はんこん)が全身に残ってちゃあ、人前で手足の肌すら晒せない。年頃の娘には、さぞ辛いことだろうね。――こんな状態で、この先どうやって生きていくんだい?」


 憐れむように、包帯を巻かれた額に手が置かれる。


「この娘はもう……剣士としては死んでいるし、女としても終わってるんだよ」


「お前の御託なんざ聞きたかねえッ!」


 鋭い怒声が放たれた。シグナムは大剣を掴み、鞘の留め金を外しざまに叫ぶ。


「アルフラちゃんから離れろ!!」


 激した感情のままに寝台へ駆けよろうとしたシグナムは、


「ああ、我は願う」


 カダフィーの口からもれ出た言葉に、愕然と足を止めた。

 静かな声で、女吸血鬼はその呪文を詠じる。


「安息と終焉の女神、神々の長子ディースよ。汝が眷属にして信奉者たることを、我は誓いし者なり」


 誰もが声を失っていた。ただじっと彫像のように固まり、驚愕のあまり身動きひとつ出来ない。

 祈りの言葉は、なおもたおやかに響き渡る。


「どうか摂理を傾けたまえ」


 やわらかな声音は伸びやかに美しく。

 常日頃の蓮っ葉な物言いからは想像もつかないほどに、その声は耳に優しく染み込む。


「安らぎもたらす神威を持ちて、傷つき倒れし者に大いなる癒しを」


 アルフラの額に当てられた左手が、淡い光を帯び始める。

 目を限界まで見開いたジャンヌは、顎が落ちそうなほどに口をあんぐりとさせていた。

 室内の空気は緩やかに流れ、カダフィーの羽織った外套がかすかにはためく。


静謐(せいひつ)雲母(きらら)かなる慈愛の御業を、いま此処に示したまえ」


 (けがれ)なき輝きが光量を増す。

 瞳を閉じて伏せた(おもて)が、光輝に照らされる。表情はどこか超然とし、ある種の神聖さがそこには感じられた。


(あらわ)せ、黄昏の威光を。――快癒(キュア・クリティカル・ウーンズ)!」


 光は刹那、緋色の輝きを帯びてアルフラの体へと流れ込む。風を孕んだ漆黒の外套が、ふわりと舞い上がった。


「っ……」


 かすれた声がアルフラの喉からもれた。ゆっくりと、左の瞼が開かれる。


「ア、アルフラちゃん!!」


 シグナムたちは寝台の横にひざまづき、その顔を食い入るようにのぞき込んだ。

 瞳は視点を結ぶことなく(ぼう)としており、薄膜(はくまく)がかかったかのように濁っていた。

 シグナムは顔をよせて呼びかける。


「アルフラちゃん。あたしが分かるか? ちゃんと目は見えてるか?」


 いらえは返らず、アルフラは微動だにしない。その瞳もまた動くことはなかった。声が届いているのかも判別出来ないほどに、無反応だ。

 代わりに女吸血鬼が、疲労のにじんだ声で応える。


「四日間も目を覚まさなかったんだ。意識がはっきりするまでには時間もかかるはずさ。あまり騒がず静かにしてておやりよ」


「あ、ああ……」


 シグナムはすこし身を引き、壊れ物を扱うようにアルフラの左手をそっと握った。


「な、なぜ……」


 わなわなと震える神官娘が、カダフィーを指差していた。


「なぜあなたが快癒の魔法を使えるのですか!?」


「そんなもの使えるに決まってるだろ。私はレギウスの大司祭よりも、倍は年を()てるんだからね」


 さらりと言ってのけた女吸血鬼は、からかうような笑みをジャンヌに向ける。


「前に教えてやったろ? 死霊魔術はね、古代の魔導師が生命の創造や死者復活の研究を行う過程で生まれたものなんだよ。私はその死霊魔術の(わざ)を、百二十年も研鑽(けんさん)し続けたんだ」


 カダフィーは寝台から離れ、壁際に寄って身をもたせかける。


「だいたいあんたは、誰から貰った魔導書で快癒を覚えたんだい?」


「あ……」


 とジャンヌは、自分の寝台の上に開かれたままの魔導書を振り返る。


「いわば私やホスローは、治癒魔法の専門家でもあるのさ。むしろなんで、あんたは私が快癒を使えないと思っていたんだい? そっちの方が不思議だね」


「くっ……」


 引き結ばれたジャンヌの口許から、ぎりりと歯の軋む音が聞こえた。


「で、ですが快癒の聖光には、不死者を(はら)(きよ)める力があるはずですわ」


「だから神官の使う神聖魔法とは系統が違うんだよ。ただまあ、まったく無事ってわけでもないけれどね」


 ほら、と女吸血鬼は、外套に隠されていた左手を掲げる。その肌は赤味を帯びて火脹れをおこしていた。


「あっ……!? もしかして、私の快癒が一度も成功しなかったのは、死霊魔術の――」


「いや、あんたに渡したのは神聖魔術の教本だ。快癒の効果が反転するのは、あんたの精神性に問題があるのさ」


「くぅ……」


「ま、あんたより私の方が、慈愛や思いやりに(まさ)ってるってことだね」


 それがトドメとなり、神官娘は一声うなってぺたりと床に落ちる。こころえたものであるルゥが、ジャンヌを抱き起こして寝台に座らせた。


「あなたはディース神の神官だったのですか?」


 フレインの問いかけに、女吸血鬼は苦笑する。


「ディースの信徒とはそれなりに親交もあるけど、神官ではないね」


 気落ちした様子のジャンヌが、はっと顔を上げる。


「聞いたことがございすわ。ディース神の信者は、力ある不死者を聖人として崇めているのだと」


 カダフィーは長い犬歯を見せて笑う。


「そう。ディースの神官達からは、死神の寵児なんて呼ばれてるね。ガルナで凱延と戦ったときのことを思い出してごらんよ。あんたらは、なんで私やホスローがディース神殿を好きに使えていたのか――おかしいとは思わなかったのかい?」


 嘆息するようにフレインは大きく息をついた。


「……そういうことだったのですか」


 そしてカダフィーに深く頭を下げる。


「ありがとうございました。アルフラさんの意識が戻らないままでは、本当に幾日ももたなかったかもしれない。さすがに水と薬湯だけでは消耗していくばかりですからね。自発的に食事が()れるようになれば、じきに体力も回復していくでしょう」


 これにはシグナムも追従する。


「助かった。あんたを信用したわけじゃないけど……礼は言っとく」


「いや、もともと嬢ちゃんは目を覚ましかけてたし、私は自分の都合でやっただけさ。――それに、これで分かったろ」


 カダフィーは寝台の傍に寄り、右肘の包帯をわずかにほどいた。そこからは黒い瘢痕(はんこん)がのぞいている。


「快癒でも、重度の火傷は治らないのさ」


 体に触れられたことに反応したのか、アルフラが左の瞼をまたたかせる。濁った眼球が左右に動き、ひび割れた唇がわなないた。

 シグナムはもれ聞こえた声に耳をそばだてる。

 寝台に背を向け、カダフィーは鎧戸に手をかけた。



「私は食事を()りに行ってくるよ。予定外にごっそりと魔力を使っちまったからね」





 切れ切れに囁かれる声に、みなが耳を傾けていた。

 やがて、アルフラがしきりに白蓮の名を呼んでいるのだと気づく。そして、髪、ペンダントという言葉が聞き取れた。


「すまない、アルフラちゃん」


 一言一言、ゆっくとシグナムは語りかける。


「ペンダントがないことは後から気づいたんだ。でも、探しに戻ってる余裕がなかった」


 アルフラは正面を見据えたまま、茫然としているようだった。顔のほとんどが包帯でおおわれているため、その表情は非常に読みづらい。


「シグナムさん。薬湯を飲ませてあげて下さい。だいぶ冷めて常温になっていますので、いまのアルフラさんにはちょうどよいでしょう」


「あ、ああ」


 湯呑みを受けとったシグナムは、それをアルフラの視界へ入るように近づける。


「薬だ、わかるかい?」


 声をかけられても動かぬ瞳を見て、フレインは思い当たる。


「もしかすると右の耳が聞こえていないのかもしれません」


 その言葉に頷き、シグナムはアルフラの左の耳に口を寄せた。


「アルフラちゃん。これはすごく貴重な薬らしいんだ。この薬湯を飲めば、きっとすぐ元気になるよ」


 するとアルフラは、力なく首を傾けた。瞳が揺らぎ、やがてシグナムの顔に焦点が合わされる。


「よかった。声はちゃんと聞こえてるんだな」


 アルフラの唇がうすく開かれる。しかし声は発せられず、細い息だけがもれた。そして唇もそれ以上は動かない。

 火傷により顔の皮膚が引き攣れ、うまく唇の開閉が出来ないのだ。そんなアルフラの様子を見て、シグナムの表情が、一瞬だけ泣きそうに歪む。


「アルフラちゃん……薬を飲もう」


 ぐったりと()した体に負担がかからぬよう気をつけて、シグナムは首の下に腕を差し入れる。


「……さ……い……」


 さき程よりもはっきりとした声が、かさついた唇からこぼれた。

 なんとかその声を聞き取ろうとするシグナムは、アルフラの瞳が自分の背後を見ているのだと気づく。視線を辿って振り返った先には、細剣の置かれた卓があった。


 フレインは卓上の細剣を取り、シグナムに手渡す。代わりに受けとった湯呑みを持ったまま、いたましげにアルフラを見やった。


「……あ……ぁ……たし、の……」


 いまのアルフラは、視力が極度に弱っていた。傷ついた左眼の網膜は正確に情景を映すことが出来ず、すべてが(かすみ)がかり、視界からは色が失われている。あまり判然としない輪郭で、かろうじて物を認識しているような状態だった。


「……びゃ……く、れ……か……ら……も、ら……」


 アルフラの左腕が弱々しく持ち上がる。その手に、白蓮から貰った大切な細剣が握らされた。

 かすかに目が見開かれる。

 異常に気づいたのだ。


「とっ……て…………ぬ、の……」


 刀身を隠す布を取って欲しいのだということは、誰もがすぐに理解した。しかし、溶解した細剣を見て、アルフラがどれほど悲しむのかを想像すると、それをすることがためらわれる。

 シグナムは眉根を寄せて、きつく目を閉じた。フレインも動くことが出来ない。

 苦しげな息遣いの中、アルフラは低く呻いていた。まるで悲鳴のようなその声を聞いていることに耐えられず、シグナムは細剣の布に手をかける。


 剥き出しとなった刀身を見て、さらにアルフラの目は見開かれた。口は絶叫の形を取るが、声はなかった。

 かつては美麗であった白刃は黒く(すす)け、溶解した刃はいびつに潰れている。刀身の中程から先は失われ、冷気を帯びた魔力も今はない。


 全身を小刻みに震わせながら、アルフラは泣いていた。

 大きなシグナムの手が、優しく頬に触れる。しかし慰撫するその手にも気づかぬように、アルフラの視線は細剣から離れない。

 これ程の大怪我を負いながらも、アルフラは自分の状態を嘆くより先に、白蓮から贈られた細剣を気にかけ、涙を流す。


「アルフラちゃん……」


 たまらないやるせなさに、シグナムの声は震えていた。

 声もあげず涙するアルフラの姿は、胸に迫るものがあった。あまりにもひたむきなその想いは、どこか悲しい。

 左の目尻を伝った涙は、とめどなく零れ落ちる。

 右目の包帯にも、染みが浮かんでいた。虚ろなはずの眼窩(がんか)を覆った布は、どんどんその染みを広げてゆく。



 シグナムはこのとき初めて、涙は瞳から流れるものではないのだと知った。

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