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氷の滅慕  作者: SH
五章 絶愛
147/251

欠けた細剣(前)



 (みち)は真っすぐにつづく。よく整備された敷石からは陽炎が立ち上がり、遠く前方には揺らめくカモロアの門が見えた。街壁の外には民家が点在しており、青々としげった田畑が広がっている。しかし、そこで汗する者の姿はない。日は没し始めているが、畑仕事を切り上げるにはやや早過ぎる刻限だ。不自然に閑散とした景色を見やり、御者台に腰を下ろしたフレインは馬を進ませる。

 さらに街へと近づくと、大きく開かれた門の内側から、雑然とした気配が伝わってきた。

 武装した衛兵達の背が見える。十名ほどの兵士が、門から出ようとする人の流れをせき止めていた。彼らが押し(とど)めようとしているのは、カモロアの住民たちだった。――牛車に家財を積み上げた者。徒歩(かち)で持てるだけの荷物を担いだ男。馬車や荷馬車も複数あった。百には届かぬが、それに近い数の住民たちが押し寄せていた。門を遮る衛兵に向けたられた抗議の声は、怒号となって周囲に響き渡る。

 門前まで進んだところで、衛兵たちの一人が振り返った。


「旅の者か?」


 駆け寄った衛兵はさらに問う。


「珍しいな。レギウスの者か?」


 フレインの肌色と顔立ちを見て、衛兵はそうあたりをつけたようだ。

 肯定の意を返し、これは何事なのかとフレインは尋ねる。


「近隣の村に、黒死の病で倒れた者が出たのだ」


「黒死の病が……!? では、街に入ることは出来ないのですか?」


「やめておけ。北から来たのであれば、門をぐぐるのは構わんが……見ての通り、一旦入れば出ることは難しいぞ」


 衛兵は苦い顔をする。


「領主様からのお触れがでているのだ。難民の流出を決して許すことなきように、とな」


 荷馬車から降りてきたシグナムが、衛兵に問う。


「カモロアの中にも、黒死の病にかかった奴がいるのか?」


「今のところは居ない……はずだ」


 やや不安げに表情を(かげ)らせ、衛兵はちらりと背後に視線をやる。カモロアの住民たちを相手に、押し問答をしている仲間のことが気になっているようだ。


「あたし達はカモロアに用があるんだ。通行証ならある。通してくれないか」


「……好きにしろ。ただし俺は忠告したぞ。街から出られなくなった後で、文句を言っても知らんからな」


 そう言い置いて、衛兵は門下の同僚たちへと叫ぶ。



「おい! 道をあけてやれ」





 馬車の御者台から、フレインはカモロアの街並へと首を巡らせる。

 数日前に訪れた時とは打って変わり、通りはひどく(さび)れていた。人の往来はまったくといってよいほど見あたらず、露店の類いも目につかない。

 かつては賑わっていた大通りの喧騒もどこへやら。強い陽射しに蒸された石畳から、湿った熱風だけが運ばれてくる。舞った砂塵は埃ぽく、汗で湿った肌にまとわり付く。

 一旦、馬車を止めたフレインは、御者台を降りて荷馬車へと駆け寄る。本来であれば、道端で馬車を止めれば通行人の邪魔となるのだが――そういった気を遣う必要もないほど、あたりには人気がない。


 荷馬車の御者台に座ったシグナムと数言、フレインは相談を交わす。そして一行は、最初に目についた宿で部屋を借りることにした。

 大通りにも面した、石造りの立派な宿だ。門には花飾りが吊され、すぐ隣には厩舎が併設されていた。疲れた馬を、(わら)の寝床で休ませることも出来るだろう。


 軒先をくぐったフレインとシグナムに、人のよさ気な笑みを向けて、宿の主人がお辞儀をした。


「いらっしゃいませ、旅のお方」


 開け放たれた戸口から、表に止められた馬車を見て、主人は一行を上客だと判断したようだ。笑みを深めて言葉を(つな)ぐ。


「一夜の宿をお求めですか? それとも、しばらくこちらへ滞在されるご予定でしょうか?」


「たぶん数日は世話になると思う。一番上等で清潔な部屋を用意してくれ」


 シグナムの言葉に、宿の主人はうやうやしく頭を下げる。


「かしこまりました。ちょうど今朝方、二階の角部屋が空きましたので、そちらへご案内いたしましょう。一晩で銀貨二枚となりますが……?」


 懐具合を窺うかのように、客たちの顔を伺った主人へ、黄金色(こがねいろ)に輝く貨幣が投げ渡される。

 金貨を受け取り相好を崩した主人へ、さらにシグナムは告げる。


「足りなくなったら言ってくれ。それと、もしかすると少し寝台を汚しちまうかもしれない。怪我人がいるんだ」


 怪我人と聞き、主人の表情があからさまに強張った。


「まさか……黒死の病では――?」


「いえいえ、違いますよ」


 慌ててフレインが、主人の不安を否定する。


「私達はレギウスから来たのです。南方で黒死の病が流行しているという話自体、つい最近知ったのですよ」


「……それならよいのですが」


 やや疑わしげにしながらも、主人はそもそも黒死の病に(かか)った者ならば、馬車でカモロアの門を抜けるのは不可能かと思い直した。その様子を見て、シグナムは表通りへと出る。そしてすぐに、アルフラを背負って戸口に現れた。全身を包帯におおわれたその姿を見て、主人は目を見開く。


「これはまた……ずいぶんと……」


 言葉を失った主人に、シグナムは早く部屋へ案内するよう目顔でうながした。


「……失礼しました」


 おのれの不作法を一言詫び、主人は後ろで様子をうかがっていた下男に指示をだす。


「お客様方を案内したのち、荷物などを運び込む手伝いをなさい」


「はい、かしこまりました」


「ああ、荷物はこっちでやるから構わないでくれ。かわりに医者を呼んで来てくれ」


 主人の方へちらりと視線を移し、下男はすぐに頷く。


「わかりました。まずは部屋へご案内いたします。その後急いでケイオン先生を呼びに参りましょう」


 シグナムにつづき、階段を上がって行くルゥとジャンヌに目をやりながら、主人はフレインに尋ねる。


「五名様でのお泊りでしょうか?」


「ええ。そうです」


「ご案内させたのは四人部屋ですので、簡易寝台をひとつ運び込ませましょうか?」


「いえ、さすがに女性ばかりの部屋で寝泊まりするわけにはゆきません。別に一人部屋を用意していただけますか?」


「かしこまりました」


 にこにこと応対する主人に、フレインはとても気さくな人柄のようだという印象をもった。


「さきほど門兵(もんぺい)から聞いたのですが、近くの村で黒死の病が発生したらしいですね?」


「ええ……」


 硬い表情で主人はうなずく。


「カモロアから南へ半日も歩かない距離でしょうか、そこそこ大きな農村があります。住民達がばたばたと倒れ始めたのが、今から三日ほど前のこととか……」


 そこで主人の声はひそまる。


「ここだけの話、その村の者が南の関所を抜けて、カモロアに逃げ込んだのではないかと言われています」


 軽くフレインは息を呑む。


「それは、確かなのですか?」


「おそらくは。――黒死の病が発生した村に縁故のある住民を、衛兵達が厳しく取り調べているそうです。戸籍と照らし合わせて、逃げてきた村人を(かくま)いそうな者の家を、片端から調べているのでしょう」


「そうですか……それで街の人々は黒死の病に感染することを怖れ、門へと押しかけていたのですね」


「ええ、それについ昼頃のことなのですが、街の南で小規模な暴動が起こり、商家の倉が襲われたそうで」


 フレインの表情も、主人同様にかすかな強張りをみせる。


「暴動まで……カモロアの治安はそこまで乱れているのですか?」


「はい。もともと南地区には貧民街が広がり、すこし物騒な場所だったのですが……ここ数日はそれに輪をかけて酷くなっているらしいですね」


 暗澹(あんたん)とした口調で、主人はひとつため息を落とす。


「街の北側はまだましな方なのですが……昼間でも外を出歩いているのは、巡回の衛兵さん達くらいなものですよ」


 街に人の姿が見えなかった原因を知り、フレインは得心する。そしてカモロアの治安は、今後さらに悪化するだろうと予想した。

 もともと魔族の進攻によって物流の滞りがちだったところに、黒死の病だ。通りから人は消え、店は軒並み閉め切られている。もしもこの状況がつづくようならば、ほどなく食料は配給制となるだろう。――が、カモロアの領主とて、暮らしのすべてを補ってやることは不可能だ。物の買えなくなった住民たちは不満を募らせ、暴徒と()す者もでるだろう。南地区の暴動が街全体へと広がるのは、時間の問題に思えた。


「北の関所に詰めていた兵士は、治安維持のために街へと戻されたのですね」


「そうなのですか?」


 主人が意外そうな顔で聞き返した。


「ご存知ではなかったのですか?」


「え、ええ……数日前を最後に、北から訪れるお客様もおられなくなっていたので……」


「そうですか。北方から来る者なら、黒死の病を心配する必要もそれ程ありませんし、北の関所にまで人数は割けなかったのでしょうね」


 フレインは主人の顔色を見ながら、気になっていた話題を振ってみる。


「カモロアの北には、国軍の駐屯地があったと記憶しておりますが?」


「ええ、ですが最近、駐屯地の兵隊さん達は南方へ移動なされたはずですよ。なんでも黒死の病の被害を抑えるためだとか」


 主人は駐屯地で起こった変事について、なにも知らないらしい。その口は滑らかに動いていた。

 どうやら多くの兵士が駐屯地で死んだことは、市井の者に伝わっていないようだ。それも当然だとフレインは考える。

 現在の状況で、カモロアからもほど近い駐屯地で一個小隊もの兵士が死んだと噂になれば、住民たちの不安は一気に膨らんでしまうだろう。治安の悪化に拍車をかけないため、一般の者には情報自体が伏せられているのだ。それどころか街の衛兵たちにすら、知らされていない可能性も高い。衛兵は領主の私兵であり、国軍とは所属が違う。もちろん指揮系統も異なり、必ずしも情報を共有しているわけではない。当然、領主には報告が行っているだろうが、それを衛兵たちに伝えるとは限らない。治安を預かる者たちの士気を地に落とすような話は、みずからのところで止め置くのではないだろうか。


 幾分かの安堵を覚えたフレインは、大きく息をついた。

 さらに詳しくカモロアの情勢について尋ねていると、医者を呼びに出た下男が戻ってきた。


「申し訳ありません。ケイオン先生はただいま往診(おうしん)に出ていらして、帰りは一時(いっとき)ほどあとになるとのことでした」


「そうですか……」


 表情を曇らせたフレインを見て、すかさず主人が声をかける。


「またしばらくしたら、下男を呼びにやらせますので」


「お願いします」


「お連れの方は、火傷を負っておられるのですか」


 フレインは、ふと眉をあげる。包帯の巻かれた姿を見ただけで、なぜそれを火傷だと思ったのか。


「……それが、なにか?」


「ああ、いえいえ。詮索するつもりはなかったのですが……」


 不審げなフレインの様子に気づき、主人は手の平を見せて、胸元で軽く両手を振る。


「七日……いえ、八日ほど前だったでしょうか。酷い火傷を負った少年が担ぎこまれましてね。それがやはり、北から来られたお客様でしたので、もしやと思いまして」


 なにやら偶然とは言い切れぬ共通性を、フレインは感じた。


「それはどういった方なのですか? まだこの宿に?」


「いえ。つい今朝方、部屋を引き払われましたよ。まだ若い、二十(はたち)にも届かない二人連れの男女でしたね。さきほどご案内させていただいたのは、その方達が使われていた部屋なのですよ」


「そうですか……」


「そのお客様も、ケイオン先生の治療を受けて歩けるまでに回復しておられました。ですからご安心下さい。きっとお連れの方も治していただけますから」


 フレインはやや思案し、そして口を開く。


「……北門の衛兵から、現状では街から出ることは困難だと聞かされました。その人達はこのカモロアから出ることができたのでしょうか」


「さあ……どうなのでしょう。南へ向かうとは言っておられましたが、こちらには戻られませんし、無事に街から出られたのではないでしょうか」


 頷きながら聞いていたフレインは、これ以上、あまり有用な話も聞けないだろうと判断した。会話を切り上げることにする。


「……わかりました。ありがとうございます」



 軽く頭を下げ、フレインはみずからの部屋へ案内してくれるよう伝えた。





 杖をついた老齢の医師、ケイオンが訪れたのは、宵の闇が落ちきってからのことであった。

 若い男の助手をともない、部屋へと案内された老医師は、寝台に寝かされたアルフラを見て軽く眉をひそめた。

 静かな室内には、(せわ)しない呼吸音だけが響く。閉じられた左の瞼と口許以外は包帯におおわれ、アルフラの痩せた胸部だけが小刻みに上下していた。

 壁際に立つシグナムたちを見回し、ケイオンはぽつりとつぶやく。


「かなり……重篤な状態のようだの」


 歩みよって見下ろし、アルフラの身体各所に視線を走らせる。その目が、中程から溶解した細剣を握ったままの右手で止まった。刀身には布を巻いてあるが、形状からそれが剣であることは一目瞭然であった。

 フレインが声色低く告げる。


(いかずち)に、打たれたのです」


「よくも、命があったものだ……。それはいつ頃の話じゃね?」


「四日ほど前です」


「……そうか。四日か……」


 老医師は大きな鞄を持った助手を手招き、硝子の小瓶を受け取る。蓋が開かれると、部屋の中に鼻をつくアルコールの臭気が(にお)い立った。

 ケイオンは少量の液体を掌に(まぶ)し、揉み込むように擦りあわせる。そして両腕を伸ばし、アルフラの右手に巻かれた包帯を外しにかかった。

 焼け爛れ、黒く変色した指が外気にさらされる。

 手首まで包帯をほどいた辺りで、呻くような声がケイオンの喉から響いた。


「雷に打たれたことにより、剣が溶解するほどの熱を帯びたのじゃな。手の平の皮膚が()かれ、剣の柄と完全に癒着してしまっておる」


 さらにアルフラの肘までが露出されると、重い息が長々とはき出された。


「化膿しかかっとる。熱も高い。ここまで重度の火傷となると……」


 前腕部の皮膚全体は、引き攣れた黒い瘢痕(はんこん)となっていた。水分を失った皮膚はかさかさと縮み、体表面積を大きく減らしたことにより、所々がぱっくりと割れ、生焼けの皮下組織が(あら)わとなっている。肉の覗いた傷口は、熟れすぎた果肉のようにじゅくじゅくとし、薄桃色の体液が滲んでいた。


「右腕が、一番酷いんだ。頼む……アルフラちゃんを助けてやってくれ」


 (すが)るような目が、ケイオンへと向けられていた。


「力は尽くそう。まずはこの右手をどうにかせんとな。長く放置すれば肉が強張り、たとえ回復したとしても掌の開閉が出来んようになる」


 ケイオンは助手の持つ鞄を卓上に乗せ、中から数本の刀子を取り出して並べる。半月型の薄い刃が特徴的な、医療用の刀子だ。


「今から癒着した部分を切り離す処置を行う。じゃが、儂の助手だけでは手が足りん。特に難しいことをさせるわけではないので、誰か手伝ってくだらさらんか?」


「あたしがやる」


 (こた)えたシグナムにつづいてフレインも声をあげる。


「私もお手伝いたします。若干ながら医術の知識もございます」


「そうか。よろしく頼む。そちらの娘さん達は……」


 ルゥとジャンヌに目が向けられる。


「部屋を出とった方がよいじゃろ。よく見知った者の身体に刃が入るところを見るのは、儂ら医師であってもなかなかに(こた)えるものがある」


「わたしも残って……」


 手伝うと言い張ったジャンヌであったが、


「ボク、やだな……」


 青い顔をしたルゥに強く手を引かれて、部屋を出て行った。狼少女は、変わり果てたアルフラの姿を見ているだけで苦痛だったのだ。その体が刻まれる情景になど、耐えられるはずもない。

 二人の背を見送り、ケイオンはフレインへと向き直る。


「下へ行って宿の者に湯を沸かすよう伝えるのじゃ。その湯を(おけ)に入れてもってきて下され」


「わかりました」


 次に老医師は、部屋の角に備えつけられた低めの戸棚を指差す。


「あれを寝台の脇に移動させてくれ。この嬢ちゃんの腕を乗せるのに、ちょうどよい高さじゃ」


 頷いた助手を手で制し、シグナムが軽々と戸棚を持ち上げる。それをアルフラの傍らへ置くと、ケイオンが棚上に厚手の布を二重に敷く。さらにアルコールの小瓶を手にして、刀子の鋭利な刃を消毒する。

 手慣れた様子で準備を行うケイオンは、次にアルコールが入ったものとは違った小瓶を取り出した。蓋が開けられるときつい刺激臭が漂う。それを白布(はくふ)に浸し、アルフラの顔に近づけようとした老医師に、


「……おい。なんだそれは?」


 シグナムが詰問調の声で問うた。


「ただの麻酔じゃよ。痛覚が麻痺してほとんど痛みを感じなくなる薬じゃ。麻薬の一種ではあるが、それほど中毒性はないので心配には及ばん」


「アルフラちゃんはずっと意識がないんだ。そんなもの使う必要はないだろ」


 容態の(かんば)しくないアルフラに、得体の知れない薬を使われることが、シグナムには不安だった。


「人というものは、たとえ意識がなくとも痛みは感じるのじゃ。そういった者に麻酔を使わず処置を行うと、体温が上がり大量に発汗する。それが証拠じゃな」


 手を止めて振り向いたケイオンは穏やかに言葉をつづける。


「この嬢ちゃんの熱が更に上がれば命にかかわる。そなたの心配も分かるが、麻酔は必要なのじゃよ」


「……わかった」


 ケイオンは老いた顔に優しげな(しわ)を刻んで頷く。そしてアルフラの口元に薬剤の染み込んだ白布を当てた。

 やがて、フレインが桶を抱えて戻って来た頃には、すべての準備が整えられていた。

 棚上に伸ばされたアルフラの右腕を前に、ケイオンは椅子を引いて腰掛ける。


「なるべく影が出来んように、両側からカンテラで照らしてくれ」


 指示に従い、シグナムとフレインは床に膝をつき、細剣の握られた手にカンテラを近づけた。そして照明による陰影が浮かばぬように、位置を調整する。その横では助手の男が最も小振りな刀子をケイオンへと手渡す。


「では、始める」


 かすかな緊張を含んだ声で、老医師は告げた。

 鋭い刃先が、細剣の柄と親指の間に少しずつ沈められる。やや表情に動揺を浮かばせたフレインであったが、目を逸らすことなくアルフラの手元を照らす。それが治療のためだと理解していても、想いをよせる少女の体が目の前で傷つけられる光景は、想像以上に心苦しいものであった。その顔は悲痛さもあらわに歪んでいる。


 誰もが息を詰めて見守り、言葉を発する者はいない。カンテラの灯心(とうしん)が燃える音すら聞こえそうなほどに、室内は静かだった。麻酔が効いているためか、アルフラの呼吸も安定している。

 親指を柄から切り離した老医師は、人差し指の解離(かいり)に取り掛かっていた。処置が第二関節にまで及んだ辺りで、助手に指示してやや刃の大きな刀子へと持ち替える。ケイオンは繊細かつ迅速な手捌きで、薄皮(はくひ)に刃を滑らせる。

 事は順調に進んでいた。アルフラの指からは、ほとんど血が流れていない。シグナムは感嘆と感謝の声を上げたかったが、ケイオンの横顔に伝う汗の玉を見て口をつぐむ。処置は順調なはずなのだが、老医師の表情は険しさを増していた。流れる汗を、助手が手拭(てぬぐい)で丁寧に()き取る。



 老齢ながらもケイオンの集中力は凄まじく、物音ひとつ立てることも(はばか)られた。





 ごとりと音を立てて、卓の上に細剣が置かれた。柄の部分には、アルフラの右掌の皮が生々しく張り付いている。

 半時(約一時間)ほどもの時間をかけて処置を終えた老医師は、ぐったりと椅子に座り込んでいた。それに代わり助手の男がアルフラの手に包帯を巻いてゆく。


「ありがとう、爺さん。宿の親父も言ってたけど、あんた本当に腕が良かったんだな! ほとんど血もでなかった」


 いや、とケイオンは首を振る。


「思いのほか火傷が酷かったんじゃ。流れるほどに血が出なかったのは……表皮だけではなく、皮下組織にまで熱傷が及んでおったからじゃよ。指先にも血が通わず壊死(えし)しかけていた」


「……そんなに、酷いのか……?」


「うむ。麻酔も必要なかったかもしれん。あのぶんでは、痛みを感じる神経も死んでおるじゃろう」


 言葉を区切り、老医師は眉間(みけん)に皺をよせる。


「気の毒じゃが、この嬢ちゃんの右手は今後使えんものと思ったほうがよい」


 目を見開いたシグナムは、凍りついたように老医師を凝視する。


「すまぬの……こればかりは、どうしようもない」


 ケイオンは立ち上がり、寝台に近づく。老医師がアルフラの診察をつづける間、シグナムは棒を呑んだように立ち尽くしていた。

 あらかた傷の具合を検分し終えたケイオンは、フレインに声をかける。


「嗅ぎなれぬ匂いの軟膏が塗ってあるようじゃが……これは?」


「私が調合したものです。止血と消毒の効果がある植物などを煮詰めて作りました。北方にしか自生しない薬草なども使っているので、ロマリアの方にはあまり馴染みはないかと」


「ほう、そなたは薬学にも通じておるのか」


「はい。いささかではございますが」


 感心したようにケイオンは笑みをこぼす。


「なかなかの効能のようじゃな。出来れば使っておる植物の種類や調合法を詳しく聞きたいところではあるが……」


「ええ、もちろん構いませんよ。ケイオン先生には感謝しています。後ほど羊皮紙にでもしたためて、人づてにお送りいたします」


 老医師は感謝の意をあらわして、大仰に礼を述べた。そして寝台のアルフラへ視線を移す。


「正直、最悪指の幾本かは、切断せねばならぬかとも思っておった。火傷を負ってから四日も経っているのではの。――じゃが、応急処置が良かったのだろう」


 フレインは軽く頭を下げる。


「その嬢ちゃんの五指(ごし)が満足に残っておるのは、そなたのおかげじゃの」


 顔を上げたフレインは、ふとシグナムと目があった。何か言いたげに、その口許がかすかに動く。しかし言葉を発することなく、シグナムはついと視線をはずした。

 軽く息をつき、フレインは老医師へ尋ねる。


「薬や包帯のたぐいをお譲りいただけませんか? 現在カモロアでは(いち)も立たず、入手が非常に困難だと聞いたのです」


「……分けてやりたいのはやまやまなのじゃがな……」


 ケイオンは渋い顔をする。


「儂もやり繰りに困っておるのじゃよ。数日前にも、やはり火傷を負った少年の連れから()われたのじゃがな……その時も手持ちに余裕がなく、包帯の代わりとなる布を買い求めるよう勧めたのじゃ」


「そうですか……」


「いまではそういった布もなかなか手に入らんはずじゃ。衣類などを湯で煮て、包帯の代わりにするしかなかろう」


 わかりました、とうなだれるフレインをしばし見詰め、老医師は卓に置かれた鞄に歩みよる。そして中から皮の袋を取り出す。


「これを(しん)ぜよう」


 皮袋を開けて中から出てきたものを見て、助手の男が慌てように高い声をだした。


「先生、それは――!」


 フレインに差し出されたのは、指先ほどの太さをした木の根のようなものだった。色味は薄茶で、節くれだった表面の手触りはとても硬い。


竜参胆(りゅうじんたん)と呼ばれる薬草じゃ」


「これは……非常に高価なものだと聞いた覚えがありますが」


「うむ。強壮効果に優れ、煎じて飲めば寝たきりの老人でさえ、矍鑠(かくしゃく)と走り出すと言われておる。なにぶん強い薬なのでな、薄く削ったものを数片づつ煎じるがよかろう」


「ありがとうございます」


 深く頭を下げたフレインに、老医師は屈託(くったく)のない笑みを向ける。


「希少な品ではあるが、知識に勝るものなどないでの。代わりと言ってはなんじゃが、レギウスに伝わる薬学を可能な限り儂に教えて下され。そなたは歳の割に博学そうじゃからな」


「ええ、お約束しましょう」


 満足そうに微笑んだケイオンは、そして口許を引き締める。


「そなたは解熱剤もみずから処方出来るのか?」


「え……はい。いくらかは」


「ならば朝晩欠かさず嬢ちゃんに飲ませるとよい。このまま熱が下がらんようだと、火傷以前に体力の方が尽きようほどにな」


「わかりました。そちらはまだ手持ちに余裕もありますし、必ず」


「それと……」


 ケイオンは室内を見渡すように首を巡らす。


「部屋を移した方がよいの」


「部屋を……。どういうことでしょうか」


 ケイオンは寝台のアルフラを見やる


「その嬢ちゃんは、火傷を負ってからずっと熱が下がらのじゃろ?」


「はい……」


「おそらく全身に及ぶ熱傷により、汗腺(かんせん)まで焼けてしまっておるのじゃ」


「――!? それでは……」


「汗をかくことが出来ず、体内に熱が篭っておるのじゃよ。発熱するばかりで発散が出来ん状態では、際限なく体温は上がってゆく」


 老医師は視線を伏せる。


「時期が悪い。真夏のロマリアは人肌よりも、よほど気温が高くなるでな。――このままにしておけば……長くはもたんじゃろう」


 大きく目を見開いたフレインは、めまいでも感じたかのように一歩足を引く。シグナムも白く見えるほどに顔色を青ざめさせた。


「なるべく体を冷やし、もっと涼しい場所に移した方がよい」


 まばたきをする余裕もなく茫然とする二人に、ケイオンは感情を押し殺した声で淡々と告げる。


「この宿には地下があったはずじゃ。主人に言って使わせてもらうがよかろう。すくなくともこの部屋よりは幾分室温も低いはずじゃ」


 シグナムが頬を引き攣らせ、口を開きかけた時――扉の外から慌ただしく人の駆けてくる気配がした。


「ケイオン先生!!」


 戸を叩く音もそこそこに、扉が勢いよく開かれる。


「急患です! 急ぎ診療所へお戻り下さい」


「……少し待ってくれ。まだ二、三話して――」


 血相を変えた宿の下男が言葉を被せる。


「担ぎ込まれた患者の手足に、黒い斑紋(はんもん)があるそうなのです! もしかすると……」


 ぎょろりと目を剥いた下男は息を荒げて叫ぶ。


「黒死の病かもしれません!!」



 この日初めて、カモロアで黒死の病に罹患(りかん)した者が発見された。

 (のち)に多くの死者を出すこととなる恐るべき死病が、カモロアにおいて発生したのだ。

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